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1772(安永元)年 〈田沼意次、老中就任〉★

2016-11-22 | 『新日本史頻出年代暗記』

●江戸時代(後桃園天皇 徳川家治)
1772(安永元)年 〈田沼意次、老中就任〉★
Tanuma Okitsugu becomes roju (senior councilor) and attempts to increase shogunal income through the expansion of commerce.

非難名に負う 意次は。 

1772年 南鐐二朱銀 田沼意次 家治

18世紀に入ると貨幣経済が広まり、貨幣収入のない百姓の生活は困窮。さらには飢饉の発生などから百姓一揆は増加した。このような中で幕政を指導した田沼意次は貨幣制度の一本化を試み、老中となった1772年に南鐐二朱銀の発行を命じた。また、商工業者の株仲間を公認して特権を与え、かわりに運上・冥加を納めさせて幕府財政の不足を補った。


[ポイント]

1.田沼意次は、1767年から、手賀沼印旛沼の干拓、長崎貿易の奨励、専売制度を拡大、南鐐二朱銀の発行、株仲間を公認し、運上金冥加金を課す、蝦夷地開発計画をたて最上徳内に探検させた。

[解説]
1.意次は、年貢増徴だけにたよらず民間の経済活動を活発にし、そこで得られた富の一部を財源にとり込もうとした。そのために、都市や農村の商人・職人の仲間を株仲間として広く公認し、運上冥加など営業税の増収をめざした。


2.幕府の専売のもとに、銅座真鍮座朝鮮人参座などが設けた。


3.意次は、はじめて定量の計数銀貨南鐐二朱銀を鋳造させ、を中心とする貨幣制度への一本化をこころみた。


4.意次は、江戸や大坂の商人の力を借りて印旛沼手賀沼の大規模な干拓工事をはじめるなど、新田開発を積極的にこころみた。しかし干拓は、利根川の氾濫で挫折した。


5.意次は仙台藩江戸詰医師工藤平助赤蝦夷風説考』の意見を取り入れ蝦夷地開発計画をたて、最上徳内らを蝦夷地に派遣して、その開発やロシア人との交易の可能性を調査させた。


6.旗本佐野政言(まさこと)は、意次の子で若年寄田沼意知(おきとも)を暗殺し、「世直し大明神」とはやされた。


7.賄賂(わいろ)が横行し、天明の飢饉の対応に失敗し、松平定信により失脚した。


8.1767年の明和事件で、山県大弐(やまがただいに)を死刑に処し、竹内式部を遠島処分とした。


9.蘭学を奨励し、平賀源内を登用した。

 

 〈2016明大・農:「
 徳川吉宗のあと、9代[ 2 ]、10代[ 3 ]が将軍職についたが、[ 3 ]の側用人から老中にすすんだオ田沼意次が権勢をふるった。意次は、収入源をもっぱら土地からの年貢に求める従来のやり方を改め、年貢に加えて経済・流通政策による収入も重視した。都市や農村の商工業者に[ 4 ]の設立をすすめ、営業独占を認めるかわりに運上・冥加を上納させた。特定の御用商人に銅・鉄・真鍮・朝鮮人参などの座をつくらせ、流通の統制と運上徴収をはかった。

 カ.田沼政治は町人の経済力を利用して幕府収入を増やしたが、[ 4 ]による独占の弊害や賄賂の横行による士風の退廃をもたらし、人々の批判をあびた。また、天明年間に浅間山噴火や冷害によって大飢饉(天明の飢饉)がおこり、奥羽地方を中心に多くの餓死者・病死者を出した。百姓一揆や打ちこわしが頻発するなか、意次の子で若年寄であった田沼意知が暗殺されたことをきっかけに意次の権勢は衰え、1786(天明6)年、将軍[ 3 ]の死の直後に意次は失脚した。翌年には江戸・大坂などで大規模な打ちこわしがおこった。


