投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 9月24日(木)12時51分46秒
兵藤裕己校注『太平記』(岩波文庫)の「土岐御幸に参向し狼藉を致す事」を全文紹介してみましたが、この話は全体で7ページほどの分量です。
もう少し細かく見ると、本文は1頁あたり14行ですが、「この年の八月は、故伏見院の三十三年の御遠忌に相当たりければ」から始まるしみじみとした序の部分が13行、「折節、土岐弾正少弼頼遠、二階堂下野判官行春、今比叡の馬場にて笠懸射て帰りけるが」から始まる事件の展開部分が43行、そして「その弟に、周済房とてありけるを」以下の「笑い話」の部分が40行です。
大雑把な割合を見ると、序・中盤・「笑い話」がそれぞれ1割強、5割弱、4割強で、「笑い話」の分量が非常に大きいですね。
「笑い話」は更に三つに分かれていて、最初の狂歌話はそれなりに面白いものの『平家物語』レベル、新田一郎氏が重視する「人皆院、国皇と申す事を知らざりけるにや」を含む話は、ちょっとした軽口ですが、内容は極めて不謹慎で面白いですね。
そして三番目の貧乏貴族の話は作者が相当に力を入れて作り込んだ傑作であり、滑稽な動作とやり取りが目に浮かぶようで、これを現代の落語家・漫才師のような職業的な話し上手が演じたならば、聴衆からドカンドカンと大爆笑が起きそうです。
ま、それだけに、この話が歴史的事実とは考えにくく、種となる実話が存在していたとしても、それを何十倍・何百倍にも膨らませた、これぞ『太平記』という感じのレベルの高いスラップスティックコメディですね。
さて、私は『太平記』はあくまで文学作品であって、『太平記』のみに記され、他の史料の裏付けのない記事については基本的に創作と考えるべきだと思っています。
しかし、創作だからといって、そのような記事が歴史学にとって全く無意味なのではなく、当時の人々の集合的意識や思考様式を探る材料としては充分に活用できるものと考えます。
この立場から「土岐御幸に参向し狼藉を致す事」を検証すると、そもそも土岐頼遠が本当に「なに院と云ふか。犬ならば射て置け」と言ったかははっきりしないですね。
頼遠が「弘安の格式に定められたる」「路頭の礼」を全く無視し、更に光厳院の牛車に弓を射たことは客観的事実なので、そのような行為をする以上、この程度のことは言っていても不思議ではありませんが、他の同時代史料で確認できない以上、真偽不明と言わざるをえません。
しかし、『太平記』の作者は、「笑い話」の部分を含め、この話が聴衆・読者に大いに受けるだろうと予想して創作し、実際に相当に受けたであろうことは想像できるので、少なくとも路頭礼に対する反発、「院に出会ったからと言って下馬するなど馬鹿馬鹿しいなあ」という感覚は、同時代の相当多くの人が共有していたのではないか、と思います。
もちろん、「路頭の礼は、弘安の格式に定められたる次第あり」ということで、多くの人が路頭礼のルール自体は知っていた訳ですが、建武新政を経て時代は大きく変化し、公家と武家の関係も変質した中で、いつまでもそんなルールに拘束されなければならないのは変ではないか、という違和感もあったはずです。
頼遠は人々のそうした違和感を実にあっさりと、豪快に体現してしまったので、結局は死罪になってしまった訳ですが、「別に院の牛車を弓で射た程度で、土岐頼遠のような大変な功績ある武士を殺すこともないのに」という感覚も、夢窓疎石を含め、足利直義以外の多くの人が共有していたはずです。
従って私は、「土岐御幸に参向し狼藉を致す事」を「天皇(に代表される旧秩序)の権威の失墜」を示す典型例だと考える従来の説が正しいと思いますが、新田一郎氏はこうした考え方を否定し、「この一連の逸話が示しているのは、『太平記』自身が、「人皆、院・国王ト云事ヲモ知ラザリケルニヤ」としているように、日常的には交差することのなかった貴族と武士の動線が、同じ場で行き合い絡まり合うようになったという、新しい事態なのである」とした上で、
