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徳川光圀

2016-11-03 | 『新世界史頻出年代暗記』



異論困難題に見つ。

1657年 南朝正統説をとる 徳川光圀

[ポイント]

1.水戸徳川光圀朱舜水に学び、江戸藩邸に彰考館を建て『大日本史』編纂を開始した。

[解説]

1.徳川光圀は、1657年、江戸小石川の水戸藩邸に彰考館を設け『大日本史』の編纂を開始し、1906(明治39)年に完成した。

2.神武天皇から後小松天皇までの歴史を、朱子学の大義名分論を中心とする史観に基づき、紀伝体で記述。


3.神功皇后の立后、大友皇子を歴代天皇に加えたこと、南朝を正統としたことの3つが特徴である。この編纂事業を通じて、皇室尊崇を核とする水戸学が成立し、後に尊王攘夷論を展開した。


4.朱舜水(1600~82)は明末の儒学者。1659年長崎に来港して亡命。1665年徳川光圀(1628~1700)に招かれ、水戸藩に独自の古学による正式の礼儀を伝え、実学を重んじる講義をおこない、水戸藩の学者に大きな影響を与えた。


5.水戸黄門は徳川光圀の別称。天下の副将軍として諸国を漫遊し、各地の悪を懲らしめる世直しをした(このような事実はない)という、講談『水戸黄門漫遊記』が幕末に創作された。

〈2016関西学院大学・全学部

問7.下線部h『大日本史』に関連して、誤っているものを下記より選びなさい。なお、すべて正しい場合は「エ」をマークしなさい。
 ア.水戸に彰考館が設けられ、そこで『大日本史』の編纂が開始された。
 イ.『大日本史』の編纂は徳川光圀によって開始された。
 ウ.『大日本史』は明治時代になって完成した。」

(答:ア×彰考館は水戸藩の江戸小石川藩邸内にあった)〉


〈2016早大・文化構想

問3 下線b水戸藩では歴史書の編簒事業から独自の学風がおこったにかかわる記述として、誤っているものはどれか。 1つ選び、マーク解答用紙の該当する記号をマークしなさい。

 ア 前期水戸学は徳川光圀の『大日本史』編纂からおこった。

 イ 前期水戸学は朱子学の大義名分論にもとづく尊王論を展開した。
 ウ 後期水戸学は徳川斉昭のもとで展開された。
 エ 後期水戸学からは頼山陽・会沢安らの学者が輩出された。
 オ 後期水戸学は幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を与えた。

(答:エ×『日本外史』を書いた頼山陽は水戸学出身ではない)


〈2015京都大・前期

 一方、水戸藩では[ キ ]の指示により、1657年に(i)『大日本史』の編纂が始まった。最終的には1906年に完成した全402巻の大著であり、全国で大がかりな史料収集を展開したことに特色がある。長い編纂過程の中で生まれた水戸学では尊王論が唱えられ、幕末には攘夷思想と結びついて大きな影響を与えた。

問9.下線部(i)の『大日本史』編纂のため、当初江戸に、次いで氷戸にも設けられた役所を何というか。」


(答:キ水戸光圀、問9彰考館)〉


〈2012立命館大・法文済営など

問r 下線部11王室の系図を詮索するものに関連して、例えば徳川光圀が始めた『大日本史』はこれに該当するものと思われる。その「大日本史」について説明した文章として、もっとも適当なものを下から一つ選べ。

 あ.皇統について、北朝正統説をとっている。

 い.完成したのは、1906年であった。
 う.後陽成天皇までの事績が漢文体で記述されている。
 え.編纂は、史局である弘道館で行われた。」

(答:い あ×南朝正統説をとる、う×後小松天皇まで、え×彰考館で)〉


〈2010明大・政経

問5 徳川光圀の命で設立され、史料Aの筆者・安積澹泊も総裁を務めた、『大日本史』の編纂局の名称を、漢字で記しなさい。」

(答:彰考館)〉

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諸藩の文治政策  

2016-11-03 | ベック式!日本史用語集

 

 

 

江戸前期、諸藩でも儒学者を顧問に文治政治を実践。

藩主が儒学者を顧問にして藩政の刷新をはかり、水戸藩では徳川光圀が朱舜水を、岡山藩は池田光政が熊沢蕃山、加賀藩では前田綱紀が木下順庵、会津藩は保科正之が山崎闇斎を招いた。

  ベック式! 山は星 木の前(まえ)特殊 池に熊。

           山崎闇斎 保科正之 木下順庵 前田綱紀

                              徳川光圀 朱舜水 池田光政 熊沢蕃山

 

 暗記の裏技(岡山藩の藩学と郷学、識別のコツ)

 岡山藩主池田光政は藩学の花畠教場、郷学の閑谷学校を設立した。花畠教場は〈〉から始まるから「藩学」、閑谷学校は〈こう〉がつくから「郷学」と覚えれば、その識別も容易。

 



[ポイント]
1.保科正之は、山崎闇斎を招いた。

[解説]
1.保科正之(1611~72)は、将軍家光の異母弟で会津藩主。山崎闇斎(1619~82)に朱子学を学び、多くの書物を著した。家光の死後、遺命により幼い甥の4代将軍家綱を補佐した。末期養子の禁を緩和し、会津藩で既に実施していた殉死の禁止を幕府の制度とするなど文治政治を推進した。

2.会津藩主としては、殉死の禁止、(うるし)栽培の奨励、備荒対策として社倉の設置などの藩政改革に尽力し、名君と謳われた。

3.正之は、身分制度の固定化など朱子学に基づく政治を行った。熱烈な朱子学徒であったため、他の学問を弾圧した。朱子学を批判した儒学者の山鹿素行を、赤穂藩に配流している。

