学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「有明の月」からの起請文(その7)

2022-11-30 | 唯善と後深草院二条

「有明の月」からの起請文には、牛玉宝印の使用が時期的に早すぎるのではないか、という問題もあります。
この点、結論的には賛成できませんが、標宮子氏(聖学院大学教授)がなかなか鋭い指摘をされていますね。
西沢正史・標宮子著『中世日記紀行文学全評釈集成 第四巻 とはずがたり』(勉誠出版、2000)において、標氏は起請文の一般論を述べた後、次のように書かれています。(p156以下)

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 ところが有明の月の文言は、肝心の約束を破らないための手立てとしての自己呪詛がまるで体をなしていないのである。彼は約束を守るため、あるいは自分の誓約に偽りのないことを誓うために自己呪詛を成すのではない。そうではなしに、この世における交際を断念すると表明しながら、二条のつれなさを恨み、地獄に墜ちても諦め切れない恋情を訴え、今まで積んだ修業の功績すべてを三悪道に生まれ遭うために回向する、と言うのである。これは自己呪詛ではなく、この責任は二条にあるという恨みであり、来世は地獄であっても添い遂げようという祈求であり、脅迫であった。
 しかも彼は神々の名前を知る限り書き尽くし、一度では満足できずに、初めと終わりに二度にわたって仰々しく連綿と書き連ねたと言う。さらにそれを書く料紙、封印の仕方、どれを取ってもすべてが事々しい。例えば料紙であるが、発行所をぼかしているが牛玉宝印を使用している。今日起請文と言えばただちに牛玉宝印を思い浮かべる程に、中世には多くの社寺が発行している。だが現在起請文として残されている最も早い用例は、本作より十年を遡る文永三年(一二六六)東大寺二月堂発行ものである(千々和到氏)。しかもほぼ同じ頃に書かれた一連の起請文の多くが普通の白い料紙を用いているという(相田二郎氏)。このことから牛玉宝印を用いるようになったのは文永年間をあまり遡らない頃であったことが判明する。有明の月は当時必ずしも世間に流布し、一般化されていたとは言い難い牛玉宝印をわざわざ使用していたのである。ここには料紙の選択まで特別な拘りを示した有明の月の執拗さを指摘できよう。
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「自己呪詛」という表現から、標氏が佐藤進一『古文書学入門』を読まれていることが窺われ、千々和到・相田二郎氏への言及から、起請文の研究史も押さえておられることが分かります。
本当に細かいことをいうと、相田二郎は「起請文の料紙牛玉宝印について」(『相田二郎著作集 日本古文書学の諸問題』所収、初出は1940)において、「牛玉宝印を用いた起請文で今遺る最も古いもの」を「東大寺文書第六十八号巻文永三年十二月廿七日付世親講年預等連署起請文」とし(p183)、佐藤進一『古文書学入門』の初版(1971)もこれを踏襲していたところ(p235「この二月堂の牛玉宝印は熊野について古いものであるが」)、千々和到氏が「中世民衆の意識と思想」(青木美智男他編『一揆4 生活・文化・思想』所収、東京大学出版会、1981)で、

