小石川伝通院

2015年05月16日 | 東京のお散歩
小石川富坂上の伝通院は、無量山傳通院壽經寺という
徳川家の菩提寺としても有名な古刹です。

(伝通院)

開山は室町時代の応永二十二(1415)年で、
当初は現在より北西に500mほどの場所に創建されました。

慶長七(1602)年に家康公の生母である於大の方が京の伏見で亡くなると
遺骸を江戸へ運び大塚で火葬の上、遺骨を小石川の墓地に埋葬し
そこへ寿経寺を新たに移転させ、於大の方の法名である伝通院殿をもって
この寺の院号とし、増上寺、寛永寺と並ぶ、徳川家菩提寺としました。

幕末には、新選組の前身である浪士組結成の地として、
また彰義隊結成のきっかけとなった地としても知られています。

明治二十五(1892)年には、牛島の感応寺(関東大震災後に世田谷に移転)住職
輪島聞声法尼が、境内に女子教育の学校として淑徳女学校を開設します。
現在も伝通院の傍に建つ淑徳SC中等部・高等部(学校法人淑徳学園)と
板橋区に本部を持つ、幼稚園から大学まで設置する学校法人大乗淑徳学園の
ルーツとなっています。

(現在の感應寺)
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西新井大師

2015年05月15日 | 東京のお散歩
西新井大師は、五智山遍照院總持寺という、真言宗豊山派の寺院です。



弘法大師空海が、この地を巡った際に観音菩薩の霊託を受け
十一面観音像を彫り、寺を建てたことが縁起とされ
空海がもたらした井戸が境内の西側にあることから
西新井と名付けられました。

空海が刻した観音像は、現在でも本尊として祀られています。(秘仏)
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浅草寺伝法院

2015年05月14日 | 東京のお散歩
浅草の観音様こと金龍山浅草寺は、雷門や本堂、宝蔵門や五重塔は有名ですが
お寺の本坊(貫首の御居間のある坊)となる伝法院は、
一般公開されていないためにあまり知られていません。

(伝法院庭園)

伝法院には、安土桃山時代から江戸時代初期の大名で、
造園の名人と云われる小堀政一(小堀遠州)の作事による庭園が遺されています。
元禄年間以降は、輪王寺宮家の直轄として、秘園となったため、当初の趣を多分に遺しています。

(庭園と五重塔)

客殿は、安永六(1777)年の建築で、庭園より後に作られました。

(客殿とスカイツリー)

客殿内には、徳川家将軍のうち11名の位牌や、
浅草寺の各世代住職の位牌が安置されています。

(浅草寺と僧侶たち)
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回向院

2015年05月13日 | 
本所と小塚原にある回向院は、浄土宗の寺院で
本所が諸宗山無縁寺回向院、小塚原が豊國山回向院という浄土宗の寺院です。

小塚原、すなわち南千住駅前の回向院は、元は本所の両国駅前の回向院の別院で
現在では独立しています。

(本所回向院)

本所回向院では、天明元(1781)年以降、境内で勧進相撲が興行され
これが後に両国国技館(初代)建設に繋がる、いわば大相撲発祥の地でもあります。

(国技館跡標)

また、門前では文政七(1824)年に小泉與兵衛が、華屋の屋号で鮨店を操業します。
これは現在の握り寿司の発祥とも言われています。

(与兵衛鮨発祥の跡は、電柱にも案内が)

小塚原の回向院は、小塚原刑場での刑死者供養を行うために創建されました。
明和八(1771)年に、杉田玄白や中川淳庵、前野良澤らが
腑分けに立ち会ったことから、日本における解剖学発祥の地とも言える場所です。

(小塚原回向院)
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雑司が谷鬼子母神

2015年05月12日 | 
雑司が谷の鬼子母神は、威光山法明寺という日蓮宗の寺院で
弘仁元(西暦810)年に威光寺として創建されたのが
寺の由緒とされています。

(鬼子母神堂境内)

鬼子母神堂は、法明寺の飛地境内にあって、永禄四(1561)年に
目白台の井戸から鬼子母神像を掘り出し、 法明寺内に祀ったことが
鬼子母神堂の起源と言われています。

現在の社殿は寛文四(1664)年建立で、東京都の文化財にも指定されています。

(御会式)
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入谷鬼子母神

2015年05月11日 | 
恐れ入谷の鬼子母神、びっくり下谷の広徳寺、情け有馬の水天宮、なんだ神田の大明神…。

地口でおなじみの入谷鬼子母神は、万治二(1659)年創建の
佛立山眞源寺という法華宗寺院です。



鬼子母神の「鬼」の字は、正式には「ツノ」がありません。
これは、子を食らう鬼であった鬼子母神が、仏の教えによって
(鬼子母神の子を隠し、子を失う悲しみをおぼえさせた)
鬼から子を守る神へ変身させたことによります。

