世界一周タビスト、かじえいせいの『旅が人生の大切なことを教えてくれた』 

世界一周、2度の離婚、事業の失敗、大地震を乗り越え、コロナ禍でもしぶとく生き抜く『老春時代』の処世術

世界一周

2016年01月16日 | 100の力
世界一周を成し遂げた人は、

この世界にどれくらいいるだろうか。

かなりいるのだろうと推測する。

これから世界一周したい人もかなりの数に上るのではないだろうか。


だが、待てよ。

世界一周と軽く言うけど、

何を持って世界一周なのだろうか。

ぐるっと地球を一周すれば世界一周になるのだろうか。


否。

それに関するいろんなグループや機関があって

それぞれ定義は違う。

世界一周航空券を購入してそれに乗れば世界一周したことになるのだろうか。

否。

ピースボートに乗れば、世界一周できるのだろうか。

否。

ピースボートのポスターには、

地球一周とある。

エッ?

世界一周と地球一周とどう違うの?


最低限の定義は、

出発地点へ地球をぐるっと回って帰ってくることであることは論を待たないだろう。

では、極端な話、

北極点や南極点の廻りを一周してでも達成されることになる。


世界一周 (World circumnavigation) の定義の中には、

ある地点と、その対蹠地(地球の反対側となる地点)の両方を通るとあり、

大きな円を描く経路にだろう。

あるいは、

「全ての子午線を横切って出発地に戻る」

「五大陸全てを経由して出発地に戻る」など様々なものがある。


ギネスでは、

2006年版で人力での世界一周に関するガイドラインを発表していて、

そこで示された条件は、

距離 36,787.559 km (北回帰線の距離)以上で赤道を通り、

出発地点と完全に同じ場所に戻ってくること、とある。

なにも対蹠地を通る必要はない。


ちなみにこれがボクの世界一周ルートだ。


      出典:「地球はわが家の教室 - 子育て400日間世界一周」 (くもん出版)
         The Earth is my family's classroom.

見てのとおり、東回りを選択している。

さて、

二度目の世界一周は、西回りになる公算が強い。


一回目と違うのは、

インターネットを駆使し発信し続けること。

テロに気を付けること。

同伴者(あれば)が違うこと。


ルートを考えるだけでも。ワクワク・ドキドキ。

これがたまらない。

テロと旅

2016年01月15日 | 100の力
世界一周に出る約一か月前(1995年1月17日)、

阪神淡路大震災が起きた。

世界一周の旅に出て、ちょうど一か月後(3月20日)に地下鉄サリン事件が起きた。

ちょうどそんな時代だった。


だけど、

日本を揺るがす天災も、人災(テロ)も

当時はほとんどボクの旅に影響を与えなかった。

カサブランカで暴漢に襲われ軽傷は負ったものの

1年2か月の世界一周の旅を終え、

生きて帰って来ることができた。


2001年、9月11日、

アメリカで同時多発テロが起き、世界貿易センターはあっけなく破壊され多くの方々が犠牲になった。

それは、それから15年間、テロとの戦争が続く幕開けだった。


今日、世界各地で爆弾テロ事件が多発している。

年が明けてイスタンブール、ジャカルタと留まるところを知らない。


これから世界一周の旅に出る身としては、

かなりの不安材料となる。

ここ数件のテロの特徴としては、

外国人が集まる観光地がターゲットにされがちである。

それだけになおさら厄介である。


旅先選びにもより一層慎重を期さなければならなくなった。

日本もますます生きずらくなってきている。

世界に飛び出すのもままならない。

宇宙を目指すしかないか。


いやいや、それでもやっぱり地球は魅力的だ。

少しでも平和に貢献できるよう、

ささやかでも祈りをささげつつ、自分にできることを続けよう。

とりあえず、ビールじゃなく、

"KISS & Peace"

サバイブ

2016年01月14日 | 100の力
How are you?

あるいは How are you doing?

と聞かれて、あなたはどう答える?

Fine.

人間、いつも調子いいばかりじゃない。

Tired.

Sleepy.

Hangover.

