来るべき年への決意をこめて~新聞を読む
櫻井智志
「東京新聞フォロワーズ」
【社説】
大晦日に考える 不安あり希望もあり
2014年12月31日
今年も一年が終わります。さまざまに振り返ることのうち、不安を一つ、希望を一つ、挙げてみましょう。それぞれ来年も考えたいことだからです。
その不安とは格差です。
大学教授や経済評論家の中には格差をまるで先進国病のようにいう人もいますが、格差の当事者にはそれどころではありません。
思い出されるのは、長いひげを蓄え、リュックを背負い、困っている人たちの元に駆けつけた経済学者宇沢弘文さんです。
九月、肺炎のため、八十六歳で亡くなられました。
◆思い返す宇沢経済学
経済学は人間のためにあれ、と唱え続け、バチカンのヨハネ・パウロ二世から知恵を求められたのは有名な話です。
亡くなられる少し前、社説で取り上げたことがあります。
サッカー・ワールドカップで沸き立つ一方、経済格差が問題になったブラジルをとり上げた社説(週のはじめに考える「ブラジルからの警告」6月29日)の中でした。
今の日本が求めるべき思考の一つとは、宇沢経済学なのではないでしょうか。
それは、ごく短く言えばこんなふうです。
資本主義はお金ばかりを考えるが、実際にはお金以外に社会で共有している価値(たとえば水や空気、教育、医療など)も含めて考えなくてはならない。工場が水や空気を汚すのなら汚した分もきちんと支払え、ということです。
お金だけでなく、人間という要素を含めた社会全体を考えよ、ということです。
高度成長時代にそう唱える学者は少数でした。温暖化に対してはいち早く炭素税を唱え、持続可能性という今ではよく聞く文明観をもった人でした。
◆大恐慌はやってきた
資本主義が時々“暴走”することは歴史の教えるところです。
宇沢さんの敬愛した学者の一人にアメリカの経済学者ソースタイン・ヴェブレンがいます。
彼は東部の金持ちの見せびらかすための消費を分析して「有閑階級の理論」(一八九九年)という本を書きました。有閑階級は誇示的消費をし、企業者は営利欲に支配され、労働階級は細分・等量化された作業により思考習慣を規格化されてしまう。そのゆえに企業はやがて衰退するだろう。
そういう景気循環論を発表したら、本当に大恐慌がやってきて、皆驚いたわけです。
経済学に人間という要素を入れよ、と説くのは、宇沢さんと同じです。格差拡大はやがて社会の衰退を招くというのは、宇沢経済学の繰り返し発していた警告といってもいいでしょう。
アベノミクスはサッチャリズムによく比べられます。雑貨商の働き者の娘、サッチャー首相は当初の人気とは裏腹に、その刻苦勉励の信条が優勝劣敗の市場競争信奉者に転じたと思われた時、人心は離れていったのです。
次に希望を述べましょう。
日本人三人がノーベル物理学賞を受賞しました。青色発光ダイオード(LED)の発明です。
私たちの社説は、いつもは二本のところを一本に大型化して「ものづくりの喜びよ」(10月8日)と題しました。
ものづくり、と掲げたのは授賞理由もいうようにその技術が世界で実用化されているからです。人に役立つものをつくったという三人の喜びはつまり私たちの共有すべき喜びでもあったからです。
ノーベル賞の創設者アルフレド・ノーベルはニトログリセリン工場の爆発で弟を失いました。そこでニトロを扱いやすくしたダイナマイト発明へと向かうのです。賞について「千のアイデアのうち一つでもものになれば満足だ」と述べたそうです。
つまり人の役に立つものをつくろう、ということです。ものづくりです。
青色LEDはその責任を果たしつつあり、まさにノーベルの望むものだったと思います。エジソンの白熱電球にせよ、実は先に英国の物理学者が紙のフィラメントで短時間の発光を成功させていますが、エジソンは数え切れないほどの失敗の末、炭化フィラメントで長時間輝かせたのです。時に三十二歳でした。
◆権威よりも汗と熱意
青色LEDを生んだ名古屋大学は旧帝大中、最後の創立であり、自由の気風に今も富んでいるといわれます。研究を進展させたのは、四国の企業でした。
権威や中央と無縁のところで世界的な発明は生まれた。成し遂げたのはひたすらの努力と熱意であり、支える人たちもいた。そこに希望の芽は見えませんか。不安の時代でも希望は必ずあるのです。
==============================
私見
社説で言う「宇沢経済学」とは、マルクス経済学か近代経済学か、というようなニュアンスではない。経済の対象としてこなかった空気や環境や自然やそういうものを学問の対象としてしっかり把握して考えていかなければいけないという意味合いであろう。
『自動車の社会的費用』など宇沢弘文氏は自らが近経とレッテルはりされるその枠組みを乗り越えて、増大するクルマ社会のマクロな分析対象として自動車をとらおなおした。
私はマルクス経済学が一般的な経済学よりも根本的であるという価値判断はもっている。けれど、「マルクス経済学」学を志向して現実の実践的分析やアプローチを欠陥した左翼を、リアリズムに徹した厳密な研究者よりも優先されるとは思わない。
そして、誠実な科学的実践的な唯物論になりたつ学者たちはそこにむけて研究していると信ずる。多くの国民にそのことを啓蒙すべきだ。戦前に唯物論研究会を組織してリードした哲学者戸坂潤は、「ブロレタリア・ジャーナリズム」の意義を唱えた。まさか現在日本のように大手マスコミが軒並み体制にひきずられているさまは、戦後の再出発時に想像だにできなかったに違いない。
あらゆる先入観や偏見を脱して、目前に在る問題を解決するために、名も無き庶民が自ら問うこと。それが現代的大衆的な学問のありうべき姿であるだろう。私は社説からそんなことを考えていた。
