学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

東国の真宗門徒に関する備忘録(その4)

2022-07-28 | 唯善と後深草院二条
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 7月28日(木)14時36分21秒

性海が見た四度の夢は本当に綺麗に整理されていて、単純に事実の記録という訳ではないでしょうね。
おそらく性海は同種のストーリーを平頼綱にも提供して、最高権力者のプライドを巧妙に刺激しつつ、開板事業への協力を要請したのだと思われます。
この夢の内容は今井氏が次のように解説されていますが、私が奇妙に思うのは第四番目の夢です。(p158以下)

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第一回の夢-正応三年十二月十八日の夜の夢
 「当副将軍相州太守平朝臣(執権の北条貞時)」の乳人である「平左金吾禅門法名
  杲円(平頼綱)」が七人の僧侶を招き、『大般若経』を書写させた時、性海もその
  人数に加えてもらって、白馬一匹・金銭一裹を布施として与えられた。

第二回の夢-正応四年一月八日の夜の夢
  北条貞時の息子で十二、三歳位の童子が性海の膝の上で正坐した。

第三回の夢-正応四年一月二十四日の夜の夢
  先師性信法師が現われて、『教行信証』を開板する時はその旨を平頼綱に申し出、
  その援助を得てから実施しなさい、とおっしゃった。

第四回の夢-正応四年二月十二日の夜の夢
  二人の僧が五葉松一本と松笠一つを持ってきて、性海に与えた。

 右の四回の夢は、性海、さらには横曾根門徒がいかにも北条貞時・平頼綱とのかかわりがありそうなことを思わせる。ただし、「相州息男、年齢十二三許童子」というのは、誰に当たるのかよくわからない。貞時は文永八年(一二七一)の生まれであるから、正応四年(一二九一)には二十一歳である。その息子が十二、三歳というのはいかにも不審である。貞時には北条時基・同煕時・同師時に嫁した三人の娘と、その下に五人の男子がいた。長男の菊寿丸は永仁六年(一二九八)の生まれ、貞時のあとを継いだのは四男の成寿丸(高時)で、嘉元元年(一三○三)の生まれである。このほかに頼綱に養われていた娘がいたという。
 さて性海はこれらの夢を「浄教感応之先兆、冥衆証誠之嘉瑞也」と判断した。『教行信証』を開板しようという自分の計画について、阿弥陀仏が感動してくれる前ぶれであり、他の仏・菩薩もそれに賛成してくれるありがたいしるしである、というのである。そこで「機縁時至、弘通成就者歟」と、喜んだ。よい機会が来た、『教行信証』の教えが広まるときだ、という。
 性海は平頼綱に開板のことを申し上げたところ、許可され、その援助を得て出版することになった。性海は「勧進沙門性海」と署名しているので、頼綱はじめ他の人びとからも資金の援助を求めたのであろう。付言しておけば、性信は『教行信証』に「沙門性信」と署名しており、「沙門」と名のるのは初期横曾根門徒の一つの風潮だったようである。これに対し、鹿島門徒では「沙弥順性」などと名のっている。これは自分自身の名のりであるが、広くいえば、初期真宗教団全体では、「親鸞法師」「性信法師」と、他の僧を呼ぶことも一般的であった。「法師」については、存覚の『存覚一期記』『存覚袖日記』などを見れば明らかである。
 平頼網の「聴許」を求める必然性というのは、やはり横曾根地方が頼綱の支配下にあったからであると考えたい。信頼する次子助宗の名字にするほどであるから、横曾根を南半地域に含む飯沼を、頼綱は重要視していたと判断すべきであろう。また、日蓮の熱原の信者たちに対して、助宗が「可申念仏之旨」「再三」にわたって責めたということから考えても、阿弥陀信仰は頼綱が同意する要素を十分に有していたのである。

http://web.archive.org/web/20061006213546/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/imai-masaharu-yorituna-03.htm

三回目の夢までは非常に分かりやすいと思いますが、四回目の夢、「有二人僧、而持五葉貞松一本松子一箇、来与於性海覚、而夢惺畢」は何を表現しているのか。
この二人の僧は誰なのか。
「五葉貞松」、即ち常緑の五葉松(の盆栽?)と「松子」は何の象徴なのか。
この点、今井氏は何の見解も示されていませんが、峰岸純夫氏は「鎌倉時代東国の真宗門徒-真仏報恩板碑を中心に-」(北西弘先生還暦記念会編『中世仏教と真宗』所収、吉川弘文館、1985)の注(20)において、

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(20)この夢告は意味を解し難いが、親鸞入胎の時、母が菩薩から五葉の松を授かったという夢告が伝えられている(「親鸞聖人正統伝」(真)七巻三一五・三一六頁)。また二人の僧とは、親鸞と性信であろうか。

http://web.archive.org/web/20131031003035/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/minegishi-sumio-shinshumonto.htm

とされています。
しかし、性信(1187-1275)は第三回目の夢に出てきているので重複は変ですし、性信・親鸞とも、わざわざ名前を隠す理由もないはずです。
ところで、「当相州息男、年齢十二三許童子」に該当者がいないということは、性海は北条貞時の家族構成を正確に知っている訳ではないこと、即ち、仮に性海が出家した御家人だとしても幕府の中枢に近いような存在ではないことを示していると思われます。
そこで、性海の希望を平頼綱に伝えるためには幕府中枢との仲介者が必要となるはずであり、この二人の僧はその仲介者を暗示しているのではないかと私は考えます。
そして、義姉の後深草院二条を介して唯善は平頼綱・飯沼助宗と極めて強力なコネを有していますから、二人の僧のうちの一人は唯善の可能性があるのではないか、と私は考えます。
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東国の真宗門徒に関する備忘録(その3)

