【現代思想とジャーナリスト精神】

価値判断の基軸は自らが判断し思考し実践することの主体であるか否かであると考えております。

広原盛明氏における『石井731部隊検証の新たな展開』の転載   櫻井 智志

2019-11-18 09:00:51 | 転載
2018年12月06日 

広原氏の『つれづれ日記』7回に及ぶ石井731部隊の論究は長文となる。そのため本稿は、転載に徹し、小生の考えは別稿に回す。
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【731部隊検証の新たな展開(1)】「満洲第731部隊軍医将校の学位授与の検証を京大に求める会」が結成された
 2011年9月、「15年戦争と日本の医学医療研究会」(以下、「戦医研」という)の第9次訪中調査団に同行して、中国黒竜江省ハルビン市の731部隊遺跡調査に参加してからもう8年余の月日が流れた。この間、戦医研の会誌(第12巻第1号、2011年12月)に2つの論文、「731部隊を建設した日本の建設業者」「中国東北部ハルビン731部隊遺跡訪問記〜731部隊の世界遺産登録をめぐって〜」を投稿したことが切っ掛けで、私はその後、幾つかのイベントやプロジェクトに参加することになった。
 ひとつは、上記論文がハルビン市社会科学院731研究所の手で翻訳され、70冊を超える文献シリーズ、『七三一問題国際研究中心文集(上下)』(中国和平出版社、2015年7月)の「国外研究」の1編として収録されたことだ。もう一つは当該論文を読んだ吉林省長春市の偽満州皇宮博物院から今年10月に招聘状が届き、関東軍100部隊(731部隊支部の馬畜防疫部隊)の遺跡調査をめぐって研究員の方々と突っ込んだ議論を交わすことになったことである(後日詳述)。
 国内では、一昨年あたりから安倍政権の下で防衛省の軍事研究(委託研究)が大学・研究機関に波及するに及んで、日本学術会議で議論が始まり、軍事研究への警戒感が急速に高まった。日本学術会議は2017年3月24日、「軍事的安全保障研究に関する声明」を発表し、「戦争を目的とする科学の研究は絶対にこれを行わない」旨の1950年声明、及びこれを確認した「軍事目的のための科学研究を行わない」旨の1967年声明を継承すると発表した。
このような危機意識を共有する京都の研究者間においても、戦医研の中心メンバーである西山勝夫氏(滋賀医大名誉教授)を中心に、軍事研究の極致ともいうべき731部隊での人体実験を担った京都大学(医学部)に対して、二度とこのような事態を引き起こさないためにも軍事研究の検証を求めるべきとの声が高まり、「満洲第731部隊軍医将校の学位授与の検証を京大に求める会」(以下「検証求める会」という)が今年1月20日に結成された。ハルビン市生まれの私も、その共同代表の1員として参加することになったのである。
 731部隊と京都帝国大学医学部との関係は極めて深い。部隊長の石井四郎軍医中将をはじめ、その「片腕」と言われた増田知貞軍医大佐と内藤良一軍医中佐はいずれも京都帝国大学医学部出身であり、731部隊の創設と運営に直接関わった中心人物である。そして、当時の医学部教授の指示により多くの若手教官が「技師」として731部隊に派遣され、彼らは731部隊の中核メンバーとして人体実験に従事している。
西山氏が京都大学図書館で調べた学位授与記録によると、京都帝国大学医学部出身の731部隊関係学位授与者は戦前戦後(1927〜1960年)を通して34人に上り、これらのほとんどが(石井部隊長が人体実験結果を全てアメリカに提供したことの見返りに)戦争責任の追及を免れて帰国を果たしていた。またその後、731部隊当時の研究成果を基にして、京都大学医学部教授や医学部長をはじめ、全国各大学の医学部教授、学部長、病院長、学長などに昇進している。本人はもとより当該大学においても731部隊との関係には一切触れることなく、また医学医療界も彼らの戦争責任に関しては完全に沈黙を守って戦後の20世紀をやり過ごしてきたのである。
したがって「検証求める会」が発足した時、このような医学医療界の総無責任体制が蔓延する中で、しかも70年前の731部隊関係者の学位授与に関する検証を京都大学に求めることは極めて困難との見方が支配的だった。有体に言えば、検証を求めても門前払いされるのが関の山だと思われていたのである。ところが2018年3月28日、偶然とはいえ京都大学が「軍事研究は行わない」とする方針を公式サイトで発表したのである。聞くところによれば、京都大学は2017年3月の日本学術会議の声明を受けて学内のワーキンググループを立ち上げ、その議論を経て基本方針を発表したという。
 「京都大学における軍事研究に関する基本方針」の題で公式サイトに掲載された文章は、次のようなものだ。「本学は、創立以来築いてきた自由の学風を継承し、地球社会の調和ある共存に貢献するため、研究の自由と自主を基礎に高い倫理性を備えた研究活動により、世界に卓越した知の創造を行うことを基本理念に掲げています」、「本学における研究活動は、社会の安寧と人類の幸福、平和へ貢献することを目的とするものであり、それらを脅かすことに繋がる軍事研究は、これを行わないこととします」、「個別の事案について判断が必要な場合は、総長が設置する常置の委員会において審議することとします」。
 京都大学の新しい風を感じ取った「検証求める会」は4月14日、京都大学時計台ホールで常石敬一氏(神奈川大学名誉教授、731部隊研究の先駆者)を招いて講演会を開催した。会場には200人近くの市民が詰めかけ、熱気あふれる講演会となった。共同代表の鰺坂真氏(関西大学名誉教授)、池内了氏(名古屋大学名誉教授)なども発言し、西山事務局長が山極寿一京都大学総長と上本伸二医学系研究科長宛の学位授与の検証を求める要請書を読み上げて大きな賛同を得た。こうして7月には、京都大学への要請を行うことが決定された。
