米内内閣の成立と終焉(昭和15年1月16日~昭和15年7月16日)
米内内閣は、在職半年、終始陸軍ファッショの倒閣運動の矢面に立たされ、ついにそのボイコットに、支え得ずして倒れた。そこには、阿部内閣の退陣
の際、陸軍の内閣を期待していたことが裏切られたため、陸軍を感情的にしたことも争えないが、それはむろん主な理由ではなく、欧州におけるドイツ
の一時的な成功に幻惑され、いわゆる東亜新秩序を、一気に実現しようとするファッショ的風潮が、一時に堰を切って流れ出していたと見るべきであろ
う。ともあれ、一方に陸軍、他方に近衛・木戸・平沼ラインの猛烈な攻撃をうけながら、終始中道を見失わないですすみ、滔流を隻手をもってせきとめ
ていた米内内閣が退陣するや、たちまちにして三国同盟が成立し、太平洋戦争突入の足場をつくって行くのである。
(実松譲『米内光政正伝』光人社、p.206)
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日本軍が北部仏印に進駐(昭和15年9月23日)
富永恭次と佐藤賢了の軍紀違反による横暴。
昭和陸軍"三大下剋上事件"の一つ。
(他は満州事変、ノモンハン事件)
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●●●●●「日独伊三国軍事同盟」締結(昭和15年9月27日)●●●●●
これが大東亜戦争への「ポイント・オブ・ノー・リターン」だった。
近衛内閣、松岡洋右外相の電撃的(国家の暴走)締結。
松岡洋右は日独伊にソ連を含めた四国軍事同盟締結を目論でいたが、ヒトラーとソ連の対立が根強く、実現ははじめから不可能であった。またヒトラーは三国軍事同盟を、対ソ作戦の礎石と考えていた。
過去、平沼・阿部・米内の三内閣はこの締結を躊躇して倒れていた。
(当時、陸(海)軍は陸(海)軍大臣を辞職させ、その後任候補を差し出すことを拒否してその内閣を総辞職に追い込んだり、新内閣の陸(海)軍相候補を差し出すことを拒否して内閣成立を阻止したりすることができた。総理大臣は法的に全く無力であった)
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<米内光政の名言>
「同盟を結んで我に何の利ありや。ドイツの為火中の栗を拾うに過ぎざるべし」
「ヒトラーやムッソリーニは、どっちへ転んだところで一代身上だ。二千年の歴史を持つ我が皇室がそれと運命を共になさるというなら、言語道断の沙汰である」
「ジリ貧を避けようとしてドカ貧になる怖れあり」
「バスに乗りおくれるなというが、故障しそうなバスには乗りおくれた方がよろしい」
(阿川弘之『大人の見識』新潮新書、p.123)
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近衛の失策(近衛は日本を戦争に向かわせた重大な犯罪人)
三国同盟に反対していた吉田善吾海軍大臣(山本五十六・米内光政・井上成美の海軍英米協調・反戦トリオの流れをくむ)を神経衰弱にして辞任させ、後任に戦争好きの及川古志郎を海軍大臣に推薦した。
『小倉庫次侍従日記』(「文藝春秋」2007年4月号)
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「三光政策(作戦)」(殺しつくし、奪いつくし、焼きつくす政策)
南京大虐殺が、日本軍の組織的犯罪であるとされるのは、捕虜の大量殺害があるからだが、それ以上に、一般民衆にたいする虐殺として問題なのは三光作戦である。中国共産党とその軍隊である八路軍が、日本軍の戦線の背後に浸透して解放区、遊撃区を作り上げたのにたいして、日本軍とくに華北の北支那方面軍は、1941年ごろから大規模な治安粛正作戦を行なった。
これは日本軍自らが、燼滅掃蕩作戦(焼きつくし、滅ぼしつくす作戦)と名づけたことでも示されるように、抗日根拠地を徹底的に破壊焼却し、無人化する作戦であった。実際に北支那方面軍は、広大な無人地帯を作ることを作戦目的に掲げている。
中国側はこれを「三光政策」(殺しつくし、奪いつくし、焼きつくす政策)と呼んだのである。三光作戦は、南京大虐殺のような衝撃的な事件ではないが、長期間にわたり、広大な地域で展開されたので、虐殺の被害者数もはるかに多くなっている。
(藤原彰『天皇の軍隊と日中戦争』大月書店、pp.18-19)
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軍隊というのはカルト教団だ
あのみじめな思いは憶えています。軍隊では、人は人間として扱われません。そこには権力者が決めた階級があるだけで、戦後は、人権がどうの差別がどうのと言うようになりましたが、そんなことを言ったら軍隊は成り立たない。福沢論吉は、天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず、と言いましたが、とんでもない、わが国の権力者は天ではないから、人の上に人を作り、人の下に人を作りました。
彼らは天皇を現人神と思うように国民を教育し、指導しました。その言説に背く者は、不敬不忠の者、非国民として罰しました。
階級や差別のない社会や国家はありません。天皇が日本のトップの人であることは、それはそれでよく、私はいわゆる天皇制を支持する国民の一人です。けれども、アラヒトガミだの、天皇の赤子だのというのを押しつけられるとうんざりします。・・・
軍隊というのは、人間の価値を階級以上に考えることがなく、そうすることで組織を維持し、アラヒトガミだのセキシだのというカルト教団の教義のような考え方で国民を統制して、陸海軍の最高幹部が天皇という絶対神の名のもとにオノレの栄達を求めた大組織でした。(p80)
・・・
昭和10年代のわが国はカルト教団のようなものでした。あの虚偽と狂信には、順応できませんでした。思い出すだに情けなくなります。自分の国を神国と言う、世界に冠たる日本と言う。いざというときには、神国だから、元寇のときのように神風が吹くと言う。アラヒトガミだの、天皇の赤子だのと言う。祖国のために一命を捧げた人を英霊だの、醜の御楯だのと言う。今も、戦没者は、国を護るために命を捧げた英霊といわれている。
