【現代思想とジャーナリスト精神】

価値判断の基軸は自らが判断し思考し実践することの主体であるか否かであると考えております。

【色平哲郎氏からのご紹介】 2023年11月07日 05:36

2023-11-07 19:04:43 | 転載・政治社会と思想報道
【必読】〈社説〉パレスチナへの視座 屈従強いる状況変えるには



労働者たちは、パンよりも詩を必要とする。その生活が詩になることを必要としている。永遠からさしこむ光を必要としているのだ。ただ宗教だけが、この詩の源泉となることができる。宗教ではなく、革命こそが、民衆のアヘンである。この詩が奪われていることこそ、あらゆる形での道徳的退廃の理由だといっていい。

シモーヌ・ヴェイユ「重力と恩寵」ちくま学芸文庫



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・【必読】〈社説〉パレスチナへの視座 屈従強いる状況変えるには
信濃毎日新聞デジタル 2023.10.22

https://www.shinmai.co.jp/news/article/CNTS2023102200037

・信濃毎日新聞の社説は気骨を感じますね。
・まっとうな社説を載せる新聞社もあるのですね。シェアさせてください。
・信濃毎日新聞の定期購読できないのかな?
・素晴らしい社説なので、「読み上げアプリ」を使って録音・録画しました。
・読売,産経はもちろん、朝日、毎日さえ権力に迎合する今日(こんにち)、
東京新聞、京都新聞などのブロック紙、地方紙が頑張っています。信濃毎日もその一つです。

・信濃毎日新聞の社説。
上手くまとめている。
この紛争は、Zionism という欧州に起こった身勝手な政治運動のなれの果て。
パレスチナ人抑圧のアパルトヘイト、欧州ユダヤ系移民による民族浄化、ジェノサイド。英米仏帝国主義の残滓。
イスラエル国とは「ユダヤ人」を名乗る人々が約70年前にアラブ人たちから土地を強奪して、暴力で作った国民国家。国際社会から黙認されてきたならず者国家。英米帝国の中東支店。それだけのこと。民族紛争でも宗教紛争でもない。

・まともな歴史観を伝えるのメディアの仕事だ。
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〈社説〉パレスチナへの視座 屈従強いる状況変えるには
2023/10/22 信濃毎日新聞

 1948年のイスラエル建国から75年を経て、ナクバ(大災厄)が再びパレスチナの人々を襲うのを止めるすべはないのか。イスラエル軍がガザ地区に地上侵攻する構えを固めている。
 ガザに暮らすおよそ230万人の大半が、イスラエル建国に伴って故郷を追われた難民とその子孫だ。いまだ帰還はかなわず、イスラエルの占領の下で暴力にさらされ続ける不条理に言葉を失う。
 イスラム組織ハマスによる民間人の殺害や連行は、戦争犯罪として厳しく責任を問われるべき行為である。だからといって、イスラエルによる占領や抑圧が正当化されるわけではない。