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【731部隊検証の新たな展開(2)】京都大学が検証求める会の要請に応じて「予備調査」に着手した

 7月26日、京都大学が会議室を用意して検証求める会の要請趣旨を聞き、要請書を受理した。大学側からは、研究倫理・安全推進担当副学長の野田亮氏(医学系研究科教授)をはじめ、当該事務局の室長など5人が出席した。検証求める会からは鰺坂、池内、広原の共同代表、西山事務局長、賛同人の福島雅典氏(医学部名誉教授)など7人が出席した。会は出席者の配席表が予め用意され、当日は配席表にしたがって名札が置かれるなど、かなり緊張したものだった。
 野田副学長の挨拶の後、西山事務局長が要請書を読み上げ、国内外からの賛同署名500名余を手渡した。共同代表3人及び福島氏が要請趣旨についてそれぞれ発言し、大学側の真摯な対応を求めた。これに対して、野田副学長は以下のように述べられた。
(1)皆さんの要請を深く受け止める。(2)過去を変えることはできないが、未来に生かすようにしたい。(3)未来に生かすということは、現在の問題としてとらえ、過去の検証をすることも含まれている。(4)皆さんの言われたことを執行部で検討する。(5)9月上旬に大学執行部で検討し、その結果を会に報告する。 またこれに関連して、当該事務局室長は「大学として必要であれば、医学系研究科として調査することになる」と付け加えた。
 9月18日、野田副学長より西山事務局長に対して以下のようなメールが届けられた。「この度、貴殿からの旧満州第731部隊軍医将校の学位授与の検証に関する要請について、『京都大学における公正な研究活動の推進等に関する規程』及び『京都大学における研究活動上の不正行為に係る調査要項』を準用し、当該論文に関する調査を実施することといたしました。つきましては、当該要請書に関しすでにご提出いただいた資料以外に貴殿がお持ちの関係資料がございましたら、平成30 年9 月25 日(火)までに、研究倫理・安全推進室までご提出頂けますでしょうか。それをもちまして、予備調査を開始いたします。なお、追加の資料がない場合もその旨ご連絡いただきますようお願いいたします」。
9月26日、検証求める会は当該通知に対して、「当会は、この回答を当会が要請する検証の具体的措置の更なる一歩であり、画期的なものとして受け止め、関係資料を期限までに提出いたしました。京都大学が『過去を変えることはできないが、未来にいかす』との方針で速やかに予備調査を終え、さらに進んで、過去を真摯に省みる本調査の実施を決定されることを当会は要請いたします」との回答を送り、同日に記者会見を開いて内容を公表した。各紙の反応は大きかった。以下は、各紙9月27日の見出しである。
 〇朝日新聞:「731部隊論文『人体実験の疑い』、京大 調査開始を決定」
 〇毎日新聞:「人体実験の疑い、京大論文調査へ、731部隊軍医に学位」
 〇読売新聞:「731部隊論文 京大調査へ、ペスト研究で人体実験の疑い」
 〇産経新聞:「人体実験疑いの731部隊論文、京大、予備調査の方針」
 〇京都新聞:「731部隊将校に博士号、京大が検証 有識者グループに回答」
 各紙ともほぼ同様の内容であるが、その一例として読売新聞記事(抜粋)の内容を紹介しよう。
 「西山氏らが問題視するのは、ペストの感染拡大に蚤が果たす役割を研究した香川県出身の軍医将校の論文。将校は京都帝大医学部の出身で1945年、文部大臣(当時)の認可を基に医学博士の学位授与が決まった。将校は戦時中に戦死している。論文はサルの動物実験を基にしたとされるが、『頭痛、高熱を訴えた』などの記述がある。このため西山氏らは人体実験が行われた疑いが強く、倫理上の問題があると主張している。西山氏らは7月下旬に野田亮・副学長ら大学幹部と面談し、論文の検証を求め、9月18日に野田副学長から『調査を実施する』と記したメールが届いた。1〜2カ月かけて予備調査を行い、その後、本調査に入る予定という。西山氏は『京大は誠実に過去の問題と向き合おうとしている。画期的な決定だ』と話した」。
 この決定に関して、私が記者会見で述べた内容は以下の通りである。
(1)検証求める会の要請に応えて、京都大学が「予備調査」を実施するとの今回の決定は、京都大学が長年731部隊との関係を不問に付してきた過去の経緯から考えると、「歴史的決定」ともいえる重みを持っている。
(2)しかも、研究倫理担当副学長が医学系研究科教授であることは格別の意義を有している。なぜなら、研究倫理担当副学長は研究科の枠を超えて選出されるポストであり、医学系研究科以外の教授が担当しても何ら不思議ではない。その場合には、担当副学長と医学系研究科との間で意思疎通が必ずしもうまくいかにことも考えられるが、しかし、今回の決定は今年4月から担当副学長に就任した野田医学系研究科教授の下での決定であるだけに、背景には医学部での何らかの合意があると考えるのが自然であろう。当該室長が「大学として必要であれば、医学系研究科として調査することになる」と付け加えたことも、そのことを裏書きしている。
