送り先:香港九龍中央郵政局郵政信箱73962號
Rie(りえ)@japanaviさん
周庭が収監されてから2ヶ月が過ぎました。応援の手紙を受け取る時間は、身動きが取れない周庭にとって唯一
の外との接点であり、楽しみです。
皆さんもぜひ引き続き送ってください
Rie(りえ)@japanavi 2020年12月18日
手紙を読むのが一番の楽しみだそうです。応援の声を届けたい方は、関係者指定の私書箱宛にご送付ください
。周庭は日本語堪能だから日本語で大丈夫ですが、刑務所が検閲しますのでガイドラインを守らなかったり敏
感な話題に触れると本人に届きません
送り先、ガイドラインは
Agnes Chow 周庭@chowtingagnes 2020年11月25日
周庭への手紙は下記宛先にお願いします。
送り先:香港九龍中央郵政局郵政信箱73962號
(封筒に書くのはこれだけです。受取人の名前は封筒には書かないこと)周庭の友人たちが本人に届けます。
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院内で「発掘」された70年前の若月先生の脚本
日経メディカル 2020年9月29日 色平哲郎
先ごろ、筆者が勤める佐久総合病院の名誉総長、故・若月俊一が書いた脚本『村のうた』のガリ版刷りが出てきた。1950年に、院内劇団の公演用に書かれたものだ。ガリ版刷りといってもピンとこないかもしれないが、「ロウ紙」と呼ばれる原紙に先が硬い鉄筆で一文字、一文字手で刻み、輪転謄写機で印刷する手法のことだ。1960年代にコピー機が普及するまでは軽印刷の主流だった。
当時、40歳だった外科医の若月は、既に院長のポストにあり、何年か前に火事で焼け落ちた病棟の再建祝賀会での上演に向けて『村のうた』を書き下ろしていた。若月にとって演劇は、まだ医療との縁が薄く、知識も少なかった山村の人々に、楽しみつつ公衆衛生や保健の知識を伝える大切な手段だった。
若月は生涯で30本以上の脚本を書いたというが、著作集にも収録されていない脚本がある。『村のうた』もその1つだ。現役の病院劇団部員たちが、佐久総合病院本院の書庫に眠っていた『村のうた』のガリ版刷の、かすれて読めない文字などを補い、台本の形で復刻させた。
脚本のテーマは、まさにコロナ禍の今にぴったり。赤痢や腸チフスなどの伝染病=感染症がまん延している中、いかに「伝染病棟」を建設するか、というものだ。これら細菌性の感染症は、現代の日本では大きく減ったが、感染症が流行したときの人々の反応や偏見、差別の横行は70年前も現在もあまり変わらない。
脚本に凝縮された信念
あらすじはこうだ。戦前から感染者の隔離には「避病舎」が使われてきた。しかし、「近代的設備がない、荒屋にすぎないんですからね。十分に消毒もできない中で、患者は只寝て居るだけ。一日に一回、医者が見廻りに来てブドウ糖をうってくれるだけじゃあ、どうにもならないわね」と看護婦が嘆くほど粗末なもの。そこで院長は、病院の敷地内に「伝染病棟」を建設し、本格的な感染症治療に乗り出そうとする。
だが、村人は大反対だ。伝染病棟は感染者を集め、わざわざ災厄を呼び込むようなもの。用水路の川上に伝染病棟ができれば、川下の自分たちに害毒が及ぶ、と憤慨する。そんな村人の中にあって、夏季脳炎にかかった弟を避病舎に隔離されたまま亡くした井出という青年は、伝染病棟の建設に賛成する。
すると、反対の急先鋒、よろず屋の息子が「きさま、村を賣(う)るつもりか」「診療所が大切か。村が大切か」と井出に迫り、仲間を使って殴る蹴るの暴行を加える。古い殻に覆われた村に伝染病棟は無理かと、諦めムードが漂う。
ところが、よろず屋の一番下の子どもがジフテリアで呼吸困難に陥り、院長に気管切開をしてもらわないと命が危うくなる。よろず屋は平身低頭、「お願いします」と院長に手術を頼む。院長は、避病舎に向かい……。
場面が変わって、伝染病棟の上棟式。よろず屋は「おめでとうごわすなあ。こんなに早く伝染病棟ができ上るなんで、まるで夢のようですな」と上機嫌だ。院長の手術で末子は助かり、すっかり近代医学の威力に心服。伝染病棟の推進派に変わったのである。
この脚本には、若月の信念が凝縮されている。脚本の冒頭、東京からきた医師に「あーあー本当に田舎っていやだなあー。本当に百姓の利己心にあー全く、くさらされるよ」と言わせている。
劇の観客は、当の村人たちである。反発を買っても、とにかく、医療の民主化、近代化を進めたいという思いが、こうした台詞を吐かせたのだろう。それは信念の表出だ。
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「マスコミは戦争を始める、でも絶対に責任はとらない。だから私たちは気をつけなければならないの。トランプ候補はね、『マスコミの言うことなんか信用するな、私が、全部、ツイッターで教えるから。~』と言ったのよ」
イラク戦争は政府が完全報道規制を敷いたため、アメリカ国民が「あの戦争は間違いだった」と認識したのは、多大な人的・経済的犠牲を払った後のことでした、、、
16年4月の農地改正法によって、外国人でも農地を買いやすくしてしまったのです。~これにより、日本の農地が手にいれられるようになるための条件が大幅に緩和され、農業に関係ない外国企業にも大きく扉を開くことになりました。
日本では外国に土地の所有権を与えてしまっています。
この商品(ラウンドアップ)に対する批判記事を書くと農薬工業会から抗議されるので、マスコミは沈黙、ニュースにすらなりませんでした。
命に関わるものーすなわち、国民の命やライフラインに関わるインフラーは、絶対に外国資本に売ってはいけない。これは鉄則です。
https://amba.to/39ZLTWA
「株式会社アメリカの日本解体計画」堤未果著 2021年1月発行
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Bent Rold Andersen 教授@ デンマーク Roskilde ロスキル大学
1982年に、世界的に有名な「高齢者福祉の3原則」が打ち出されました。この委員会の委員長が、ベント・ロル・アナセン(Bent Rold Andersen)氏です、、、
高齢者福祉の3原則(アナセンの3原則)
高齢者問題委員会が打ち出した「高齢者福祉の3原則(アナセンの3原則)」とは(1)生活継続の原則(2)自己決定の原則(3)残存能力活用の原則です。これらは、現代の日本の介護においても、根底に流れる大事な哲学になっています。以下、それぞれについて、もう少し詳しく考えてみます。
https://bit.ly/3cQz7vF