のときもあるだろう。


先日、ドラマで、

Survive. と答えていた。

良い答えだなー、と思った。


今の自分にピッタリだ。

今度使おうと。

Still alive. (しぶとく生きてるぜ)でもいいが。


surviveを英英辞典(lomgman)でひくと、以下のように書いてある。

1 to continue to live after an accident, war, or illness:

2 to continue to live normally in spite of many problems:

3 to manage to live a normal life even though you have very little money

4 to continue to exist after a long time:

5 to continue to be successful:

6 to live longer than someone else, usually someone closely related to you:


ボクの場合、さしずめ2か3に当てはまるだろう。


ドラマの日本語字幕は、

「なんとかやってるよ」だった。


大阪弁に訳すれば、

「もうかりまっかー」

「ボチボチでんなー」

ということになろうか。


ひとは多かれ少なかれ

いろんな問題を抱えて生きている。


仕事、健康、お金、人間関係などなど。

概ねこの4つに集約され、

ほとんどの人が、1つもしくは複数の問題を抱えているだろう。


仕事も順調で、

経済的にも恵まれていて、

心身ともに健やかで、

家族や親戚、友人、知人、近所付き合い、仕事関係の人たちとも円満にやっている。


将来的にも何の不安、不満もなく暮らしている。

ストレスを全く感じない生き方。


羨ましいとは思わない。

むしろ、感情の希薄な可哀想な人と思えてならない。


実際それに近い理想(?)の暮らしを1年ほど体験したことがある。

退屈で死にそうだった。


今は反対に、トラブル続き、問題だらけ。

実際に凹んだり、落ち込んだり、七転八倒のその日ぐらし。

人生は山あり、谷ありと開き直る修行僧のような日々。。


平坦な道ばかり、同じ景色ばかりだとどうだろう。

アメリカのフリーウェイをひたすら走っているような錯覚に陥る。

あるいは、シベリア鉄道に何日も乗っているような気分。


人生はトラブルがあるから、愉快なのだ。

目標や夢には、壁が立ちはだかり簡単に叶わないから面白い。


性分として

トラブルに生き甲斐、やりがいを感じてしまう。

難儀な性分。

もちろん、苦しい。

だがそれを楽しむ術を知っているだけに厄介だ。


トラブルが快感。

トラブルメーカーのあだ名を持つ(かな?)。


生きてるだけで丸儲け。

だが、どうせ生きてるのなら、

一つでも多くの経験を味わいたい。


一つでも多くの国を訪れ、

一品でも多くの料理を食し、

一杯でも多くの酒を飲み、

一人でも多くの女、いや、人たちとかかわりを持ちたい。

もはや、Crazy life.

Stay crazy.

Yes, I'm always crazy for you!




問題は、

どう生きるかではない。

どう生き残るか。

Not how I live,

but how I survive.

ということで、

I'm still alive.

違った景色

2016年01月13日 | 100の力
こうも違うものか。


考え方を変えると、

今までの景色が違って見える。

車窓から見飽きた景色も、

歩いて見れば新鮮で全く違うものに映る。


執着していたものがなくなったり、

あるいは、変わる。


今までのこだわりは何だったのか。

重い鎧を脱いだかのような、スッキリ感。


だけど、

それもつかの間、別の鎧を纏う。


でも、今までの重厚なものとは全く違う、次世代鎧、ハイテク鎧。

軽くて爽やか、ファッショナブル、ウェアラブル(着るものだから当たり前か)。


いや、あくまでも気持ちの上での話。


新生かじとして生まれ変わる。

ただ、今産みの苦しみを味わっている。


その気にさえなれば、

現世でも人は生まれ変われる。

生まれ変わるのに、遅いということはない。

気づいた時がいつも出発点。

変化するのが、人生。


重い気分と軽やかなそれがあざなえる縄のように交錯する。

これも又人生と訳知り顔で受け流す。

人生は面白い。

だから、辞められない。


うじうじ、くよくよは一時のこと。

さあ、思いっきり泣いた後は気分もさわやか。

心機一転、夢に向かって元気出していこう!