(3)日本学術会議が軍事研究に関するこれまでの声明を再確認し、京都大学がそれに応えて「軍事研究は行わない」と公式サイトで発表したことも、この決定に大きく影響を与えていると思われる。日本学術会議での軍事研究に関する討議では山極壽一氏(京都大学総長)の果たした役割が大きく、そのことが同氏の学術会議会長就任につながり、さらには京都大学の声明公表へと発展したことは周知の事実である。このような基本姿勢を表明した京都大学において、検証求める会の要請を拒否することは難しかったのではないか。
 「予備調査」は通常30日以内とされているが、60日に及ぶ場合もあるとされているので、恐らく11月下旬には京都大学からの回答が届くものと思われる。この場合の判断は、(1)予備調査の段階で検証を終える、(2)本調査によって本格的な検証を進める、の2つに分かれる。検証求める会は、本調査における本格的かつ真摯な検証を求めており、その要請は必ずや受け止められるものと期待している。
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【731部隊検証の新たな展開(3)】偽満州皇宮博物院での100部隊遺跡調査が本格化している

 国外に目を移すと、中国東北部の731部隊の本拠地、黒竜江省ハルビン市では、陳列館の拡張整備や基地全体の公園整備に加えて、731部隊の本丸ともいうべき「ロ号棟」(マルタ収容施設、人体実験室など)の発掘調査が進み、このほどが『侵華日軍第731部隊旧祉、細菌実験室及特設監獄考古発掘報告』が出版されるなど飛躍的な進展が見られる。
 一方、満州国皇帝・愛新覚羅溥儀の皇宮が設けられていた首都新京(吉林省長春市)においても、現在は偽満州皇宮博物院となっている一連の宮内府建造物及び庭園などの大掛かりな改修・修復工事が進められている。これらの建造物は、皇帝溥儀の執務室だった勤民楼(塩専売管理所を改修した中古建築)、宮内府新館として建てられた懐遠楼、仮宮廷本殿の同徳殿および皇宮を取り巻く門や塀、監視所、地下防空壕、プール、テニスコート、庭園、車庫、馬場、厩舎などから成っているが、いずれも国庫補助金による突貫工事で当時の全容が蘇りつつある。
 長春市と長年親交のある日中友好協会愛知県支部の家田修氏を仲介にして、偽満州皇宮博物院から戦医研事務局長の西山勝夫氏(滋賀医大名誉教授)と私に招請状が届いたのは今年9月半ばのことである。聞けば、戦後70年を機に戦医研の会誌論文20本を編集した『NO MORE 731日本軍細菌戦部隊〜医学者・医師たちの良心をかけた究明〜』(文理閣、2015年8月)の中の数葉の論文がハルビン市社会科学院731研究所の手で翻訳され、それを読んだ偽満州皇宮博物院館長や研究員が長春市の100部隊(関東軍軍馬防疫廠、細菌部隊として人体実験も行った)の遺跡調査に当たり、意見交換を求めてきたのである。
 西山氏が招聘されたのはそればかりではない。同氏が心血を注いで発掘してきた『関東軍防疫給水部留守名簿』が国立公文書館との数年に及ぶ折衝の末、遂に公開され、『十五年戦争・陸軍留守名簿資料集①〜⑤』(不二出版、2018年8月〜2019年11月)として出版されることになったことがある。当該留守名簿は、関東軍細菌部隊の全容を解明するには不可欠の基礎資料であり、100部隊全員の名簿がわかる留守名簿は、偽満州皇宮博物院にとっても100部隊遺跡調査のための最重要資料と位置づけられている。
 長春市西南部数キロの郊外・猛家屯に位置する100部隊は、1945年当時900名を超える隊員を擁し、規模は50ヘクタール(東西500m×南北1000m)に達する広大な敷地を抱えた軍馬防疫廠であった。100部隊では軍馬の治療や防疫、ワクチン製造などが行われ、細菌兵器(鼻疽菌など)の大量生産体制が整いつつあった。しかし731部隊と同様、終戦と同時に建物は徹底的に破壊され、関係資料は全て焼き払われた。その結果、遺跡は僅か地下室の構造や煙突の一部が残っているにすぎない。
 また戦後は、100部隊の敷地全体が大規模な自動車工場用地に転用され、自動車工場が移転した後は、長春市の郊外開発計画の一環であるマンション団地開発が進んでいるので、最近になって遺跡公園に指定された区域はその一部にすぎない。これは、ハルビン市の731部隊遺跡とは決定的に異なる点であり、もはや遺跡の一部を「記録保存」する程度の余地しか残されていないのが実情であろう。
 加えて、これまで吉林省や長春市による本格的な調査も行われていないことから、100部隊関係の資料(写真、文献、図面など)はほとんどないと言っても過言ではない(皆無に近い)。西山氏はともかく、731部隊の基地建設について僅かばかりの知識しか持っていない私までを招聘して意見を求めようとするのは、苦肉の策というべきか、それとも熱意のあらわれというべきか、とにかく雲をつかむような話だったのである。
 そんな五里霧中ともいうべき状況の中で偽満州皇宮博物院の研究員たちが遺跡調査に取り組むのだから、その苦労は推して知るべしというところだろうが、それでも若手研究員たちは意気軒昂で、博物院幹部の意気込みも並々ならぬものがあった。これは帰国してから気付いたのであるが、中国の国家重点ニュースの公式サイト「中国網日本語版(チャイナネット)」の「中日問題」の「政治欄」2018年9月22日版には、「中国侵略旧日本軍の細菌戦第100部隊の秘密に迫る」と題する偽満州皇宮博物院の取り組みに関する詳細なルポルタージュ記事が掲載されている。
文中の資料を整理している若手研究員の写真は9月14日付の撮影だから、ごく最近になって100部隊遺跡調査が「国家重点ニュース」として取り上げられたことがわかる。いわば、731部隊をはじめとする中国全土の戦争遺跡調査が進むなかで、長春市の100部隊遺跡調査も看過できない対象として浮かび上がったのではないか。そして、溥儀皇宮の整備計画の進展とともに100部隊の遺跡調査と整備計画が次の課題として位置づけられたのであろう。
