▲松平定信
●江戸時代(光格天皇 徳川家斉)
Tokugawa Yoshimune embarks on a strenuous program of bureaucratic and financial reforms. knoen as Kyoho Reforms.
否(いな)やな定め 未完成。
1787年 徳川家斉 松平定信 寛政の改革 囲米 石川島人足寄場
1787年、徳川家斉が11代将に就任。
白川藩主松平定信が老中首座として幕政の改革(寛政の改革)に着手した。
定信は8代将軍吉宗の改革を理想とし、農村の復興と都市政策を改革の柱とした。
しかし、その緊縮財政は将軍側近の反感をかい、尊号一件を機に将軍家斉とも対立したため、在職7年で引退した。
〈寛政の改革〉
松平定信は旧里帰農令を出して農民の出稼ぎを禁じ、社倉・義倉を設け、囲米を命じた。
江戸では町費節約の七分金積立を実施。また債務に苦しむ旗本・御家人の救済のため、棄捐令を出した。さらに寛政異学の禁で朱子学の振興をはかった。寛政の改革の内容は多いが、そのほとんどに〈キ〉の音があることに注目すれば、他の改革の内容との識別が容易。
おまけに山東京伝を処罰し、黄表紙を取り締まったが、これらにも〈キ〉がある。
(棄捐令・七分積金(しちぶつみきん))(1787年・石川島人足寄場(いしかわじまにんそくよせば))(囲米(かこいまい)・旧里帰農令)
[ポイント]
1.寛政の改革は、1787年、旧里帰農令・棄捐令を出し、石川島人足寄場をつくり、囲米・七分積金の制度を作った。
[解説]
1.松平定信(1758~1829)は、田安家出身かつ吉宗の孫で次期将軍の第一候補だったが、田沼意次の策略により、白河藩に養子に出された。1787年、新将軍11代家斉が田沼意次を排し、定信を老中首座とした。ここに松平定信による寛政の改革(1787~93)が行われることに。
この改革政治は、享保の改革に同じく家康時代の自然経済へ無理矢理戻すことを理想とした。発達する商品貨幣経済の抑制、すなわち経済の改悪に努力する。しかし経済の実態は享保時代よりますます貨幣経済が繁栄しており、したがってその以前に戻す幅が大きい分無理も大きく、享保より改革期間は短命にて失敗した。
2.旧里帰農令で、江戸にあふれる正業を持たないものに資金をあたえて、人口が減少した東北などの農村に帰ることを奨励した。しかし申し出る者が少なく失敗した。
3.困窮する旗本・御家人を救済するための棄捐令を出して札差に貸金を放棄させた。
4.飢饉に備えて、諸藩に1万石につき50石の割合で囲米を命じ、各地に社倉・義倉をつくらせて米穀をたくわえさせた。
5.治安対策として石川島に人足寄場を設け、無宿人を強制的に収容し、技術を身につけ職業を持たせようとこころみた。
6.また町々に町費節約を命じ、節約分の7割を積み立てさせ(七分積金)、新たに設けた江戸町会所(まちかいしょ)によってこれを運用させた。
7.両替商など豪商10名を勘定所御用達(かんじょうしょごようたし)として登用、その力を利用して改革をすすめた。
〈2016早大・法:「
江戸時代にも一種の徳政令が、それぞれの不況期において困窮した武士等の保護対策として出された。寛政の[ C ]は、松平定信が寛政の改革の一環として、1789年に出した。これは、貨幣経済に巻き込まれて困窮する御家人・旗本・庶民を救済するために、b札差に6年以前の貸し金の放棄をさせ、以後のものを低金利化させる法令であった。
問8 空欄Cに入る語を漢字で記述解答用紙に記入しなさい。
問9 下線部bと関連する、寛政の改革中の経済政策についての次の記述のうち、明らかに誤っているものを1つ選びなさい。
あ 旧里帰農令は、江戸に流入した没落農民の帰村・帰農を奨励する法である。
い 赤子養育法は、出生した子を産所で殺すことを禁じた、農民確保のための法である。
う.凶年に備える備蓄のうち、社倉は富裕者の義損・課税により、義倉は住民の拠出による。
え 江戸町会所は、節減した町人用を積み立てて低利融資や救援をする機関にされた。
お 両替商を中心とする大商人が勘定御用達に任命され、物価統制などを担当した。」
(答:問8C棄捐令、問9う×社倉・義倉の説明が逆)〉
〈2016立教大・法済異文