しかし、何が神国ですか、世界に冠たる、ですか。神風ですか。カルト教団の信者でもなければ、こんな馬鹿げたことは言いませんよ。・・・
(大東亜)戦前は、軍人や政府のお偉方が、狂信と出世のために多数の国民を殺して、国を護るための死ということにした。日本の中国侵略がなぜ御国を護ることになるのかは説明できないし、説明しない。そこにあるのは上意下達だけで、それに反発する者は、非国民なのです。
やむにやまれぬ大和魂、などと言いますが、なにが、やむにやまれぬ、ですか。軍人の軍人による軍人のための美化語、あるいは偽善語が、国民を統御し、誘導し、叱咤するためにやたらに作られ、使われました。八紘一字などという言葉もそうです。中国に侵略して、なにが八紘一宇ですか。統計をとったわけではありませんから、その数や比率はわかりませんが、心では苦々しく思いながら調子を合わせていた人も少なくなかったと思われます。
しかし、すすんであのカルト教団のお先棒を担いで、私のような者を非国民と呼び、排除した同胞の方が、おそらくは多かったのではないか、と思われます。(p106)
(古山高麗雄『人生、しょせん運不運』草思社)
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死を恐れるな、従容として死に赴く者は大義に生きることを喜びとすべきである、というのであった。日本軍の兵士は、「大義に生きる」という死生観を理想としたのである。しかしここでつけ加えておかなければならないのは、陸軍の上層部や指導部に属していた者のほうがこのような死生観をもっていなかったということだ。
たとえば、この戦陣訓を軍内に示達した当の東條英機は、戦争が終わったときも責任をとって自決していないし、あろうことか昭和二十年九月十一日にGHQ(連合国軍稔司令部)の将校が逮捕にきたときにあわてて自決(未遂)を試みている。東條のこの自決未遂は二重の意味で醜態であった。
・・・(中略)・・・
「名を惜しむ」にあるのは、捕虜になって屈辱を受けるようなことがあってはならない、生を惜しんでのみっともない死に方はその恥をのこすことになるという教えであり、故郷や家族の面子を考えるようにとの威圧を含んでいた。これもまた兵士たちには強要していながら、指導部にいた軍人たちのなかには虜囚の辱めを受けるどころか、敗戦後はGHQにすり寄り、その戦史部に身を置き、食うや食わずにいる日本人の生活のなかで並み外れた優雅な生活をすごした中堅幕僚たちもいた。
戦陣訓の内容は、兵士には強要されたが指導部は別格であるというのが、昭和陸軍の実態でもあった。私は、太平洋戦争は日本社会を兵舎に仕立てあげて戦われてきたと考えているが、その伝でいうなら、この戦陣訓は兵士だけでなく国民にも強要された軍事指導者に都合のいい〈臣民の道〉であった。
(保阪正康『昭和史の教訓』朝日新書、pp.199-203)
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・日ソ中立条約締結(昭和16年4月13日)
これによりソビエトは実質的には満州国を承認。スターリンの中国軽視は毛沢東のスターリンへの不信感を高めた。さらにアメリカも強い不快感を持ち、ソビエトとの経済交流を中止し、ルーズベルトは重慶政府(蒋介石)へP-40戦闘機100機を提供した。
・独ソ戦開始(昭和16年6月22日)
独ソ戦は日ソ中立条約のみならず、日独伊三国同盟の意義すらも、根本的に打ち砕くものであった。
・日本は関東軍特種演習(関特演)の名の下に約70万人の大軍を満州に集結(昭和16年7月2日)。
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アメリカ対日石油輸出全面禁止、在米の日本資産凍結(昭和16年8月1日)
<軍令部総長、永野修身の上奏>
こうした禁輸措置のあとに、南部仏印進駐の主導者たちはすっかり混乱している。軍令部総長の永野修身は、アメリカが石油禁輸にふみきる日(八月一日)の前日に、天皇に対米政策について恐るべき内容を伝えている。
「国交調整が不可能になり、石油の供給源を失う事態となれば、二年の貯蔵量しかない。戦争となれば一年半で消費しつくすから、むしろ、この際打って出るほかはない」と上奏しているのだ。天皇は木戸幸一に対して、「つまり捨鉢の戦争をするということで、まことに危険だ」と慨嘆している。
(保阪正康『昭和史の教訓』朝日新書、p.215)
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・通称「ハル・ノート」(平和解決要綱)が日本側に手渡された。
(昭和16年11月26日)
中国や南方地方からの全面撤退、蒋介石政府の承認、汪兆銘政府の不承認、三国同盟の形骸化が主たる項目で昭和に入っての日本の歴史を全て白紙に戻すという内容だった。(--->日米開戦へ)
・昭和16年12月1日、この年5回目の御前会議(日米開戦の正式決定)
「日米交渉を続けながら、戦備も整える。しかし11月29日までに交渉が不成立なら、開戦を決意する。その際、武力発動は12月初頭とする」。東条英機「一死奉公」の羅列:東条にとっては、国家とは連隊や師団と同じであり、国民は兵舎にいる兵士と同じだった。
・大東亜戦争(太平洋戦争)開戦
(昭和16年(1941)12月8日午前3時25分:
ホノルル7日午前7時55分、ワシントン7日午後1時25分)
当時日本政府の視線は、戦争の日米戦争としての側面に集中したが、世論のレベルではむしろ日本の対アジア侵略の側面があらためて強調された。開戦そのものについても、戦争が真珠湾攻撃によってではなく、タイ、マレー半島への日本陸軍の無警告による先制攻撃で始まったことに注意が向けられた。時間的にも真珠湾で空襲の始きる午前3時25分(日本時間)より1時間以上早い午前2時15分に日本陸軍俺美支隊がマレー半島(英領)コタバルに上陸し、激戦を始めていた。また真珠湾空襲開始のほぼ30分後手前4時)から日本軍がタイの各地に続々と進攻、上陸を行い、タイ領マレー半島でも地上戦闘がタイ軍との間で行われた。