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習い事と試験 ノートとは・・・むむっ卑怯な
三十年前、私が十歳だったころ、習い事といえば、習字とそろばんだった。
今は、英会話と水泳なのだと聞く。
ワープロと電卓の普及で、ずいぶん様変わりした。
ピアノは情操教育によいのだそうで、いつの時代も盛んだ。
この点で、ピアノには大変感謝している。
学生結婚して、ピアノ教師の女房に、しばらくの間養ってもらっていたからだ。
結婚することで親の扶養を離れたことで「無収入」となり、大学から授業料の免除を受けた。
少しくやしかったが、「助かった」とも思った。
それまで親からの仕送りに頼らず、自分で働いて学費を支払い生活していくのは苦しかった。
一カ月の寮費が百円という学生寮に住んで、自分の大学の生協食堂で働いた。
この自治寮を見つけていなかったら、医学部を卒業することは、とても出来なかっただろう。
金がない。
日本語の医学書は高くて、とても買えなかった。
英語のは安いが、英語は難しい。
日本の医師国家試験は日本語だから、講義に出席して、医学用語の難しい漢字を何とかして覚え込む必要がある。
医学部専門課程になると、臨床各科の講義に、ほとんど出席者がいない。
京大生は、頭がいいんだろう。
講義など聴かずとも、教科書を読めば試験に通る、との自信の表れだったのだろうか。
朝、私ひとりの前で講義が始まり、昼前になって出席者五人、というのが一番ひどかった。
講義で不明な点はその場で確かめ、終了後は、講師を引き留めて、研究的な内容についても、個人的に質疑とした。
意味不明の講義を続けた教授には、何度か質問したが、らちがあかず、講義の最終日に「来年からあなたは講義をせんでよろしい」と申し渡した。
こっちは年をくっているし、講義を聴いて理解不能なら、試験に通らないではないか。
自分で働いて学費を払っていた当時の私にとって、趣味的な講義を看過する余裕はなかった。
生き残りがかかっていた。
いつも最前列で講義を受けていた。
講堂の後ろの席で、ざわついている学生たちがいた。
私は立ち上がって「出て行け!」と、怒鳴りつけた。
怒鳴って悪いことをしたかなあ。
でも、彼らはたぶん、自分の金で学費を払ってはいないんだ。
小学生ころから変わっていた。
九九は半分しか覚えなかった。
九の段は、九九八十一とだけ覚えた。九八は八九と同じはずだ。
九七は七の段でやったじゃないか。
裏九九を覚えていない分、筆算では慎重になり、決して間違えなかった。
ある時、怒りとともに、突然気づいたことがある。試験のことだ。
正々堂々と、腕組みをして先生の授業を集中してきく。
その場で理解できるだけ理解して覚え、それで「勝負」する。
世間知らずにも、そう信じていた。
ところがなんと、「ノート」というメモを取っているヤツがいる。
その上、試験前に読み返して覚えるヤツまでいるという。
なんて卑怯(ひきょう)な連中だ……。
十歳の私は、この時初めて、試験の「常識」を知った。
2000年5月25日朝日新聞長野県版 連載第3回 色平哲郎
http://irohira.web.fc2.com/0206IroMokuji.htm
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経済的基盤を作るために、イエズス会士らは武器を含めた貿易にもタッチしましたが、なぜそんなことが可能だったのか、、、
イエズス会は単にポルトガル商船に寄港地を指定するだけでなく、イベリア半島のコンベルソ商人のネットワークと密接に結びついていたのではないでしょうか。血の純潔が重視されるスペインやポルトガルでは、新キリスト教徒は第一線で活躍することはできません。コンベルソ商人は活躍の場を国外に求めたのではないでしょうか、、、
イエズス会は、先祖代々の純粋なカトリック信者の集団ではなく、ユダヤ人を祖先とする人々を含んでいた。
そのために彼らのネットワークにアクセスすることができた。その構造があったため、ロヨラの時代に、急速に海外展開できた理由ではないかと思うのです。
https://bit.ly/3jx5MaI
創設間もないイエズス会が急速に世界展開できた理由
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現在の状況はかなり異なるだろうが、軍隊内の人権問題とほぼ無報酬に近い若者の時間の浪費は依然として変わらない。
筆者は20歳で入営令状を受けたが、一度延期した後、21歳で陸軍に入隊した。韓国の男性にとって軍隊は一種の通過儀礼といえる。良く言えば、団体生活を通して忍耐と社会生活を学ぶ場所だが、悪く言えば、自由が制限されたあらゆる不正に満ちた場所である。
事実、この期間は、不完全な補償だけが提供される国家の奴隷として時間を過ごす。以前の韓国では、軍隊を正常に終えた人は公務員試験を受ける際に若干の加算点が与えられ、将校や副士官として軍服務を終えると企業の入社試験で優遇されたが、2000年代以降は加算点や優遇制度はほとんどなくなった。女性団体の抗議のた
めだ。
韓国兵役残酷物語、ここは人であることを捨てる場所
韓国人が語る、日本人は兵役のない国に生まれたことを感謝すべき
https://bit.ly/3aMbkdF
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陸軍中野学校 最後の証言
(その1)「落花流水」受け継ぐ
(その2止)戦中戦後、情報追い
毎日新聞 2021年2月7日「ストーリー」
東京・中野。東京警察病院敷地内の北西角地の木々で覆われたわずかな空間に「陸軍中野学校趾(し)」碑は人目を避けるように建っていた。この地に、かつて諜報(ちょうほう)、防諜、謀略、そして遊撃戦を専門とする秘密戦士養成の陸軍学校があった。
白髪の男は手押し車を脇にどかし、身の丈ほどの石碑に手を差し出した。口調を改めるように言った。「参りました」。元陸軍大尉、牟田照雄氏である。この1月で99歳を迎えた。
日中戦争が始まった翌1938(昭和13)年7月に後方勤務要員養成所として開校した中野学校は、敗戦までのおよそ7年間に、戦争末期に併設された二俣分校(浜松市)を含めて2170人の卒業生を送り出した。牟田氏は44年1月、中野本校に入校し8カ月間教育を受けたのち北海道で終戦を迎えた。
「実は戦後もここで勉強したんですよ。公安調査庁に入ってからの研修は中野学校の後にできた警察学校で行われました」
同校の移転後には警察病院が建ち、施設は2度転変するなか、牟田氏は戦後もインテリジェンス(情報)の世界に身を置いた。いや、正しくは「置いている」である。