 パレスチナの人々は、圧倒的な力で抵抗を押さえ込まれ、屈辱と貧困の中に置き去りにされてきた。その絶望的な状況が、急進化した武装闘争の背後にある。
 問題の根幹に目を向けずに、武力による報復に突き進めば、人々をさらに苦しい状況に追いやり、憎しみと怒りをかき立てるばかりだ。イスラエルの安全を確保することにもつながらない。
■既成事実の積み上げ
 ガザとヨルダン川西岸の占領は1967年以来、半世紀余に及ぶ。ガザは2007年から境界を封鎖され、人の出入りや物資の搬入が厳しく制限された上、大規模な爆撃や侵攻が繰り返されてきた。産業や生活の基盤が破壊され、住民は困窮にあえぐ。
 国連機関などの援助で、飢えることは免れても、働いて生計を立てることさえ難しい。若者の自殺や薬物への依存も深刻だ。占領や封鎖はそれ自体が人間と社会をむしばむ構造的な暴力である。
 西岸では入植地(ユダヤ人居住区)が虫食い状に拡大し、パレスチナの人々の家や土地が奪われてきた。入植地を囲う分離壁や、ユダヤ人専用の道路、至る所に設けられた検問所によって、生活圏はずたずたに切り裂かれている。
 入植者が集団でパレスチナの村を襲う事件も相次ぐ。家を壊し、車や果樹に火を放ち、村人への暴力が殺害に至ることさえある。それでも、犯人が特定できないなどとして捜査は打ち切られ、罪に問われることはまずない。
 土地や水源を強奪する入植地の建設をはじめ、占領地の人々の権利と尊厳を顧みない行為は、戦時国際法で禁じられている。国際人権団体や国連人権理事会の特別報告者は、パレスチナの人々を隔離して従属させるアパルトヘイト体制を批判してきた。
 にもかかわらず、イスラエルが責任を追及されることはなく、占領は半ば永続化している。既成事実の積み上げを黙認してきた国際社会の責任は重い。
■建国時の民族浄化
 パレスチナをめぐる問題は、宗教や民族の異なる人々が何世紀も前からこの地で争いを続けてきたということではない。ユダヤ人による建国運動が欧州で興ったのは19世紀末だ。
 帝政ロシア下で、ポグロムと呼ばれる苛烈な迫害が相次いだことが背景にある。20世紀に入って、中東での権益拡大をもくろむ英国の画策や、ナチス・ドイツによるユダヤ人の国外追放政策が、移住の動きを加速させた。
 土地なき民に、民なき土地を―。建国運動が掲げたスローガンと裏腹に、パレスチナは民なき土地ではなかった。建国の前後、住民を虐殺し、追い払う民族浄化が組織的に行われたことを、イスラエル出身の歴史家イラン・パペ氏は著書で実証している。
 ユダヤ人は欧州で長く差別と迫害を受け、その果てに起きたナチスによるホロコースト(大虐殺)では600万人が犠牲になっている。そのユダヤ人が新たな迫害の当事者となった歴史を、イスラエルは直視する必要がある。
■現実味帯びる併合
 占領地の人々が石を手にイスラエル兵に立ち向かったインティファーダ(民衆蜂起)を経て、1993年のオスロ合意は、ガザと西岸の自治に道を開いた。しかし、核心の問題である入植地の扱いや難民の帰還は棚上げされた。
 合意後、入植地の建設はむしろ加速し、93年に28万人ほどだった西岸への入植者は、2000年に40万人、現在は70万人に増えている。自治の土台は崩れ、イスラエルへの併合が現実味を帯びる。
 既成事実が積み重なり、解決は容易でない。だとしても、沈黙し、目を背けてしまえば、パレスチナの人々が屈従を強いられている状況を変えられない。
 ロシアによるウクライナの侵略や占領を非難する欧米各国が、ガザと西岸の占領を続けるイスラエルを支持するのは二重基準だ。パレスチナ問題に深く関わる歴史の当事者として、自らの姿勢を省みなければならない。
 国際社会は一刻も早く戦闘を止めるとともに、根幹にある占領や帰還の問題の解決に向けて行動を起こす必要がある。各国政府や国連を動かす国際世論を強めたい。同じ時代を生きる誰もが、その責任の一端を負っている。