雑司が谷鬼子母神は、初冬の御会式が有名ですが
入谷鬼子母神は、夏の風物詩、朝顔市で知られています。


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池上本門寺

2015年05月10日 | 
日蓮宗大本山のひとつ、長榮山大國院本門寺は、
弘安五(1282)年に病気治療のため身延山を出て、常陸へ向かった日蓮が
その途上、武士の池上宗仲の館に立ち寄り、結果的にこの地において
日蓮は人生最期の余日を過ごすことになります。



日蓮は、池上氏の館の背後の山上に作られた堂の供養をし、
長榮山本門寺と命名しました。

日蓮がこの地で遷化したのちに、その弟子である日朗が堂を継承し
以後七百年以上にわたって、栄えることになります。

現在は、日蓮の法要にあたる御会式などでも有名で
門徒以外にも多くの観光客を集める寺院として知られています。

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神田祭

2015年05月09日 | 


江戸の三大祭りの一つ、神田祭。
起源は家康公の戦勝祈願と言われています。
元来の祭礼の日である9月15日は、この戦勝祈願によって
家康公が天下統一を成し遂げた日とされています。

(神田明神)

江戸時代には山車が江戸城内まで渡御し、将軍が上覧し、天下祭とも言われましたが、
明治以降都市の電化で電線が増えるとともに山車の数はどんどん減っていきました。

(山車)

今年は隔年毎の大祭の歳で、なおかつ現在の場所へ遷座してから四百年ということで
大々的に祭りが行われます。



神田祭りが終わると、江戸の街に夏がやってきます。

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九品仏と等々力渓谷

2015年05月08日 | 
東急大井町線。
九品仏駅は、ホームが踏切に挟まれているために
二子玉川方1両のドア扱いができない駅として鉄オタなどに知られています。

(東急大井町線)

駅の名の由来にもなっている九品仏は、浄土宗九品山淨眞寺(浄真寺)という寺で
室町時代には吉良氏の奥沢城の曲輪でした。

(九品仏)

廃城となったのちに延宝六(1678)年に、霊岸(霊厳)寺念仏堂の僧、珂碩が
四代将軍家綱から奥沢城跡地を賜り、浄真寺を創建、
弟子とともに刻した九軀の阿弥陀如来像を安置し
これを以って九品仏と呼ばれるようになりました。

近隣には、等々力渓谷があります。
等々力渓谷は、谷沢川の河川争奪によって本流となった河川で
切り離されてしまった旧来の谷沢川は、九品仏の微高地の麓を流れる
九品仏川として残り、現在は暗渠と緑道として
名残をとどめています。

(等々力渓谷)
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ハチ、ご主人さまと再会

2015年05月07日 | 
秋田犬のハチは、毎日のように飼い主である上野英三郎博士の帰りを
共に飼われていた“ジョン”と“S”とともに渋谷駅前まで迎えに来ていました。

(渋谷駅のハチ公像)

上野博士が職場である東京帝国大学で倒れ亡くなった後も、
ハチは預けられた先から毎日のように渋谷駅前へやって来て、
二度と帰らぬ上野博士の帰りを10年近く待ち続けました。

時は軍国主義へまっしぐらの大日本帝国。
主人に忠実な犬として、忠犬ハチ公と称されるようになりました。

今年、そんな健気でご主人さまが大好きだったハチと上野博士は
上野博士の職場であった東大農学部(ただし当時とキャンパスの場所は異なる)で
再会を果たすことができました。

よかったね、ハチ。

(今年、やっと再会できた上野博士とハチ)
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巣鴨とげぬき地蔵

2015年05月06日 | 
巣鴨のとげぬき地蔵は、萬頂山高岩寺という曹洞宗の寺院で
門前の商店街も「おばあちゃんの原宿」と呼ばれるほどに
高齢者の信仰を多くあつめています。

(高岩寺と地蔵通り商店街)

開山は慶長元(1596)年で、当時は湯島に創建されましたが
後に下谷屏風坂下(上野駅、岩倉高校付近)に移り、
明治二十四(1891)年に、現在の旧中山道巣鴨に移ってきました。

(三門)