昨年12月20日、都心のビルの一室。ロの字に並べられたテーブルに23人が座った。日曜日だというのに、男たちの多くはスーツ姿だった。昼過ぎ、いつもの手押し車で牟田氏が入ってくる。勉強会「桜花梅香懇話会」。牟田氏が主宰して30年を超える。出席者の多くは諸官庁の情報担当者だという。国際情勢などの専門家を呼び、最新情報を聞くのが目的だ。3時間のうちの1時間は牟田氏の講義で、体験談や知見が語られる。ある官庁の情報担当官は「牟田さんという伝説のインテリジェンスの話を聞けるうえ、横の関係が築ける貴重な機会」と明かした。
日露戦争で謀略活動を繰り広げて日本の情報戦の祖と評される陸軍軍人の明石元二郎は、活動報告書を「落花流水」と名付けた。花びらは、今も人知れず受け継がれているのだろう。満で白寿の牟田氏は言う。「情報に携わって70年。モットーは『生涯現役、生涯情報』」。初めて明かされるその来し方は戦中、戦後の日本の知られざるもう一つの世界を照射する。 <取材・文 隈元浩彦>
死ねない秘密戦士
「3・14159……」。最近頭が鈍って、と言いながら円周率をそらんじはじめた。「1万桁を目指していたんです。でも、2000桁がやっとです」
牟田照雄氏(99)の日課である。
「『桜花梅香懇話会』のいわれですか。桜花梅香のそれぞれの語を中国語風に読むと『インフォメーション』の音に似てるんです。警戒されないようにね。誰の目を用心しているかって? ハハハッ」
時にユーモアを交え、笑みを絶やさない。だが目にたたえる光は鋭い。
「『中野は語らず』。それが仲間との約束です」と長年取材には応じなかった。「正しく伝えてくれるなら」と心変わりしたのは、中野本校卒業生の証言者としては恐らく最後の一人となったことも無縁ではあるまい。「多くの仲間が戦死しています。こうして生きていることに引け目も感じています」と言いながら、真一文字に結んでいた口元が開いた。
史上初の社会主義国家、ソ連(現ロシア)が成立した1922(大正11)年、北海道・美唄で11人きょうだいの末っ子に生まれた。教員一家だった。旧制旭川中学に進学後、40(昭和15)年に陸軍士官学校に進んだ。陸士55期の騎兵科だった。翌年夏に卒業し、旧満州(現中国東北部)のソ連との国境近くに駐留する部隊の将校として配属された。
最初の任務は、ソ連極東地域(沿海州)に展開するソ連軍の監視だった。41年6月に独ソ戦が始まり、おびただしい数の軍用車両が西に移動していた。「日本に潜入したソ連のスパイ、ゾルゲの手柄です。日本の国策が『南進』であると知って、ソ連は満州との国境に張りつけていた軍隊を対独戦に向かわせたんです」
その年の暮れ、太平洋戦争が始まった。翌年、国境近くで気象研究を命じられた。ソ連軍侵攻の際、季節風を利用して沿海州のソ連の軍都、ウラジオストクを焼き払うための調査だったと耳にした。
43年、まだこの地に砲火は響かなかった。戦車学校に通い、無線通信教育隊で暗号文の作成、解読に当たった。暮れに新たな命令が下った。「東京・九段の偕行(かいこう)社(陸軍将校の親睦団体)に出頭せよ」
東京都豊島区の雑司ケ谷霊園。時折北からの風がほおを刺すなか、牟田氏と一緒にある墓を目指した。その墓標には「誠」とだけ刻まれていた。陸軍少将、秋草俊氏が眠る。陸軍中野学校前身の後方勤務要員養成所(38年7月開所)所長を務め、中野学校生みの親と呼ばれる。
「『誠』なんですね」。静寂を破るように低い声が広がる。「いらぬは手柄/浮雲の如(ごと)き/意気に感ぜし/人生こそは/神よ与えよ/万難我に」。中野学校愛唱歌の「三三壮途( わかれ )の歌」だった。
勇ましさとは無縁の哀調を帯びた曲調だった。
「この『誠』が中野の教えです。まさか墓石に刻んでいるとは……」
「秘密戦では誠に勝るものはないということをたたき込まれました。つくりごとのない真実の心が協力者づくりには欠かせないというわけです。『条理をきわめるところ即(すなわ)ち誠』。中野の精神であり、戦後の公安調査庁時代もそれが指針でした」。秘密戦とは諜報(ちょうほう)、宣伝、防諜、謀略、そして遊撃戦のことだ。
秋草氏の生家を守る本家の秋草俊二氏(66)は言う。「俊はソ連に抑留され、49年にモスクワ近郊で死んだという話ですが、遺骨は戻っていません。遺族は返還を待ち望んでいますが、男の子どもたちは無念のうちにこの世を去りました」。こんな話をした。「『他者を思え』が秋草の家の教え。誠に通じますね」
牟田氏の回想。偕行社に出頭すると、将官ら3人から軍歴などを問われた。あとで中野学校入校試験だと知った。スパイになるため戸籍が抹消される――。そんなうわさを耳にしていた。だが、戸籍の改変はもちろん、偽名を使うこともなかった。戦局の悪化で、すでにゲリラ戦である遊撃戦が主体になりつつあった。
「三乙」と呼ばれるクラスは、士官学校出身者が主体で28人いた。実技として潜入法、謀略なども教わったがよく覚えていない、と言った。語学、専門家による一般教養が充実していた。時代を先取りする「イスラム教と秘密戦」に関する論文を仕上げ称賛されたこともあった。面食らったことが二つあった。「民間人になりきれ」と命じられ、背広に長髪を強いられた。そして「戦場で死ぬことを教えられてきたのに、生きて情報を送り続けろ、舗装道路の下の砂利になれ、と指導されました。潔く散るという軍人の価値観とは正反対で驚きました」。
校内には楠木正成をまつる楠公社があった。忠君愛国の象徴でもあったが、楠木一族の七たび生まれ変わっても国に尽くすという「七生報国」は「死ねない秘密戦士」の精神的支柱だった。
44年秋。8カ月の教育後、故郷北海道の第五方面軍司令部参謀部に着任する。暮れから、本土決戦に備えた遊撃戦の準備指導に当たった。沖縄で絶望的な戦いが始まった翌45年春には旭川で幹部を対象に本格的な遊撃戦演習を行った。旭岳ふもとにいくつかの基地(根拠地)を設営、NHKに「敵上陸」などを想定した信号として特定の音楽を流させた。
牟田氏の意見具申で同年7月には札幌近郊の現・恵庭市に島松遊撃戦幹部教育隊が開設された。楠公にちなみ菊水教育隊と名付け、約100人の将校に中野仕込みの遊撃戦を伝授した。札幌市中心部にほど近い空沼岳(そらぬまだけ)に武器弾薬、食料を貯蓄する根拠地を数カ所つくった。当時、15~60歳の男子、17~40歳の女子に兵役を義務づける義勇兵役法が施行されていた。義勇兵の指導者育成が目的だった。
沖縄戦では少年たちを動員した遊撃戦部隊「護郷(ごきょう)隊」が組織され、多数の犠牲者を出した。指揮官の2人の将校は牟田氏の中野時代の同期である。「民間人が戦火に……」と問いかけると、押し黙ったまま厳しい表情を浮かべた。お前など、あの時代のことを何も知らないだろう――。そう言っているようだった。
そして敗戦。玉音放送は札幌の軍司令部で聞いた。司令部は虚脱感に包まれた。数日後、軍服姿で司令部に向かう途中、被服工場の女子工員の集団からやじられた。「バカヤロー」。みじめだった。そして牟田氏の「戦争」が始まった。