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【プライマリ・ヘルス・ケアとは】
プライマリ・ケアなどといまさら英語など使うのはうしろめたいことで、私などは前から「第一線医学」という日本語を使っていた。けれども、残念ながらプライマリ・ケアは、アメリカから直輸入してきたという事情もあったし、他方、WHOからも、同じこの言葉が入ってきて、いわば国際用語に今日ではなってしまった。
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このプライマリという言葉の意味についてまず述べると、プライマリ・ケアは、正しくはプライマリ・ヘルス・ケアというべきだと思うが、どういうわけかわが国ではヘルスを略している。
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そもそも「プライマリ」とはどういう意味かというと、ずいぶんこれを複雑に解釈する人もあり、何が何だかわからないという声をよく聞くが、私は少し独断的かもしれないが、次のように二つに分けて理解している。まず第一に、アメリカ流の解釈によると、プライマリとは、セカンダリ・メディシンまたはターシャリ・メディシン、すなわち、第二次または第三次の医学に対するアンチテーゼと考えられる。
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従来の医学があまりにも専門分化しすぎて、総合性を失ってしまった。それをとり戻さねばならないとする反省がそこにあるわけである。つまり、従来はあまりに「病院の医学」であった。
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ところが、もう一つ数年前からWHOなどで、プライマリ・ヘルス・ケアということがさかんにいわれるようになった。これは前者の先進国での発想と違い、開発途上国の立場からのものである。この場合のプライマリの意味あいは、ニュアンスがだいぶ違う。砂漠あり、離島あり、山間へき地ありと開発途上国の国々では、そもそも、セカンダリ・メディシンなどはない。もちろん、ターシャリなどありようはずもない。こうした「無医村」的なところでは、プライマリの意味は、ベーシック、つまり基本的といおうか、あるいはエッセンシャル、つまり本質的とでもいおうか、そのような意味が強い。
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日本の農村医学では、この両方のプライマリ・ケアがそれぞれ必要だといえよう。あまりにもセカンダリ・メディシンの専門分野が進みすぎて困るという面もわが国にはあるし、また同時に、無医村的環境の不便もたくさん残っていて、まだまだ医療が農山村住民にゆきわたっていないという面もある。そして、この後者の面を特に重視するのが、私ども日本農村医学会の主張である。日本ではプライマリ・ヘルス・ケアを略して、単にプライマリ・ケアといっていることについては先にも述べたが、これはわが国がまだヘルスについて偏見をもっているせいではなかろうか。実は私は常々「農村医学はヒューマニズムの医学である」と主張してきているが、その精神の中には農村医学はヘルスの医学であって、単なるメディシンの医学ではないという考えがある。もちろん、メディカル的なものを含むが、さらに、予防も、リハビリテーションも、そして、福祉もこれからの医学のあり方だと思う。そういう立場からいうと、今日ヘルスという言葉を略すのはまずいといえよう。
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アメリカのプライマリ・ケアの内容が、Community & Family Practice として確立されたのは、1965年のことである。今度アメリカに行ってみると、医科大学をメディカル・カレッジと呼ぶところが少ない。新しい医科大学は、カレッジ・オブ・ヘルスサイエンスと呼ぶところが多くなっていた