 そういえば、私たちの長春訪問時期と同記事中の偽満皇宮博物院趙継敏院長の発言は符合する。趙院長は「私たちは知られざる当時の様子、非人道的な行為を明らかにするために国内外の専門家や学者と共同で研究を進め、多くの史料と実物を探している。今後は展示のデジタル化などを通して、より多くの人に日本侵略者の細菌戦が世界の人々に与えた影響を知ってもらいたい」と述べており、ちょうどその頃に私たちの招聘が決まったものと思われる。
だが、100部隊について「予備知識ゼロ」の私にとっては、正直なところこの意見交換はいささか重荷だった。そこで日中友好協会の家田氏の紹介で、長春市の皇宮修復工事に携わり、偽満州皇宮博物院とも親交のある丸田洋二氏(清水建設ОB)の助言を受けることにした。丸田氏は卓越した建築技術者であるばかりでなく、大著『曠野に出現した都市新京―満洲清水組の足跡』(櫂歌書房、2015年12月刊)を著した歴史家でもある。博多市在住の丸田氏を訪ねたところ、氏の博学には心底驚いた。

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【731部隊検証の新たな展開(4)】偽満皇宮博物院での議論経過

 長春訪問の前に、丸田氏(清水建設ОB)の助言を受けたことは極めて有益だった。氏は元同僚2人とともにわざわざ博多駅まで私を出迎えていただき、その後長時間にわたって現地での活動の話をしていただいた。聞けば、氏は戦中の新京生まれとのこと、ハルビン生まれの私と似た経歴の持ち主の方だけに、特別の時間を割いていただいたのかもしれない。
氏の長春での活動は、大別して満州清水組(清水建設満州支店)の建築活動の足跡をたどり建築作品の詳細な解説図録をつくること、及び宮廷建築の絹煕楼や同徳殿の修復工事を指導したことに分かれる。前者の成果は、大著の上梓によってすでに世に知られているが、後者の功績は中国側の報告書や現地の展示物を見なければわからない。氏から提供された資料に基づいてその一部を紹介しよう。
氏が満州清水組の建築調査を始めたのは2011年のことで、その後2014年、2015年の3回にわたって現地調査を実施している。皇宮博物院との出会いは、氏が3回目の訪問時に学芸員(研究員)との面会を求めたことを切っ掛けにして生まれ、王院長、趙副院長との会見が実現したことで宮廷建築に関する資料交換など様々な交流が始まったという。当時、すでに宮廷建築の本格的な修復計画が進んでいたこともあり、話は自ずと修復工事に関する技術的助言に及ぶことになって、そこから氏の現場指導が始まったのである。
2018年3月刊行の『溥儀及其時代、満州建築特集』(PUYI THE LAST EMPEROR & TIMES,偽満皇宮博物院・長春溥儀研究会編集)によると、戦前の日本建築学会新京支部編集の「満州建築概説(歴史編)」(翻訳)、丸田氏の寄稿文「清水組が関与した満州建築」(翻訳)などが掲載されているほか、周波工事主任による宮廷建築の詳細な修復工事報告「偽満皇宮博物院絹煕楼、同徳殿保護修繕工事綜述」が掲載されている。丸田氏は、皇宮博物院の建築顧問として2016年3月からから2017年8月の間7度にわたって現場指導を行い、その豊富な経験に裏打ちされた高度な技術指導は、報告書の中でも高く評価されている。また、修復工事が完了した同徳殿の2階には大型パネル展示で修復工事の過程が詳しく解説されており、その中には氏の現場指導の写真が大きく掲げられている。
私たちの招聘は、そのような氏の貢献に基づく日本人技術者や研究者への信頼の上に実現したものと思われるが、こと100部隊遺跡調査に関しては氏から事前に有力な手掛かりを得ることができなかった。これは当然のことであり、関東軍関係の建設工事は当時一切秘匿され、設計図面や工事図面は全て関東軍の手によって厳重に管理されていたからである。私の731部隊論文においてもこの点については、『清水組社報』(昭和18年10月号)を引用して少しばかり言及しているが、当該社報には「社員諸君に告ぐ!経済攪乱及び防諜問題に関して」との見出しが付され、末尾には「附記 軍並ニ軍需工場ニ関スル引請工事は掲載セズ」とあるから、関東軍発注の工事に関しては担当者以外知らず、記録も無い状況が普通だったと思われる。
 こうして10月22日の長春到着以来、4日間にわたって視察と議論が繰り返されるハードな日程が始まった。ハイライトは2日目の100部隊遺跡調査、そして3日目の関連資料の解釈の仕方や陳列方法に関する研究員との議論だった。「中国網日本語版」(チャイナネット)の記事にもあるように、皇宮博物院ではこの冬に「中国侵略旧日本軍の細菌戦第100部隊の秘密に迫る」と題する展示をオープンする予定であり、そのための準備作業が急ピッチで進められていたからである。
 すでに展示シナリオも作成され、会場には皇宮博物院が日本で収集してきた関係資料が所狭しと並べられており、準備作業が終盤に差し掛かっていることが伺われた。察するところ西山氏と私が呼ばれたのは、展示の中核となる100部隊組織図と施設配置図の作成が難航していたからではないかと思われる。なぜなら、来場者の理解を得るには、細部の資料よりもまず100部隊全体の概要を示す必要があり、そのためには何よりも部隊組織図と施設配置図(できれば配置模型図)の展示が求められていたからである。