上官は去り軍の機能は止まった。10月には米軍が函館、小樽に上陸した。60代の女性が乱暴され、花嫁がさらわれる事件が続いたという。これに先だって牟田氏は10人ほどの中野学校出身者に声をかけ占領軍監視の秘密部隊を組織した。米軍による事件が続けば独自に遊撃戦をやるつもりだった。地元紙の「尋ね人欄」を使って「○日に結婚」という文面であれば、武器をとって司令部を襲うことを申し合わせた。占領軍の監視の目をそらすため結婚を奨励した。自身も中野学校後輩の姉と所帯をもった。仲間の一人は農家に変じた。戦時中、大本営が作成した「極秘 国内遊撃戦ノ参考」(45年1月)には「遊撃部隊ハ朝ニ耕作シ、夕ニ戦フ部隊ニシテ」とあり、その実践であろう。だが、占領政策が比較的穏健に進み、幻の作戦になった。武器は?の問いに「忘れました」と笑うばかりだった。
占領期、謀略事件の渦に
東京・本郷台の旧岩崎邸庭園。三菱財閥を率いた岩崎家の豪壮な2階建て洋館が建つ。コンドル作のコロニアル風の大邸宅で、一般に公開されている。「帰ってきました」と牟田氏はおどけた。受付の女性も「お帰りなさい」と応じた。「私、ここに拉致されていました」という言葉に、女性は二の句を継げなかった。敗戦で屋敷は連合国軍総司令部(GHQ)に接収され、戦後47年末から52年にかけてキャノン機関と呼ばれる謀略機関が置かれていた。牟田氏は50年前後、この洋館の客間で1週間軟禁されたという。
「戦後も札幌にいたのですが、GHQの札幌CIC(対敵情報部)に呼ばれ、本郷へ行けと命じられました。占領軍監視計画が発覚したのではと不安でしたが、ただ何かを聞かれるわけでもない。飯を食べて寝ていただけです」。面通しをされたとは感じている。冷戦が進行する中、キャノン機関は対ソ連のスパイ工作などを手がけていた。「今思えば危ないところでした」。中野学校出身者の名簿がGHQの手に渡っていると悟った。
都内で会社を経営する太郎良(たろら)譲二氏(71)。父、定夫氏は中野学校の卒業生でインドシナ半島で秘密戦に従事、終戦時は中野学校で教官を務めていた。戦後の父の苦労を見聞してきた。「常時監視の対象だった。帝銀事件(48年)、下山事件(49年)などが起きるたびに警視庁に調べられたと。中野はそんな恥ずべき事件を起こす謀略組織ではないと怒っていたよ。78年に60歳で亡くなったが、その翌年にも警視庁の公安が来て『どうしてますか』と探ってきた。国のために尽くしたのに、中野というだけで犯罪者扱いだった」。自然に声は荒くなる。
牟田氏もある事件への関与が疑われた。52年、札幌で市警察本部(当時)の公安担当の警部が射殺された白鳥事件である。ある日、刑事が訪ねてきた。「自転車に乗った男に撃たれた。中野出身のあなたじゃないか」。射撃学校ではないんだと追い返した。武装闘争に傾斜していた共産党北海道委員会の幹部と、同姓同名の男が陸士・中野学校の1期後輩にいた。この男と取り違え、中野つながりで牟田氏も疑われたようだった。
敗戦後の牟田氏は公職追放で定職がなく、広告取り、卵売りなどで飢えをしのいだ。教員を目指そうと50年春に北海道大文学部に入学したが、白鳥事件の一件など「中野学校出身」が重く感じてもいたのだろう。そんな折の53年、元大本営参謀の声かけで公安調査庁に入庁した。卒業まで半年を残した31歳の夏だった。
「役所時代の話は墓場に持っていく」とかたくなだ。戦時中の満州時代と同じ、対ソ諜報が任務だった。「シベリア抑留者のうち500人がソ連のスパイになるという盟約をして帰国したとされています。私が把握したのは10人ほどですが……」。つれづれにこんな話をしてくれた。64年の東京五輪の頃だ。「ソ連選手団に紛れ込んでコワレンコという男が来日したのですがひそかに帰国。何かあると思っていたら、フルシチョフ失脚の政変です」。鉄のカーテンの向こう側の緊迫した情勢をいち早くつかんだ。宿泊したホテルに中野出身者がいた。「戦時中、参謀本部は諜報のため何人かを潜らせていて、要員がまだ勤めていたんです」
コワレンコと話す口調がどこか懐かしげだった。対日工作の責任者だった。公安調査庁時代の好敵手だったのだろう。
秋が深まった頃、牟田氏は東京・四谷三丁目の居酒屋「酒房 一」を訪ねた。あるじの中森珂一(かいち)氏の父茂樹氏(92年に74歳で死去)も中野学校出身で南洋の激闘地ラバウルで戦った。最近、父を思い出すという。話の最中、珂一氏が重い病気にかかっていると聞いた牟田氏は「私もがんを経験し半身不随です。
諦めはいけませんよ」と声をかけた。帰りがけに珂一氏の弟の名前が「誠」と知り、牟田氏は驚いたふうだった。
「誠」と聞き、前出の太郎良譲二氏の話を思い起こした。譲二氏は中野学校出身者の子ども、孫たちの世代で組織する「中野二誠(にせい)会」の会長を務める。第2世代の戦友会は他に例がないだろう。その譲二氏にはもう一つの顔がある。68年、巨額使途不明金問題に端を発した日大闘争の闘士であり、今も時代の証言者の一人として発言している。全共闘運動のさきがけだったが、それと陸軍中野学校とが結びつかなかった。
疑問を口にすると、「左翼やセクトとは無縁の不正を許さないという『誠』の戦い。父もその点で共感し、バリケードの中まで来てカンパしてくれた。それぞれの誠があるんだよ」。
秘密戦とは何だったのか。「武力戦争を防ぐためです」と牟田氏。ただ、と言い添えた。「武力戦の拡大で秘密戦はできなくなった。中野の悲劇です」。ふと、英諜報機関出身の作家ジョン・ル・カレの晩年の長編「スパイたちの遺産」のエピローグが頭をよぎる。老いた元英情報部員が自身の仕事を顧みて言う。「世界平和のためだ、それが(???)なんであれ」
妻は13年前に亡くなった。2人の娘はとうに独立し1人暮らしである。不自由は、の問いかけには応えず、趣味の歌を見せてくれた。<いくさの火やみてやすらぎとりもどし亡き妻とみし伊豆の踊り子>。「家内には苦労をかけました」。何事も恐れぬフクロウのような表情に、はじめて悲しみの色がほんのりとさした。
珂一氏は牟田氏と会って2週間後に他界した。父の享年に1歳及ばなかった。直前まで店を開いていた。中野の教えという「倒れて後止(や)む」の人生だった。
◆今回のストーリーの取材は隈元浩彦(くまもと・ひろひこ)(オピニオングループ記者)
1985年入社。東京社会部、ヘミングウェイ編集長、山形支局長、夕刊編集部長などを経て、2018年から20年春までサンデー毎日編集長。著書に「私たちはどこから来たのか」。今年還暦を迎える。はるかなる夢は「生涯現場、生涯記者」。写真は手塚耕一郎が担当した。
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Rie(りえ)@japanaviさん
