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1709(宝永6)年 〈正徳の治始まる(~1716年)〉★

2016-11-14 | Weblog

●江戸時代(中御門 徳川家宣)
1709(宝永6)年 〈正徳の治始まる(~1716年)〉★
Arai Hakuseki becomes a key shogunal adviser; commencement of the series of reforms known as the Shotoku no Chi.

人なお苦し あら承知。
1709年    新井白石   正徳の治

1709年、6代将軍家宣の侍講となった朱子学者の新井白石は、続く7代家継にも仕え、側用人の間部詮房と協力して正徳の治とよばれる文治政治を展開。閑院宮家創設や、朝鮮通信使の待遇を簡素化するなど、将軍の権威を高めると同時に経費の軽減もはかった。しかし、幕府が直面しつつあった財政危機には根本的な対策を欠き、8代将軍吉宗の登場で、詮房とともに退任した。


《新井白石の著書》

木下順庵に学んだ朱子学者の新井白石には多くの著書があり、その内容と主に覚えておく必要がある。
大名の系譜と伝記を集録した『藩翰譜』、西洋事情について記した『西洋記聞』、自伝の『折たく柴の記』、古代史についての『古代史通』、シドッチを尋問して著した『采蘭異言』、徳川幕府の正当性を主張した『読史余論』(「とく」➡「徳川」)などである。


白石おりこう、才で説く。
新井白石 『藩翰譜』 『西洋記聞』 『折たく柴の記』 『古代史通』 『采蘭異言』 『読史余論』

 

[ポイント]
1.正徳の治は、家宣家継代の1709年に、新井白石間部詮房が開始した。

[解説]
1.正徳の治(1709~16)とは、6代家宣(綱吉の養子)・7代家継(家宣の子)時代に侍講(将軍に講義する職。白石のように政治顧問とされる場合も多い)で朱子学者の新井白石と側用人の間部詮房が実施した幕政改革。

 

2.綱吉の死後、6代将軍徳川家宣(1662~1712)は生類憐みの令をただちに廃止し、柳沢吉保を退けて儒学の師で朱子学者の新井白石(1657~1725)と側用人間部詮房(1666~1720)を信任して、政治の一新(正徳の治)をはかったが、わずか3年後に死去した。

 

3.その後を継いだ家宣の子家継(1709~16)はわずか3歳の将軍になったため、引き続き新井白石が中心となって正徳の治をすすめた。

 

〈2016関西学院大学・全学部

 次の文章について、a・bともに正しい場合はアを、aが正しくbが誤りの場合はイを、aが誤りでbが正しい場合はウを、a・bともに誤りの場合はエをマークしなさい。

8a.朱子学者の木下順庵は、加賀の前田綱紀に招かれた。新井白石や室鳩巣らは順庵の門人である。

 b.前野良沢や杉田玄白は、オランダ語訳の解剖書を訳述して『解体新書』を刊行した。その苦心談は杉田玄白の『蘭学事始』に記されている。」

(答:ア)〉


 

〈2015関西学院大・文法商人間

B.江戸時代には、老中に将軍の命令を伝達する役割を担う側用人が、幕府政治において大きな役割を担うことがあった。たとえば、徳川綱吉将軍期にはf大老堀田正俊暗殺ののち、g柳沢吉保が側用人に任ぜられ重用された。また、徳川家宣・家継将軍期には、[ h ]が側用人として実権を握った。i徳川吉宗は側用人政治を嫌ったが、徳川家重将軍期には大岡忠光、徳川家治将軍期にはj田沼意次(のちに老中となる)が、徳川家斉将軍期には水野忠成が、それぞれ側用人として幕府政治に強い影響力を持った。

 

 6.下線部fの大老堀田正俊暗殺事件以前に起きた出来事を下記より選びなさい。

 ア 公事方御定書の制定
 イ.閑院宮家の創設

 ウ.目安箱の設置
 エ.シャクシャインの乱


7.下線部gの人物柳沢吉保が幕府の実権を握っていた時期に起きた出来事として、誤っているものを下記より選びなさい。


 ア.赤徳藩主浅野長矩が、江戸城内で高家吉良義央に新りつけた。

 イ.朝鮮通信使の待遇を簡素化した。
 ウ、湯島聖堂が建てられた。
 エ、富士山が噴火を起こし、武蔵・相模・駿河などに大きな被害をもたらした。

8 空欄hに入る人名として、正しいものを下記より選びなさい.