それに、

<独りじゃない 共に陶酔しよう

さあ この熱狂に身をまかせよう>(デビッド・ボウイ)

一つのスタイルに安住せず、常に新しさを追求する。



夢は逃げない。

逃げるのはいつも自分。

だけど、ボクは逃げない。

自業自得

2016年01月12日 | 100の力
ブログが書けない。

こんな時がある。

5年間、毎日欠かさず更新中。

歯を磨くのと同じ習慣敵感覚。


下書きは10件以上あるというのに。

そう軽率にはアップできない。

一応、自分なりのモットーがある。


個人的な誹謗中傷はしない。

ネガティブな内容に終始しない。

三要素を織り込む。

三要素とは、「愛」と「教え」と「ユーモア」。


このところ、

立て続けに悪いと思われることが次から次に(one after another)起きている。

追い打ちをかける(in addition)ように周りからもボロクソ言われる。

これでは、さすがのボクも凹む。


この精神状態では、

勢い、書く内容がどうしてもネガティブ一色になる。

これじゃあ、アップする気にもならない。(趣旨に反する)

それでなくても、

ネガティブな言葉が飛び交うとげとげしい時代なのだから。


それで敢えて何とかポジティブに考えようとする。

こじつけでも何でもいい。

実は、今起きていることは良いことなんだと。

心に刷り込む。

そうして自分で自分を鼓舞してきた。



分かっているんです。

自分が悪いのが。


因果応報という言葉がある。

出る結果には、必ず原因がある。


何事も、自分で蒔いた種から発芽する。


悪いと思える結果が出れば、

悪いことをした証拠。


ここは開き直ってありとあらゆる膿を出しつくそう。

浄化して、またやり直せばいい。


その余力の灯りは消していない。

目指すゴールも見失っていない。



【追記】

凹むことは決して悪いことじゃない。

凹まないように頑張るほうが、

疲れてしまいにやる気さえ無くしてしまう危険性がある。


凹むときは思いっきり、凹む。

今はジャンプ前にしゃがむのと同じ。

そのまま尻餅着かないように気を付けよう。

耐える。

忍ぶ。

温存する。

次の戦いに向けて。

再起可能

2016年01月11日 | 100の力
苦境のどん底にあると

何をやってもダメだと思うようになる。

時には絶望の淵に追いやられる。


しかし、

自暴自棄にならず、

直面している現実の問題に真っ向から真摯に対応することさえ諦めなければ、

問題は解決し、あるいは終焉し、

必ず新たな展望と展開が開けてくる。


ボクの知人に

事業失敗、離婚、自己破産、生活保護という4重の苦しみの最中にいる人がいた。

ポケットには260円しか入ってなかったそうだ。

当然精神を病むギリギリのところの立たされていた。


ボクはできる限りのことをした。

そして今、

彼は立派に立ち直り、

仕事も見つけ、素晴らしい実績を上げている。

新たなパートナーと再婚の道も模索しているという。


彼からは、勇気をもらっている。

今、自分が同じような立場に立たされ、

自暴自棄に陥らないでいられるのも彼のケースを身近に見ているからかもしれない。


人は、どん底に落とされ地獄を見たとき、

信じられないくらいのパワーが出るものだ。

諦めなければの話だが。


一方、

自暴自棄になって、無責任にすべてを投げやって逃げる人間もいる。

こちらは、おかげでとばっちりを受け、

窮地に追い込まれ、金銭面も含め後処理等対応を迫られているのだが。


自分自身が自暴自棄にならないように

前者のような再起を図らなければならない。


他山の石として(Learn from others' mistakes.)自暴自棄にならず、しぶとくことに臨めば何とかなる。

自分を見捨てないこと。

望みを持つこと。


幸い、その渦中にあっても、、

愛し、愛してくれる人のお陰で、

小さな幸せを見つけ紡いでいくことができる。


自望時機。

望みをもってその時が来るのを待つ。

ある意味、時が解決してくれる。


今は、そのための手続きを粛々と進めていくのみである。