周庭が収監されてから2ヶ月が過ぎました。応援の手紙を受け取る時間は、身動きが取れない周庭にとって唯一
の外との接点であり、楽しみです。
皆さんもぜひ引き続き送ってください
Rie(りえ)@japanavi 2020年12月18日
手紙を読むのが一番の楽しみだそうです。応援の声を届けたい方は、関係者指定の私書箱宛にご送付ください
。周庭は日本語堪能だから日本語で大丈夫ですが、刑務所が検閲しますのでガイドラインを守らなかったり敏
感な話題に触れると本人に届きません
送り先、ガイドラインは
Agnes Chow 周庭@chowtingagnes 2020年11月25日
周庭への手紙は下記宛先にお願いします。
送り先:香港九龍中央郵政局郵政信箱73962號
(封筒に書くのはこれだけです。受取人の名前は封筒には書かないこと)周庭の友人たちが本人に届けます。
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院内で「発掘」された70年前の若月先生の脚本
日経メディカル 2020年9月29日 色平哲郎
先ごろ、筆者が勤める佐久総合病院の名誉総長、故・若月俊一が書いた脚本『村のうた』のガリ版刷りが出てきた。1950年に、院内劇団の公演用に書かれたものだ。ガリ版刷りといってもピンとこないかもしれないが、「ロウ紙」と呼ばれる原紙に先が硬い鉄筆で一文字、一文字手で刻み、輪転謄写機で印刷する手法のことだ。1960年代にコピー機が普及するまでは軽印刷の主流だった。
当時、40歳だった外科医の若月は、既に院長のポストにあり、何年か前に火事で焼け落ちた病棟の再建祝賀会での上演に向けて『村のうた』を書き下ろしていた。若月にとって演劇は、まだ医療との縁が薄く、知識も少なかった山村の人々に、楽しみつつ公衆衛生や保健の知識を伝える大切な手段だった。
若月は生涯で30本以上の脚本を書いたというが、著作集にも収録されていない脚本がある。『村のうた』もその1つだ。現役の病院劇団部員たちが、佐久総合病院本院の書庫に眠っていた『村のうた』のガリ版刷の、かすれて読めない文字などを補い、台本の形で復刻させた。
脚本のテーマは、まさにコロナ禍の今にぴったり。赤痢や腸チフスなどの伝染病=感染症がまん延している中、いかに「伝染病棟」を建設するか、というものだ。これら細菌性の感染症は、現代の日本では大きく減ったが、感染症が流行したときの人々の反応や偏見、差別の横行は70年前も現在もあまり変わらない。
脚本に凝縮された信念
あらすじはこうだ。戦前から感染者の隔離には「避病舎」が使われてきた。しかし、「近代的設備がない、荒屋にすぎないんですからね。十分に消毒もできない中で、患者は只寝て居るだけ。一日に一回、医者が見廻りに来てブドウ糖をうってくれるだけじゃあ、どうにもならないわね」と看護婦が嘆くほど粗末なもの。そこで院長は、病院の敷地内に「伝染病棟」を建設し、本格的な感染症治療に乗り出そうとする。
だが、村人は大反対だ。伝染病棟は感染者を集め、わざわざ災厄を呼び込むようなもの。用水路の川上に伝染病棟ができれば、川下の自分たちに害毒が及ぶ、と憤慨する。そんな村人の中にあって、夏季脳炎にかかった弟を避病舎に隔離されたまま亡くした井出という青年は、伝染病棟の建設に賛成する。
すると、反対の急先鋒、よろず屋の息子が「きさま、村を賣(う)るつもりか」「診療所が大切か。村が大切か」と井出に迫り、仲間を使って殴る蹴るの暴行を加える。古い殻に覆われた村に伝染病棟は無理かと、諦めムードが漂う。
ところが、よろず屋の一番下の子どもがジフテリアで呼吸困難に陥り、院長に気管切開をしてもらわないと命が危うくなる。よろず屋は平身低頭、「お願いします」と院長に手術を頼む。院長は、避病舎に向かい……。
場面が変わって、伝染病棟の上棟式。よろず屋は「おめでとうごわすなあ。こんなに早く伝染病棟ができ上るなんで、まるで夢のようですな」と上機嫌だ。院長の手術で末子は助かり、すっかり近代医学の威力に心服。伝染病棟の推進派に変わったのである。
この脚本には、若月の信念が凝縮されている。脚本の冒頭、東京からきた医師に「あーあー本当に田舎っていやだなあー。本当に百姓の利己心にあー全く、くさらされるよ」と言わせている。
劇の観客は、当の村人たちである。反発を買っても、とにかく、医療の民主化、近代化を進めたいという思いが、こうした台詞を吐かせたのだろう。それは信念の表出だ。
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「マスコミは戦争を始める、でも絶対に責任はとらない。だから私たちは気をつけなければならないの。トランプ候補はね、『マスコミの言うことなんか信用するな、私が、全部、ツイッターで教えるから。~』と言ったのよ」
イラク戦争は政府が完全報道規制を敷いたため、アメリカ国民が「あの戦争は間違いだった」と認識したのは、多大な人的・経済的犠牲を払った後のことでした、、、
16年4月の農地改正法によって、外国人でも農地を買いやすくしてしまったのです。~これにより、日本の農地が手にいれられるようになるための条件が大幅に緩和され、農業に関係ない外国企業にも大きく扉を開くことになりました。
日本では外国に土地の所有権を与えてしまっています。
この商品(ラウンドアップ)に対する批判記事を書くと農薬工業会から抗議されるので、マスコミは沈黙、ニュースにすらなりませんでした。
命に関わるものーすなわち、国民の命やライフラインに関わるインフラーは、絶対に外国資本に売ってはいけない。これは鉄則です。
https://amba.to/39ZLTWA
「株式会社アメリカの日本解体計画」堤未果著 2021年1月発行
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Bent Rold Andersen 教授@ デンマーク Roskilde ロスキル大学
1982年に、世界的に有名な「高齢者福祉の3原則」が打ち出されました。この委員会の委員長が、ベント・ロル・アナセン(Bent Rold Andersen)氏です、、、
高齢者福祉の3原則(アナセンの3原則)
高齢者問題委員会が打ち出した「高齢者福祉の3原則(アナセンの3原則)」とは(1)生活継続の原則(2)自己決定の原則(3)残存能力活用の原則です。これらは、現代の日本の介護においても、根底に流れる大事な哲学になっています。以下、それぞれについて、もう少し詳しく考えてみます。
https://bit.ly/3cQz7vF
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習い事と試験 ノートとは・・・むむっ卑怯な