(荒井信一『戦争責任論』岩波書店、pp.128-129)
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重松譲(当時ワシントン駐在武官・海軍)の証言
「あのバカな戦の原因はどこにあるか。それは陸軍がゴリ押しして結んだ三国同盟にある。さらに南部仏印進駐にある。
私は、日本が三国同盟を結んだ時、アメリカにいたのだが、アメリカ人が不倶戴天の敵に思っているヒトラーにすり寄った日本を、いかに軽蔑したか、よくわかった。その日本がアメリカと外交交渉をしたところで、まとまるわけはなかったんだ」
「陸軍にはつねに政策だけがあった。軍備はそのために利用されただけだ」
(保阪正康『昭和陸軍の研究<上>』)
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腰ぬけ知識人だらけの国
戦中の知識人の多くは、飢えと暴力が支配する状況下で、自分の身を守るために、迎合や密告、裏切りなどに手を染めた。積極的に戦争賛美に加担しなかったとしても、ほとんどすべての知識人は、戦争への抗議を公言する勇気を欠いていた。
こうした記憶は、「主体性」を求める戦後思想のバネになったと同時に、強い自己嫌悪と悔恨を残した。たとえば、法政大学教授だった本多顕彰は、戦中をこう回想している。
それにしても、あのころ、われわれ大学教授は、どうしてあんなにまで腰ぬけだったのであろう。なかには、緒戦の戦果に狂喜しているというような単純な教授もいたし、神国日本の威力と正しさを信じてうたがわない教授もいるにはいた。……けれども、われわれの仲間には戦争の謳歌者はそうたくさんにはいなかったはずである。だのに、われわれは、学園を軍靴が蹂躙するにまかせた。……〔軍による〕査察の日の、大学教授のみじめな姿はどうだったろう。自分の学生が突きとばされ、けられても、抗議一ついえず、ただお追従笑いでそれを眺めるだけではなかったか。……
……心の底で戦争を否定しながら、教壇では、尽忠報国を説く。それが学者の道だったろうか。真理を愛するものは、かならず、それとはべつの道をあゆまねばならなかったはずである。
真に国をおもい、真に人間を愛し、いや、もっとも手ぢかにいる学生を真に愛する道は、べつにあったはずである。……反戦を結集する知恵も、反戦を叫ぶ勇気も、ともに欠けていたことが、われわれを不幸にし、終生の悔いをのこしたのである。
こうした「悔恨」を告白していたのは、本多だけではなかった。南原繁は、学徒出陣で大学を去っていった学生たちを回想しながら、こう述べている。「私は彼らに『国の命を拒んでも各自の良心に従って行動し給え』とは言い兼ねた。いな、敢えて言わなかった。もし、それを言うならば、みずから先に、起って国家の戦争政策に対して批判すべきべきであった筈である。私は自分が怯懦で、勇気の足りなかったことを反省すると同時に、今日に至るまで、なおそうした態度の当否について迷うのである」。
(小熊英二『<民主>と<愛国>』新曜社、pp.177-178)
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「歴史的意思の欠落」
日本は真に戦争か和平かの論議を論議を行ったといえるだろうか。
・・・日本がアメリカとの戦争で「軍事的勝利」をおさめるとはどういう事態をさすのか。その事態を指導者たちはどう予測していたのだろうか。まさかホワイトハウスに日章旗を立てることが「勝利」を意味するわけではあるまい。・・・実際に戦争の結末をどう考えていたかを示す文書は、真珠湾に行きつくまでのプロセスでは見当たらない。・・・強いていえば、11月15日の大本営政府連絡会議で決まった「対米英蘭戦争終末促進ニ関スル腹案」というのがこれにあたる。
・・・日本は極東のアメリカ、イギリスの根拠地を覆滅して自存自衛体勢を確立し、そのうえで蒋介石政府を屈服させるといい、イギリスはドイツとイタリアで制圧してもらい、孤立したアメリカが「継戦の意思なし」といったときが、この戦争の終わるときだという。
この腹案を読んだとき、私は、あまりの見通しの甘さに目を回した。ここに流れている思想は、すべて相手の意思にかかっているからだ。あるいは、軍事的に制圧地域を広げれば、相手は屈服するとの思いこみだけがある。
日本がアジアに「自存自衛体勢を確立」するというが、それは具体的にどういうことだろうか。自存自衛体勢を確立したときとは一体どういうときか。アメリカ、イギリスがそれを認めず、半永久的に戦いを挑んできたならば日本はどう対応するつもりだろうか。
蒋介石政府を屈服させるというが、これはどのような事態をさすのだろうか。ドイツとイタリアにイギリスを制圧してもらうという他力本願の、その
前提となるのはどのようなことをいうのだろうか。しかし、最大の問題はアメリカが「継戦の意思なし」という、そのことは当のアメリカ政府と国民のまさに意思にかかっているということではないか。・・・
私は、こういうあいまいなかたちで戦争に入っていった指導者の責任は重いと思う。こんなかたちで戦争終結を考えていたから、3年8か月余の戦争も、最後には日本のみが「継戦」にこだわり、軍事指導者の面子のみで戦うことになったのではないかと思えてならないのだ。
・・・真珠湾に行きつくまでに、日本側にはあまりにも拙劣な政策決定のプロセスがある。・・・戦争という選択肢を選ぶなら、もっと高踏的に、もっと歴史的な意義をもって戦ってほしかったと思わざるをえない。
(注:保阪正康氏はこのあと戦争の「歴史的意思」を概観している。まことに明晰で説得力のある考察だが、長くなるので略す。読者各自ぜひ通読されたい)
(保阪正康『昭和陸軍の研究<上>』334ページ~)
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実は、本当に太平洋戦争開戦に熱心だったのは、海軍だったということである。
そこには、「ワシントン軍縮条約」体制のトラウマがあった。
