小石川富坂上の伝通院は、無量山傳通院壽經寺という
徳川家の菩提寺としても有名な古刹です。
(伝通院)
開山は室町時代の応永二十二(1415)年で、
当初は現在より北西に500mほどの場所に創建されました。
慶長七(1602)年に家康公の生母である於大の方が京の伏見で亡くなると
遺骸を江戸へ運び大塚で火葬の上、遺骨を小石川の墓地に埋葬し
そこへ寿経寺を新たに移転させ、於大の方の法名である伝通院殿をもって
この寺の院号とし、増上寺、寛永寺と並ぶ、徳川家菩提寺としました。
幕末には、新選組の前身である浪士組結成の地として、
また彰義隊結成のきっかけとなった地としても知られています。
明治二十五(1892)年には、牛島の感応寺(関東大震災後に世田谷に移転)住職
輪島聞声法尼が、境内に女子教育の学校として淑徳女学校を開設します。
現在も伝通院の傍に建つ淑徳SC中等部・高等部(学校法人淑徳学園)と
板橋区に本部を持つ、幼稚園から大学まで設置する学校法人大乗淑徳学園の
ルーツとなっています。
(現在の感應寺)
徳川家の菩提寺としても有名な古刹です。
(伝通院)
開山は室町時代の応永二十二(1415)年で、
当初は現在より北西に500mほどの場所に創建されました。
慶長七(1602)年に家康公の生母である於大の方が京の伏見で亡くなると
遺骸を江戸へ運び大塚で火葬の上、遺骨を小石川の墓地に埋葬し
そこへ寿経寺を新たに移転させ、於大の方の法名である伝通院殿をもって
この寺の院号とし、増上寺、寛永寺と並ぶ、徳川家菩提寺としました。
幕末には、新選組の前身である浪士組結成の地として、
また彰義隊結成のきっかけとなった地としても知られています。
明治二十五(1892)年には、牛島の感応寺(関東大震災後に世田谷に移転)住職
輪島聞声法尼が、境内に女子教育の学校として淑徳女学校を開設します。
現在も伝通院の傍に建つ淑徳SC中等部・高等部(学校法人淑徳学園)と
板橋区に本部を持つ、幼稚園から大学まで設置する学校法人大乗淑徳学園の
ルーツとなっています。
(現在の感應寺)