【現代思想とジャーナリスト精神】

価値判断の基軸は自らが判断し思考し実践することの主体であるか否かであると考えております。

【色平哲郎氏のご紹介】ドキュメント「感染症利権」医療を蝕む闇の構造(ちくま新書)山岡淳一郎

2020-08-22 13:17:28 | 転載
色平哲郎氏のご紹介で、山岡淳一郎氏著書『ドキュメント「感染症利権」医療を蝕む闇の構造(ちくま新書)』を知った。深い示唆に富み感銘を受けた。原文の章に仮題のみ付して、色平氏の紹介文章だけを以下に記す。ぜひ店頭でご購読をお薦めします。(櫻井智志)
構成
➀エイズと人間宣言
➁若月俊一の厳しい闘いと結実
➂世界の医学研究と日本の「医局講座制」
➃SARS発生克服の歴史と17年後のコロナ登場



本文開始
Ⅰ:エイズと人間宣言
【ドキュメント「感染症利権」医療を蝕む闇の構造(ちくま新書)山岡淳一郎、225p】
 1994年8月、「横浜国際エイズ会議」が開かれた。壇上にはカーテンが下ろされ、客席から日本人被害者の姿は見えなかったが、アメリカや欧州の被害者は実名を公表し、顔をさらして聴衆と向き合う。アメリカ人男性のスピーチが聴衆の心を揺さぶった。「私は昔、エイズであることを隠していました。ところがある日、娘にこういわれました。『お父さんはいつも私たちに正直に生きろといっているわね。そのお父さんが、なんで病気のことを隠しているの』。娘のこの言葉はショックでした。この日から私は、自分がエイズであることを隠すのをやめたのです」

  高校を卒業したばかりの川田龍平(現・参議院議員)は、「このスピーチを聞いて、僕もみんなの前で話をしたいと思うようになりました」と著書「日本に生きるということ」に記している。川田のほかにも18歳の日本人青年が実名公表を訴えていたが、親の仕事や兄弟の結婚、就職などでの差別を考えると踏みきれず、ひっそりと亡くなった。
「そんな悲しくて辛い最期にならないために、一人でも多くの人が胸を張って歩ける世の中にしたい。このとき僕は、はっきりした人生の目標ができたのです。『薬害エイズの真実』のシンポジウムが終わった後、参加した各国の被害者と相談して、『ノー・モア・サイレンス』というアピールを出すことになりました。


 『もう黙っているのはやめよう。声を出して訴えていこう』という宣言です、、、僕は、この瞬間に実名を公表する決意を固めたのです」と、川田は自著で述べている。
1995年、3500人もの「人間の鎖」が厚生省庁舎を取り囲み、96年には厚生省前での座り込み運動が3日間行われる。厚生大臣の菅直人(のち首相)は国の法的責任を認め、山が動く。96年3月29日、7年にわたる裁判で和解が成立した。

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Ⅱ:若月俊一の厳しい闘いと結実
【ドキュメント「感染症利権」医療を蝕む闇の構造(ちくま新書)山岡淳一郎、156p】


 話の舞台を、戦争が終わる前の信州、千曲川沿いの南佐久郡臼田町(現・佐久市)の佐久病院(現・JA長野厚生連佐久総合病院)に移そう。
こんにちの佐久総合病院グループは、高度専門医療と救命救急を担う「佐久医療センター」(450床)と地域に密着した「佐久総合病院本院」(309床)、南佐久の中核病院である「小海分院」(99床)を中心に老人保健施設や訪問看護ステーションなどを傘下に収め、信越地方有数の医療複合体に発展している。「農民とともに」をスローガンに掲げ、国際保健医療にも熱心で「地域医療のメッカ」と称されているが、そのころはまだ診療所に毛が生えたような病院だった。ここに敗戦の5か月前、3人目の医師として