1922(大正11)年、ワシントン会議において軍艦の保有比率の大枠をアメリカ5、イギリス5、日本3、と決められてしまった。その反発が海軍の中でずっと燻り続け、やがてアメリカ、イギリスを仮想敵国と見なしていったのである。昭和9年に加藤寛治海軍大将らの画策で、ワシントン条約の単独破棄を強引に決めて、その後、一気に「大艦巨砲」主義の道を突き進んでいく経緯があった。対米英戦は、海軍の基本的な存在理由となっていた。
またその後も、海軍の主流には対米英強硬論者が占めていく。特に昭和初年代に、ちょうど陸軍で「統制派」が幅を利かせていった頃、海軍でも同じように、中堅クラスの幹部に多く対米英好戦派が就いていったのだ。「三国同盟」に反対した米内光政や山本五十六、井上成美などは、むしろ少数派であった。
私が見るところ、海軍での一番の首謀者は、海軍省軍務局にいた石川信吾や岡敬純、あるいは軍令部作戦課にいた富岡定俊、神重徳といった辺りの軍官僚たちだと思う。
特に軍務局第二課長の石川は、まだ軍縮条約が守られていた昭和
8年に、「次期軍縮対策私見」なる意見書で「アメリカはアジア太平洋への侵攻作戦を着々と進めている。イギリス、ソ連も、陰に陽にアメリカを支援ている。それに対抗し、侵略の意図を不可能にするには、日本は軍縮条約から脱退し、兵力の均等を図ることが絶対条件」と説いていた。いわば対米英強硬論の急先鋒であった。また弁が立ち、松岡洋右など政治家とも懇意とするなど顔が広かった。その分、裏工作も達者であった。
そして他の岡、富岡、神も、同じようにやり手の過激な強硬論者であった。
昭和15年12月、及川古志郎海相の下、海軍内に軍令、軍政の垣根を外して横断的に集まれる、「海軍国防政策委員会」というものが作られた。会は4つに分けられており、「第一委員会」が政策、戦争指導の方針を、「第二委員会」は軍備、「第三委員会」は国民指導、「第四委員会」は情報を担当するとされた。
以後、海軍内での政策決定は、この「海軍国防政策委員会」が牛耳っていくことになる。中でも「第一委員会」が絶大な力を持つようになつていった。
この「第一委員会」のリーダーの役を担っていたのが、石川と富岡の二人であった。「第一委員会」が、巧妙に対米英戦に持っていくよう画策していたのである。
(保阪正康『あの戦争は何だったのか』新潮新書、pp.87-88)
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陸軍と海軍のばかばかしい対立(ほんの一部を紹介)
・20ミリ機関砲の弾丸が、規格が違っていて共用できない。
・空軍が独立せず。(陸軍航空部隊、海軍航空部隊)
・海軍向け、陸軍向け戦闘機。スロットル・レバーの操作が真反対
・ドイツの航空機用エンジン(ベンツ社、DB601型)のライセンス料の二重払い。同じエンジンを別々の独立した会社に依頼。
・陸軍の高射砲、海軍の高角砲
・陸軍の"センチ"、海軍の"サンチ"("サンチ"はフランス流?)
(三野正洋『日本軍の小失敗の研究』)
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「行きあたりばったり」とか「どろなわ」とかいった言葉がある。しかし、以上の状態は、そういう言葉では到底表現しきれない、何とも奇妙な状態である。なぜこういう状態を現出したのか、どうしてこれほど現実性が無視できるのか、これだけは何としても理解できなかった。そしてそれが一種の言うに言われぬ「腹立たしさ」の原因であった。
第二次世界大戦の主要交戦国には、みな、実に強烈な性格をもつ指導者がいた。ルーズヴェルト、チャーチル、スターリン、蒋介石、ヒトラー、たとえ彼らが、その判断を誤ろうと方針を間違えようと、また常識人であろうと狂的人物であろうと、少なくともそこには、優秀なスタッフに命じて厳密な総合的計画を数案つくらせ、自らの決断でその一つを採択して実行に移さす一人物がいたわけである。
確かに計画には齟齬があり、判断にはあやまりはあったであろう、しかし、いかなる文献を調べてみても、戦争をはじめて二年近くたってから「ア号教育」(注:対米戦教育)をはじめたが、何を教えてよいやらだれにも的確にはわからない、などというアホウな話は出てこない。
確かにこれは、考えられぬほど奇妙なことなのだ。だが、それでは一体なぜそういう事態を現出したかになると、私はまだ納得いく説明を聞いていいー-確かに、非難だけは、戦争直後から、あきあきするほど聞かされたがー-。
(山本七平『一下級将校のみた帝国陸軍』文春文庫、pp.44-45)
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兵站や補給のシステムがまず確立したうえで、戦闘を行うというのが本来の意味だろうが、初めに戦闘ありき、兵站や補給はその次というのでは、大本営で作戦指導にあたる参謀たちは、兵士を人間とみなしていないということであった。戦備品と捉えていたということになるだろう。実際に、日本軍の戦闘はしだいに兵士を人間扱いにしない作戦にと変わっていったのだ。
(保阪正康『昭和陸軍の研究<下>』)
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そもそも大東亜戦争について日本軍部の食糧方針は、”現地自給”だった。熱帯ジャングルの豊かさという、今日までつづくひとりよがりの妄想があったのだろう。土地の農民さえ、戦争が始まると、商品として作っていた甘蔗やタバコを止めて、自分のための食品作物に切り換えている。
食糧が問題であることにうすうす気づいた将校たちが考え出したのは「自活自戦=永久抗戦」の戦略である。格別に新しい思想ではない。山へ入って田畑を耕し折あらばたたかう。つまり屯田兵である。ある司令官の指導要領は次の如く述べている。
「自活ハ現地物資ヲ利用シ、カツ甘藷、玉萄黍ナドヲ栽培シ、現地自活ニ努ムルモ衛生材料、調味品等ハ後方ヨリ補給ス。ナホ自活ハ戦力アルモノノ戦力維持向上ヲ主眼トス」
この作戦の虚妄なることは、実際の経過が明らかにしているが、なおいくつか指摘すると、作物収穫までには時がかかるが、その点についての配慮はいっさい見られない。「戦力アルモノ」を中心とする自活は、すでにコレラ、マラリア、デング熱、栄養失調に陥った者を見捨てていくことを意味する。こうして多くの人間が死んだ。
(鶴見良行『マングローブの沼地で』朝日選書 1994: 168)
