千々和到氏の「中世民衆の意識と思想」(青木美智男他編『一揆4 生活・文化・思想』所収、東京大学出版会、1981)は、
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1 「三枚起請」
誓紙と誓言
2 落書起請をめぐって
正倉院に入った泥棒
落書起請
世親講事件と牛玉宝印
3 阿弥陀と地蔵
箱根の地蔵霊地
地獄と境界
呪縛と一味神水
起請文の罰と世俗の罪科と
4 起請文の死
霊社上巻起請文
起請返し
おわりに
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と構成されていて、冒頭には落語が引用されています。
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1 「三枚起請」
──うそをつくのは罪だぜ。昔からいうじゃねえか。「いやな起請を書くときにゃ、熊野でカラスが三羽死ぬ」って。
──あらそうなの。あたしはもっともっと、いやな起請をどっさり書いて、世界中のカラスをみな殺しにしちゃうわ。
──おめえはカラスにうらみでもあるのかい。
──うらみなんかないけどあたしもつらい勤めだからさ、世界中のカラスを殺して、ゆっくり朝寝がしてみたい。
古典落語に、「三枚起請」という噺がある。廓噺の一つで、ある遊女が三人の別ななじみ客それぞれに、年期があけたら夫婦になると書いた起請文を与えて、かわりに金をまきあげた、ところがその三人は互いに知りあいで、それに気付いてみんなで遊女をとっちめようということになった。そこで三人で吉原にくり出して遊女を呼びだす、そして最後、都々逸の〽三千世界の烏を殺し、ぬしと朝寝がしてみたい……に引っかけた「途端落」で終わる、というのが大筋である。
【中略】
中世の、あの、人々の畏怖した起請文の罰が、ここでは、起請を破った当人にあたるのではなくて、熊野の烏が三羽死ぬという形でしか実現していないのである。たしかに、こうした罰ですむのなら、いくら破っても平気だろうし、それを信じる者はバカにされてもしかたあるまい。あわれに見えるのは、だまされた男たちばかりでなく、起請文の姿そのものでもあろう。
しかし、中世には一定の呪縛の力をもったと考えられる起請文が、このような姿をさらすということは、やはり一つの驚きである。もし、中世にも起請文の罰が実はこの程度にしか信じられていないとすれば、起請文の存在によって説明され描き出されている歴史上のいくつかの場面は書き直されなければならないことになるだろう。一方、もし中世には本当に起請文の呪縛の力がいきていたと考えてよいのなら、近世の民衆は中世の民衆に比べて精神面できわめて大きな進歩をしていたと考えることができるのである。だから、この点を知ることは、人々の意識の発展を知るうえで、おもしろいことではないだろうか。
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「中世にも起請文の罰が実はこの程度にしか信じられていな」かったのか、それとも「中世には本当に起請文の呪縛の力がいきていたと考えてよい」のかが問題ですが、後者であれば「近世の民衆は中世の民衆に比べて精神面できわめて大きな進歩をしていたと考えることができる」という千々和氏の立場は、佐藤雄基氏が言われるところの「人々の信仰心は時代が下るにしたがって弱まり、起請文の様式が整備されていくという、一種の発展史観」(「起請文と誓約─社会史と史料論に関する覚書」、p36)のように見えますね。
果たして実態はどうだったのか。
それを考える上で特に参考になるのは第四節で論じられる「霊社上巻起請文」と「起請返し」ですが、これを検討する前に、論文の順序に従って、留意すべきポイントをいくつか引用しておきます。
まず、第一節の「誓紙と誓言」には、
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ところで、この本の表紙の、上久世荘民らの起請文は、実は一揆を起こすための一味神水の起請文ではなくて、一揆には加わらないことを領主の東寺に対して誓約した文書なのである。現在知られているところでは、土一揆・徳政一揆などの決起に際して作成された起請文などというものは残されていない。寺僧らが列参などの形で起こす訴訟は一揆とよく似た状況であるが、その際に起請文が作成されるということはよくあるし、またその実物が残されている。しかし、明らかに百姓たちが決起に際して盟約した文書は残っていないのである。ではそのような文書は作られなかったのであろうか。そうではあるまい。おそらく何かは作られたであろう。
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とあります。(p6)
「この本の表紙の、上久世荘民らの起請文」は「一揆」シリーズ全五冊の表紙に使われている寛正三年(1462)の上久世荘民連署起請文のことですが、ここはちょっと意外な感じを受ける人が多いだろうと思います。
事実としては「土一揆・徳政一揆などの決起に際して作成された起請文」は全く残っていない訳で、千々和氏も、続けて、
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しかし、あるいは、その一味神水の場で作られた起請文は、今残されている起請文とはよほど違った姿をとっていたかもしれない。たとえば、一条ずつ掟のように書き出されているよりは、ほとんど文書はなく、いわば「誓言」に近いものであったかもしれない。または、きちんと作られていたとしても、焼いて灰を神水にまでて回し飲まれて消滅してしまったのかもしれない。そのような何らかの事情で、こうした起請文は後世に残らなかったのであろう。もちろん作られた後に、一揆後の摘発を恐れて消滅しさったこともあっただろう。
とすれば、起請文は今みることのできるよりもはるかにたくさん作られた可能性があるわけだし、今残っていないということがこの文書の必然だとさえいうことができるかもしれない。
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という具合いに推定を重ねておられますね。
「とすれば」の後の「起請文は今みることのできるよりもはるかにたくさん作られた可能性がある」は良いとしても、「今残っていないということがこの文書の必然だとさえいうことができるかもしれない」は些か無理筋のような感じもします。