 したがって西山氏に対しては、8月末に公開されたばかりの100部隊留守名簿の分析方法や応用の仕方についての質問が殺到し、私に対しては資料が皆無に近い100部隊の施設配置図をどのように展示するかが議論の焦点になった。西山氏に向けられた留守名簿に関する議論は次の機会に譲るとして、私に関する質問は突然1枚の配置図を示されることから始まった。出典もわからず示された資料についてコメントすることに戸惑ったが、後でこの配置図は100部隊隊員・三友一男著の『細菌戦の罪―イワノボ将官収容所虜囚記』(泰流社、1987年)の中の挿絵であることが分かった。三友一男は1941年から1944年まで第100部隊に所属し、人体実験に関わっていたことからハバロフスク軍事裁判の被告の1人となり、15年の有罪判決を受けた人物である。
  残念ながら私は当該資料を読んでおらず、その場では常識的な回答しかできなかった。帰国してから京都ではどの大学図書館にも公立図書館にもなく、僅かに1冊だけが国会図書館関西分館に収蔵されていることがわかった。関西分館での閲覧とコピーによって、資料の性格や内容も漸く分かったという次第である。
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【731部隊検証の新たな展開(5)】100部隊施設配置図について

 731部隊についての出版や論文は、日本国内に限ってもおそらく数百点を下らないものと思われる。これに対して、100部隊関係の資料は皆無に近く、公刊されたものとしては僅かに100部隊隊員・三友一男の『細菌戦の罪―イワノボ将官収容所虜囚記』(泰流社、1987年、以下「三友回顧録」という)が存在する程度である。三友回顧録は、副題がハバロフスク軍事裁判の収容所であるが、100部隊関係の記述が全270頁のうち60頁余を占めており、決して少なくはない。また、「あとがき」には次のように記されている。
「戦後何人かの人が細菌戦部隊のことについて筆をとっているが、その原典ともいうべきものは、1950年モスクワ外国語図書出版所が出した『細菌戦用兵器の準備および使用の廉で起訴された、元日本軍軍人の事件に関する公判記録』ではなかろうかと思われる。しかし残念なことにこの記録は、勝者が敗者を裁いた記録というべきものであって、731部隊についてはいざ知らず、こと100部隊に関する部分については誇張されていることが多く、必ずしも事実を正確に伝えているものとは言い難い。にもかかわらず、真実が明かされることのないまま、誤って伝えられていることがやがて真実として定着しようとしているのが現状である。こうしたことから、裁判に係わった被告の1人として、記録に取り上げられなかった部分や、細菌戦部隊、とりわけ100部隊のありのままを書き残して置くことが必要だと考えるようになった」
「100部隊の事に関しても、私が勤務していたのは、部隊12年有余の歴史の中僅か3年半に過ぎなかったし、そこでやっていた業務についても、軍事機密という厚い壁の中にあって、1技術雇員という立場でしかなかった私の知り得たものは、自分の所属している実験室か、せいぜい科内で行われていたことだけであって、部隊の全貌など到底解る筈はなかったからである。加えて、100部隊に関する資料は終戦時に処分され、何一つ残されているものはない」
三友回顧録がどの程度信頼に足る資料であるか、他に比較する資料文献がないので検証する術がない。しかし「100部隊のありのままを書き残して置くことが必要だと考えるようになった」という執筆動機、また「1技術雇員という立場」をわきまえた抑制された筆致から考えると、当時の100部隊の様子がかなり正確に描写されているのではないかと思われる。
加えて、筆者が100部隊の技術員として採用されたのは旧制中学校を卒業したばかりの18歳の時であり、そこで初めて体験した現地の光景が強烈な印象として脳裏に刻まれたことは想像に難くない。事実、そこで描写さている一連の記述は臨場感に富んでおり、当事者(とりわけ青年の感性)でなければ捉えられない情景が随所で展開されている。以上、三友回顧録が100部隊基地の概要を把握する点で重要な資料だと認識した上で、100部隊基地の概況を記そう。
(1)100部隊は、新京特別市の南西数キロの寒村「孟家屯」に位置していた。基地は赤煉瓦造りの1群の建物で、門柱には部隊の標識もなく、衛兵所には軍属が何人かいるだけで、「部隊」というイメージとは凡そかけ離れた閑散とした場所であった(三友回顧録21頁、以下同じ)。
(2)100部隊設立の経緯は以下の通りである(24〜27頁)。
 ・1933(昭和8)年、関東軍の満州侵略にともない、軍馬補給のため100部隊の前身、臨時病馬廠が新京寛城子に創設。
 ・1936(昭和11)年8月、軍令陸甲満州駐屯部隊編成下令により臨時病馬廠を母体として関東軍軍馬防疫廠が設立。
 ・1939(昭和14)年、孟家屯に新庁舎を建設して新京寛城子から移転。翌年には付属施設、厩舎、倉庫等も完成。
・1940(昭和15)年、部隊名を満州100部隊に命名。
(3)1936(昭和16)年当時の部隊編成は以下の通りである(28〜29頁)。
・100部隊の編成は、総務部50〜60名、第一部(検疫)30〜40名、第二部(試験研究)150〜200名、第三部(血清製造)100名、第四部(資材補給)20〜30名、牡丹江支廠50名、総計500名。
・各部にはそれぞれ厩舎があり、軍用に適さなくなった軍馬約1000頭が飼育され、実験・血清製造用動物として利用されていた。
(4)100部隊建物配置図および第二部庁舎平面図が「付図」として掲載されている(26、44頁)。ただし、この「付図」は建物や部屋の位置をシングルラインで示したメモ程度のもので、正確な測量に基づく配置図でもなければ、きちんとした建築設計図でもない。
