鈴木安蔵という法学者を、私は1970年代に青木書店から出版された季刊雑誌『現代と思想』(江口十四一編集長)全40巻の中で、古在由重氏らの鼎談で読み、知っていた。
今朝の東京新聞でそのお名前の入った報道を拝読し、懐かしくまた深い想いを感じた。
教えられることばかりなので、駄文を省き東京新聞の記事をぜひご一読いただきたい。以下に転載させていただいた。
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東京新聞【ふくしま便り】
憲法は民衆のために 鈴木安蔵の人と学問 直弟子語る
2015年11月3日
平和憲法のルーツは福島県南相馬市にある、という話を以前本欄で取り上げた。日本国憲法の間接的起草者と呼ばれる憲法学者・鈴木安蔵(一九〇四~八三年)が同市で生まれ育ったからだ。ただのご当地自慢をしようというのではない。日本国憲法は米国に押しつけられた憲法ではなかった。日本の民衆の願いの結晶として生まれた。この事実を確認するためにも南相馬市の持つ歴史的な意味を心に留めておくべきだろう。
その安蔵から愛知大学で直々に薫陶を受けた弟子である金子勝・立正大学名誉教授(71)が先月、「はらまち九条の会」の招きで同市を訪れ、安蔵の業績や人柄について講演した。「世田谷・九条の会」の呼び掛け人でもある金子氏の話のエッセンスを紹介したい。
まず幼少期のエピソード。一九〇四年三月三日、安蔵は小高区の商家で生を受けた。銀行員だった父は二十七歳で病死。母に育てられ、没落した家を再興したいという思いで猛勉強する。相馬中学では弁論部に入り、数々の弁論大会で優勝したが、ただの秀才ではなかった。
三年生のとき、上級生による私刑を追放しようと同級生七十数人の先頭に立ち、ストライキを打つ。謹慎三日の処分を受けたが、私刑はなくなった。
「正義感の強い人で、大人になっても変わらなかった。こんな心を育んだのは、幼い頃から通ったキリスト教会で、ヒューマニズムを学んだ影響だったろう」と金子氏は見ている。
飛び級で旧制第二高等学校に進むと「新カント哲学」に熱中。さらに「貧困、飢餓、売春、失業、疾病など社会矛盾を除去しよう」との思いで「社会思想研究会」を結成する。
一九二四年、京都帝国大学哲学科に進学するが、翌年に経済学部に転部し、マルクス主義の研究に入る。ところが京大社会科学研究会での活動が治安維持法に違反するとして逮捕される。全国で三十八人が逮捕された、この学連事件は治安維持法適用の第一号だった。京大を自主退学に追い込まれた安蔵は、在野の研究生活を選ぶ。
さらに二九年に再び治安維持法で逮捕され、二年半も獄中生活を送る。金子氏によると、この体験が後に鈴木憲法学を生む契機となったという。
「先生は、獄中で日本の憲法学者の著作を読みあさった。そして、日本の憲法学には歴史的研究と批判が欠けていることに気づいたのです」
写真
出獄後、代表作である「憲法の歴史的研究」を発刊し、民衆の立場に立ち、民衆の幸福を実現しようとする憲法学の必要性を世に問うた。日本に初めて社会科学としての憲法学が生まれた瞬間だった。
そんな一介の在野の学者を、歴史は必要とした。四五年、太平洋戦争が終結すると、ポツダム宣言の趣旨に沿った新憲法作りが始まる。連合国軍総司令部(GHQ)は当時の幣原喜重郎内閣に草案を提出させたが、まるで大日本帝国憲法の焼き直しのような内容に失望する。同じ頃、学者、ジャーナリストらで構成する「憲法研究会」も「憲法草案要綱」という草案をつくった。まとめ役は安蔵だった。
GHQは、草案に着目し、つぶさに検討して、ほぼ同じ内容の「日本国憲法草案」を起草した。このため安蔵は、日本国憲法の間接的起草者と呼ばれる。
「憲法草案要綱」に「戦争放棄」は盛り込まれておらず、「九条」はGHQと幣原内閣の交渉の中で生まれたとされる。しかし「憲法草案要綱」は、「天皇の臣民」に代えて「国民」という概念を持ち込んだ。これは当時の日本人には驚天動地の画期的な考え方であったという。
「国民主権」は、GHQによらず、日本人によって提案されたという点が何より重要だ。
講演の後、金子氏らは南相馬市小高区の商店街の一角にある安蔵の生家を訪ねた。小高区は原発事故のために今も居住制限があり、安蔵の縁者も避難生活を続けている。だが、来年三月の規制解除を目指して、少しずつ人の気配がよみがえってきた。
そんな空気を感じつつ、「鈴木安蔵憲法記念館をつくろう」などというアイデアも飛び出した。平和憲法を軸とした復興があってもいいのではないか。 (福島特別支局長・坂本充孝)