米内内閣は、在職半年、終始陸軍ファッショの倒閣運動の矢面に立たされ、ついにそのボイコットに、支え得ずして倒れた。そこには、阿部内閣の退陣
の際、陸軍の内閣を期待していたことが裏切られたため、陸軍を感情的にしたことも争えないが、それはむろん主な理由ではなく、欧州におけるドイツ
の一時的な成功に幻惑され、いわゆる東亜新秩序を、一気に実現しようとするファッショ的風潮が、一時に堰を切って流れ出していたと見るべきであろ
う。ともあれ、一方に陸軍、他方に近衛・木戸・平沼ラインの猛烈な攻撃をうけながら、終始中道を見失わないですすみ、滔流を隻手をもってせきとめ
ていた米内内閣が退陣するや、たちまちにして三国同盟が成立し、太平洋戦争突入の足場をつくって行くのである。
(実松譲『米内光政正伝』光人社、p.206)
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日本軍が北部仏印に進駐(昭和15年9月23日)
富永恭次と佐藤賢了の軍紀違反による横暴。
昭和陸軍"三大下剋上事件"の一つ。
(他は満州事変、ノモンハン事件)
==
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●●●●●「日独伊三国軍事同盟」締結(昭和15年9月27日)●●●●●
これが大東亜戦争への「ポイント・オブ・ノー・リターン」だった。
近衛内閣、松岡洋右外相の電撃的(国家の暴走)締結。
松岡洋右は日独伊にソ連を含めた四国軍事同盟締結を目論でいたが、ヒトラーとソ連の対立が根強く、実現ははじめから不可能であった。またヒトラーは三国軍事同盟を、対ソ作戦の礎石と考えていた。
過去、平沼・阿部・米内の三内閣はこの締結を躊躇して倒れていた。
(当時、陸(海)軍は陸(海)軍大臣を辞職させ、その後任候補を差し出すことを拒否してその内閣を総辞職に追い込んだり、新内閣の陸(海)軍相候補を差し出すことを拒否して内閣成立を阻止したりすることができた。総理大臣は法的に全く無力であった)
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<米内光政の名言>
「同盟を結んで我に何の利ありや。ドイツの為火中の栗を拾うに過ぎざるべし」
「ヒトラーやムッソリーニは、どっちへ転んだところで一代身上だ。二千年の歴史を持つ我が皇室がそれと運命を共になさるというなら、言語道断の沙汰である」
「ジリ貧を避けようとしてドカ貧になる怖れあり」
「バスに乗りおくれるなというが、故障しそうなバスには乗りおくれた方がよろしい」
(阿川弘之『大人の見識』新潮新書、p.123)
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近衛の失策(近衛は日本を戦争に向かわせた重大な犯罪人)
三国同盟に反対していた吉田善吾海軍大臣(山本五十六・米内光政・井上成美の海軍英米協調・反戦トリオの流れをくむ)を神経衰弱にして辞任させ、後任に戦争好きの及川古志郎を海軍大臣に推薦した。
『小倉庫次侍従日記』(「文藝春秋」2007年4月号)
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「三光政策(作戦)」(殺しつくし、奪いつくし、焼きつくす政策)
南京大虐殺が、日本軍の組織的犯罪であるとされるのは、捕虜の大量殺害があるからだが、それ以上に、一般民衆にたいする虐殺として問題なのは三光作戦である。中国共産党とその軍隊である八路軍が、日本軍の戦線の背後に浸透して解放区、遊撃区を作り上げたのにたいして、日本軍とくに華北の北支那方面軍は、1941年ごろから大規模な治安粛正作戦を行なった。
これは日本軍自らが、燼滅掃蕩作戦(焼きつくし、滅ぼしつくす作戦)と名づけたことでも示されるように、抗日根拠地を徹底的に破壊焼却し、無人化する作戦であった。実際に北支那方面軍は、広大な無人地帯を作ることを作戦目的に掲げている。
中国側はこれを「三光政策」(殺しつくし、奪いつくし、焼きつくす政策)と呼んだのである。三光作戦は、南京大虐殺のような衝撃的な事件ではないが、長期間にわたり、広大な地域で展開されたので、虐殺の被害者数もはるかに多くなっている。
(藤原彰『天皇の軍隊と日中戦争』大月書店、pp.18-19)
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軍隊というのはカルト教団だ
あのみじめな思いは憶えています。軍隊では、人は人間として扱われません。そこには権力者が決めた階級があるだけで、戦後は、人権がどうの差別がどうのと言うようになりましたが、そんなことを言ったら軍隊は成り立たない。福沢論吉は、天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず、と言いましたが、とんでもない、わが国の権力者は天ではないから、人の上に人を作り、人の下に人を作りました。
彼らは天皇を現人神と思うように国民を教育し、指導しました。その言説に背く者は、不敬不忠の者、非国民として罰しました。
階級や差別のない社会や国家はありません。天皇が日本のトップの人であることは、それはそれでよく、私はいわゆる天皇制を支持する国民の一人です。けれども、アラヒトガミだの、天皇の赤子だのというのを押しつけられるとうんざりします。・・・
軍隊というのは、人間の価値を階級以上に考えることがなく、そうすることで組織を維持し、アラヒトガミだのセキシだのというカルト教団の教義のような考え方で国民を統制して、陸海軍の最高幹部が天皇という絶対神の名のもとにオノレの栄達を求めた大組織でした。(p80)
・・・
昭和10年代のわが国はカルト教団のようなものでした。あの虚偽と狂信には、順応できませんでした。思い出すだに情けなくなります。自分の国を神国と言う、世界に冠たる日本と言う。いざというときには、神国だから、元寇のときのように神風が吹くと言う。アラヒトガミだの、天皇の赤子だのと言う。祖国のために一命を捧げた人を英霊だの、醜の御楯だのと言う。今も、戦没者は、国を護るために命を捧げた英霊といわれている。