 ・建物は、本部庁舎、各部庁舎(実験室、培養室、資料室など)、医務室、解剖室、厩舎、倉庫、車庫、食堂、衛兵所、下士官教育隊などから構成。
 ・筆者が働いていた二部庁舎は2階建であるが、平面図は「二階」「地階」との名称になっている。これは上階が地上より高く、下階が半地下構造になっているため、上階を「二階」、下階を「地階」としたものと思われる。
 私のパソコンはPDFの装置がないので「付図」を再掲できないのは残念だが、皇宮博物院との議論は、この程度の図面を基にしてどれだけ正確な施設配置図を再現できるかというものであった。

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【731部隊検証の新たな展開(6)】100部隊施設配置図をめぐる議論について

 皇宮博物院の研究員からいきなり100部隊の建物配置図と称する付図のコピーを示され、これについて意見を求めたいと言われたときはいささか戸惑ったが、その時点で、私が述べたコメント(一連の質疑応答も含めて)をまとめると、次のようになる。
(1)通常「部隊」といえば兵舎(宿舎)がなければならないが、付図には宿舎が記されていない。理由として考えられるのは、感染の恐れがある細菌実験施設群から宿舎を隔離するために別の場所に立地しているか、それとも書き落としたかのどちらかであろう。しかし、車庫や倉庫など小規模な建物までが記されているところを見ると、書き落としたとは考えられず、別の場所に宿舎があると考えるのが妥当である。
(2)「配置図」という場合は、正確な測量に基づく敷地の規模と形状、建物の大きさや形、敷地における位置、道路との関係、方位、縮尺などが図面として記されていなければならない。だが、付図には建物名称と位置が示されているだけで、建物は機械的に並べられているにすぎない。したがって、当該付図を歴史的資料として展示する場合は、「100部隊建物配置図」ではなく、「100部隊施設配置概念図」あるいは「100部隊施設配置構成図」として示すのが適当ではないか。
(3)100部隊基地の全体像を示す場合には、731部隊(平房)とハルビン市との位置関係が重要であったように、「100部隊施設配置概念図」に加えて、新京特別市と100部隊基地の位置関係(鉄道、道路網、宿舎を含めて)を示す「100部隊位置図」が必要であろう。これは、100部隊が軍馬防疫・治療の任務を果たすためには、満州全域に展開している関東軍部隊と鉄道・道路で結ばれていることが不可欠であり、また新京特別市の医科大学や伝染病院との協力関係も必要だったからである。
 これらの諸点について、帰国してから三友回顧録の関係箇所を調べてみた。以下はその抜粋である。
(1)100部隊の性格と兵舎(宿舎)の位置について。
 「昭和16年4月6日の朝、(略)宿舎に予定されている大同公園近くの民康ビルに立ち寄って旅装を解き、これから100部隊に向かうところである。トラックは陸軍官舎の立ち並ぶ大房身を過ぎ、新京特別市をとりまく環状道路まで来ると左に折れた」(19頁)
 「やがて、1キロ程先の次のうねり頂に赤煉瓦造りの建物の一群が見えてきた。(略)トラックは土埃をあげて坂を登りきると、稜線上の部隊の前で停車した。門柱には部隊の表札もなく、衛兵所には腰に拳銃を下げた軍属が何人かいるだけで、想像していた『部隊』というイメージとは凡そかけ離れた、それは何処かの工場の入り口といった風情であった。正門の向こうに見える構内には人の影もなく、軍馬防疫廠ということであったが、馬の影すら見当たらなかった」(21頁)
 「教育が終って、新京市内の民康ビル合同宿舎から孟家屯(連京線で新京から南へ2つ目の駅)の技術員宿舎へ移り、いよいよ各部科へ配属されることになった」(43頁、連京線:大連と新京を結ぶ鉄道幹線)
 「私が二部に配属になってから2カ月後に始まったこの動員によって、召集兵が100部隊にも続々集まってきて、本部前の広場に幕舎を張って野営を始めた。今まで兵隊の居なかった部隊の様相は一変し、衛兵所には兵隊が立哨し、隊内を動哨が巡視するようになった。100部隊が軍隊らしい姿を見せたのは、後にも先にもこの時ばかりである。勿論、こうした異常状態は100部隊だけのことではなかった。私達は孟家屯から毎日徒歩で通っていたが、その途中にある補給廠にも兵隊が溢れ、ドラム缶や軍需品が続々と運び込まれて、周囲の畑の中へ積み重ねられていた」(52頁、この動員:1941(昭和16)年7月の「関東軍特別大演習」といわれる対ソ大動員作戦)
 「(1945年8月)11日の夜半、軍司令部から在京部隊隊員家族に疎開命令があり、12日大房身官舎に居った人達は新京駅から貨車に乗って南下した。これらの人々は14日午後朝鮮の定州に到着し、ここで下車している。(略)12、13日と決戦準備や書類の焼却に当たっていた部隊に対し、14日になって朝鮮の第17軍司令部の指揮下に入って、現編成のまま防疫業務に従事するよう関東軍司令部から命令があり、資材の梱包や貨車への積載が行われていたが、軍関係の秘密研究機関を湮滅(いんめつ)せよとの陸軍省軍事課の指示に基づき、関東軍司令部から100部隊の破壊命令が出された。そこで15日、天皇陛下の戦争終結放送を聞いた後、部隊の爆破、焼却や、繋留馬の殺処分が開始された」(80頁)