メディシンでは狭い。
ヘルスという言葉を、幅広く使うようになっていた。
そしてどこに大学にも、内科、外科と匹敵するような新しい科ができていた。
それが Community & Family Medicine というデパートメントである。
そこには特別の卒後教育3年間のレジデンシーもある。
それを終ると American Board of Family Practice の試験があって、それに合格してはじめてファミリーフィジシャンの称号を得ることになる。
さて、アメリカのプライマリ・ヘルス・ケアの学問の内容を具体的に分析してみると、だいたい4つないし5つの特長が挙げられるかと思う。
まずその定義だが、アメリカではファーストコンタクトの技術ということに力を入れている。
すなわち、最初の住民との接触、いいかえると、それが病院でもあるいは病気を持たないひとでもが、第一線の医者のところへ行って相談をする、
カウンセリングを受ける。
この最初のコンタクトの医療の技術と理論をプライマリ・ヘルス・ケアと規定しているようである。
この特徴を4つほど挙げてみると、まずアクセシビリティということ。
つまり、誰が行っても、どんな健康上の問題でも、そこでアクセス、すなわち受け入れてくれる。
そんな問題は私の専門科ではないからだめだと断るようなことはしない。
これは住民にとっては最も大事なことである。
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その次は、コモン・ディジーズの処置。
コモン・ディジーズという言葉は普通の病気ということで、これが特に大切だということである。
いままで私どもはとかくむずかしい病気だけに注目する傾向があった。
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次に、continuity(継続性)の問題。
これは患者を継続的に見守ること。
そのときだけ適当に診ればいい、あとはどうなってもかまわない、そういう接し方ではいけないということである。
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第4番目は、プライマリ・ケアの基本的精神である包括性ということである。
単なる治療だけでなく、予防や早期発見も、さらにリハビリテーションも含める必要がある。
また、福祉の問題に対する理解も大切である。
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それから、チームの調整役というドクターの重要な役割がいわれている。
つまり、いままでのように、医者一人がなんでもかんでもやるというオールマイティ的な考え方ではだめで、プライマリ・ヘルス・ケアでは、何よりも他のヘルスワーカーとのチームワークが必要である。これについては抵抗を感じる医者があるかもしれないが、従来のように医者が独善的で、あぐらをかいていてはいけない。
患者の経過のことを真剣に考えるなら、皆で協力しなければならない。
保健婦とも、看護婦とも、そしてケースワーカーとも協力しなければいけない。
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プライマリとかセカンダリとかいうのは、そもそも医療システムを前提にしての考え方であって、医療の地域化ができていなければいえないことである。
私が好んで「第一線」、すなわちフロントラインという言葉を使っているのは、わが国には本来的にそのようなシステム化がない。
つまり、プライマリとセカンダリの機能分担がまだ十分に行われていないからなのである。
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さて、プライマリ・ヘルス・ケアには、もう一つの面がある。
すなわちWHOが別に、プライマリ・ヘルス・ケアということを、さかんにいいはじめるようになったことによる。
最初は1975年のWHOの執行理事会であった。
ところが1978年にプライマリ・ヘルス・ケアに関する第1回国際会議がソ連のアルマ・アタで開かれた。
これには日本から当時の厚生省の大谷藤郎審議官が出席されている。
あとで大谷先生のお話を承わると、その会議は非常におもしろくかつ有益だったようである。
私は先生から直接その模様をうかがったが、たいへん勉強になった。
それ以前1977年には、国連で第30回世界保健総会が開かれた。
いまや世界中の人びとが、社会的、経済的、生産的人間の健康を守るということが大きな問題になっていた。
働く人が喜んで労働ができるような人間的生活が、社会的にも経済的にも守られなければならぬ。
そのための健康レベルの確保が重要である。
特に、開発途上国の、アジアやアフリカ、ラテンアメリカ、そういう国々の離島や山間へき地に住んでいる人びとに今日的保健の技術が普及されなければならないという、いわば人権宣言みたいなことがそこで打ち出された。
こういう健康についての人権宣言の精神が、具体的にはプライマリ・ヘルス・ケアにむすびついていわれるようになったのではないであろうか。
まず、プライマリなことが人類の名においてなされねばならぬ、ということなのである。
アルマ・アタの会議での内容を紹介すると、要するに、開発途上国と先進国の保健問題についての格差をなくす必要がある。
いったいいま地球上には40億を越す人口があるが、現実にはその5分の4はまだ、プライマリ・ヘルス・ケアさえろくに受けていない状態ではないか。
逆にいえば、5分の1の人口が、非常に進んだ医療や保健の恩恵を享受している。
これは不公平すぎるのではないか。
そういう基本的な考えからWHOのプライマリ・ヘルス・ケアの要望が生まれたのである。
したがって、ここには人類愛的な、いわゆるヒューマニズムの精神があるわけである。
1978年のアルマ・アタ宣言には137カ国が参加しているが、WHOのマーラー事務局長の演説が非常に興味深い。
アルマ・アタ宣言では、「社会正義と地域開発」と、こういう根本的精神にのっとって、なによりも第一線の包括的な医療が必要である、といっている。
そこに大切な方法として、住民参加ということを強くいっている。
こういうWHOの国際会議などになると、政府のえらい方々が集まる。
それから、厚生省のお役人といっても特に上役の方々がそれぞれ各国の代表として出るわけであるから、どうしても国家的な、ガバメンタル(政府的)な立場からの話になる。
そこのところが、私どもの学会のような Non Governmental の組織とはニュアンスの違ったものになる。
私どもはどちらかというと、住民ないし農民の、つまり「下から」の立場でものをいうようになる。
だから、「住民参加」などという言葉は自明のこととして、特に言挙げしないような傾向があるといえよう。
それはそれとして、この「社会正義と地域開発」と結びつけて、人間の健康を論じようとする幅広い考え方はすばらしいではないか。
それを具体的に発展させて、医学の包括性や「第一線性」の重要性、さらに住民参加の問題まで出す。
私はやはりたいしたことだと思う。
ここに社会主義性を感じとって、イデオロギー的だなどというのは当たらないと思う。
これに三つのことがいわれている。