問6 空欄(2~3)に適切な人物名の組み合わせとしてもっとも適切なものを下記から一つ選べ。


 A 2徳川家継 3徳川家重

 B 2徳川家継 3徳川家治
 C 2徳川家重 3徳川家継
 D 2徳川家重 3徳川家治
 E 2徳川家治 3徳川家継
 F 2徳川家治 3徳川家重

問7 空欄4に入る用語を漢字で記入せよ。


問8 下線部オに関連して、田沼意次が行った政策について記述した文章として適切でないものを一つ選べ。


 A はじめて南鐐二朱銀などの計数銀貨を鋳造させ、金銀通貨の一本化をねらった。

 B 銅座に貿易用の銅の独占確保をおこなわせた。
 C 俵物役所を設けて俵物の輸出を奨励した。
 D 蝦夷地の開発やロシアとの交易を計画して、間宮林蔵らに北方調査をおこなわせた。
 E 新田開発に力を入れ、利根川水系の印旛沼・手賀沼の干拓に着手した。

問9 下線部(カ)に関連して、田沼政治への風刺としてもっとも適切なものを一つ選べ。


 A 世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶといふて夜もねられず

 B 世わたりに春の野に出て若菜つむ わが衣手の雪も恥かし
 C 侍が来ては買ってく高楊枝
 D 歌よみは下手こそよけれ天地の 動き出してたまるものかは
 E 年号は安く永しと変れども 諸色高直いまに明和九

(答:問6D、問7株仲間、問8D、問9E※明和9(1772)年を明和元年とした。田沼はこの年老中になったので、これを田沼政治への批判の句とするのはどうかなと思うのだが、他にないので)


〈2016同志社大・全学部

 幕府財政は8代将軍吉宗の改革によって一時的に立ち直りをみせたが、しかしその後18世紀後半には再び行き詰まることとなった、このとき政務を担ったのが田沼意次である。彼は1O代将軍( オ )のもとで従来の緊縮政策を捨て、i商業資本の積極的利用による財政再建をはかろうとした。しかし賄賂政治への批判や、カ天災などの世情不安もあり、急速に支持を失っていった。

【設問オ】空欄( オ )に入る人物名を次のうちから選べ。

 1.家重 2.家治 3.家慶 4.家斉

【設問i】田沼意次は町人の経済力を利用して、利根川水系の手賀沼・[   ]の干拓を行なおうとした。

[   ]にあてはまる湖沼の名称を、漢字で記せ。


【設問カ】江戸時代には冷害・噴火など天災を主因とする飢饉が発生したが、以下の4つの飢饉について、その番号を起こった時期の古い順に並べて、記入せよ。


 1.享保の飢饒 2.天保の飢饉

 3.天明の飢饉 4.寛永の飢饉」

(答:オ2、i.印旛沼、カ4→1→3→2)〉


〈2015関西学院大・文法商人間

問10 下線部jの人物田沼意次の政策に関する説明として、正しいものを下記より選びなさい。

 ア 経済の活性化のため、株仲間を禁止した。

 イ.民間の経済活勤の活性化と冥加・運上の増収によって財政の立て直しを図った。
 ウ.積極的な新田開発が功を奏し、彼の老中在任中に百姓―揆や打ちこわしは生じなかった。
 エ.金銀の海外への流出を警戒し、対外貿易には消極的であった。」

(答:イ)〉


〈2014早大・文化構想

 近世には、江戸・大坂・京都などの大都市が発展したが、特に大坂は「天下の台所」といわれ、日本における経済の中心となった。大坂では幕府や各藩の年貢米や特産物が[ D ]に集まって保管され、商品として販売された。販売を請け負ったのは蔵元や掛屋とよばれる商人だった。一方、経済の発展とそれに伴う問題は、江戸幕府の政治をしばしば動揺させた。d.幕府のいわゆる三大改革やその間の田沼政権は、経済問題への取り組み抜きには語れない。

問8 下線dに関連して述べた文のうち誤っているものはどれか。2つ選べ。


 ア 享保の改革では、大名に対して参勤交代を半年にするかわりに上米を命じた。

 イ 享保の改革では、米価安定のために大坂堂島の米市場を公認した。
 ウ 田沼政権では、株仲間の範囲を積極的に広げ、江戸の二十四組問屋などを公認した。
 エ 寛政の改革では、札差の保護を図るために棄損令を発布した。
 オ 天保の改革では、株仲間を物価高騰の原因とみなして、株仲間解散令を発布した。」