しかし、何が神国ですか、世界に冠たる、ですか。神風ですか。カルト教団の信者でもなければ、こんな馬鹿げたことは言いませんよ。・・・
(大東亜)戦前は、軍人や政府のお偉方が、狂信と出世のために多数の国民を殺して、国を護るための死ということにした。日本の中国侵略がなぜ御国を護ることになるのかは説明できないし、説明しない。そこにあるのは上意下達だけで、それに反発する者は、非国民なのです。
やむにやまれぬ大和魂、などと言いますが、なにが、やむにやまれぬ、ですか。軍人の軍人による軍人のための美化語、あるいは偽善語が、国民を統御し、誘導し、叱咤するためにやたらに作られ、使われました。八紘一字などという言葉もそうです。中国に侵略して、なにが八紘一宇ですか。統計をとったわけではありませんから、その数や比率はわかりませんが、心では苦々しく思いながら調子を合わせていた人も少なくなかったと思われます。
しかし、すすんであのカルト教団のお先棒を担いで、私のような者を非国民と呼び、排除した同胞の方が、おそらくは多かったのではないか、と思われます。(p106)
(古山高麗雄『人生、しょせん運不運』草思社)
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死を恐れるな、従容として死に赴く者は大義に生きることを喜びとすべきである、というのであった。日本軍の兵士は、「大義に生きる」という死生観を理想としたのである。しかしここでつけ加えておかなければならないのは、陸軍の上層部や指導部に属していた者のほうがこのような死生観をもっていなかったということだ。
たとえば、この戦陣訓を軍内に示達した当の東條英機は、戦争が終わったときも責任をとって自決していないし、あろうことか昭和二十年九月十一日にGHQ(連合国軍稔司令部)の将校が逮捕にきたときにあわてて自決(未遂)を試みている。東條のこの自決未遂は二重の意味で醜態であった。
・・・(中略)・・・
「名を惜しむ」にあるのは、捕虜になって屈辱を受けるようなことがあってはならない、生を惜しんでのみっともない死に方はその恥をのこすことになるという教えであり、故郷や家族の面子を考えるようにとの威圧を含んでいた。これもまた兵士たちには強要していながら、指導部にいた軍人たちのなかには虜囚の辱めを受けるどころか、敗戦後はGHQにすり寄り、その戦史部に身を置き、食うや食わずにいる日本人の生活のなかで並み外れた優雅な生活をすごした中堅幕僚たちもいた。
戦陣訓の内容は、兵士には強要されたが指導部は別格であるというのが、昭和陸軍の実態でもあった。私は、太平洋戦争は日本社会を兵舎に仕立てあげて戦われてきたと考えているが、その伝でいうなら、この戦陣訓は兵士だけでなく国民にも強要された軍事指導者に都合のいい〈臣民の道〉であった。
(保阪正康『昭和史の教訓』朝日新書、pp.199-203)
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・日ソ中立条約締結(昭和16年4月13日)
これによりソビエトは実質的には満州国を承認。スターリンの中国軽視は毛沢東のスターリンへの不信感を高めた。さらにアメリカも強い不快感を持ち、ソビエトとの経済交流を中止し、ルーズベルトは重慶政府(蒋介石)へP-40戦闘機100機を提供した。
・独ソ戦開始(昭和16年6月22日)
独ソ戦は日ソ中立条約のみならず、日独伊三国同盟の意義すらも、根本的に打ち砕くものであった。
・日本は関東軍特種演習(関特演)の名の下に約70万人の大軍を満州に集結(昭和16年7月2日)。
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アメリカ対日石油輸出全面禁止、在米の日本資産凍結(昭和16年8月1日)
<軍令部総長、永野修身の上奏>
こうした禁輸措置のあとに、南部仏印進駐の主導者たちはすっかり混乱している。軍令部総長の永野修身は、アメリカが石油禁輸にふみきる日(八月一日)の前日に、天皇に対米政策について恐るべき内容を伝えている。
「国交調整が不可能になり、石油の供給源を失う事態となれば、二年の貯蔵量しかない。戦争となれば一年半で消費しつくすから、むしろ、この際打って出るほかはない」と上奏しているのだ。天皇は木戸幸一に対して、「つまり捨鉢の戦争をするということで、まことに危険だ」と慨嘆している。
(保阪正康『昭和史の教訓』朝日新書、p.215)
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・通称「ハル・ノート」(平和解決要綱)が日本側に手渡された。
(昭和16年11月26日)
中国や南方地方からの全面撤退、蒋介石政府の承認、汪兆銘政府の不承認、三国同盟の形骸化が主たる項目で昭和に入っての日本の歴史を全て白紙に戻すという内容だった。(--->日米開戦へ)
・昭和16年12月1日、この年5回目の御前会議(日米開戦の正式決定)
「日米交渉を続けながら、戦備も整える。しかし11月29日までに交渉が不成立なら、開戦を決意する。その際、武力発動は12月初頭とする」。東条英機「一死奉公」の羅列:東条にとっては、国家とは連隊や師団と同じであり、国民は兵舎にいる兵士と同じだった。
・大東亜戦争(太平洋戦争)開戦
(昭和16年(1941)12月8日午前3時25分:
ホノルル7日午前7時55分、ワシントン7日午後1時25分)
当時日本政府の視線は、戦争の日米戦争としての側面に集中したが、世論のレベルではむしろ日本の対アジア侵略の側面があらためて強調された。開戦そのものについても、戦争が真珠湾攻撃によってではなく、タイ、マレー半島への日本陸軍の無警告による先制攻撃で始まったことに注意が向けられた。時間的にも真珠湾で空襲の始きる午前3時25分(日本時間)より1時間以上早い午前2時15分に日本陸軍俺美支隊がマレー半島(英領)コタバルに上陸し、激戦を始めていた。また真珠湾空襲開始のほぼ30分後手前4時)から日本軍がタイの各地に続々と進攻、上陸を行い、タイ領マレー半島でも地上戦闘がタイ軍との間で行われた。
(荒井信一『戦争責任論』岩波書店、pp.128-129)