-------
相互の振舞いを規律する作法が、そもそも実践の場で存立していない。それゆえ、武士たちが京都を中心とした「政治」の現場に、より深く、直接にコミットするようになったことによって、新しい環境と関係における武士の振舞いをどう規律してゆくかが、眼前の重要な問題として浮上したのではないだろうか。『建武式目』には「礼節ヲ専ラニスベキ事」を求めた箇条がある。「君ニ君礼アルベク、臣ニ臣礼アルベシ。凡ソ上下各々分際ヲ守リ、言行必ズ礼儀ヲ専ラニスベシ」と述べて、「国ヲ理〔おさ〕ム」ために武士たちを礼節の世界に参加させることの必要性を説いているのである。かつて高かりし天皇の権威が乱世に至り失墜した、というわけではない。公家社会の尺度、礼節による規律は、武士たちに対してはようやく適用され始める途上にあった。その中で「天皇」の地位や役割も、武士たちに対して新たに語り直されてゆくことになる。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/92c1c8532d6547ef109352121cb419b5
などと言われる訳ですが、少なくとも京都では「貴族と武士の動線」は既に鎌倉時代から「日常的に」「交差」しており、「路頭の礼は、弘安の格式に定められたる次第あり」ということで、「相互の振舞いを規律する作法」も既に「実践の場で存立」していたはずです。
そして、本国が京都に近い土岐一族はもちろん、京都に上るような武士たちは当該作法を熟知していたはずです。
しかし、多くの人が、対外的な行動として示すかどうかは別として、内心では、そんな作法にはもう縛られたくないのだ、時代は変わったのだ、と思っていたことを「この一連の逸話」は示しており、「かつて高かりし天皇の権威」は「乱世に至り失墜した」のだ、と捉えるのが正しいと私は考えます。
新田一郎氏の誤解は、新田氏のような生真面目なタイプの学者には『太平記』の「笑い話」のレベルの高さが理解できないことに由来するのではないかと思います。
兵藤裕己校注『太平記』(岩波文庫)の「土岐御幸に参向し狼藉を致す事」を全文紹介してみましたが、この話は全体で7ページほどの分量です。
もう少し細かく見ると、本文は1頁あたり14行ですが、「この年の八月は、故伏見院の三十三年の御遠忌に相当たりければ」から始まるしみじみとした序の部分が13行、「折節、土岐弾正少弼頼遠、二階堂下野判官行春、今比叡の馬場にて笠懸射て帰りけるが」から始まる事件の展開部分が43行、そして「その弟に、周済房とてありけるを」以下の「笑い話」の部分が40行です。
大雑把な割合を見ると、序・中盤・「笑い話」がそれぞれ1割強、5割弱、4割強で、「笑い話」の分量が非常に大きいですね。
「笑い話」は更に三つに分かれていて、最初の狂歌話はそれなりに面白いものの『平家物語』レベル、新田一郎氏が重視する「人皆院、国皇と申す事を知らざりけるにや」を含む話は、ちょっとした軽口ですが、内容は極めて不謹慎で面白いですね。
そして三番目の貧乏貴族の話は作者が相当に力を入れて作り込んだ傑作であり、滑稽な動作とやり取りが目に浮かぶようで、これを現代の落語家・漫才師のような職業的な話し上手が演じたならば、聴衆からドカンドカンと大爆笑が起きそうです。
ま、それだけに、この話が歴史的事実とは考えにくく、種となる実話が存在していたとしても、それを何十倍・何百倍にも膨らませた、これぞ『太平記』という感じのレベルの高いスラップスティックコメディですね。
さて、私は『太平記』はあくまで文学作品であって、『太平記』のみに記され、他の史料の裏付けのない記事については基本的に創作と考えるべきだと思っています。
しかし、創作だからといって、そのような記事が歴史学にとって全く無意味なのではなく、当時の人々の集合的意識や思考様式を探る材料としては充分に活用できるものと考えます。