 若月俊一(わかつきとしかず、のち院長、名誉総長:1910ー2006)が赴任して、山あいの町は驚天動地の医療革命の最前線に変わった。庶民にとって医者にかかるのは身上を潰すほどの「ぜいたく」なのに、若月は誰でも診る。それどころか「手術」までして命を助けてくれる。驚くなという言うほうが無理だった。若月は、1936年に東大医学部を卒業している。東大分院外科の大槻菊男教授のもとで修行を積んだ。徴兵された若月は、軍医見習士官として牛込の陸軍軍医学校で学ぶ。ノモンハンに出征する前、十代で患った肺結核がぶり返し、「東一(臨時東京第一陸軍病院)」に半年間入院した。退院して除隊の命令が届いた。人の運命は不思議なものだ。あの石井四郎と若月は面識があった。後年、若月は「石井軍医のことは知っていた。酒席の誘いも受けた。部隊にも勧誘されたが、母親の体調がすぐれないとか何とか、ごまかして逃げた。同期の戦友はみんな死んだよ」と語っていた、と佐久病院の医師が教えてくれた。石井から逃げて運命が変わったひとりだろう。太平洋戦争中、若月は「大衆の中に身をひそめて大衆とともに闘うことが本すじ」と考え、石川島造船所や立川飛行機、石川県の小松製作所などの軍需工場に入った。診療をしながら労働災害の調査をし、学会で何度か発表をした。
それが特別高等警察(特高)の目にとまる。治安維持法違反の容疑で、東京の目白警察署に勾留された。まる1年、留置所に入れられ、毎日、尋問で責め立てられて、唐突に釈放される。恩師の大槻教授を訪ね、若月は畳に手をついて詫びた。そのときの大槻の反応を、自伝『村で病気とたたかう』にこう記している。
「いや、君が主張したようにこの戦争はどうも負けらしい。
東京もまもなく焼野原になるだろう。僕は天皇の侍医だから、天皇といっしょに東京にとどまって死ぬつもりだ。しかし、君のような新しい考えをもっている者は、生きのびて国民のために尽くしてくれないか。国破れて山河ありというが、たとえ日本が負けても日本の民族がほろびるようなことはあるまい。新しい日本の再建のために、山の中で農民のために働く気はないか」
こうして信州・臼田の佐久病院への赴任が決まったのだった。


 臼田の町は、北に浅間山、南は八ヶ岳連峰がそびえ、高山列車の小海線がコトコト走るのどかさと、旧天領の封建的な気風が入り交じっていた。若月は地域で唯一の外科医だった。手術治療をしなくては意味がない。しかし手を消毒する滅菌水の設備もなかった。どうにか設備を整え、3か月後には乳がんの手術を行う。外科治療は外来だけでは無理なので、病院内の物置を片づけ、患者を入院させた。臼田の人たちは目を白黒させて驚く。というのも、それまで臼田や近隣の町村の農民は医療に手が届かなかった。医師は、遠い小諸や長野から呼ばなければ診てもらえない「ぜいたく」な相手だった。医師に往診を頼むことを、「芸者をあげる」に似たニュアンスで「医者をあげる」と言う。
よほどの資産家でなければ、医者をあげての大盤振る舞いはできず、手術など夢の夢だったのである。若月の診療は衝撃的だった。『ノルトマン、キルシュネルの手術書』全10巻や『ドイツ医学中央雑誌』と首っ引きで帝王切開から慢性中耳炎、泌尿器の病気と、あらゆる手術を行う。しかも手術場に観覧席を設け、患者の家族に手術を必ず見学してもらい、術後の経過を一緒に見守った。当初、手術に恐怖心を抱いていた人たちも、その効果に目をみはる。青年団や婦人会と連絡を取って、「出張診療」にも出かけた。若月の名は近郷近在に知れわたる。戦争が終わり、町にも虚脱感が漂ったが、若月の診療は止まらなかった。農民でも手術が受けられて、医療に革命が起きたようだった。
しかし、1946年に佐久病院に従業員組合が結成され、初代組合長に若月が選ばれて上部団体の長野県農業会(のち解体されJA農業協同組合)と団体交渉をしたあたりから、雲行きがおかしくなった。農家の「純粋青年」たちが、病院は臼田の秩序を壊す、と反感を持つ。メーデーで若月組合長は「労働者農民の統一戦線をつくろう」と演説し、医師や看護師が白衣のデモ行進をすると、即座に反動が現れた。

 長野県警察で長く特高を務め、公職追放された人物が、事務長の肩書で佐久病院に赴任してくる。地元の保守勢力は、露骨に病院運営を妨げた。
「命が惜しくば直ちに臼田を撤退すべし」
「汝の一族に鉄槌下るべし」と脅迫文が舞い込んだ。
新聞に「病院はアカの巣窟である」と載る。長野県農業会本部は、組合を解散しなければ病院を閉鎖する、と脅した。若月は病院長に就任し、農業会本部との十数回の激しい交渉を重ね、前代未聞の「労働協約」を結ぶ。病院の診療体制は、辛うじて守られた。

 戦後民主主義の価値観がぶつかる混乱期に若月は感染症差別ともわたり合った。そうして佐久病院に「伝染病棟」を建てると言いだしたのだ。またもや町は上を下への大騒動となった。『村で病気とたたかう』をもとに「伝染病棟」建設の顛末を再現しておこう。