  これらの文章から、①100部隊は軍馬防疫を担う試験研究部隊であり、通常の戦闘部隊とは性格が異なること、②戦闘部隊の場合は常に臨戦態勢下にあるため、緊急事態に備えて基地内に兵舎が設けられていることが鉄則であるが、試験研究部隊の場合はその必要性がないため、基地外に兵舎(宿舎)が設けられていたこと、③兵舎は、階級によって新京郊外の将校・下士官・技師などの陸軍官舎(家族もいた)および数か所に散在する雇員・傭人宿舎(女子軍属も多数いた)に分かれていたこと、④雇員・傭人宿舎には、様々な職種の単身者や家族持ち要員が住む「合同宿舎」が数棟あったこと、⑤青年技術員を一斉採用するため、単身者用の「技術員宿舎」が作られたらしいこと(731部隊の少年兵宿舎を想起させる)、⑥技術員宿舎は基地に徒歩で通える距離にあったこと、⑦細菌兵器製造にかかわる技術員は、秘密保持のため同一の合同宿舎に集められたこと(後述)、などがわかる。
 しかし、問題は100部隊基地の大部分が現在すでに中高層マンション団地として開発されており、基礎部分の発掘を含めてもはや遺跡調査は不可能に近いことであろう。僅かに公園用地として残された一部の敷地には、煙突や焼却施設の一部が保存されているものの、基地全体をイメージできるだけの状態にはない。となると、100部隊の全容を知るには、展示物の解説や資料説明が重要になるが、この付図コピーがどれだけ役立つかはこれからの課題である。

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【731部隊検証の新たな展開(7)最終編】100部隊の実験室、細菌兵器の開発について

 もう1つの付図コピーは、三友が配属された二部一科(細菌、試験研究)の実験室がある「二部庁舎」(1941年当時)の平面図である。しかし、平面図といっても部屋の名称、番号、位置関係などが記されているだけで、間口や奥行きは記されていないので個々の部屋の大きさや庁舎全体の面積はわからない。それでも、二部庁舎23号室(一科科長の実験室)で働いていた筆者の文章からは、実験室の組織や仕事の内容が一定程度わかるので、以下、関係個所を抜粋してみよう(長文の場合は要旨)。
【細菌実験室について】
 「当時、一科の科長は井田清技師で、科には5つの実験室があったが、私は科長の実験室23号で勤務することになった。当時の二部庁舎は付図(Ⅱ)のようなもので、半地下式の構造をしていた建物の地階は、ほとんど使用されず空室同然のままであった」(44〜45頁)
 「科長の井田技師は、100部隊の中でも特異な存在であった。昭和18年、100部隊に細菌兵器の開発が指令されるまで、細菌謀略に対する実験・研究を企画・指導していた中心人物がこの人だったのである。井田技師は北海道大学で応用化学を修めた後、ヨーロッパ、主としてドイツに留学していたが、その時代に細菌戦について関心を抱いたようである。帰国後伝染病研究所に勤務し、結核の研究等を行っていたが、100部隊が創設された翌年、高級廠員並河中佐によって研究員として迎えられた」(45頁)
 「井田技師がどのような任務を帯びて、何処で何をしていたか、部隊の中でも知っている人は少ない。昭和20年、平桜中尉が関東軍司令部で高橋獣医部長に対し、ハイラル派遣隊の活動報告を行った際、部隊長若松少将と共に立ち会っていることからして、部隊の中枢にあって細菌戦の準備に参画していたことが窺えるが、こうした傍ら、軍司令部の第二部を始め、特務機関、憲兵隊、731部隊、516部隊、陸軍中野学校等との連絡に携わっていた」(45頁、516部隊:チチハルで化学兵器・毒ガスの実戦研究を行っていた部隊)
 「私が23号室に配属になった当時、実験室には松井技手、技術員1期生の吉松雇員がいた。(略)部屋には他に、作業員と女子軍属がいて全部で7名であった。他の実験室もほぼ同様な人員構成だったので、一科の総員は約40名と言うことになる」(48頁)
【細菌兵器の開発について】
 「(関東軍特別演習によって)100部隊の中では、第一部では内地から輸送されてくる軍馬の検疫に忙殺されていたし、第三部では予防液や免疫血清の製造で毎晩遅くまで残業が続き、第二部からも防疫班要員が大勢各地へ派遣されていった。そうした中でも、二部の各科では残ったもので研究業績が続けられていたが、私たちの一科は全く違った状況になっていた。将校・技師・技手・古参技術員は全員新編成の野戦防疫廠に動員されていったので、研究業務ができなくなり、実験室は資料や薬品を整理したうえ封印してしまい、閉鎖状態になってしまった」(52頁)
 「秋風の立つ頃になって、営庭の兵隊はそれぞれの駐屯地へ進駐し、100部隊もやがて元の状態に戻った。一科にも他の部・科から人員が補給され、業務が再開された。『関特演』後、部隊の人員は増員され、100部隊は700〜800名、牡丹江支廠も100名近くになっている。23号室はそのまま井田技師の実験室として残されたが、肝心の井田技師はこの頃から思い出したように顔を見せるだけになり、何処へ行っているのか、部隊内でも余り姿を見かけなくなってしまった」(53頁)
「昭和18年に入って戦局は悪化し、この間、関東軍からは正規の師団だけでも20個師団にも及ぶ精鋭が逐次南方戦線へ抽出されていった。そこで大本営参謀本部は、弱体化した関東軍に対して北方防衛力強化のため、新兵器の開発を指令した。100部隊における業務も新兵器の開発指令に対応し、従来の防疫業務に加え、積極的に細菌戦の準備をすすめることになり、これを担当する部署として第六科が新しく作られた。それまでほとんど使用されていなかった二部庁舎の地階が改造され、細菌兵器製造工場へと変貌していった」(68、69頁、要旨)