櫻井智志
「東京新聞フォロワーズ」
【社説】
大晦日に考える 不安あり希望もあり
2014年12月31日
今年も一年が終わります。さまざまに振り返ることのうち、不安を一つ、希望を一つ、挙げてみましょう。それぞれ来年も考えたいことだからです。
その不安とは格差です。
大学教授や経済評論家の中には格差をまるで先進国病のようにいう人もいますが、格差の当事者にはそれどころではありません。
思い出されるのは、長いひげを蓄え、リュックを背負い、困っている人たちの元に駆けつけた経済学者宇沢弘文さんです。
九月、肺炎のため、八十六歳で亡くなられました。
◆思い返す宇沢経済学
経済学は人間のためにあれ、と唱え続け、バチカンのヨハネ・パウロ二世から知恵を求められたのは有名な話です。
亡くなられる少し前、社説で取り上げたことがあります。
サッカー・ワールドカップで沸き立つ一方、経済格差が問題になったブラジルをとり上げた社説(週のはじめに考える「ブラジルからの警告」6月29日)の中でした。
今の日本が求めるべき思考の一つとは、宇沢経済学なのではないでしょうか。
それは、ごく短く言えばこんなふうです。
資本主義はお金ばかりを考えるが、実際にはお金以外に社会で共有している価値(たとえば水や空気、教育、医療など)も含めて考えなくてはならない。工場が水や空気を汚すのなら汚した分もきちんと支払え、ということです。
お金だけでなく、人間という要素を含めた社会全体を考えよ、ということです。
高度成長時代にそう唱える学者は少数でした。温暖化に対してはいち早く炭素税を唱え、持続可能性という今ではよく聞く文明観をもった人でした。
◆大恐慌はやってきた
資本主義が時々“暴走”することは歴史の教えるところです。
宇沢さんの敬愛した学者の一人にアメリカの経済学者ソースタイン・ヴェブレンがいます。
彼は東部の金持ちの見せびらかすための消費を分析して「有閑階級の理論」(一八九九年)という本を書きました。有閑階級は誇示的消費をし、企業者は営利欲に支配され、労働階級は細分・等量化された作業により思考習慣を規格化されてしまう。そのゆえに企業はやがて衰退するだろう。
そういう景気循環論を発表したら、本当に大恐慌がやってきて、皆驚いたわけです。
経済学に人間という要素を入れよ、と説くのは、宇沢さんと同じです。格差拡大はやがて社会の衰退を招くというのは、宇沢経済学の繰り返し発していた警告といってもいいでしょう。
アベノミクスはサッチャリズムによく比べられます。雑貨商の働き者の娘、サッチャー首相は当初の人気とは裏腹に、その刻苦勉励の信条が優勝劣敗の市場競争信奉者に転じたと思われた時、人心は離れていったのです。
次に希望を述べましょう。
日本人三人がノーベル物理学賞を受賞しました。青色発光ダイオード(LED)の発明です。
私たちの社説は、いつもは二本のところを一本に大型化して「ものづくりの喜びよ」(10月8日)と題しました。
ものづくり、と掲げたのは授賞理由もいうようにその技術が世界で実用化されているからです。人に役立つものをつくったという三人の喜びはつまり私たちの共有すべき喜びでもあったからです。
ノーベル賞の創設者アルフレド・ノーベルはニトログリセリン工場の爆発で弟を失いました。そこでニトロを扱いやすくしたダイナマイト発明へと向かうのです。賞について「千のアイデアのうち一つでもものになれば満足だ」と述べたそうです。
つまり人の役に立つものをつくろう、ということです。ものづくりです。
青色LEDはその責任を果たしつつあり、まさにノーベルの望むものだったと思います。エジソンの白熱電球にせよ、実は先に英国の物理学者が紙のフィラメントで短時間の発光を成功させていますが、エジソンは数え切れないほどの失敗の末、炭化フィラメントで長時間輝かせたのです。時に三十二歳でした。
◆権威よりも汗と熱意
青色LEDを生んだ名古屋大学は旧帝大中、最後の創立であり、自由の気風に今も富んでいるといわれます。研究を進展させたのは、四国の企業でした。
権威や中央と無縁のところで世界的な発明は生まれた。成し遂げたのはひたすらの努力と熱意であり、支える人たちもいた。そこに希望の芽は見えませんか。不安の時代でも希望は必ずあるのです。
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私見
社説で言う「宇沢経済学」とは、マルクス経済学か近代経済学か、というようなニュアンスではない。経済の対象としてこなかった空気や環境や自然やそういうものを学問の対象としてしっかり把握して考えていかなければいけないという意味合いであろう。
『自動車の社会的費用』など宇沢弘文氏は自らが近経とレッテルはりされるその枠組みを乗り越えて、増大するクルマ社会のマクロな分析対象として自動車をとらおなおした。
私はマルクス経済学が一般的な経済学よりも根本的であるという価値判断はもっている。けれど、「マルクス経済学」学を志向して現実の実践的分析やアプローチを欠陥した左翼を、リアリズムに徹した厳密な研究者よりも優先されるとは思わない。
そして、誠実な科学的実践的な唯物論になりたつ学者たちはそこにむけて研究していると信ずる。多くの国民にそのことを啓蒙すべきだ。戦前に唯物論研究会を組織してリードした哲学者戸坂潤は、「ブロレタリア・ジャーナリズム」の意義を唱えた。まさか現在日本のように大手マスコミが軒並み体制にひきずられているさまは、戦後の再出発時に想像だにできなかったに違いない。
あらゆる先入観や偏見を脱して、目前に在る問題を解決するために、名も無き庶民が自ら問うこと。それが現代的大衆的な学問のありうべき姿であるだろう。私は社説からそんなことを考えていた。