「避病舎」と外科手術

若月には、臼田に腰を落ち着けると決めたときから気がかりなことがあった。町のはずれの小さな神社のそばの「避病舎」だ。平屋のそまつな建物で、障子は破れて、畳はぼろぼろ、便所は汚い。井戸にポンプはなく、釣瓶(つるべ)で水をくみ上げる。伝染病にかかった人は、ここに入れられ、一日一度だけ医者の往診を受けた。三度のお粥は保健婦(現・保健師)がこしらえる。農繁期には建物を消毒し、託児所にも利用するのだが、あばら家同然で不衛生きわまりない。伝染病患者は姥捨(うばす)てのような処遇を受けていた。町の衆は「避病舎」ではなく、「死病舎」と陰口をたたく。そのころ、農村には赤痢にジフテリア、腸チフス、発疹チフス、天然痘と伝染病がはびこっていた。若月は、他人ごとではないと思い、寒気がした。

 ある夜、「先生! 先生! 急患です。子どもが大変です」と保健婦が駆け込んできた。眠い目をこすりながら起きていくと、「避病舎にいるジブテリアの子どもが死にそうなんです。喉(のど)のなかが腫れ上がってつまって、夜中になって急に息ができなくなりました。ヒイヒイいって、だんだん顔が紫色に腫(は)れあがってきました。
チアノーゼです。まるで喉を締め上げられているようで、とても見ていられません」と保健婦は息せき切って喋り、若月に手術を哀願した。
「先生の手で気管を切開する手術をやっていただけませんか。たぶん助かります」
若月は気管切開術の経験がなかった。
ジフテリアは、ジフテリア菌による急性感染症である。患者や無症候性保菌者の咳などの飛沫を介して感染する。潜伏期間は2ー5日。感染しても症状が出るのは1割で、多数の無症候保菌者を介して感染する場合がある。症状は、咽頭(いんとう)や喉頭(こうとう)の病変が多く、発熱に嘔吐、頭痛、咳に始まり、扁桃(へんとう)や気道に「偽膜」が形成されて呼吸困難をきたす。

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Ⅲ:世界の医学研究と日本の「医局講座制」
【ドキュメント「感染症利権」医療を蝕む闇の構造(ちくま新書)山岡淳一郎、102p】

 1914年12月15日の衆院本会議では政友会の代議士で医師の若杉喜三郎が賛同者31名とともに提出した「質問主意書」の説明を行った。若杉自身、東京帝国大学医科大学の卒業生である。「青山学長は私情をもって公事を犠牲にし、医科大学長として衛生行政の運用と伝染病の研究を著しく阻害した。その他の教授も平然として後任者を送り込み、反省するどころか、学閥をつくって地位の安泰を図っている。伝研には世界的な発見があるのに大学教授には業績がなく嫉妬心を持っているだけである。配下の助教授、助手は教授の鼻息をうかがっている。こういう薫陶を受けた学生が社会に出ることを考えると、大学は広く世道人心に悪影響を及ぼしているといえる。なぜ政府は大学の教授に対して懲戒を加えないのか」この問責への政府の回答は、「質問のごとき事実なし」の一行であった。

 しかし、若杉の質問は、医学界のパターナリズムの弊害を鋭くえぐっていた。世界の研究所は、コッホ、パスツール、北里のような強力なリーダーを頂点に部下が総力を結集している。かたや東京帝大医科大学では、内科や外科の講座ごとの教授は同格同等で、それぞれの教授の下に助教授、助手の序列ができ、「教授の鼻息」が過大視された。
いわゆる「医局講座制」の権威主義が、医学界をおおい尽くしていた。明治の初め、お雇い外国人の教官に師事した日本人学生は、卒業後、ドイツを中心に海外へ留学した。
かれらが帰国すると、次第に外国人教官にとってかわる。

 明治中期、帝国大学は、20の医学講座を設け、16人の教授を就任させた。教授たちは附属病院では各診療科のトップに収まり、助教授、助手を従えて「医局」を束ねる。こうして診療と、教育の講座が重なり、どちらも医局単位で行われて、医局講座制ができあがった。医局講座制は効率よく医学を浸透させるメリットを持つが、結果的に閉鎖的で家父長主義に染まった医師集団を生んだ。教授の胸三寸で、配下の働き先や序列が決まり、忠誠心が試される。若杉の青山糾弾には、私情で左右される医学界への怒りがこもっている。伝研の文部省、東京帝大への移管は、別の見方をすれば、総合研究が医局講座制に呑み込まれたといえるだろう。教授が診療と教育を支配する医学界の強権的体質は、やがて軍靴の音の高まりとともに日本の伝染病研究を、戦慄の人体実験へとねじ曲げる。

 第一次世界大戦中、戦火が及ばない日本は連合国側で「大戦景気」を謳歌した。開戦後わずか5年間で日本の国内総生産は約3倍に増え、工業生産高は5倍増を記録する。「輸出」が成長の原動力だった。産業界は欧州に軍需品を送り、生産体制が崩れたイギリスに代わってアジア諸国に綿製品を売る。日露戦争の戦費調達で借金まみれだった日本は、一躍、債権国に変わった。「世界のなかの日本」「一等国の仲間入り」と民草は喜んだ。