 「昭和19年の4月に、陸軍獣医学校から山口少佐が六科の科長として着任し、一科の勤務員を中心とした50名近い人員を以て正式に新しい科が発足した。今迄にも増して、科の業務は極秘事項として秘匿されることになり、六科の技術員は孟家屯の技術員宿舎を出て、部隊近くの清光寮合同宿舎に移された」(70〜71頁)
 「何かと秘匿されたことの多かった六科の中でも細菌戦資料室の存在はまた格別で、そうした部屋があったということさえ気付かなかった者も多かったのではなかろうか。その部屋は、100部隊が行ってきた一連の細菌戦研究の成果を展示した部屋だったのである。731部隊と合同で細菌砲弾の発射実験を安達で行ったこともあった。細菌戦資料室には、これらの演習の様子が写真や地図や図解等をもって示されており、炸裂した砲弾の破片等も展示してあった。この部屋にはこうしたものの他に、万年筆型の注射器、細菌爆弾発射用小型拳銃といった謀略用細菌兵器等も展示されてあったが、それらよりも私が意外に思ったのは、満洲国に対するスパイ、謀略員、麻薬密輸等の侵入ルートやそのアジト、連作先などが図式化されて掲示してあったことである。このことは、100部隊就中井田技師が細菌戦の研究に携わっていたばかりでなく、憲兵隊や特務機関とも深くかかわりを持っていることを物語っているものであった」(76〜77頁、要旨)
 皇宮博盛明ない。また建物に関しても地階の基礎部分と一部の煙突を残して全て爆破されたので、これも建物を復元する手掛かりにするには程遠い。731部隊の場合もほとんどの建物が爆破されたが、基地が広大でかつ施設数が多かったために全ての建物を完全に爆破するまでに至らなかった(建物の残骸が多数残っていた)。また、戦後になって基地内に建てられた工場やアパートが順次撤去され、現在は遺跡発掘調査を大々的に実施できる条件が整っていることも100部隊とは根本から事情を異にする。
 このように100部隊の遺跡調査は困難極まりない状況にあるが、それでも三友回顧録の記述から凡その輪郭を描くことはできる。以下、731部隊との対比において100部隊の特徴を挙げてみよう。
(1)731部隊
 731部隊は当初から細菌戦部隊として創設され、部隊基地はハルビン市から70数キロも離れた寒村・背蔭河に細菌実験場がいったん建設された。その後、関東軍参謀本部の指令によりハルビン市郊外平房地区に移転することになり、細菌実験室、特設監獄、専用飛行場、専用鉄道駅、農場などを含む一大研究基地が計画的に建設された。731部隊は日本の細菌兵器研究の中心であり、8部(総務、基礎研究、実戦研究、防疫防水、細菌製造、教育、器材、診療、憲兵隊)、5支隊(牡丹江、林口、孫呉、ハイラル、大連)を持つ巨大部隊であった。
731部隊の基地面積は約6平方キロ、本部区域に隣接して約3千数百人の隊員が生活する居住区域が設けられ、基本的な生活を維持するための各種施設が整備されていた。宿舎は、軍隊の階級に応じて高等官官舎、判任官官舎、官舎、独身官舎、少年隊舎、衛兵隊舎、練兵隊舎などに分かれており、大講堂・映写室、階級別の食堂、酒保、共同浴場、洗濯工場、運動場、家族診療所、国民学校(小学校)、神社、妓楼などもあった。
 731部隊がハルビン市郊外に立地した最大の理由は、平房地区が細菌研究のための地理的条件を満たしていたことに加えて、ハルビン市がソ連国境にも近く対ソ作戦の拠点になっていたこと(マルタの確保も含めて)、そして高等学歴の医学者を一定期間、家族ぐるみで満洲に移住させるためには、ヨーロッパ風の都市文化に溢れたハルビン市の存在が、彼らの週末の余暇生活のためにも、子女の中高等教育のためにも不可欠だったからである。
(2)100部隊
一方、100部隊は軍馬調達・補充のための防疫業務を担う臨時病馬廠として新京駅近くの市街地に設立されたが、戦線の拡大に伴い関東軍軍馬防疫廠に格上げされ、新京郊外の孟家屯に新基地を建設して移転した。100部隊はもともと軍馬防疫を目的とする試験研究部隊であり、現地の軍馬を調達するに当たって病馬を選別するなど、伝染病対策が主たる任務だった。対ソ作戦のため細菌兵器の製造に着手したのは後になってからのことである。
組織は、総務と3部(検疫、血清製造、器材補給)、1支廠(牡丹江)の構成であり、隊員数は約千名、厩舎を含む基地面積は0・5平方キロであった。隊員宿舎は基地外に散在していたことから、日常生活は新京市内の各種施設に依拠して営まれていた。宿舎は部隊内の階級や業務に応じて割り当てられ、陸軍官舎、合同宿舎、技術員宿舎などに分かれていたが、細菌兵器の製造に際しては関係者が全員同一宿舎に集められることもあった。
 以上の点から、100部隊は731部隊に比べて組織も小さく(隊員数では4分の1)、基地の規模も小さい(基地面積では12分の1)試験研究部隊であったが、満洲のほぼ中央部に位置し、関東軍各部隊の軍馬補充・防疫の任務を果たす中心部隊であった。とりわけ注目されるのは、100部隊が大連と新京を結ぶ連京線の終着駅であり、かつ新京からハルビンに至る京浜線の出発駅である新京駅と固く結びついていたことである。これは関東軍が移動する際、あるいは日本から軍馬を調達する際に大連港での軍馬の乗船地検疫が不可欠であったこと、および大連港から満州各地への軍馬輸送をするには、新京を経由する北方幹線ルートが最も有効だったからである。
 皇宮博物院で近く始まる100部隊の展示においては、単に部隊遺跡や関連資料の解説にとどまらず、731部隊との関係も含めて関東軍全体の立地戦略にも広く目を向けることが望まれる。これまでにない斬新な視点からのシナリオの下に、充実した企画展になることを期待して簡単なまとめとしたい。
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