江戸は幕政の中心であるとともに、幕府による諸改革の対象となった。8代将軍徳川吉宗による江戸の都市政策は、享保の改革における主要な政策の1つとなった。その後、天明の飢饉によって、江戸では打ちこわしが発生するとともに下層の町人が増加していった。そのため、寛政の改革においては、江戸に流人した農民に対し農村へ帰ることを奨励した( ハ )令が出された。」
(答:旧里帰農)〉
〈2014明大・商(商)
以上の農村部から、つぎに都市部に目を向けてみれば、都市における騒擾、打ちこわしも大規模化の一途をたどった。時代はさかのぼるが、いまそれをまとめてみると、江戸では享保、天明の飢饉時や幕末世直し期においてそれぞれ大規模な打ちこわしが発生している。規模拡大の大きな理由の一つに都市に大量に流入した貧民層、無宿の滞留があった。それゆえ幕府は寛政の改革において農村での小農の自立支援を展開する一方で、江戸に流入した無宿などへの帰村奨励など、都市政策を積極化させていったのである。
この際の一翼を担ったのは両替商を中心とする豪商、D【1)5 2)7 3)8 4)10 5)12】人からなる勘定所御用達であり、幕府は彼らの力を借りて物価や米価の安定を図りながら、旧里帰農を促進していった。さらに人足寄場を設け、そこに無宿人を強制収監し、職業教育を施すなどの社会事業を展開した。また七分積金法によって備蓄された米(囲籾)や資金を運用する貧民救済策をとったが、これはE【1)本所 2)鉄砲洲 3)神田 4)小石川 5)石川島】にあらたに設けられた江戸町会所により運用された。
江戸町会所は維新後東京府に移管され営繕会議所とされ、道路、橋梁、共同墓地等首都のインフラ事業への投資を行なったといわれているが、そのうちの一つが1872年に設立された貧民救済のための養育院である。同院の資金源はその後七分積金から地方税へと変遷し、名称も東京府養育院となったが、本施設の設立から関わった初代院長は埼玉県の豪農出身の実業家で第一国立銀行や商法講習所などの設立に尽力し、「道徳経済合一説」を信条とした[ お ](1840~1931)であった。」
(答:D4、E3※「か」、お渋沢栄一)
(ラックスマン来航)(林子平(しへい))(尊号一件)(洒落本・黄表紙弾圧)(寛政異学の禁)
[ポイント]
1.寛政の改革で、異学を禁止、洒落本黄表紙を弾圧、さらに林子平を処罰したがラックスマンが来航、また尊号一件で朝廷を抑圧統制した。
[解説]
1.儒教のうち朱子学を正学とし、1790(寛政2)年には湯島聖堂の学問所(昌平坂学問所)で朱子学以外の講義や研究を禁じた(寛政異学の禁)。
2.民間に対してはきびしい出版統制令を出して、政治への風刺や批判をおさえた。林子平が『三国通覧図説』や『海国兵談』で海岸防備を説いたことを幕政への批判とみて弾圧(1792年、批判内容ではなく幕閣以外が幕政を批判した廉(かど)で蟄居、翌年死去)し、黄表紙(山東京伝など)や洒落本(恋川春町など)が風俗を乱すとして出版を禁じ処罰した。
3.朝廷は、1789(寛政元)年、光格天皇の実父である閑院宮典仁(すけひと)親王に、太上天皇の尊号を宣下したいと幕府に同意を求めた。光格天皇は閑院宮家出身。このままだと実家の父の身分が臣下である摂関家より下になるので、親孝行から望んだもの。しかし、定信はこれを拒否し、武家伝奏ら公家を処分した。この一連の事件を「尊号一件」とよぶ。この事件を契機にして、幕府と朝廷の協調関係はくずれ、天皇の権威は尊王論の高まりとともに幕末に向かって浮上し始めた。
4.しかし奇(く)しくも将軍家にも同じ問題が生じる。すなわち一橋家から将軍になった徳川家斉が、同じく親孝行から実父一橋治済(はるさだ)に大御所の尊号を贈ろうとした。しかし定信がこれも拒否したため、家斉との不和が生じることに。
5.田沼時代の蝦夷地の直轄・開発方針とは異なり、1792年のラクスマンの根室来航に対し、鎖国体制の強化を図った。林子平を蟄居させた年に皮肉にも彼の警告通りラクスマンが来航したことになる。長崎回航を命じられたラクスマンが根室を出航、その寄港の恐れがある江戸湾海防のための出張中に、辞職を命じられ失脚。
6.経済発展の実態との乖離(かいり)が大きい、すなわち無理な抑制策を行わねばならない分、庶民をはじめとした不満は大きく、川柳「白河の清きに魚(うお)のすみかねて もとの濁(にご)りの田沼こひしき」 にその批判がよく表れている。
〈2016立教大・済コミュ福観光