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重松譲(当時ワシントン駐在武官・海軍)の証言
「あのバカな戦の原因はどこにあるか。それは陸軍がゴリ押しして結んだ三国同盟にある。さらに南部仏印進駐にある。
私は、日本が三国同盟を結んだ時、アメリカにいたのだが、アメリカ人が不倶戴天の敵に思っているヒトラーにすり寄った日本を、いかに軽蔑したか、よくわかった。その日本がアメリカと外交交渉をしたところで、まとまるわけはなかったんだ」
「陸軍にはつねに政策だけがあった。軍備はそのために利用されただけだ」
(保阪正康『昭和陸軍の研究<上>』)
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腰ぬけ知識人だらけの国
戦中の知識人の多くは、飢えと暴力が支配する状況下で、自分の身を守るために、迎合や密告、裏切りなどに手を染めた。積極的に戦争賛美に加担しなかったとしても、ほとんどすべての知識人は、戦争への抗議を公言する勇気を欠いていた。
こうした記憶は、「主体性」を求める戦後思想のバネになったと同時に、強い自己嫌悪と悔恨を残した。たとえば、法政大学教授だった本多顕彰は、戦中をこう回想している。
それにしても、あのころ、われわれ大学教授は、どうしてあんなにまで腰ぬけだったのであろう。なかには、緒戦の戦果に狂喜しているというような単純な教授もいたし、神国日本の威力と正しさを信じてうたがわない教授もいるにはいた。……けれども、われわれの仲間には戦争の謳歌者はそうたくさんにはいなかったはずである。だのに、われわれは、学園を軍靴が蹂躙するにまかせた。……〔軍による〕査察の日の、大学教授のみじめな姿はどうだったろう。自分の学生が突きとばされ、けられても、抗議一ついえず、ただお追従笑いでそれを眺めるだけではなかったか。……
……心の底で戦争を否定しながら、教壇では、尽忠報国を説く。それが学者の道だったろうか。真理を愛するものは、かならず、それとはべつの道をあゆまねばならなかったはずである。
真に国をおもい、真に人間を愛し、いや、もっとも手ぢかにいる学生を真に愛する道は、べつにあったはずである。……反戦を結集する知恵も、反戦を叫ぶ勇気も、ともに欠けていたことが、われわれを不幸にし、終生の悔いをのこしたのである。
こうした「悔恨」を告白していたのは、本多だけではなかった。南原繁は、学徒出陣で大学を去っていった学生たちを回想しながら、こう述べている。「私は彼らに『国の命を拒んでも各自の良心に従って行動し給え』とは言い兼ねた。いな、敢えて言わなかった。もし、それを言うならば、みずから先に、起って国家の戦争政策に対して批判すべきべきであった筈である。私は自分が怯懦で、勇気の足りなかったことを反省すると同時に、今日に至るまで、なおそうした態度の当否について迷うのである」。
(小熊英二『<民主>と<愛国>』新曜社、pp.177-178)
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「歴史的意思の欠落」
日本は真に戦争か和平かの論議を論議を行ったといえるだろうか。
・・・日本がアメリカとの戦争で「軍事的勝利」をおさめるとはどういう事態をさすのか。その事態を指導者たちはどう予測していたのだろうか。まさかホワイトハウスに日章旗を立てることが「勝利」を意味するわけではあるまい。・・・実際に戦争の結末をどう考えていたかを示す文書は、真珠湾に行きつくまでのプロセスでは見当たらない。・・・強いていえば、11月15日の大本営政府連絡会議で決まった「対米英蘭戦争終末促進ニ関スル腹案」というのがこれにあたる。
・・・日本は極東のアメリカ、イギリスの根拠地を覆滅して自存自衛体勢を確立し、そのうえで蒋介石政府を屈服させるといい、イギリスはドイツとイタリアで制圧してもらい、孤立したアメリカが「継戦の意思なし」といったときが、この戦争の終わるときだという。
この腹案を読んだとき、私は、あまりの見通しの甘さに目を回した。ここに流れている思想は、すべて相手の意思にかかっているからだ。あるいは、軍事的に制圧地域を広げれば、相手は屈服するとの思いこみだけがある。
日本がアジアに「自存自衛体勢を確立」するというが、それは具体的にどういうことだろうか。自存自衛体勢を確立したときとは一体どういうときか。アメリカ、イギリスがそれを認めず、半永久的に戦いを挑んできたならば日本はどう対応するつもりだろうか。
蒋介石政府を屈服させるというが、これはどのような事態をさすのだろうか。ドイツとイタリアにイギリスを制圧してもらうという他力本願の、その
前提となるのはどのようなことをいうのだろうか。しかし、最大の問題はアメリカが「継戦の意思なし」という、そのことは当のアメリカ政府と国民のまさに意思にかかっているということではないか。・・・
私は、こういうあいまいなかたちで戦争に入っていった指導者の責任は重いと思う。こんなかたちで戦争終結を考えていたから、3年8か月余の戦争も、最後には日本のみが「継戦」にこだわり、軍事指導者の面子のみで戦うことになったのではないかと思えてならないのだ。
・・・真珠湾に行きつくまでに、日本側にはあまりにも拙劣な政策決定のプロセスがある。・・・戦争という選択肢を選ぶなら、もっと高踏的に、もっと歴史的な意義をもって戦ってほしかったと思わざるをえない。
(注:保阪正康氏はこのあと戦争の「歴史的意思」を概観している。まことに明晰で説得力のある考察だが、長くなるので略す。読者各自ぜひ通読されたい)
(保阪正康『昭和陸軍の研究<上>』334ページ~)
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実は、本当に太平洋戦争開戦に熱心だったのは、海軍だったということである。
そこには、「ワシントン軍縮条約」体制のトラウマがあった。
1922(大正11)年、ワシントン会議において軍艦の保有比率の大枠をアメリカ5、イギリス5、日本3、と決められてしまった。その反発が海軍の中でずっと燻り続け、やがてアメリカ、イギリスを仮想敵国と見なしていったのである。昭和9年に加藤寛治海軍大将らの画策で、ワシントン条約の単独破棄を強引に決めて、その後、一気に「大艦巨砲」主義の道を突き進んでいく経緯があった。対米英戦は、海軍の基本的な存在理由となっていた。