三十年前、私が十歳だったころ、習い事といえば、習字とそろばんだった。
今は、英会話と水泳なのだと聞く。
ワープロと電卓の普及で、ずいぶん様変わりした。
ピアノは情操教育によいのだそうで、いつの時代も盛んだ。
この点で、ピアノには大変感謝している。
学生結婚して、ピアノ教師の女房に、しばらくの間養ってもらっていたからだ。
結婚することで親の扶養を離れたことで「無収入」となり、大学から授業料の免除を受けた。
少しくやしかったが、「助かった」とも思った。
それまで親からの仕送りに頼らず、自分で働いて学費を支払い生活していくのは苦しかった。
一カ月の寮費が百円という学生寮に住んで、自分の大学の生協食堂で働いた。
この自治寮を見つけていなかったら、医学部を卒業することは、とても出来なかっただろう。
金がない。
日本語の医学書は高くて、とても買えなかった。
英語のは安いが、英語は難しい。
日本の医師国家試験は日本語だから、講義に出席して、医学用語の難しい漢字を何とかして覚え込む必要がある。
医学部専門課程になると、臨床各科の講義に、ほとんど出席者がいない。
京大生は、頭がいいんだろう。
講義など聴かずとも、教科書を読めば試験に通る、との自信の表れだったのだろうか。
朝、私ひとりの前で講義が始まり、昼前になって出席者五人、というのが一番ひどかった。
講義で不明な点はその場で確かめ、終了後は、講師を引き留めて、研究的な内容についても、個人的に質疑とした。
意味不明の講義を続けた教授には、何度か質問したが、らちがあかず、講義の最終日に「来年からあなたは講義をせんでよろしい」と申し渡した。
こっちは年をくっているし、講義を聴いて理解不能なら、試験に通らないではないか。
自分で働いて学費を払っていた当時の私にとって、趣味的な講義を看過する余裕はなかった。
生き残りがかかっていた。
いつも最前列で講義を受けていた。
講堂の後ろの席で、ざわついている学生たちがいた。
私は立ち上がって「出て行け!」と、怒鳴りつけた。
怒鳴って悪いことをしたかなあ。
でも、彼らはたぶん、自分の金で学費を払ってはいないんだ。
小学生ころから変わっていた。
九九は半分しか覚えなかった。
九の段は、九九八十一とだけ覚えた。九八は八九と同じはずだ。
九七は七の段でやったじゃないか。
裏九九を覚えていない分、筆算では慎重になり、決して間違えなかった。
ある時、怒りとともに、突然気づいたことがある。試験のことだ。
正々堂々と、腕組みをして先生の授業を集中してきく。
その場で理解できるだけ理解して覚え、それで「勝負」する。
世間知らずにも、そう信じていた。
ところがなんと、「ノート」というメモを取っているヤツがいる。
その上、試験前に読み返して覚えるヤツまでいるという。
なんて卑怯(ひきょう)な連中だ……。
十歳の私は、この時初めて、試験の「常識」を知った。
2000年5月25日朝日新聞長野県版 連載第3回 色平哲郎
http://irohira.web.fc2.com/0206IroMokuji.htm
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経済的基盤を作るために、イエズス会士らは武器を含めた貿易にもタッチしましたが、なぜそんなことが可能だったのか、、、
イエズス会は単にポルトガル商船に寄港地を指定するだけでなく、イベリア半島のコンベルソ商人のネットワークと密接に結びついていたのではないでしょうか。血の純潔が重視されるスペインやポルトガルでは、新キリスト教徒は第一線で活躍することはできません。コンベルソ商人は活躍の場を国外に求めたのではないでしょうか、、、
イエズス会は、先祖代々の純粋なカトリック信者の集団ではなく、ユダヤ人を祖先とする人々を含んでいた。
そのために彼らのネットワークにアクセスすることができた。その構造があったため、ロヨラの時代に、急速に海外展開できた理由ではないかと思うのです。
https://bit.ly/3jx5MaI
創設間もないイエズス会が急速に世界展開できた理由
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現在の状況はかなり異なるだろうが、軍隊内の人権問題とほぼ無報酬に近い若者の時間の浪費は依然として変わらない。
筆者は20歳で入営令状を受けたが、一度延期した後、21歳で陸軍に入隊した。韓国の男性にとって軍隊は一種の通過儀礼といえる。良く言えば、団体生活を通して忍耐と社会生活を学ぶ場所だが、悪く言えば、自由が制限されたあらゆる不正に満ちた場所である。
事実、この期間は、不完全な補償だけが提供される国家の奴隷として時間を過ごす。以前の韓国では、軍隊を正常に終えた人は公務員試験を受ける際に若干の加算点が与えられ、将校や副士官として軍服務を終えると企業の入社試験で優遇されたが、2000年代以降は加算点や優遇制度はほとんどなくなった。女性団体の抗議のた
めだ。
韓国兵役残酷物語、ここは人であることを捨てる場所
韓国人が語る、日本人は兵役のない国に生まれたことを感謝すべき
https://bit.ly/3aMbkdF
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陸軍中野学校 最後の証言
(その1)「落花流水」受け継ぐ
(その2止)戦中戦後、情報追い
毎日新聞 2021年2月7日「ストーリー」
東京・中野。東京警察病院敷地内の北西角地の木々で覆われたわずかな空間に「陸軍中野学校趾(し)」碑は人目を避けるように建っていた。この地に、かつて諜報(ちょうほう)、防諜、謀略、そして遊撃戦を専門とする秘密戦士養成の陸軍学校があった。
白髪の男は手押し車を脇にどかし、身の丈ほどの石碑に手を差し出した。口調を改めるように言った。「参りました」。元陸軍大尉、牟田照雄氏である。この1月で99歳を迎えた。
日中戦争が始まった翌1938(昭和13)年7月に後方勤務要員養成所として開校した中野学校は、敗戦までのおよそ7年間に、戦争末期に併設された二俣分校(浜松市)を含めて2170人の卒業生を送り出した。牟田氏は44年1月、中野本校に入校し8カ月間教育を受けたのち北海道で終戦を迎えた。
「実は戦後もここで勉強したんですよ。公安調査庁に入ってからの研修は中野学校の後にできた警察学校で行われました」
同校の移転後には警察病院が建ち、施設は2度転変するなか、牟田氏は戦後もインテリジェンス(情報)の世界に身を置いた。いや、正しくは「置いている」である。