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 牛玉宝印が起請文の料紙に用いられるようになるのは、一般的には鎌倉時代の後期といわれている。現在知られている牛玉宝印の初見は、一二六六年(文永三)十二月二十日の東大寺世親講衆らの連署起請文の料紙に用いられている「二月堂牛玉宝印」である。
 この起請文は、一二六六年冬の十二月十五日から三十日までの間に書かれた七通の起請文のうちの一通で、世親講衆らがこれらの起請文を作成したもととなる事件の経過は、それら一連の起請文から知ることができる。それによれば、これら一連の起請文は、世親講年預賢恵を中心とする世親講衆らが、一味同心し、慶算法橋の僧綱任官の不当を訴えたもので、西小田原西方院に講衆をあげて籠もり、訴えが通らず世親講の先達・講衆を欠いたまま正月の大仏殿修正会を始行した場合、「辺土辺山に退散せしむるの時、この訴訟成就せざる以前、再び奈良中に還住すべからず」という強い姿勢でのぞみ、ついに正月もま近い十二月三十日、政所と衆徒の沙汰として、慶算の出仕停止を獲得したというものである。
 一連の文書のうち、十二月廿七日のものは、「那智滝宝印」の牛玉紙を料紙に用いているが(相田二郎氏が「最古の牛玉宝印」としたのはまさにこの文書なのだが)、ほかの五通はいずれも普通の白い料紙を用いており、特に牛玉宝印を翻えして記しているわけではない。したがってこの時期、衆徒らの起請文に必ず牛玉宝印を用いたわけではないことがまず確認できるし、また那智滝と二月堂の二つの牛玉宝印が起請文料紙に用いられている初見が全く同時期であったことも指摘できる。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ffbde12c7888ce07846c6eb2b8e68684

という具合いに、相田二郎は文永三年(1266)十二月二十七日付起請文の「那智滝宝印」を「最古の牛玉宝印」としたけれども、実際にはその七日前、十二月二十日付起請文の「二月堂牛玉宝印」が最古であることを明確にされた訳ですね。
ただ、千々和氏によるこの修正は佐藤進一『新版 古文書学入門』(1991)には反映されておらず、初版と同様に「この二月堂の牛玉宝印は熊野について古いものであるが」(p230)とあります。
ま、それはともかく、『とはずがたり』では「有明の月」が「熊野の、またいづくのやらん、本寺のとかや、牛王といふものの裏に」書いた起請文を二条に送ってきたのは建治二年(1276)十二月のこととされており、標氏の言われるように、牛玉宝印の現存初例の僅か十年後です。
「有明の月」ストーリーを事実の記録と固く信じておられる標氏の立場からすれば、「有明の月は当時必ずしも世間に流布し、一般化されていたとは言い難い牛玉宝印をわざわざ使用」していたことから、「料紙の選択まで特別な拘りを示した有明の月の執拗さを指摘でき」ることになりますが、「有明の月」ストーリーを創作と考える私の立場からは、これは『とはずがたり』が作品として纏められた時期を推定させる一資料となります。
即ち、「有明の月」ストーリーの骨格はともかくとして、内容的には起請文でも何でもない「有明の月」の手紙に、いかにも起請文のような外形を整え、不気味な雰囲気を醸し出すように工夫したのは、起請文の料紙に牛玉宝印を用いることが「世間に流布し、一般化されて」以降のことだろうと私は考えます。

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「有明の月」からの起請文(その6)

2022-11-30 | 唯善と後深草院二条

『保元物語』については日下力氏による現代語訳が角川ソフィア文庫から出ており、また、ネットでは「ふょーどるの文学の冒険」というサイトにも現代語訳が載せてありますね。

https://geolog.mydns.jp/www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/9333/hog.html
「下巻・第十八章…新院お経沈めの事、付・崩御の事」
https://geolog.mydns.jp/www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/9333/hog17.html#second

『保元物語』では、讃岐の松山に配流となった崇徳院は「後生菩提の為に、五部大乗経を墨にて形の如く書き集め」た後、「八幡の辺にても候へ、鳥羽かさなくば長谷の辺にても候へ、都の頭〔ほとり〕に送り置き候はばや」という手紙を仁和寺御室(崇徳院同母弟の覚性法親王)に送り、御室を通して、せめて都の近くに移してください、という希望を述べるも、信西に補佐された後白河天皇に拒否されます。
そこで、絶望した崇徳院は自ら写経した「五部大乗経の大善根〔だいぜんこん〕を三悪道〔さんあくだう〕に擲〔なげう〕つて、日本国の大悪魔と成らむ」と決意し、「その後は御ぐしも剃らず、御爪も切らせ給はで、生きながら天狗の御姿に成らせ給」うこととなります。
他方、仁和寺御室らしく描かれている『とはずがたり』の「有明の月」の場合、一目ぼれした二条に会いたいと何度も希望したのに拒否されたので、