〈2015立命館大・全学部2/2:「
問 下線部2保科正之に関連して、保科正之は4代将軍徳川家綱を補佐して儒教的理想を政治に反映させようとしたことで有名である。とりわけ、寛文武家諸法度発布に際して、ある事柄が禁止されたことには保科の強い勧めがあったといわれている。禁止された事柄は何か。漢字2文字で答えよ。」

(答:殉死)〉


〈2014明大・全学部前期

「東アジアの17世紀から19世紀において、武家政権をトップにもち、世襲の身分制度に依拠した江戸時代の日本社会では、儒教はその本質から離れ幕藩体制の都合にあわせ、ゆがんだ形で解釈された。たとえば、歴史書『本朝通鑑』を編纂した[ 1 ]は、幕府内では僧侶として位置づけられていたし、会津藩主保科正之の信任を得た[ 2 ]は、吉川惟足から神道を学び、朱子学と融合させた垂加神道を説き、江戸時代を通じて影響力をもった。しかし、中国や朝鮮ではこのようなことはおよそ考えられないのである。」

(答:1林羅山、2山崎闇斎)〉


〈2013中大・法(法律)

 3代将軍徳川家光が1651年に死去し,その子の家綱が将軍となった。将軍就任当時幼少であった家綱は,成人後の1663年に武家諸法度をだし,大名にその遵守を求め,さらにその翌年には領知[ 1 ]状を発給した。これらはいずれも将軍家綱と大名の主従関係を再確認するものであった。

 家綱の治世のはじめのころは,家光の弟で会津藩主である[ 2 ]や,家光時代以来の老臣らが幼少の将軍をささえていたが,のちには3.下馬将軍とよばれた大老が実権を握り権勢をふるった。」


問3 次のうち下線部の大老にあたる人物を1人選べ。


 a前田利家 b松平信綱
 c堀田正俊 d洒井忠清


(答:1宛行、2保科正之、問3d)〉


〈2012法政大学・文経営人間環境:「

問10 下線部8の人物保科正之が藩主をつとめた藩名を以下のア~エのなかから一つ選べ。

 ア館林藩 イ会津藩 ウ川越藩 エ前橋藩」


(答:イ)〉


[ポイント]
1.池田光政は、熊沢蕃山を招き、閑谷学校を設けた。

[解説]
1.岡山藩主池田光政(1609~82)は、地方(じかた)知行制から米・貨幣を与える俸禄制へ転換、大規模な新田開発や治水事業、などの多岐にわたる藩政改革を実施。

2.光政は儒教を信奉し、藩士の子弟のための藩学校、庶民のための郷学閑谷学校を設けたほか、陽明学熊沢蕃山(1619~91)を招いて重く用いた、なお蕃山中心に私的学習結社花畠教場(はなばたけきょうじょう)が設立された。

3.このため光政は水戸藩主・徳川光圀、会津藩主・保科正之と並び、江戸時代初期の三名君として称されている。

〈2016早大・人間科学

問8 下線部e文書行政の時代が村にも到来したに関連し、庶民の教育や識字についての記述として、誤っているものはどれか、1つ選べ。

 ア 庶民の教育施設の代表は手習所ともよばれた寺子屋で、町人や農民の子が読み・書き・そろばんを学んだ。

 イ 藩営の庶民教育機関としては、岡山藩の藩主池田光政が創立した閑谷学校が有名である。
 ウ 民営の学塾としては、大坂町人出資の古義堂が有名で、町人に朱子学や陽明学を教授した。
 エ 庶民の収入に対し出版される草子などの価格が高かったため、都市部では多くの貸本屋が営業した。
 オ 手習いの教科書として、南北朝期に成立したとされる「庭訓往来」などが広く用いられた。」

(答:ウ×古義堂は伊藤仁斎が京都の堀川にひらいた私塾)


〈2013同志社大・全学部

【設問q】鳥取藩主から岡山藩主となった池田光政が登用した儒学者で、『大学或問』を著した人物として適切なものはどれか。次のうちから1つ選べ。

 1山鹿素行 2中江藤樹
 3熊沢蕃山 4伊藤仁斎」


(答:3)〉


[ポイント]

1.前田綱紀木下順庵に学び、藩政改革をおこなった。

[解説]

1.加賀藩主前田綱紀(1643~1724)は、3歳で家督を継ぎ、義父保科正之の補佐を受けながら成長、藩政改革につとめる。学問を好み、古文書の収集・保存・編纂もおこなう。

 

〈2016関西学院大学・全学部

 次の文章について、a・bともに正しい場合はアを、aが正しくbが誤りの場合はイを、aが誤りでbが正しい場合はウを、a・bともに誤りの場合はエをマークしなさい。

 a.朱子学者の木下順庵は、加賀の前田綱紀に招かれた。新井白石や室鳩巣らは順庵の門人である。

 b.前野良沢や杉田玄白は、オランダ語訳の解剖書を訳述して『解体新書』を刊行した。その苦心談は杉田玄白の『蘭学事始』に記されている。」

(答:ア)〉


〈2013早大・文

 土地制度のなかで荘園が大きな位置を占める時代にあっては、関係文書の存在が重視され、基本的な権利を示す文書は大切に保管された。この伝統は、荘園制が完全に廃された近世においても生き続け、加賀藩主前田綱紀は、京都の寺院に伝えられた荘園関係を中心とする古文書を、多数の上質な木箱を寄進して分類・保存させた。これらは[ C ]百合文書と呼ばれ、荘園や[ A ]を研究する上で重要な史料となっている。

問1 空欄Aに入る語句を漠字2字で記述解答欄紙の解答欄に記入しなさい。


問8 空欄Cに入る寺院の名称を漢字2字で記述解答欄紙の解答欄に記入しなさい。」

(答:A公領、C東寺)〉

 

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