こうして儒学は、政治と生活の道徳となり、やがて寛政の改革期になると、幕府は緩んだ武士の風俗を教化しようと、儒学のなかでも朱子学を正学と定めた。またこれにあわせて、朱子学を振興し人材を発掘するために、幕府は( リ )という試験制度を導人した。この試験では朱子学の理解の程度が試され、旗本・御家人とその子弟のうち15歳以上のものに受験資格があった。
また寛政の改革期に、幕府は林家の家塾を幕府直轄の学問所とし、地誌類や歴史書の編纂を担当させた。幕府が塙保己一を援助して江戸麹町に建てさせた( ヌ )では、古代からの文献を集めた『群書類従』が編纂されたが、これは学問所において編纂されたさまざまな書物とともに、現在の日本史研究の基礎文献となっている。」
(答:リ学問吟味、ヌ和学講談所、※学問吟味とは幕府が旗本・御家人を対象に聖堂学問所(昌平坂学問所)で実施した漢学の筆記試験。1792年(寛政4年)から幕末まで、計19回実施された)〉
〈2014明大・法(法律)
天明の飢饉が始まり、百姓一揆や打ちこわしが全国で頻発するなか、1784(天明4)年に田沼意次の子で若年寄の意知が暗殺されたことをきっかけに意次の権勢は急速に衰え、1786(天明6)年、将軍徳川家治が死亡するとすぐに失脚した。翌1789(天明7)年には、c江戸・大坂などの主要都市で打ちこわしが相次いで起こった(天明の打ちこわし)。こうしたなか、白河藩主松平定信が老中首座となり、11代将軍家斉を補佐しながら祖父徳川吉宗の政治を理想として寛政の改革を進めた。定信はd退廃した士風を引き締めるとともに倹約を求めた。また1789(寛改元)年には、困窮する旗本・御家人の窮乏を救うために[ カ ]を出して札差に貸金を放棄させた。
問6 下線部cに関連して、山東京伝の弟岩瀬京山著『蜘蛛の糸巻』には「翌年天明七丁未年五月…茲にいたりて米穀動かず。米屋ども江戸中に閉す。同月廿日の朝、雑人共赤坂御門外なる米屋を打ち毀す。…同日同刻京橋南伝馬町三丁目万屋佐兵衛、万佐とてきこえたる、米穀問屋を打ち毀す。…」と述べられている。文中の「米穀動かず」とは、ある原因により誰も米を売るものがいないことをいうが、その原因とは何か。8字以内で記しなさい。
問7 下線部dに関連して、田沼時代に緩んだ士風を引き締めるため、1790(寛政2)年、寛改異学の禁が林家に命じられたが、「異学」とは朱子学以外の[ オ ]の学派をいう。空欄[ オ ]に該当する語句を記しなさい。
問8 空欄[ カ ]に該当する法令名を記しなさい。」
(答:問6米価が騰貴した、問7儒学(陽明学・折衷学・古学など)、問8棄捐令)〉
〈2013同志社大学・法グロコミュ
御三卿田安宗武の7男として出生した松平定信は、1774年陸奥白河藩主松平定邦の養子に入り、のち藩主となり、天明の飢饉を乗り切り明君と称された。1787年老中首座に任じられ、享保政治を範として田沼政治の刷新を方針とした施政を行なった。その政治は寛政の改革と称される。農政においては勘定所役人を改め腐敗代官を摘発して、ケ備荒貯蓄の奨励、農村人口の回復をめざした人返し令などの勧農政策を、社会政策においては財政に窮したコ旗本・御家人の救済、町民の七分積金、出版統制などを行なった。田沼時代の蝦夷地の直轄・開発方針とは異なり、ラクスマンの根室来航もあって鎖国体制の強化を図り、また、朝廷に対して禁裏造営を行なう一方、サ朝権への統制も忘れることはなかった。田沼政治が時代の趨勢に応じるものであったのに対して、定信のそれは幕府政治の原則に立つものであったといえよう。
問ケ.従来より備荒政策はとられてきたが、天明の飢饉の経験は改めて貯穀の必要を痛感させた。以下にあげる史料は1790年に農民に対して備荒貯蓄を奨励したものである。空欄.ケの中に入る貯穀を意昧する言葉を漢字2字で記せ。
近年凶作打続き候処、二三年以来作方多分宜しく候に付き、凶年之備等も自然と等閑に相成るべきやに候。殊に当年は米直段引下り、一統難儀之事に候。当年弥豊熟に候はば、成る丈け手繰り(都合がつき…注)次第に置籾( ケ )等中し付くべく候。
問コ.以下にあげる史料は1789年に札差に債権の全部または一部を放棄させる目的で幕府が発布した法令である。空欄コの中に入る言葉を漢字2字で記せ。
旧来之借金は勿論、六ヶ年以前辰年までに借り請け候金子は、古借・新借之差別無く、( コ )之積り相心得べき事。
問サ.定信の行なった朝権統制の事件を次の1~4の中から1つ選べ。
1紫衣事件 2宝暦事件 3尊号事件 4明和事件」
(答:問ケ囲米、問コ棄捐、問サ3)