(答:D蔵屋敷、問8ウ・エ ※ウ×二十四組問屋は大坂、エ×旗本・御家人の保護)〉


〈2014立教大・現心コミュ福祉観光営

問6.この時期(田沼時代)に行われた政策に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a 株仲間を広く公認する代わりに、運上金・冥加金などを上納させた。

 b 治安対策として石川島に人足寄場を設け、無宿人に職業技術を授けた。

 c 南鐐二朱銀などの計数銀貨を鋳造し、銀を中心とする貨幣制度の確立を試みた。

 d 最上徳内が中心となって、蝦夷地の開発やロシアとの交易から実利をあげた。

(答:a ※b×寛政の改革、c×金中心に、dまだ探検段階)〉


〈2013青山学院・文

 冷害による大凶作に端を発した天明の飢饉は、陸奥国を中心に江戸時代最大の餓死者を出した。同じ頃[ ア ]が噴火して大きな被害が出、数年後には関東地方などが洪水の被害で大凶作となった。こうした天明年間の一連の災害による大凶作・飢饉によって、各地で百姓一揆や打ちこわしが頻発した。この時期政治を主導していたのは、a田沼意次であったが、[ 1 ]のb.田沼意知が殺されたのち勢力を失い、将軍[ い ]の死去とともに、失脚した。その後政治の主導権をめぐって激しい権力闘争が行われたが、江戸をはじめとして全国で大規模な打ちこわしが発生したことを契機として、田沼派が一掃され、政権交代が実現した。

問1 空欄アに該当する語句を記せ。


問2.空欄[ 1 ]に該当する当時の役職名を一つ選べ。


 1老中 2若年寄 3大老 4江戸町奉行


問3 空欄い)に該当する将軍名を答えよ。


問5.下線部a田沼意次について、この人物のとった政策として誤っているものを一つ選べ。


 1 幕府財政を再建するため、民間の経済活動を活発にし、株仲間を広く公認して運上・冥加などの増収をめざした。

 2 江戸や大坂の商人の資金を活用し、印旛沼・手賀沼の干拓工事を行った。
 3 最上徳内らを蝦夷地に関連して、蝦夷地の開発やロシア人との交易の可能性を調査した。
 4 はじめて定量の計数銀貨を鋳造し、銀を中心とする貨幣制度への一本化をはかった。

問6.下線部b田沼意知について、(1)(2)の問に答えなさい。


(1)この人物を殺した旗本は誰か。次の中から一つ選んでマークしなさい。


 1大岡忠相  2佐野政言
 3佐倉惣五郎 4大塩平八郎


(2)(1)で解答した人物は民衆からどのようにもてはやされたか。次の中から一つ選んでマークしなさい。


 1義民     2八幡大菩薩
 3世直し大明神 4東照大権現」


(答:問1ア浅間山、問2→2、問3家治、問5→4×はじめて金貨の単位を表した銀貨を作ったのだから、金を中心とする貨幣制度への一本化、問6(1)→2、(2)→3)〉


田沼時代・座・座)(真鍮(しんちゅう)座)(朝鮮人参)


[ポイント]

1.田沼意次真鍮朝鮮人参などを幕府専売とした。

[解説]

1.意次はゆきづまった幕府財政を再建するために、年貢増徴だけにたよらず民間の経済活動を活発にし、そこで得られた富の一部を財源にとり込もうとした。そのために、都市や農村の商人・職人の仲間を株仲間として広く公認し、運上冥加など営業税の増収をめざした。この一環として幕府の専売のもとに、銅座鉄座真鍮座朝鮮人参座などが設けられた。

〈2014立教大・現心コミュ福祉観光営

問12.12.幕府の老中は、さまざまな政策を実行しに関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.松平定信は、印旛沼と手賀沼の干拓事業に着手した

 b.松平信明は、人参座を設け、朝鮮人参の専売を始めた
 c.水野忠成は、金・銀の含有率を下げた貨幣を発行した
 d.水野忠邦は、上知令を出して、江戸と長崎周辺の私領を幕領に編入した」

(答:c〇家斉代の老中首座で、文政の貨幣改鋳による財政立て直しを行うが賄賂を横行させた ※a・b×田沼意次の政策、d×江戸と大坂)〉


〈2013学習院大学・経済

 続く18世紀後半に実権を握った田沼意次は年貢増徴だけに頼らず、都市や農村の商人・職人の仲間を株仲間として広く公認し、運上や冥加など営業税の増収をめざした。この一環として、幕府の専売のもとに設けられた直営の座として15〔イ真鍮座 ロ油座 ハ金座 ニ綿座 ホ銀座〕がある。」

