
幕末の志士、長州藩士。字は暢夫(ちょうふ)。
松下村塾で吉田松陰に学び、久坂玄瑞と並び称される。
1862年、上海に渡り海外状況を見聞し、帰国後久坂らと品川御殿山の公使館を焼打ちし、また藩論の航海遠略策を批判した。
‘63年、長州藩の外国船砲撃直後の武備強化で奇兵隊を組織。
翌64(元治元)年の四国連合艦隊下関砲撃事件では、藩の正使として講和に応じた。
幕府の征長軍組織化にともなって藩の保守派が実権を握ると一時脱藩し、同年末から翌65(慶応元)年にかけて諸隊を率いて下関で長州征伐に降伏謝罪した藩当局に反して功山寺に挙兵。
保守派を倒し、藩論を「尊王倒幕」にまとめる指導的役割をなした。
66年の第2次長州征伐でも奇兵隊を率いて九州小倉の幕府軍を撃退するなどの活躍をしたが、翌年大政奉還の半年前、27歳で病死した。
▼奇兵隊
▼功山寺挙兵の銅像
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