馬籠峠から 妻籠をめざして歩く。 馬籠の次のが妻籠だと思ったら大違い。峠の集落があったように この先下り谷 大妻籠 神明と続く。
亭主は 馬籠から妻籠へ向かうことに少々抵抗を示していた。 妻籠の方が標高が高いので 登っていくのはきついのでは無いか?という考えらしかった。 しかし峠からの大下りにそんな気持ちも吹っ飛んだようだった。それに本当のこというと 妻籠より馬籠の方が遙かに標高が高い。
延々と下りが続く。 石畳の道から地道から 中山道「木曽路はすべて山の中である」だ。
山の中から出てくると少し開けた所に出て 丁度宿と宿のほぼ真ん中 立場茶屋に出る。
下谷から移された一石栃番所跡がある。 明治2年まで木曽五木(ひのき サワラ あすなろ コウヤマキ ねずこ)の出荷規制のためにある番所。
木曽の番所は出女と 木曽五木をおもに取り締まっていたと聞いたことがある。
往時は7軒あった家も今では南側を切り取って小さくなったこのいえ牧野家が残っているだけ。(人が住んでいるかどうかはわからなかったけれど 綺麗に手入れされて今でも十分住めそうだった。)
番所跡を後にして石畳と地道を繰返す。車道と中山道を何度か交差して暫く車道を歩く。右手に本来の中山道があるのだけれど 雄滝 女滝を見るために車道を歩く。
この雄滝女滝は吉川英治の「宮本武蔵」に武蔵とお通のロマンスの舞台として出てくる場所だそうな。NHKのドラマではここでは無かったような・・・・? 倉科様伝説もある。滝に金の鶏が舞い込んだんだって
滝は道からすぐ入ったところにある。元々はもっと高さもあったらしいのだけれど 洪水や蛇抜け(蛇が穴を通ると岩が崩れるの?)によって高さも滝壺も小さくなったのだとか 向かって左が雄滝 右が女滝 確かに高さは無いけれど 水量は豊かで 道行く人々を慰めていたに違いないことは想像できる。
中山道を歩いていると 同じ中山道でも 時代によって道がどんどん変わっていることがわかる。 今滝の上を通っている中山道も 昔は滝の下を取っていたらしい。
道は生き物だ。
追分に来て下り谷の集落に出る。 滝の伝説の主倉科様を祀った倉科祖霊社がある。
とても小さなお社。
倉科様 どんな人か知らない。松本城主小笠原貞慶の重臣だったそうだけれど 松本? ここから遠いでしょ?と思ったら従者30余名と一緒に地元の士豪達に全滅させられてしまった。その礼を弔うために建てられた物。
しかしそんな人と金の鶏どんな関係があるのだろう?金の鶏は 倉科様に吉をもたらしてはくれなかったのかな?
ここまで三つの神社を見たけれど どれもとても小さい。
子どもの頃 飛騨の山奥に暮らす祖父母を家に招待しようとすると 神社の秋祭りだから と断わられて不思議に思った。
今思えばわかるけれど。 ここでも4月3日にはお祭りがあるそうな。 暮しと結びついている信仰心。
石畳の道を更に降りて大妻籠の一里塚に出る。 ここから橋を渡っていよいよ大妻籠 この一里塚見たことあるような 南木曾へ行った通った道では無かったか? 妻籠が馬籠からずいぶん離れたところにあるのに驚いた覚えがある。
この集落もいなかの良い雰囲気がある集落。うだつがある家々。 出し梁作りの家。観光客を意識してか 濡れ縁にはディスプレーがお洒落。
大妻籠の集落をこえて 神明に至る。 ここに石柱道標がある。その場所は人家の中にあり見せてもらうのも憚られるような変なところにある。 道がどんどん変わっている証拠だね。
石柱道標 飯田街道と中山道の分岐を表わす道標はその頃の名士(松井 藤原 今井)と商人達が作った物らしい。 ずいぶん栄えていたようだ。もっとも 道標がたてられたのは明治の話。江戸じゃなくて東京って書いてある。
川のせせらぎを聞きながら里の風景を楽しむ。街道から外れた農家も良い感じ。ほっとする 懐かしい。
今日この道を歩こうと思ったのは 今日はちょっとした時代行列があることを知っていたから。 どこかの神社のお祭りらしいのだけれど 人が溢れてくる。
結局は自然の中が良いのですね?
厳しい環境の中での暮しの筈なのに 何故かほっとしてしまう光景
心が優しくなります。
東海道だと静岡の金谷あたりを思い出させますね。
秋の陽射しを浴びて山道がきれいでした。