投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 7月 2日(土)12時27分48秒
※ 追記があります。
善空(禅空)事件については、私は坂口太郎氏の見解に懐疑的です。(p192以下)
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禅空失脚事件
持明院統の治世が始まったころから、後深草院に仕える近臣集団が、宮廷で幅をきかせるようになった。彼らは、後深草の信任を笠に着て増長し、政務や任官・叙位に盛んに口出ししたため、おのずと廷臣の不満が募る。やがて、近臣集団の中心にいた伝奏六条康能と神祇伯資緒王は、鎌倉幕府の通告によって、正応元年(一二八八)に失脚したが、伏見親政期になって、再び動きをみせている。そこで、伏見天皇は、彼らの排除をもくろんだ(以下、森幸夫 一九九四、平雅行 二〇〇四)。
正応四年五月末、京都の貴賤は、大きな混乱に見舞われた。朝廷が、幕府の通告をうけて、ある人物の関与した所領相論の裁許をすべて無効とし、相論の地をことごとく本主に返付したのである。その数は二百ヵ所に及び、あちらこちらで悲喜転変の様相を呈した。
幕府が問題視した人物とは、禅空(善空とも)という律僧である。禅空は、平頼綱の側近であり、頼綱が朝廷に介入するうえでの窓口として重用されたが、頼綱の権勢を背景に、この四、五年来、朝廷の訴訟裁許や任官に盛んに介入していた。禅空によって敗訴の憂き目をみた者は多く、幕府に寄せられた愁訴の数は、相当なものであったという。そこで、事態を重くみた執権北条貞時は、禅空を譴責したのである。
この事件は、訴人たちによる働きかけもさることながら、伏見天皇の水面下における政治工作も、大きな契機となったようである。すなわち、伏見は、近臣の京極為兼を勅使として鎌倉に派遣し、禅空の所行を幕府に訴えたという。さらに興味深いのは、禅空の失脚とともに、後深草院の近臣であった六条康能・源資顕・平兼俊らが一斉に解官され、資緒王も出仕を止められたことである。実は、この人々の官位昇進は、いずれも禅空の口入によるものであったらしい(以上、『実躬卿記』正応四年五月二十九日条)。要するに、伏見は、後深草の近臣たちを、その跋扈を許した禅空もろとも処分し、政務の主導権を握ることを考えたわけである。
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いったん、ここで切ります。
坂口氏は「後深草院に仕える近臣集団」、「近臣集団の中心にいた伝奏六条康能と神祇伯資緒王」と書かれますが、六条康能は弘安三年(1280)、皇太子時代の伏見天皇(熈仁親王、十六歳)の文芸サークル内で催された「弘安源氏談義」に参加しているので(為兼は不参加)、伏見天皇の近臣でもあります。
六条康能が後深草院と伏見天皇のいずれに近い存在だったのかは分かりませんが、そもそも藤原南家・信西入道の子孫である六条康能など公家社会ではたいした存在ではなく、白川伯王家の資緒王も同様です。
資緒王の弟の源資顕や平兼俊は更に地味な存在で、善空事件の関係者を調べれば調べるほど、何だかショボい事件だな、という感じになってきます。
小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その18)(その19)
善空事件に関する森幸夫説への若干の疑問(その1)
ところで、「参考文献」を見ると「平雅行 二〇〇四」は「青蓮院の門跡相論と鎌倉幕府」(河音能平・福田榮次郎編『延暦寺と中世社会』、法蔵館)とのことで、私は未読ですが、坂口氏の書き方から見て、少なくとも何か新出の史料に基づく議論ではなさそうです。
結局のところ、この事件は『実躬卿記』の正応四年(1291)五月二十九日条と六月一日条以外に判断材料がないと思われます。
そして、正親町三条実躬もこの事件に特別な関心を持って事実関係を調査していた、というようなことは全くなくて、たまたま亀山院の御前に伺候し、そこで事情通らしい人から事件に関する噂話を聞いただけですね。
従って、「ある人物の関与した所領相論」の数が「二百ヵ所に及」んだとしても、その具体例は全く不明で、巨額の収入が見込める大荘園なのか、京都市中の片々たる土地なのかは分かりません。
「あちらこちらで悲喜転変の様相を呈した」などと坂口氏はずいぶん生々しい描写をされますが、そうした具体例が本当にあるなら是非とも教えていただきたいものです。
善空事件に関する筧雅博説への若干の疑問(その5)(その6)
さて、坂口氏の見解で一番変なのは「禅空は、平頼綱の側近」とされている点で、これが本当なら大変な話です。
坂口氏は何を根拠に「禅空は、平頼綱の側近」と判断されたのか。
※追記(2023年12月5日)
「従って、「ある人物の関与した所領相論」の数が「二百ヵ所に及」んだとしても、その具体例は全く不明で、巨額の収入が見込める大荘園なのか、京都市中の片々たる土地なのかは分かりません」などと書いてしまいましたが、これは私の誤解でした。
今は手元に資料がないので、後で修正します。