学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

永井晋氏「倉栖氏の研究─地元で忘却された北条氏被官像の再構築─」(その2)

2022-07-16 | 唯善と後深草院二条
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 7月16日(土)14時18分18秒

峰岸純夫氏の研究は本当に広範囲に及んでいますが、その中でも東国の真宗門徒の研究は若干異色な感じがしますね。

峰岸純夫(1932生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B0%E5%B2%B8%E7%B4%94%E5%A4%AB

峰岸氏自身の述懐によれば、当該研究の動機は、

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 一九五六年(昭和三十一)の平松令三「高田宝庫より発見せられた新資料の一、二について」(17)を出発点として、一九七四年の重見一行氏の教行信証研究(18)に至る一連の研究は、高田専修寺本の二本および中山寺本の化身土巻奥書を紹介し、教行信証が得宗の御内人平頼綱の助成を得て開板されたことを明らかにした。このことは誤解かも知れないが、権力の弾圧にも屈せず、在家農民層の間に深く根をおろしていく真宗教団の姿という私の真宗観(中世後期の一向一揆観の投影かも知れない)に少なからぬ衝撃を与えたのである。重見氏が、「親鸞の主著教行信証が、従来指摘されて来たような、史的徴証に見られる真宗門徒の置かれた位置にもかかわらず、すでに親鸞の滅後二十数年にして、しかも時の権力者とのかかわりにおいて出版されたとすれば、それは真宗史上一つの重要な視点を提供するといえよう」(19)と述べているが、まさに「重要な視点」と考えられ、権力による抑圧の側面と同時に、権力との結びつきの側面も視野に入れ、政治と宗教の関係を全体として把握する必要を感じた。

http://web.archive.org/web/20131031003035/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/minegishi-sumio-shinshumonto.htm

とのことです。
峰岸論文はなかなか難しいと思いますが、菅原多喜夫氏がリンク先のブログで八回にわたって解説されているので、併せて参照していただきたいと思います。

峰岸純夫氏「鎌倉時代東国の真宗門徒」を読む
http://lunatique.blog20.fc2.com/blog-entry-155.html
http://lunatique.blog20.fc2.com/blog-entry-156.html
http://lunatique.blog20.fc2.com/blog-entry-157.html
http://lunatique.blog20.fc2.com/blog-entry-158.html
http://lunatique.blog20.fc2.com/blog-entry-159.html
http://lunatique.blog20.fc2.com/blog-entry-160.html
http://lunatique.blog20.fc2.com/blog-entry-161.html
http://lunatique.blog20.fc2.com/blog-entry-162.html

菅原氏は、平松令三氏以来、「教行信証が得宗の御内人平頼綱の助成を得て開板された」と考えられていた点について、

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正応年間の横曽根門徒は、『教行信証』開板の資金が足りなくて領主・平頼綱に援助を依頼したというより、開板にともなって生じることが予想されるトラブルの排除を頼綱に期待したのであって、この時も、門徒の側から頼綱に、なにがしかの金銭等がわたされたと考えるべきではないでしょうか。

http://lunatique.blog20.fc2.com/blog-entry-161.html

とされていますが、これは重要な指摘ですね。
なお、菅原氏はご自身の見解を「『教行信証』開版前後の親鸞教団」(『寺院史研究』11号、2007)に纏めておられます。
さて、永井論文に戻って、続きです。(p283以下)

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 倉栖氏と真宗との関係を最初に注目したのは、存覚上人の生涯をつづった「常楽台主老衲一期記」元弘元年(一三三一)条の「三月八日、於江州瑠璃光女生、十二月比、為倉柄沙汰留置、大晦日ニ着倉柄宿所」の倉柄を倉栖の誤字と考えた福島金治・津田徹英である。福島は、近江国柏木御厨の支配関係を地頭金沢貞顕(金沢家惣領)・地頭代薬師堂殿(一族の女性)・給主倉栖氏と想定し、御厨内に給主倉栖氏の館があったと考えている。倉栖氏は江州で誕生した存覚の娘を柏木御厨の館で庇護し、鎌倉に下っていた存覚は娘と対面するためにこの年の大晦日に倉栖氏の館を訪れている。この時代、海路による京都の鎌倉の往還は、鎌倉から伊勢国大湊まで船で移動し、大湊から鈴鹿路に入って東海道本道に合流した。柏木御厨(滋賀県水口市)は鈴鹿路の沿道にあり、元弘の乱では金沢貞冬が伊勢国の御家人を率いて柏木御厨に進出し、そこで軍勢を整えて入京した。倉栖氏は存覚の娘を館で保護したのであるから、両者の関係は浅くないと考えてよいだろう。
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いったん、ここで切ります。
存覚上人は本願寺第三世覚如(1271-1351)の息子で、父から二度も義絶された人ですね。
永井氏の表現を借りれば、存覚上人は「京都の大谷廟堂を拠り所とした人々(後の本願寺教団)」と「東国門徒の強い支持のもとに下河辺庄を拠点に新たな集団を形成した唯善与同位の人々」の間を行ったり来たりした人、とも言えそうです。