本尊の延命地蔵は秘仏で、この地蔵菩薩像をとげぬき地蔵と呼んでいます。
江戸時代に、田村又四郎という武士が、妻の病気平癒のために
霊夢に現れた地蔵菩薩のお告げに従い、地蔵の御姿を印した紙一万を
川に流し祈ったところ瀕死の妻が回復したことから
地蔵菩薩の御影を寺で配布するようになったとされています。

のちに毛利家の女中某が針を誤飲した際に、この御影を飲み
針を吐き出すことができて、その吐き出した針には御影が刺さっていたことから
とげぬき地蔵と呼ばれるようになったそうです。

四の付く日は寺のご縁日で、多くの人で賑わいます。
映画「男はつらいよ」の第一作では、寅次郎の舎弟の登(秋野太作)が
一人でバイをしているところに帰ってきた寅がやってくるシーンは
現在の洗い観音の前あたりです。

(境内)


なお当代の住職、来馬明規師は内科を専門とする医学博士でもあり
名実ともに「健康」にご利益のあるお寺なのです。

(とげぬき地蔵行きバスは、お地蔵さんのイラスト付き)
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柴又帝釈天

2015年05月05日 | 
「わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天で産湯をつかい…」
ご存知、フーテンの寅さんの口上でお馴染みの帝釈天は
經榮山題經寺(経栄山題経寺)という日蓮宗の寺院です。

(題経寺)

開山は寛永六(1629)年で、中山法華経寺の十九世、禅那院日忠と
その弟子である題経院日栄によるものとされています。

寺の奥の客殿には、邃渓園(すいけいえん)という庭園があり
内殿に施された緻密な彫刻とあわせて、題経寺の見どころのひとつとなっています。

(彫刻ギャラリー)

(庭園と客殿)

(邃渓園)

門前には、川魚の店や名物草だんごの店が立ち並び
庚申の日には縁日で賑わいます。

(高木屋や川千家などが並ぶ門前)

また、参道の入口となる京成線柴又駅前には車寅次郎の像が立ち、
渥美清氏亡き後も寅さんの人気の高さを窺わせています。

(柴又駅前)
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武蔵野御陵

2015年05月04日 | 
先帝であらせられる
畏くも昭和天皇の陵は、東京西部の八王子市に武蔵野陵として
その御父君で、文に秀でた帝であらせられた
大正天皇と、そのお后であられる貞明皇后、昭和天皇のお后であられる香淳皇后とともに祀られています。

(昭和天皇陵)

明治天皇は、帝の後遺言によって京都に陵が築かれ
その代わりに明治神宮が代々木に造営されました。

(明治神宮)

大正天皇と昭和天皇は、お産まれも東京であらせられるため
東京の武蔵野に陵を築かれたのです。

(大正天皇陵)

陵墓域は、昭和天皇が愛された武蔵野の自然がたくさんの
神聖な森となっています。
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吉祥寺

2015年05月03日 | 
吉祥寺といえば、サブカルチャーの発信地としてお馴染みの街ですが
吉祥寺の街に、吉祥寺という寺はありません。

(吉祥寺ハモニカ横丁)

吉祥寺は、駒込にある諏訪山という山号の曹洞宗寺院です。

長禄二(1458)年に、太田道灌による江戸城築城の際に
和田倉付近の井戸から、「吉祥」と刻された金印を得て
以って瑞祥として、後の西の丸にあたる諏訪神社社地に建立されたのが
この吉祥寺です。

(諏訪山吉祥寺)

家康公入府の折に神田台の本郷元町へ移転し、明暦の大火によって
現在地である駒込に再移転しました。

(神田川左岸が元町)

この時、本郷元町の吉祥寺門前町の住民などに対し
幕府御用地を代地として貸与する政策を執り、
これに応じた者たちが入植し開墾したのが、現在の吉祥寺の街なのです。
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高円寺

2015年05月02日 | 
JR中央線に新宿から乗って、中野の次が高円寺。
ねじめ正一の「高円寺純情商店街」でもお馴染みの街でもあります。

(高円寺純情商店街)

そんな高円寺の街は、名前からお察しの通り
高円寺という寺院の門前町として開けた街なのです。

寺院としての高円寺は、宿鳳山高圓寺という曹洞宗の寺で
弘治元(1555)年の開山で、のちに德川家光ゆかりの寺となります。

(高円寺)

家光が鷹狩りの際に、必ず立ち寄ることで寺が有名になり、
当時は小澤村と称した神田川支流桃園川流域のこの付近を
家光の命によって高円寺村と呼ぶようになったそうです。

(現在の高円寺駅南口)
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