昨年12月20日、都心のビルの一室。ロの字に並べられたテーブルに23人が座った。日曜日だというのに、男たちの多くはスーツ姿だった。昼過ぎ、いつもの手押し車で牟田氏が入ってくる。勉強会「桜花梅香懇話会」。牟田氏が主宰して30年を超える。出席者の多くは諸官庁の情報担当者だという。国際情勢などの専門家を呼び、最新情報を聞くのが目的だ。3時間のうちの1時間は牟田氏の講義で、体験談や知見が語られる。ある官庁の情報担当官は「牟田さんという伝説のインテリジェンスの話を聞けるうえ、横の関係が築ける貴重な機会」と明かした。
日露戦争で謀略活動を繰り広げて日本の情報戦の祖と評される陸軍軍人の明石元二郎は、活動報告書を「落花流水」と名付けた。花びらは、今も人知れず受け継がれているのだろう。満で白寿の牟田氏は言う。「情報に携わって70年。モットーは『生涯現役、生涯情報』」。初めて明かされるその来し方は戦中、戦後の日本の知られざるもう一つの世界を照射する。 <取材・文 隈元浩彦>
死ねない秘密戦士
「3・14159……」。最近頭が鈍って、と言いながら円周率をそらんじはじめた。「1万桁を目指していたんです。でも、2000桁がやっとです」
牟田照雄氏(99)の日課である。
「『桜花梅香懇話会』のいわれですか。桜花梅香のそれぞれの語を中国語風に読むと『インフォメーション』の音に似てるんです。警戒されないようにね。誰の目を用心しているかって? ハハハッ」
時にユーモアを交え、笑みを絶やさない。だが目にたたえる光は鋭い。
「『中野は語らず』。それが仲間との約束です」と長年取材には応じなかった。「正しく伝えてくれるなら」と心変わりしたのは、中野本校卒業生の証言者としては恐らく最後の一人となったことも無縁ではあるまい。「多くの仲間が戦死しています。こうして生きていることに引け目も感じています」と言いながら、真一文字に結んでいた口元が開いた。
史上初の社会主義国家、ソ連(現ロシア)が成立した1922(大正11)年、北海道・美唄で11人きょうだいの末っ子に生まれた。教員一家だった。旧制旭川中学に進学後、40(昭和15)年に陸軍士官学校に進んだ。陸士55期の騎兵科だった。翌年夏に卒業し、旧満州(現中国東北部)のソ連との国境近くに駐留する部隊の将校として配属された。
最初の任務は、ソ連極東地域(沿海州)に展開するソ連軍の監視だった。41年6月に独ソ戦が始まり、おびただしい数の軍用車両が西に移動していた。「日本に潜入したソ連のスパイ、ゾルゲの手柄です。日本の国策が『南進』であると知って、ソ連は満州との国境に張りつけていた軍隊を対独戦に向かわせたんです」
その年の暮れ、太平洋戦争が始まった。翌年、国境近くで気象研究を命じられた。ソ連軍侵攻の際、季節風を利用して沿海州のソ連の軍都、ウラジオストクを焼き払うための調査だったと耳にした。
43年、まだこの地に砲火は響かなかった。戦車学校に通い、無線通信教育隊で暗号文の作成、解読に当たった。暮れに新たな命令が下った。「東京・九段の偕行(かいこう)社(陸軍将校の親睦団体)に出頭せよ」
東京都豊島区の雑司ケ谷霊園。時折北からの風がほおを刺すなか、牟田氏と一緒にある墓を目指した。その墓標には「誠」とだけ刻まれていた。陸軍少将、秋草俊氏が眠る。陸軍中野学校前身の後方勤務要員養成所(38年7月開所)所長を務め、中野学校生みの親と呼ばれる。
「『誠』なんですね」。静寂を破るように低い声が広がる。「いらぬは手柄/浮雲の如(ごと)き/意気に感ぜし/人生こそは/神よ与えよ/万難我に」。中野学校愛唱歌の「三三壮途( わかれ )の歌」だった。
勇ましさとは無縁の哀調を帯びた曲調だった。
「この『誠』が中野の教えです。まさか墓石に刻んでいるとは……」
「秘密戦では誠に勝るものはないということをたたき込まれました。つくりごとのない真実の心が協力者づくりには欠かせないというわけです。『条理をきわめるところ即(すなわ)ち誠』。中野の精神であり、戦後の公安調査庁時代もそれが指針でした」。秘密戦とは諜報(ちょうほう)、宣伝、防諜、謀略、そして遊撃戦のことだ。
秋草氏の生家を守る本家の秋草俊二氏(66)は言う。「俊はソ連に抑留され、49年にモスクワ近郊で死んだという話ですが、遺骨は戻っていません。遺族は返還を待ち望んでいますが、男の子どもたちは無念のうちにこの世を去りました」。こんな話をした。「『他者を思え』が秋草の家の教え。誠に通じますね」
牟田氏の回想。偕行社に出頭すると、将官ら3人から軍歴などを問われた。あとで中野学校入校試験だと知った。スパイになるため戸籍が抹消される――。そんなうわさを耳にしていた。だが、戸籍の改変はもちろん、偽名を使うこともなかった。戦局の悪化で、すでにゲリラ戦である遊撃戦が主体になりつつあった。
「三乙」と呼ばれるクラスは、士官学校出身者が主体で28人いた。実技として潜入法、謀略なども教わったがよく覚えていない、と言った。語学、専門家による一般教養が充実していた。時代を先取りする「イスラム教と秘密戦」に関する論文を仕上げ称賛されたこともあった。面食らったことが二つあった。「民間人になりきれ」と命じられ、背広に長髪を強いられた。そして「戦場で死ぬことを教えられてきたのに、生きて情報を送り続けろ、舗装道路の下の砂利になれ、と指導されました。潔く散るという軍人の価値観とは正反対で驚きました」。
校内には楠木正成をまつる楠公社があった。忠君愛国の象徴でもあったが、楠木一族の七たび生まれ変わっても国に尽くすという「七生報国」は「死ねない秘密戦士」の精神的支柱だった。
44年秋。8カ月の教育後、故郷北海道の第五方面軍司令部参謀部に着任する。暮れから、本土決戦に備えた遊撃戦の準備指導に当たった。沖縄で絶望的な戦いが始まった翌45年春には旭川で幹部を対象に本格的な遊撃戦演習を行った。旭岳ふもとにいくつかの基地(根拠地)を設営、NHKに「敵上陸」などを想定した信号として特定の音楽を流させた。
牟田氏の意見具申で同年7月には札幌近郊の現・恵庭市に島松遊撃戦幹部教育隊が開設された。楠公にちなみ菊水教育隊と名付け、約100人の将校に中野仕込みの遊撃戦を伝授した。札幌市中心部にほど近い空沼岳(そらぬまだけ)に武器弾薬、食料を貯蓄する根拠地を数カ所つくった。当時、15~60歳の男子、17~40歳の女子に兵役を義務づける義勇兵役法が施行されていた。義勇兵の指導者育成が目的だった。
沖縄戦では少年たちを動員した遊撃戦部隊「護郷(ごきょう)隊」が組織され、多数の犠牲者を出した。指揮官の2人の将校は牟田氏の中野時代の同期である。「民間人が戦火に……」と問いかけると、押し黙ったまま厳しい表情を浮かべた。お前など、あの時代のことを何も知らないだろう――。そう言っているようだった。
そして敗戦。玉音放送は札幌の軍司令部で聞いた。司令部は虚脱感に包まれた。数日後、軍服姿で司令部に向かう途中、被服工場の女子工員の集団からやじられた。「バカヤロー」。みじめだった。そして牟田氏の「戦争」が始まった。