馬と荒女

2016年01月10日 | 100の力
「荒馬と女」という映画があった。

マリリンモンローだ。


荒女(?)にはおとなしい馬がよく似合う。



というわけで、馬と戯れに。


アニマルセラピー、とりわけホースセラピーは効果抜群だ。

馬の円らで優しい瞳には癒される。


馬と約10年間暮らした。

乗るだけでなく、生活の中に溶け込むと犬・ネコ以上にその繊細さに心が和む。

その間、自閉症、ダウン症の人たちと関わってきた。

今は、ウツや、アスペルガー、ADHDと言った人たちに効果的だ。

障がい者にかかわらず、

馬に接する機会を増やすことで、精神的安定が得られる。

疲れたな、って思ったら、馬と接してみよう。

強制終了 forced termination

2016年01月09日 | 100の力
呪縛から解放された。

がんじがらめにされていたものから、

一気に解き放たれた格好だ。

真の自由を得た。


爽快感が漂う。

と同時に、虚無感に襲われる。


これはいったい何なのか。

これまで、ボクを縛っていたものをさほど意識はしていなかった。

なぜなら、それが当たり前だと思っていたから。

いや、そう思おうと無理やり思い込ませていた節もある。

あるいは、

いつの間にか、縛られてることにさえ気づかないほど鈍感になっていたのかもしれない。。



そして、あるとき、

それは強制終了させられてしまった。

有無を言わさず。

まったく予告もなく。

まるで、舞台の上で演技をしている途中、

勝手に幕が下りてしまったかのように。


「終わったんだ」と気づくのに時間がかかった。

長年血のにじむような稽古を積みかねてきたというのに。

幕が開いて、さあこれから佳境に入ろうかというときに、

いきなり強制終了(forced termination)させらてしまった。


それはあまりに唐突だった。

観客とも隔絶させられた。

舞台の上を見渡せば、今までいた共演者の姿もない。

いつの間に消えたのだろう。


急激に孤独感が襲ってきた。

それは、虚脱感と寂寥感を引き連れていてジワリと忍び寄る。


何が起きたのかさえ判断できないでいた。

ただ、「終わったんだ」という安堵感もフワッとどこかに感じた。

もう、あの繰り返し繰り返し行った血のにじむような稽古も、

失敗しては涙を流したリハーサルも必要なくなったのだ、と。


ただ、悔しかった。

なぜ、最後まで演技をさせてくれなかったのか。

なぜ最後まで踊らせてくれなかったのか。


何のための稽古、リハーサル?

一気に悔し涙があふれてきた。

そして自分の不甲斐なさ、自己嫌悪がそれにとってかわった。

挫折感もボクの胸を刺した。


しばしの戸惑いのあと、

冷静になって辺りを見渡せば、散乱した舞台装置が饗宴の面影を物語っている。

後片付けをしなければ。

拾い集めながら、一つ一つの思い出に浸り手が止まる。

再び悔し涙があふれてくる。


誰もいない舞台。

みんなで作った大道具、小道具の数々。

それが今廃墟のように覆いかぶさる。


その時だった。

舞台の袖に佇む影を見つけた。

ゆっくりとボクに歩み寄る。

ボクも吸い寄せられるようにその影に近づく。


その瞬間、スポットライトが降りてきた。

その姿は、

まるで浮かび上がる天女の様だった。



天女はそっとボクを抱きしめ、

純白の衣で冷え切った身体を包んでくれた。


この時分かった。

アー、この人と演技を続けようと。


それは舞台を一から作り直すことを意味している。

スクリプトも書き直そう。

ボクは再び新たな振りを思い浮かべた。

ボクを取り巻いていた空気が、今までと違うリズムを奏でだした。


天女は、それを優し眼差しで見守ってくれている。


さあ、立ち上がろう。

新しい幕が開くのだ。

涙をぬぐい、笑顔でこれからくる観客にとびっきりの演技を披露しなければならない。

天女と共に。



【追記】


人生は廻り舞台の上の演技に過ぎない。

その舞台も、振りも、スクリプトも、キャストも、衣装も、照明も、音響も

人に頼むより、自分で作ったほうが格段面白い。