この立場から「土岐御幸に参向し狼藉を致す事」を検証すると、そもそも土岐頼遠が本当に「なに院と云ふか。犬ならば射て置け」と言ったかははっきりしないですね。
頼遠が「弘安の格式に定められたる」「路頭の礼」を全く無視し、更に光厳院の牛車に弓を射たことは客観的事実なので、そのような行為をする以上、この程度のことは言っていても不思議ではありませんが、他の同時代史料で確認できない以上、真偽不明と言わざるをえません。
しかし、『太平記』の作者は、「笑い話」の部分を含め、この話が聴衆・読者に大いに受けるだろうと予想して創作し、実際に相当に受けたであろうことは想像できるので、少なくとも路頭礼に対する反発、「院に出会ったからと言って下馬するなど馬鹿馬鹿しいなあ」という感覚は、同時代の相当多くの人が共有していたのではないか、と思います。
もちろん、「路頭の礼は、弘安の格式に定められたる次第あり」ということで、多くの人が路頭礼のルール自体は知っていた訳ですが、建武新政を経て時代は大きく変化し、公家と武家の関係も変質した中で、いつまでもそんなルールに拘束されなければならないのは変ではないか、という違和感もあったはずです。
頼遠は人々のそうした違和感を実にあっさりと、豪快に体現してしまったので、結局は死罪になってしまった訳ですが、「別に院の牛車を弓で射た程度で、土岐頼遠のような大変な功績ある武士を殺すこともないのに」という感覚も、夢窓疎石を含め、足利直義以外の多くの人が共有していたはずです。
従って私は、「土岐御幸に参向し狼藉を致す事」を「天皇(に代表される旧秩序)の権威の失墜」を示す典型例だと考える従来の説が正しいと思いますが、新田一郎氏はこうした考え方を否定し、「この一連の逸話が示しているのは、『太平記』自身が、「人皆、院・国王ト云事ヲモ知ラザリケルニヤ」としているように、日常的には交差することのなかった貴族と武士の動線が、同じ場で行き合い絡まり合うようになったという、新しい事態なのである」とした上で、
-------
相互の振舞いを規律する作法が、そもそも実践の場で存立していない。それゆえ、武士たちが京都を中心とした「政治」の現場に、より深く、直接にコミットするようになったことによって、新しい環境と関係における武士の振舞いをどう規律してゆくかが、眼前の重要な問題として浮上したのではないだろうか。『建武式目』には「礼節ヲ専ラニスベキ事」を求めた箇条がある。「君ニ君礼アルベク、臣ニ臣礼アルベシ。凡ソ上下各々分際ヲ守リ、言行必ズ礼儀ヲ専ラニスベシ」と述べて、「国ヲ理〔おさ〕ム」ために武士たちを礼節の世界に参加させることの必要性を説いているのである。かつて高かりし天皇の権威が乱世に至り失墜した、というわけではない。公家社会の尺度、礼節による規律は、武士たちに対してはようやく適用され始める途上にあった。その中で「天皇」の地位や役割も、武士たちに対して新たに語り直されてゆくことになる。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/92c1c8532d6547ef109352121cb419b5
などと言われる訳ですが、少なくとも京都では「貴族と武士の動線」は既に鎌倉時代から「日常的に」「交差」しており、「路頭の礼は、弘安の格式に定められたる次第あり」ということで、「相互の振舞いを規律する作法」も既に「実践の場で存立」していたはずです。
そして、本国が京都に近い土岐一族はもちろん、京都に上るような武士たちは当該作法を熟知していたはずです。
しかし、多くの人が、対外的な行動として示すかどうかは別として、内心では、そんな作法にはもう縛られたくないのだ、時代は変わったのだ、と思っていたことを「この一連の逸話」は示しており、「かつて高かりし天皇の権威」は「乱世に至り失墜した」のだ、と捉えるのが正しいと私は考えます。
新田一郎氏の誤解は、新田氏のような生真面目なタイプの学者には『太平記』の「笑い話」のレベルの高さが理解できないことに由来するのではないかと思います。