 だが、またしても戦争から平和への時代の変わり目に恐るべき伝染病がパンデミックを起こし、世界は震え上がる。史上最悪のインフルエンザ、「スペイン風邪」が襲来した。

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Ⅳ:SARS発生克服の歴史と17年後のコロナ登場
【ドキュメント「感染症利権」医療を蝕む闇の構造(ちくま新書)山岡淳一郎、239p】

 SARSは発生から約4か月も隠された。2002年11月、広東省仏山市の村で管理責任者を務める男性が地元の医院で「原因不明の肺炎」の治療を受けた。SARSの第1号患者だった。あっという間にアウトブレイクが起きる。患者は高熱を発し、筋肉痛や喉の痛み、悪寒を訴え、呼吸困難に陥った。人工呼吸器が装着され、胸部のX線写真にはまっ白な肺が映っていた。11月27日、WHOのGOARN(地球規模の感染症に対する警戒と対応ネットワーク)の一員であるカナダの国際保健衛生専門家が、中国のインターネット・メディアの観察と分析をとおして「インフルエンザのアウトブレイクが起きている」とWHOに報告した。数日後、WHOは、中国当局に照会するが、反応は鈍い。胡錦濤(こきんとう)が共産党総書記に選ばれたばかりの中国政府は、感染症の流行を伏せようとし、他国の介入を嫌う。2003年2月、ようやく中国側は、広東省で肺炎が流行し、305人が感染して5人死亡という簡単な情報を出す。肺炎の原因はクラミジアという微生物で、感染は収束したと付け足した。
だが、実態は正反対だった。

 3月初旬、WHO西太平洋事務局(WPRO・本部マニラ)の専門家らと中国疾病予防管理センターの研究者との会議が北京で開かれ、感染者が倍増し、死者が25人に増えたと報告される。ベトナムのハノイでは、商談にやってきた中国系アメリカ人男性が発症し、フレンチ病院に入院した。男性は人工呼吸器につながれたまま容態が悪化して、家族の強い要望で香港の病院に転院した後、亡くなる。男性は香港のホテルでウイルスに感染していた。男性の治療に当たったフレンチ病院の医師と看護師が次々と倒れる。院内感染で20人以上の職員がベッドに横たわった。同僚の医師や看護師が感染を恐れて逃げ出すなか、WHOハノイ事務所のイタリア人医師、カルロ・ウルバニは患者のなかに入って診療をつづける。ウルバニはフレンチ病院を閉鎖して現場にとどまり、患者を治療しながら世界中の研究者にウイルスの正体をさぐる情報を送りつづけた。ベトナム政府と交渉し、ハノイで未知のウイルスが広まっている事実の公表に踏み切らせる。香港の病院でも院内感染が拡大した。WHOは3月12日、ウルバニの情報をもとに非定型肺炎の症例に関する「グローバルアラート(世界への警告)」を出す。カナダのトロント、シンガポール、インドネシア、フィリピン、タイと患者発生の報告が続々と入る。3月15日、謎の肺炎をSARS(重症急性呼吸器症候群)を名づけた。すべてが「時間との勝負」だった。そしてウルバニは、、、ハノイで初めて男性患者を診てから27日目に急逝した。ウルバニ自身も感染していたのだ。人工呼吸器を取りつけて息も絶え絶えのウルバニは最期にこう言い残したという。

「My wife, my children.」
ウルバニには同郷の幼なじみの妻と、二人の息子と一人の娘がいた。


権力の面子が犠牲者を増やす

 現場での決死の努力とはうらはらに中国政府は、その後も非協力的だった。WHOは2003年4月2日、過去にない荒療治を行う。中国の広東省と香港への「渡航延期勧告」を出したのである。世界貿易機関(WTO)に加盟して世界市場とリンクした中国にとって渡航延期の措置は痛手だった。WHOの女性事務局長グロ・ハーレム・ブルントラント(小児科医・元ノルウェー首相)は、中国を名指しで責めた。「WHOと国際的な専門家たちが、より早い段階で支援できたほうがよかったのは明らかです。WHO事務局長として言いたい。世界のどこであれ、次に何か新しい、奇異な疾病が察知されたとき、できるだけ早く、わたしたちに関わらせるべきです」隠蔽を許さない強いメッセージだった。
たとえ中国からの拠出金が減っても正論を言わなければ世界の保健衛生の根幹が崩れるという危機感がにじんでいる。胡錦濤政権の面子はつぶれた。渡航延期勧告で人や物資の流れが制限される。SARSは流行した約8か月の間に8098人の症例が報告され、774人が亡くなった。病原体のSARSコロナウイルスは、致死率約10パーセントの強い毒性をもっている。感染者の8割は軽症で2割が重症化した。17年後に現れる新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)のプレビューだった。
<了>


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