またその後も、海軍の主流には対米英強硬論者が占めていく。特に昭和初年代に、ちょうど陸軍で「統制派」が幅を利かせていった頃、海軍でも同じように、中堅クラスの幹部に多く対米英好戦派が就いていったのだ。「三国同盟」に反対した米内光政や山本五十六、井上成美などは、むしろ少数派であった。
私が見るところ、海軍での一番の首謀者は、海軍省軍務局にいた石川信吾や岡敬純、あるいは軍令部作戦課にいた富岡定俊、神重徳といった辺りの軍官僚たちだと思う。
特に軍務局第二課長の石川は、まだ軍縮条約が守られていた昭和
8年に、「次期軍縮対策私見」なる意見書で「アメリカはアジア太平洋への侵攻作戦を着々と進めている。イギリス、ソ連も、陰に陽にアメリカを支援ている。それに対抗し、侵略の意図を不可能にするには、日本は軍縮条約から脱退し、兵力の均等を図ることが絶対条件」と説いていた。いわば対米英強硬論の急先鋒であった。また弁が立ち、松岡洋右など政治家とも懇意とするなど顔が広かった。その分、裏工作も達者であった。
そして他の岡、富岡、神も、同じようにやり手の過激な強硬論者であった。
昭和15年12月、及川古志郎海相の下、海軍内に軍令、軍政の垣根を外して横断的に集まれる、「海軍国防政策委員会」というものが作られた。会は4つに分けられており、「第一委員会」が政策、戦争指導の方針を、「第二委員会」は軍備、「第三委員会」は国民指導、「第四委員会」は情報を担当するとされた。
以後、海軍内での政策決定は、この「海軍国防政策委員会」が牛耳っていくことになる。中でも「第一委員会」が絶大な力を持つようになつていった。
この「第一委員会」のリーダーの役を担っていたのが、石川と富岡の二人であった。「第一委員会」が、巧妙に対米英戦に持っていくよう画策していたのである。
(保阪正康『あの戦争は何だったのか』新潮新書、pp.87-88)
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陸軍と海軍のばかばかしい対立(ほんの一部を紹介)
・20ミリ機関砲の弾丸が、規格が違っていて共用できない。
・空軍が独立せず。(陸軍航空部隊、海軍航空部隊)
・海軍向け、陸軍向け戦闘機。スロットル・レバーの操作が真反対
・ドイツの航空機用エンジン(ベンツ社、DB601型)のライセンス料の二重払い。同じエンジンを別々の独立した会社に依頼。
・陸軍の高射砲、海軍の高角砲
・陸軍の"センチ"、海軍の"サンチ"("サンチ"はフランス流?)
(三野正洋『日本軍の小失敗の研究』)
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「行きあたりばったり」とか「どろなわ」とかいった言葉がある。しかし、以上の状態は、そういう言葉では到底表現しきれない、何とも奇妙な状態である。なぜこういう状態を現出したのか、どうしてこれほど現実性が無視できるのか、これだけは何としても理解できなかった。そしてそれが一種の言うに言われぬ「腹立たしさ」の原因であった。
第二次世界大戦の主要交戦国には、みな、実に強烈な性格をもつ指導者がいた。ルーズヴェルト、チャーチル、スターリン、蒋介石、ヒトラー、たとえ彼らが、その判断を誤ろうと方針を間違えようと、また常識人であろうと狂的人物であろうと、少なくともそこには、優秀なスタッフに命じて厳密な総合的計画を数案つくらせ、自らの決断でその一つを採択して実行に移さす一人物がいたわけである。
確かに計画には齟齬があり、判断にはあやまりはあったであろう、しかし、いかなる文献を調べてみても、戦争をはじめて二年近くたってから「ア号教育」(注:対米戦教育)をはじめたが、何を教えてよいやらだれにも的確にはわからない、などというアホウな話は出てこない。
確かにこれは、考えられぬほど奇妙なことなのだ。だが、それでは一体なぜそういう事態を現出したかになると、私はまだ納得いく説明を聞いていいー-確かに、非難だけは、戦争直後から、あきあきするほど聞かされたがー-。
(山本七平『一下級将校のみた帝国陸軍』文春文庫、pp.44-45)
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兵站や補給のシステムがまず確立したうえで、戦闘を行うというのが本来の意味だろうが、初めに戦闘ありき、兵站や補給はその次というのでは、大本営で作戦指導にあたる参謀たちは、兵士を人間とみなしていないということであった。戦備品と捉えていたということになるだろう。実際に、日本軍の戦闘はしだいに兵士を人間扱いにしない作戦にと変わっていったのだ。
(保阪正康『昭和陸軍の研究<下>』)
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そもそも大東亜戦争について日本軍部の食糧方針は、”現地自給”だった。熱帯ジャングルの豊かさという、今日までつづくひとりよがりの妄想があったのだろう。土地の農民さえ、戦争が始まると、商品として作っていた甘蔗やタバコを止めて、自分のための食品作物に切り換えている。
食糧が問題であることにうすうす気づいた将校たちが考え出したのは「自活自戦=永久抗戦」の戦略である。格別に新しい思想ではない。山へ入って田畑を耕し折あらばたたかう。つまり屯田兵である。ある司令官の指導要領は次の如く述べている。
「自活ハ現地物資ヲ利用シ、カツ甘藷、玉萄黍ナドヲ栽培シ、現地自活ニ努ムルモ衛生材料、調味品等ハ後方ヨリ補給ス。ナホ自活ハ戦力アルモノノ戦力維持向上ヲ主眼トス」
この作戦の虚妄なることは、実際の経過が明らかにしているが、なおいくつか指摘すると、作物収穫までには時がかかるが、その点についての配慮はいっさい見られない。「戦力アルモノ」を中心とする自活は、すでにコレラ、マラリア、デング熱、栄養失調に陥った者を見捨てていくことを意味する。こうして多くの人間が死んだ。
(鶴見良行『マングローブの沼地で』朝日選書 1994: 168)