 ア.間部詮房 イ.田中丘隅
 ウ.村田清風 エ.新井白石


9.下線部iの人物徳川吉宗の政策に関する説明として、正しいものを下記より選びなさい。


 ア.倹約を奨励し、困窮する武士の救済を目的に棄損令を発した。

 イ.朱子学以外の学問を幕府の学問所で講じることを禁じた。
 ウ.新田開発を奨励して米の増産を図り、上昇傾向にあった米価を抑えようとした。
 エ.大岡忠相など、有能な人物であると認めた者を積極的に登用した。

10 下線部jの人物田沼意次の政策に関する説明として、正しいものを下記より選びなさい。


 ア 経済の活性化のため、株仲間を禁止した。

 イ.民間の経済活勤の活性化と冥加・運上の増収によって財政の立て直しを図った。
 ウ.積極的な新田開発が功を奏し、彼の老中在任中に百姓―揆や打ちこわしは生じなかった。
 エ.金銀の海外への流出を警戒し、対外貿易には消極的であった。」

(答:6エ、7イ、8ア、9エ、10イ)〉

 

〈2013慶大・文

 第6代将軍の( B )により廃止され、新井白石らが政治の刷新を図った。」

(答:徳川家宣)〉

〈2012学習院大・経済

 6代将軍は、綱吉の実子ではなく甥の甲府藩主綱豊が継いだ。6代将軍は生類憐みの令を停止し、綱吉の側近で権勢をふるってきた[ 10 ]を退け、儒者の新井白石や側用人の[ 11 ]を信任して政治刷新をはかろうとしたが、在位3年余りで死去した。後を継いだのがその子[ 12 ]で、この7代将軍は当時3歳2ヵ月の幼児で、これまた新井白石らに依存せざるを得なかった。]

 

(答:10柳沢吉保、11間部詮房、12家継)

〈2011近畿大・法済営など

 彼は1657年に生まれた。祖父は関ケ原の戦いで牢人となった武士で、父は諸国を遍歴の末、譜代大名の土屋利直に仕えた。彼も父とともに土屋利直に仕えるが、利直の没後、藩内の政争のために、1677年、父とともに土屋家を追われ、牢人となった。この間に、京都の角倉家や、江戸の河村瑞賢から養子縁組を申し込まれたが、断っている。 1682年には、将軍徳川[ ア ]が大老に任じた堀田正俊に仕えるようになるが、堀田正俊が殺されたのち、1691年に再び牢人となった。
 青年時代に中江藤樹の書を読んで以来、儒学を志し、1686年から木下順庵に入門し、高弟となった。1693年には、順庵の推薦で、徳川綱豊、のちの徳川[ イ ]の儒学の師となり、[ イ ]が将軍となると、側用人の間部詮房とともに幕政に携わった。純粋な性格で不正を憎み、政治上でも自分の信念を貫こうとした。

 徳川[ イ ]没後も、幼い将軍[ ウ ]を補佐して政治をおこなったが、1716年、徳川[ エ ]が将軍となると、政治上の地位を失い、晩年は学問的な書物を著すことに力を注いだ。

 師の順庵と同じく、[ 1 ]の儒学者であるが、師の学風を継承するのみならず、現実的・政治的な関心に基づいて、歴史や地理など実証的な学問の分野に多くの業績を残した。 1725年没。

 

 問1 空欄[ 1 ]に入れる語句として最も適当なものはどれか。次のうち一つをえらべ。

 1古文辞学派 2古学派

 3朱子学派  4陽明学派

問2 空欄[ア・イ]に入れる人名の組み合わせとして最も適当なものはどれか。次のうち一つをえらべ。


 1ア綱吉、イ家網 2ア家綱、イ綱吉

 3ア綱吉、イ家宣 4ア家宣、イ綱吉

問3 空欄[ウ・エ]に入れる人名の組み合わせとして最も適当なものはどれか。次のうち一つを選べ。


  1ウ家重、エ家継  2ウ家継、エ吉宗

  3ウ吉宗、エ家継  4ウ家重、エ吉宗」

(答:問1→3、問2→3、問3→2)〉

 

介護姦淫超簡素。

市新例・正徳小判)(院宮家(かんいんのみやけ)・通信使待遇素化)


[ポイント]

1.正徳の治の主な政策は、国書表記を日本国王に変更させ、閑院宮家の創設、朝鮮通信使の待遇簡素化海舶互市新例制定、正徳小判の発行の5件。

[解説]

1.綱吉時代の生類憐れみの令を廃止し、やがて勘定奉行荻原重秀を罷免した。

2.短命・幼児の将軍が続くなか、白石は将軍個人の人格よりも将軍職の地位とその権威を高めるために、将軍家継と2歳の皇女との婚約をまとめ、閑院宮家を創設し、天皇家との結びつきを強めた。これは、万一の皇統断絶を防ぐため3親王家(伏見有栖川)に加え4親王家としたもの。また一目で序列が明瞭になるよう衣服の制度を整えて、家格や身分の秩序を重視した。


3.朝鮮の通信使家宣の将軍就任の慶賀を目的に派遣された際、これまでの使節待遇が丁重にすぎたとして簡素にし、さらに朝鮮から日本宛の国書にそれまで「日本国大君殿下」と記されていたのを、「大君」が「国王」より低い意味をもつことをきらって将軍呼称を「日本国王」と改めさせ、一国を代表する権力者としての将軍の地位を明確にした。ただし、祖法遵守から8代吉宗以降は再び、「大君」に戻している。


4.白石は、金の含有率を下げた元禄小判を改め、以前の慶長小判と同率(84%)の正徳小判を鋳造させて、物価の騰貴をおさえようとした。しかし、再度の貨幣交換はかえって社会に混乱を引きおこした。