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今朝の東京新聞でそのお名前の入った報道を拝読し、懐かしくまた深い想いを感じた。
教えられることばかりなので、駄文を省き東京新聞の記事をぜひご一読いただきたい。以下に転載させていただいた。
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東京新聞【ふくしま便り】
憲法は民衆のために 鈴木安蔵の人と学問 直弟子語る
2015年11月3日
平和憲法のルーツは福島県南相馬市にある、という話を以前本欄で取り上げた。日本国憲法の間接的起草者と呼ばれる憲法学者・鈴木安蔵(一九〇四~八三年)が同市で生まれ育ったからだ。ただのご当地自慢をしようというのではない。日本国憲法は米国に押しつけられた憲法ではなかった。日本の民衆の願いの結晶として生まれた。この事実を確認するためにも南相馬市の持つ歴史的な意味を心に留めておくべきだろう。
その安蔵から愛知大学で直々に薫陶を受けた弟子である金子勝・立正大学名誉教授(71)が先月、「はらまち九条の会」の招きで同市を訪れ、安蔵の業績や人柄について講演した。「世田谷・九条の会」の呼び掛け人でもある金子氏の話のエッセンスを紹介したい。
まず幼少期のエピソード。一九〇四年三月三日、安蔵は小高区の商家で生を受けた。銀行員だった父は二十七歳で病死。母に育てられ、没落した家を再興したいという思いで猛勉強する。相馬中学では弁論部に入り、数々の弁論大会で優勝したが、ただの秀才ではなかった。
三年生のとき、上級生による私刑を追放しようと同級生七十数人の先頭に立ち、ストライキを打つ。謹慎三日の処分を受けたが、私刑はなくなった。
「正義感の強い人で、大人になっても変わらなかった。こんな心を育んだのは、幼い頃から通ったキリスト教会で、ヒューマニズムを学んだ影響だったろう」と金子氏は見ている。
飛び級で旧制第二高等学校に進むと「新カント哲学」に熱中。さらに「貧困、飢餓、売春、失業、疾病など社会矛盾を除去しよう」との思いで「社会思想研究会」を結成する。
一九二四年、京都帝国大学哲学科に進学するが、翌年に経済学部に転部し、マルクス主義の研究に入る。ところが京大社会科学研究会での活動が治安維持法に違反するとして逮捕される。全国で三十八人が逮捕された、この学連事件は治安維持法適用の第一号だった。京大を自主退学に追い込まれた安蔵は、在野の研究生活を選ぶ。
さらに二九年に再び治安維持法で逮捕され、二年半も獄中生活を送る。金子氏によると、この体験が後に鈴木憲法学を生む契機となったという。
「先生は、獄中で日本の憲法学者の著作を読みあさった。そして、日本の憲法学には歴史的研究と批判が欠けていることに気づいたのです」
写真
出獄後、代表作である「憲法の歴史的研究」を発刊し、民衆の立場に立ち、民衆の幸福を実現しようとする憲法学の必要性を世に問うた。日本に初めて社会科学としての憲法学が生まれた瞬間だった。
そんな一介の在野の学者を、歴史は必要とした。四五年、太平洋戦争が終結すると、ポツダム宣言の趣旨に沿った新憲法作りが始まる。連合国軍総司令部(GHQ)は当時の幣原喜重郎内閣に草案を提出させたが、まるで大日本帝国憲法の焼き直しのような内容に失望する。同じ頃、学者、ジャーナリストらで構成する「憲法研究会」も「憲法草案要綱」という草案をつくった。まとめ役は安蔵だった。
GHQは、草案に着目し、つぶさに検討して、ほぼ同じ内容の「日本国憲法草案」を起草した。このため安蔵は、日本国憲法の間接的起草者と呼ばれる。
「憲法草案要綱」に「戦争放棄」は盛り込まれておらず、「九条」はGHQと幣原内閣の交渉の中で生まれたとされる。しかし「憲法草案要綱」は、「天皇の臣民」に代えて「国民」という概念を持ち込んだ。これは当時の日本人には驚天動地の画期的な考え方であったという。
「国民主権」は、GHQによらず、日本人によって提案されたという点が何より重要だ。
講演の後、金子氏らは南相馬市小高区の商店街の一角にある安蔵の生家を訪ねた。小高区は原発事故のために今も居住制限があり、安蔵の縁者も避難生活を続けている。だが、来年三月の規制解除を目指して、少しずつ人の気配がよみがえってきた。
そんな空気を感じつつ、「鈴木安蔵憲法記念館をつくろう」などというアイデアも飛び出した。平和憲法を軸とした復興があってもいいのではないか。 (福島特別支局長・坂本充孝)
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