存覚(1290-1373)
https://kotobank.jp/word/%E5%AD%98%E8%A6%9A-1086282
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%98%E8%A6%9A
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永井晋氏「倉栖氏の研究─地元で忘却された北条氏被官像の再構築─」(その1)

2022-07-16 | 唯善と後深草院二条
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 7月16日(土)12時34分23秒

二年前に鎌倉時代の「小野宮」と浄土真宗の関係について少し考えてみたときは永井晋氏の「倉栖氏の研究─地元で忘却された北条氏被官像の再構築─」(『金沢北条氏の研究』所収、八木書店、2006)に気づいていなかったのですが、これも貴重な研究ですね。
この論文は、

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はじめに
一 倉栖氏の名字の地
二 倉栖氏と下河辺庄
三 金沢家御内祗候人倉栖氏
四 倉栖氏と真宗
おわりに
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と構成されていますが、第四節の冒頭部分を少し引用してみます。(p282以下)

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    四 倉栖氏と真宗

 倉栖氏に関する最も新しく、かつ大きな問題に発展しそうな気配をもつものが中世真宗との関係である。この問題の重要性について筆者は理解しているつもりであるが、いまだ独自の見解を出すほどに研究を深めていない。そのため、ここでは先行研究の整理と展望をのべることにしたい。
 親鸞の布教によって真宗は東国に多くの門徒を獲得した。そのことについては数多の蓄積があり、平松令三『真宗史論攷』第一章「関東真宗教団の成立と展開」(同朋社出版<一九八八年>)や内山純子『東国における浄土真宗の展開』(東京堂<一九九七年>)のような精緻な基礎研究によって、現段階の水準において到達できる基礎研究のレベルは終わったかにみえる。この研究の最大の問題点は、本願寺教団を真宗の正統とするようになったのが蓮如以後であるにも拘わらず、初期真宗の段階から後の本願寺教団に連なる系統を正統とみてしまっているところにある。それは、関東に展開した真宗門徒が戦国時代に衰微し、現存する史料の圧倒的な部分が本願寺教団側の視点から書かれたものであるという史料の偏在を意識せずにテキスト・リーディングしてきたためといえるが、その事について論じることが本節の目的ではない。
 鎌倉時代後期の唯善事件が発端となって、初期真宗教団は京都の大谷廟堂を拠り所とした人々(後の本願寺教団)と東国門徒の強い支持のもとに下河辺庄を拠点に新たな集団を形成した唯善与同位の人々に次第に分かれていった。倉栖氏が接点をもつのは下河辺庄に移って布教を始めた唯善の孫善宗や、覚如上人(本願寺三世)に義絶されて関東に下向した存覚上人であり、後に本願寺教団を形成して主流派となる人々から傍流ないし異端とみられた人々である。その事が、今まで倉栖氏と真宗との関係が一顧だにされなかった理由であろう。
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いったん、ここで切ります。
「その事について論じることが本節の目的ではない」に付された注(15)を見ると、

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(15)東国門徒の視点から行われている研究には、峰岸純夫「鎌倉時代東国の真宗門徒─真仏報恩板碑を中心に─」(『中世仏教と真宗』<一九八五年>)・津田徹英前掲論文・西岡芳文「阿佐布門徒の輪郭」(『三田中世史研究』一〇号<二〇〇三年>)がある。
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とあり、「津田徹英前掲論文」は「親鸞の面影─中世真宗肖像彫刻研究序説─」(『美術研究』375号、2002)ですね、
これらの研究について一応の知識がないと永井論文の理解も困難ですが、概要については、例えば下記記事を参照してください。

今井雅晴氏「唯善と山伏」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dfd71231cec964dfed9964b7a203e5ac

そして、本格的に理解したい人にお奨めなのは何と言っても峰岸論文ですが、これは私が旧サイトに勝手に転載しており、今はリンク先で見ることができます。

峰岸純夫「鎌倉時代東国の真宗門徒-真仏報恩板碑を中心に-」(北西弘先生還暦記念会編『中世仏教と真宗』、1985)
http://web.archive.org/web/20131031003035/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/minegishi-sumio-shinshumonto.htm
http://web.archive.org/web/20150526225556/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/minegishi-sumio-shinshumonto-02.htm
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