上官は去り軍の機能は止まった。10月には米軍が函館、小樽に上陸した。60代の女性が乱暴され、花嫁がさらわれる事件が続いたという。これに先だって牟田氏は10人ほどの中野学校出身者に声をかけ占領軍監視の秘密部隊を組織した。米軍による事件が続けば独自に遊撃戦をやるつもりだった。地元紙の「尋ね人欄」を使って「○日に結婚」という文面であれば、武器をとって司令部を襲うことを申し合わせた。占領軍の監視の目をそらすため結婚を奨励した。自身も中野学校後輩の姉と所帯をもった。仲間の一人は農家に変じた。戦時中、大本営が作成した「極秘 国内遊撃戦ノ参考」(45年1月)には「遊撃部隊ハ朝ニ耕作シ、夕ニ戦フ部隊ニシテ」とあり、その実践であろう。だが、占領政策が比較的穏健に進み、幻の作戦になった。武器は?の問いに「忘れました」と笑うばかりだった。
占領期、謀略事件の渦に
東京・本郷台の旧岩崎邸庭園。三菱財閥を率いた岩崎家の豪壮な2階建て洋館が建つ。コンドル作のコロニアル風の大邸宅で、一般に公開されている。「帰ってきました」と牟田氏はおどけた。受付の女性も「お帰りなさい」と応じた。「私、ここに拉致されていました」という言葉に、女性は二の句を継げなかった。敗戦で屋敷は連合国軍総司令部(GHQ)に接収され、戦後47年末から52年にかけてキャノン機関と呼ばれる謀略機関が置かれていた。牟田氏は50年前後、この洋館の客間で1週間軟禁されたという。
「戦後も札幌にいたのですが、GHQの札幌CIC(対敵情報部)に呼ばれ、本郷へ行けと命じられました。占領軍監視計画が発覚したのではと不安でしたが、ただ何かを聞かれるわけでもない。飯を食べて寝ていただけです」。面通しをされたとは感じている。冷戦が進行する中、キャノン機関は対ソ連のスパイ工作などを手がけていた。「今思えば危ないところでした」。中野学校出身者の名簿がGHQの手に渡っていると悟った。
都内で会社を経営する太郎良(たろら)譲二氏(71)。父、定夫氏は中野学校の卒業生でインドシナ半島で秘密戦に従事、終戦時は中野学校で教官を務めていた。戦後の父の苦労を見聞してきた。「常時監視の対象だった。帝銀事件(48年)、下山事件(49年)などが起きるたびに警視庁に調べられたと。中野はそんな恥ずべき事件を起こす謀略組織ではないと怒っていたよ。78年に60歳で亡くなったが、その翌年にも警視庁の公安が来て『どうしてますか』と探ってきた。国のために尽くしたのに、中野というだけで犯罪者扱いだった」。自然に声は荒くなる。
牟田氏もある事件への関与が疑われた。52年、札幌で市警察本部(当時)の公安担当の警部が射殺された白鳥事件である。ある日、刑事が訪ねてきた。「自転車に乗った男に撃たれた。中野出身のあなたじゃないか」。射撃学校ではないんだと追い返した。武装闘争に傾斜していた共産党北海道委員会の幹部と、同姓同名の男が陸士・中野学校の1期後輩にいた。この男と取り違え、中野つながりで牟田氏も疑われたようだった。
敗戦後の牟田氏は公職追放で定職がなく、広告取り、卵売りなどで飢えをしのいだ。教員を目指そうと50年春に北海道大文学部に入学したが、白鳥事件の一件など「中野学校出身」が重く感じてもいたのだろう。そんな折の53年、元大本営参謀の声かけで公安調査庁に入庁した。卒業まで半年を残した31歳の夏だった。
「役所時代の話は墓場に持っていく」とかたくなだ。戦時中の満州時代と同じ、対ソ諜報が任務だった。「シベリア抑留者のうち500人がソ連のスパイになるという盟約をして帰国したとされています。私が把握したのは10人ほどですが……」。つれづれにこんな話をしてくれた。64年の東京五輪の頃だ。「ソ連選手団に紛れ込んでコワレンコという男が来日したのですがひそかに帰国。何かあると思っていたら、フルシチョフ失脚の政変です」。鉄のカーテンの向こう側の緊迫した情勢をいち早くつかんだ。宿泊したホテルに中野出身者がいた。「戦時中、参謀本部は諜報のため何人かを潜らせていて、要員がまだ勤めていたんです」
コワレンコと話す口調がどこか懐かしげだった。対日工作の責任者だった。公安調査庁時代の好敵手だったのだろう。
秋が深まった頃、牟田氏は東京・四谷三丁目の居酒屋「酒房 一」を訪ねた。あるじの中森珂一(かいち)氏の父茂樹氏(92年に74歳で死去)も中野学校出身で南洋の激闘地ラバウルで戦った。最近、父を思い出すという。話の最中、珂一氏が重い病気にかかっていると聞いた牟田氏は「私もがんを経験し半身不随です。
諦めはいけませんよ」と声をかけた。帰りがけに珂一氏の弟の名前が「誠」と知り、牟田氏は驚いたふうだった。
「誠」と聞き、前出の太郎良譲二氏の話を思い起こした。譲二氏は中野学校出身者の子ども、孫たちの世代で組織する「中野二誠(にせい)会」の会長を務める。第2世代の戦友会は他に例がないだろう。その譲二氏にはもう一つの顔がある。68年、巨額使途不明金問題に端を発した日大闘争の闘士であり、今も時代の証言者の一人として発言している。全共闘運動のさきがけだったが、それと陸軍中野学校とが結びつかなかった。
疑問を口にすると、「左翼やセクトとは無縁の不正を許さないという『誠』の戦い。父もその点で共感し、バリケードの中まで来てカンパしてくれた。それぞれの誠があるんだよ」。
秘密戦とは何だったのか。「武力戦争を防ぐためです」と牟田氏。ただ、と言い添えた。「武力戦の拡大で秘密戦はできなくなった。中野の悲劇です」。ふと、英諜報機関出身の作家ジョン・ル・カレの晩年の長編「スパイたちの遺産」のエピローグが頭をよぎる。老いた元英情報部員が自身の仕事を顧みて言う。「世界平和のためだ、それが(???)なんであれ」
妻は13年前に亡くなった。2人の娘はとうに独立し1人暮らしである。不自由は、の問いかけには応えず、趣味の歌を見せてくれた。<いくさの火やみてやすらぎとりもどし亡き妻とみし伊豆の踊り子>。「家内には苦労をかけました」。何事も恐れぬフクロウのような表情に、はじめて悲しみの色がほんのりとさした。
珂一氏は牟田氏と会って2週間後に他界した。父の享年に1歳及ばなかった。直前まで店を開いていた。中野の教えという「倒れて後止(や)む」の人生だった。
◆今回のストーリーの取材は隈元浩彦(くまもと・ひろひこ)(オピニオングループ記者)
1985年入社。東京社会部、ヘミングウェイ編集長、山形支局長、夕刊編集部長などを経て、2018年から20年春までサンデー毎日編集長。著書に「私たちはどこから来たのか」。今年還暦を迎える。はるかなる夢は「生涯現場、生涯記者」。写真は手塚耕一郎が担当した。
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