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このうへは、文をも遣はし言葉をも交さんと思ふこと、今生にはこの思ひを断つ。さりながら、心の中に忘るることは、生々世々あべからざれば、我さだめて悪道に落つべし。さればこの恨み尽くる世あるべからず。両界の加行よりこの方、灌頂にいたるまで、一々の行法読誦大乗四威儀の行、一期の間修するところ、みな三悪道に囘向す。この力をもちて、今生長く空しくて、後生には悪趣に生まれあはん。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0a5f7bb9c8779a831ad8f06127835bb9

と決意します。
一方は同母弟・後白河天皇との戦いに敗れて配流された悲劇の上皇、他方は愛欲に溺れた単なるストーカーという違いはありますが、自分の仏道修行の成果を「三悪道」に擲つ、または回向する、という点はそっくりです。
とすると、『とはずがたり』の「有明の月」ストーリーを疑う私としては、後深草院二条は『保元物語』、またはその素材となった何らかの伝承を重要な参考資料として「有明の月」ストーリーを構想したのではなかろうか、と想像したくなります。
その前提として、二条が崇徳院伝承を知っていたことが必須となりますが、二条は『とはずがたり』巻五で「崇徳院の御跡」である「讃岐の白峰・松山など」を訪問しているので、崇徳院については熟知していますね。
巻五は乾元元年(1303)九月の厳島参詣から始まりますが、厳島と土佐足摺岬を訪ねた後、二条は讃岐に向かいます。

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 讃岐の白峰・松山などは、崇徳院の御跡もゆかしくおぼえ侍りしに、訪ふべきゆかりもあれば、漕ぎよせておりぬ。松山の法華堂は、如法行ふ景気みゆれば、しづみ給ふもなどかと頼もしげなり。「かからむ後は」と西行がよみけるも思ひ出でられて、「かかれとてこそ生れけめ」と、あそばされける古の御ことまで、あはれに思ひ出で参らせしにつけても、

  物思ふ身の憂きことを思ひ出でば苔の下にもあはれとはみよ

 さても、五部の大乗経の宿願残り多く侍るを、この国にてまた少し書き参らせたくて、とかく思ひめぐらして、松山いたく遠からぬほどに小さき庵室をたづね出だして、道場にさだめ、懺法・正懺悔などはじむ。九月の末のことなれば、虫の音も弱りはてて、何をともなふべしともおぼえず。三時の懺法を読みて、慙愧懺悔、六根清浄と唱へても、まづ忘られぬ御言の葉は心の底に残りつつ、さても、いまだ幼かりしころ、琵琶の曲を習ひ奉りしに、たまはりたりし御撥を、四つの緒をば思ひ切りにしかども、御手なれ給ひしも忘られねば、法座のかたはらに置きたるも、

  手になれし昔の影は残らねど形見とみればぬるる袖かな

 このたびは大集経四十巻を、二十巻書き奉りて、松山に奉納し奉る。経のほどのことは、とかくこの国の知る人にいひなどしぬ。供養には、ひととせ御形見ぞとて三つたまはりし御衣、一つは熱田の宮の経のとき、誦経の布施に参らせぬ。このたびは供養の御布施なれば、これを一つ持ちて布施に奉りしにつけても、

 月出でん暁までの形見ぞとなど同じくは契らざりけん

御肌なりしは、いかならん世までもと思ひて残しおき奉るも、罪深き心ならんかし。
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ということで(次田香澄氏『とはずがたり(下)全訳注』、p355以下)、二条は「五部の大乗経の宿願残り多く侍るを、この国にてまた少し書き参らせたくて、とかく思ひめぐらして、松山いたく遠からぬほどに小さき庵室をたづね出だして、道場にさだめ」、写経の日々を送ったのだそうです。

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