5.長崎貿易で、これまで多くの金銀が流出したので、これを防ぐために1715(正徳5)海舶互市新例(長崎新令・正徳新令)を発して貿易額を制限した。


〈2016同志社大・全学部

【設問エ】新井白石の行なった政策として正しいものを次のうちから1つ選べ。

 1.湯島聖堂を建立し、林鳳岡を大学頭に任じて重用した。

 2.将軍職の権威を高めるために、将軍家継と皇女との婚約をまとめた。
 3.間部詮房とともに「天和の治」を主導した。
 4.長崎貿易を拡大し、銀による支払額を増大させた。」

(答:エ2 ※1×綱吉の政策、3×「天和の治」は綱吉初期の善政をさす、4×銀支払いを制限)〉


〈2016早大・文化構想

4 下線c新井白石にかかわる記述として、誤っているものはどれか。1つ選べ。

 ア 将軍徳川綱吉・家宣のもとで幕府の政治にたずさわった。

 イ 将軍個人の人格よりも、儀式・典礼を重視する政治をすすめた。
 ウ 朝鮮通信使の待遇の簡素化をはかった。
 エ イタリア人宣教師に対する訊問をもとに『西洋紀聞』を著した。
 オ 『読史余論』で貴族政治の衰退と武家政権の推移を記述した。」

(答:ア×綱吉・家宣→家宣・家継)


〈2013早大・政経

【史料】(3)「政談」
 さようになりたる世のありさまをばその儘に仕置きて)7.当時金銀ばかりを半減になしたる故に、世界半身代になりて、金銀引はりたらず、依て世界の困究したる事明か也。

問 下線部7の改策について正しいものはどれか。


 a 新井白石の建言に基づいて第5代将軍の治世に実施された。

 b 第8代将軍もこの政策を継承し、没年まで変更しなかった。
 c 金貨、銀貨の金銀含有率は著しく低下した。
 d 幕末まで、同様の政策がしばしば繰り返された。
 e 激しい物価下落をもたらした。」

(答:e.〇貨幣量を減らすデフレーション政策だったから ※a×第5代→第6代、b・c・d×白石以後には、含有率を高める政策は行われなかった)〉

 

〈2012学習院大・経済

 6代将軍は、綱吉の実子ではなく甥の甲府藩主綱豊が継いだ。6代将軍は生類憐みの令を停止し、綱吉の側近で権勢をふるってきた[ 10 ]を退け、儒者の新井白石や側用人の[ 11 ]を信任して政治刷新をはかろうとしたが、在位3年余りで死去した。後を継いだのがその子[ 12 ]で、この7代将軍は当時3歳2ヵ月の幼児で、これまた新井白石らに依存せざるを得なかった。

 新井白石は、短命と幼児の6・7代将軍の下で、いかにして将軍権威を高めるかに腐心した。霊元天皇の第13番目の皇女と7代将軍との婚約は、天皇の権威を用いて将軍権威を高めようとした事例である。そのほかに、当時3家しかなかった宮家では、将軍家同様に天皇家の跡継ぎに困ることになろうと、新たに[ 13 ]家を特別に設立した。その後、14.この新宮家から天皇を継いだ例があり、効果を発揮した。


 新井白石は学者としても著名で、自伝『折たく柴の記』を著したほかに、ヨハン・シドッチからの聞きとりによって『采覧異言』や『[ 15 ]』を著述した。


(10)[ 10 ]にあてはまる人名を記しなさい.


(11)[ 11 ]にあてはまる人名を記しなさい.


(12)[ 12 ]にあてはまる人名を記しなさい.


(13)[ 13 ]にあてはまる宮家名を記しなさい.


(14)下線部14に関して、この例にあたる天皇名を記しなさい。このことが尊号事件の原因を作ることになった。


(15)にあてはまる書名を記しなさい。


(答:問10柳沢吉保、問11間部詮房、問12徳川家継、問13閑院宮、問14光格天皇、問1.西洋紀聞)〉


〈2012明大・法:「

 18世紀に入り、[ 4 ]は、朝鮮使節の待遇を簡素化したほか、朝鮮の国書における「日本国大君殿下」という将軍の呼称を「日本国王」にあらためさせ、将軍が一国を代表する権力者として位置づけられることを明確にした。しかしその後、[ 5 ]の治世以降は、もとの「大君」という呼称に戻った。

〔語群〕

 A.新井白石 B.田沼意次 C.徳川家重
 D.徳川家斉 E.徳川家治 F.徳川家茂
 G.徳川家慶 H.徳川綱吉 Ⅰ.徳川慶喜
 J.徳川吉宗 K.松平定信 L.水野忠邦」

 

(答:4A、5J)〉

〈2012立大・経済法異文化コミ:「

 これ(新井白石の建議)によって行われた政策でないのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.株仲間を公認した。

 b.正徳小判を鋳造させた。
 c.朝鮮通信使の使節の待遇を簡素化した。
 d.長崎新令を発して貿易額を制限した」

(答:a)〉



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