(答:イ)〉

〈2012明大・文学部

 以下の江戸幕府の政策についての文章のうち、田沼時代の政策には1)を、寛政の改革における政策は2)をマークし、どちらでもない政策には3)を選べ。

 1 『三国通覧図説』や『海国兵談』を著して蝦夷地開拓と海岸防備の必要性を説いた林子平を人心を惑わせるものとして処罰した。

 2 困窮した旗本・御家人への対策としては、札差に旗本・御家人への貸金を放棄させ、江戸に流入してきている貧農層への対策としては、旧里帰農令を出して農村に帰ることを奨励した。
 3 都市や農村の商人・職人を株仲間として広く公認し、その一環として幕府の専売のもとに銅座・真鍮座・朝鮮人参座等を設け、営業税の増収をめざした。
 4 ロシアは使節ラックスマンを根室に派遣し、漂流民大黒星光太夫等の送還とともに日本に通商を求めたが、幕府は通商を拒絶した。
 5 将軍と皇女との婚約をまとめたり、宮家(親王家)が三家しかなかったので、閑院宮家を創設して、天皇家との結びつきを強めた。
 6 『赤蝦夷風説考』で蝦夷地開発とロシアとの交易の必要性を説いた工藤平助の献策をいれ、蝦夷地開発計画を立て調査隊を派遣した。
 7 金との交換価値を表示した定量銀貨の南鐐二朱銀を鋳造し、貨幣の流通量を増やそうとした。」

[ポイント]
1.明和五匁銀の失敗の後、8枚で1両に交換できる南鐐二朱銀を発行した。

[解説]

1.江戸中心の金貨(計数貨幣)と大坂中心の銀貨(秤量(しょうりょう)貨幣)の交換(東西の金融決済など)は、必然的に両替というコスト(両替商が手数料を上乗せ、かつ毎日変動)を必要としていた。

2.田沼意次は、銀貨を金貨にリンクさせ、金貨を中心とする貨幣制度への一本化をこころみた。
 幕府は1765(明和2)年(田沼が側用人になるのは1767年)、明和五匁銀(銀の純度約46%)を鋳造し、為替レートの 固定化(両替は必要ない)を狙った。すなわち、この明和五匁銀12枚(60匁)と小判1枚を交換可能とするものであった。しかしこれは当時の実勢レートに合わず、両替商の抵抗もあり、ほとんど流通せず失敗に終わった。
 そこで田沼意次は、新たに1772(安永元)年から、純度を上げ金2朱として通用する南鐐弐朱銀を大量鋳造することにした。「南鐐」とは上質な銀(銀の純度約97%)のこと。8枚(金2朱×8=16朱)で小判1枚(金16朱)と交換と定めた。両替商の抵抗はあったが、今度は徐々に浸透、丁銀、豆板銀といった秤量銀貨が少しずつ消えていくことになった。

〈2012明大・商学部:「
 田沼時代には、商工業者の組織化政策、あるいは専売制の実施など、各地で発展しつつあった商品生産・流通からもたらされる富を財政の補強のために使おうとする経済政策が展開した。貨幣政策でもそれまでの三貨を金に一本化して貨幣制度の安定をはかるために計数銀貨の発行を実施した。これは田沼意次が老中に就任する直前に発行された明和(d)【1)五分 2)五貫 3)五両 4)五匁 5)五朱】銀の政策意図を踏襲したもので、金銀の相場により変動する貨幣制度を強制的に安定させる目的をもっていた。ただ、この貨幣は鋳造数が少なかったうえ、取り扱いもかさばって使いにくかったため、1772年、97%の純度を持つ[ 4 ]銀を発行した。この銀貨(e)【1)2 2)3 3)4 4)8 5)12】枚で金1両に相当する計算になった。幕府は同貨幣の流通を公金貸付制度と一緒に実施することで成功に導き、天明期には流通の安定基盤が確保されたといわれている。」
(答:d4、[ 4 ]→南鐐二(弐)朱、e4 ※「明和五匁銀」が最初の定量銀貨。あまり流通せず再度の「南鐐二朱銀」で成功)〉

 

 



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