(定信)(宇下人言(うげのひとごと))(花月草紙(かげつそうし))。
[ポイント]
1.定信は引退後、随筆『花月草紙』や自伝『宇下人言』などを著した。
[解説]
1.『宇下人言』は成立年未詳。定信の自叙伝で、誕生から老中辞職直前までが記され、寛政の改革時の定信の政策意図やその思想がうかがえる。書名は「定信」の2字を分解したもの。「人」で「一」ではないので注意してください。
2.『花月草紙』は1818年成立。社会の諸相・人生・自然現象などに対する感想を記した随筆。
〈2016立教大・現心社コミュ福:「
問10.この人物松平定信に関する記述として正しくないのはどれか。
a.自伝『宇下人言』を著した
b.徳川吉宗の孫である
c.老中在任期間は6年余りだった
d.老中在任中に紫衣事件が発生した
(答:d×紫衣事件は3代家光の時)〉
〈2013関西学院大学・済総合国際
C.寛政四五のころよりg.紅毛の書を集む。……兵器あるは内外科の治療、ことに益も少なからず。されどもあるは好奇の媒となり、またはあしき事などいひ出す。さらば禁ずべしとすれど、禁ずれば猶やむべからず。況やまた益もあり。さらばその書籍など、心なきものヽ手には多く渡り侍らぬやうにはすべきなり。上庫にをき侍るもしかるべし。されどよむものもなければ只虫のすとなるべし。
問8.史料Cを書いた人物として、正しいものを下記より選びなさい.
ア.松平定信 イ.林子平
ウ.岡田寒泉 エ.渡辺崋山
問9.下線部gに該当するもので正しいものを下記より選びなさい.
ア.スペイン イ.ポルトガル
ウ.オランダ エ.アメリカ
問10.Cの史料の内容として、誤っているものを下記より選びなさい。なお、すべて正しければ「エ」をマークしなさい。
ア.集めた本には、兵器や医学において役に立つ知識が書かれている。
イ.集めた本には、犯罪や刑法の内容が書かれている。
ウ.集めた本は、幕府当局者以外の者に渡らないようにすべきである。」
(答:問8ア、問9ウ、問10イ※史料Cは『宇下人言』)〉
愛嬌 効かんて。
(相対済(すま)し令・享保の改革)(棄捐令・寛政天保の改革)
[ポイント]
1.相対済し令は享保、棄捐令は寛政・天保の施策。
[解説]
1.相対済し令は、享保の改革の一環として、物価高騰に伴い借金に関わる訴訟が増大したため訴訟裁判の軽減を図るということで、1719年に、悪質なものを除き訴訟を受理せず当事者間で解決させるという法令で、同時に旗本・御家人の救済もねらったもの。しかし金融上の混乱が続いたため1729年に廃止した。
2.棄捐令は、江戸幕府が旗本・御家人救済のために出した法令で徳政令の一種。札差に対する借金の帳消しや低利による年賦償還などを命じたもの。1789(寛政元)年と1843(天保14)年に、寛政の改革、天保の改革で出された。
〈2016早大・法
江戸時代にも一種の徳政令が、それぞれの不況期において困窮した武士等の保護対策として出された。寛政の[ C ]は、松平定信が寛政の改革の一環として、1789年に出した。これは、貨幣経済に巻き込まれて困窮する御家人・旗本・庶民を救済するために、札差に6年以前の貸し金の放棄をさせ、以後のものを低金利化させる法令であった。
問8 空欄Cに入る語を漢字で記述解答用紙に記入しなさい。」
(答:棄捐令)〉
〈2016立教大・法済異文
問2.これ札差に対して旗本・御家人への貸金を放棄させた、寛政の改革における法令の名をしるせ。」
(答:棄捐令)〉
〈2012明大・文学部
以下の各文は江戸幕府の享保の改革に関する文章である。正しいものを次の1~5のうちから一つ選べ。
1.1716年(享保元)、紀州藩主徳川吉宗が8代将軍になると、吉宗は家康時代への復古をかかげて幕政の改革に取り組んだ。
2.1722年(享保7)には上米の制が定められたが、幕府財政の立直しの本筋は年貢増徴策であり、そのため広くとり入れられたのが検見法である。
3.有能な人材を登用のため足高の制が定められた。町奉行大岡忠相や『農業全書』の著者田中丘隅も吉宗によって抜擢された人材である。
4.棄捐令を出し、激増してきた金銭貸借をめぐる訴訟をその当事者どうしで解決させる一方、公事方御定書を編纂し法制の整備にもつとめた。
5.江戸・大坂周辺の地を幕府直轄地とし、対外防備の強化をねらった上知令を発令した。」
(答:1 ※2×検見法→定免法、3×田中丘隅→宮崎安貞、4×棄捐令は寛政の改革と天保の改革、5×上知令は天保の改革)〉