2022-07-28 | 唯善と後深草院二条
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 7月28日(木)12時08分39秒

『本願寺史 第一巻』(浄土真宗本願寺派宗務所、1961)には、前回引用した部分に続いて「大谷の紛擾と恢復」、即ち唯善による「大谷北地」「大谷南地」と大谷廟堂「留守職」の「横領」の試みとその失敗についての長大な記述がありますが、その点は後で必要に応じて参照することとします。
本願寺側の記録には疑わしい点が多々ありますが、一番変なのは唯善一家が東国での生活に困窮し、それを哀れんだ覚恵が京都に招いた、というストーリーになっている点ですね。
覚恵が唯善一家のために「大谷南地」を用意してあげたのなら、このストーリーも説得力を持ちますが、実際には唯善に近い東国の真宗門徒がわざわざ京都に来て「大谷南地」を買ってくれた訳です。
つまり唯善には経済的に豊かな保護者がいた訳で、東国で困窮していたはずがなく、これは唯善の忘恩を強調するための創作ですね。
さて、親鸞の子孫でありながら、本願寺側から極悪非道、獅子身中の虫として糾弾された唯善(1266-1317)は、中院雅忠(1228-72)の猶子なので、後深草院二条(1258生)にとっては八歳下の義理の弟となります。
そして、後深草院二条は平頼綱・頼綱夫人と直接の面識があり、飯沼助宗とは男女の仲を疑われるほど親しかった訳ですから(本人談)、鎌倉にいた唯善にしてみれば、義姉の持つコネクションを利用しない手はないだろうと思われます。

「新将軍久明の東下」
http://web.archive.org/web/20150513074937/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa4-4-hisaakirasinno.htm
「飯沼判官との惜別、熱田社」
http://web.archive.org/web/20150514084840/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-towa4-12-iinumahangan.htm

そこで気になるのは、正応年間、横曾根門徒の性海が平頼綱の助力を得て『教行信証』を開版したという話です。

永井晋氏「倉栖氏の研究─地元で忘却された北条氏被官像の再構築─」(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cfef6c92f27660acfc5a871d76b993d7

この事業の詳細については今井雅晴氏「平頼綱と『教行信証』の出版」(『親鸞と東国門徒』所収、吉川弘文館、1999)が参考になります。
まず、今井著で関係の史料を確認しておきます。(p157以下)

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ロ 横曾根門徒の『教行信証』の開板

 真宗高田派の本山である専修寺蔵の『教行信証』二本および同派の中山寺蔵の『教行信証』の化身土巻奥書によって、『教行信証』が平頼綱の援助によって開板されたことが明らかとなっている。平松令三氏や重見一行氏の功績である(37)。中山寺本には、その奥書が次のようにある。

(第一面)
  今此教行信証者、祖師親鸞法師選述也、立章於六篇、調巻於八軸、皆引経論真文、
  各備往生潤色、誠是真宗紹隆之鴻基、実教流布之淵源、末世相応之目足、即往安
  楽之指南也、而去弘安第六暦歳癸未春二月二日、彼親鸞自筆本一部六巻、従先師
  性信法師所令相伝畢、為報仏恩、欲企開板於当時伝弘通於遐代之刻、有度度夢想
  之告矣、于時正応第三天歳次庚寅冬臘月十八日夜寅剋夢云、当副将軍相州太守平
  朝臣乳父平左金吾禅門<法名杲円>
(第二面)
  屈請七口禅侶、被書写大般若経、彼人数内被加於性海、而奉書写真文畢、爰白馬
  一疋金銭一裏〔裹〕令布施之覚、而夢惺畢、同四年正月八日夜夢云、当相州息男、
  年齢十二三許童子来、而令正坐於性海之膝上覚、而夢惺畢、同廿四日夜夢云、先
  師性信法師化現、而云、教行証開板之時者、奉触子細於平左金吾禅門可刻彫也言
  已、乃去覚、而夢惺畢、同二月十二日夜夢云、有二人僧、而持五葉貞松一本松子
  一箇、来与於性海覚、而夢惺畢、依上来夢想、倩案事起、偏浄教感応之先兆、冥
  衆証誠之
(第三面)
  嘉瑞也、若爾者、機縁時至弘通成就者歟、仍奉触子細於金吾禅門、即既蒙聴許、
  而所令開板也、然此本者、以親鸞自筆御本校合、令成邦板者、庶幾後生勿令加減
  於字点矣、
  于時正応四年五月始之、同八月上句終功畢、
                       勧進沙門性海

 右の奥書によれば、性海は弘安六年(一二八三)二月に『教行信証』を「先師性信所」から相伝した。この「先師性信所」が性信自身を指すのか、性信の後継者とされている証智尼を指すのかは議論の分かれるところであるが、ここでは触れないこととする。性海は横曾根門徒と考えられるが、親鸞の門弟に関する諸交名牒には現われないので、いかなる人物か不明である。その性海は、『教行信証』を出版して教えを広めようと考えていたところ、正応三年(一二九○)から翌年にかけて四回の夢を見た。この時期はまさに平頼綱の全盛期である。

http://web.archive.org/web/20061006213546/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/imai-masaharu-yorituna-03.htm

いったん、ここで切ります。
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