一つは、自決の精神。先ほど述べたように、ここでは開発途上国の立場がつらぬかれねばならない。よその国の力や援助に頼るだけでは本当の健康は守れないであろう。これは中国でもベトナムでも、同じ意見に相違ない。他国の、進んだ技術をただまねすればいいというものではない。その国にはその国の住民の保健のやり方があるはずである。
しばしば、先進国の援助や必要になるであろうが、ただそれに頼るだけではだめであろう。たとえ、経済的、技術的援助はしてもらおうとも、自分たちは自分たちで自主的にやるんだという精神は必要だと思う。そうでなければ住民の健康を守れない。保健には自決の精神が重要なのである。

次に、それにつながる問題だが、アプロープリエイト・ヘルス・テクノロジー(Appropriate Health Technology)、アプロープリエイトすなわち適切なとは、地域住民の実情に適切なということである。「適切な」健康に対するテクノロジー、すなわち技術ということである。その国やその地域の実情にあった技術でなければいけない。
なんでも外国のよいものをもってくればいいというものではないというのである。その国の資源の問題もあろう。また、その地域住民の慣習だって無視できないものがあるかもしれない。なんでも金のかかることがいいとは限らないし、なんでも機械を使えばいいとも限らない。
この考え方を、頭文字だけに略してAHTといっている。ただし、その基礎にはベイシック・ヒューマン・ニーズが満たされねばならない。ここにまたベイシックという言葉が出てくるが、健康(ヘルス)こそ人間の「基本的」なニーズだということである。これを略してBHN(Basic Human Needs)と呼んでいるようである。
これについては、マクナマラ世界銀行総裁がこういっている。「ナイロビ宣言」の中で「他国の援助をすることは大切だ。援助はする。
しかし、何よりもその国の住民のニーズを知って、それに従わなければならない」と。それをしないで、とかくハイウェイをつくったり、大きなビルディングを建てたりすることばかりに力を入れる傾向がありはしないか。住民生活に基本的なニーズ、例えば、福祉保健だとか教育だとか、そういう基本的なものに真っ先に金を使うべきだ。そうでなければ、いわゆる「南への援助」も意味のうすいものになるというのである。このBHNと先に述べたAHTとがしっかり組み合わさってヘルスの仕事がされねばならない。
この意味をつかむことが重大だとアルマ・アタ宣言では主張しているのである。(後略)
(若月俊一著作集第5巻掲載論文「プライマリ・ケアの精神と方法」1980)


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『医師の本棚』 ------- 色平 哲郎先生 (佐久総合病院 地域医療部 地域ケア科医師)

若い医療人にぜひ、読んでいただきたい本のご紹介ということですね。今回挙げさせていただくのは、私自身が著者と面識があり、その内容について直接お話をしたことがあるもの、から選ぶことにしました。
さて、1冊目、何と言ってもこの方をまず先に挙げないこと には、信州で医者はやっていけない(笑)。
若月俊一先生の最後の著書、「若月俊一の遺言 農村医療の原点」です。
いわずと知れた農村医学のバイブル。地域医療に携わる人にはぜひ読んでもらいたいですね。
次、実は、今回一番皆さんに推薦したいのはこの本です。コミックなんですが、くさか 里樹著「ヘルプマン!」(講談社)
テーマは介護。介護という深刻な話題をコミックにしてしまったところが面白い。コミックを読んで社会を知る。しかも介護は医療の枠外ではあろうが延長線上にある世界、
ですから、若い医療者にはぜひ、読んでおいてもらいたいですね。特に、(講談社)シリーズの第8巻がお薦めです!
認知症の老母を押しつけられた壮年期の男性が家族と共に介護に奮闘する。万策尽きて途方に暮れた末、介護ヘルパーを頼むのだが、現れたのはフィリピン人の女性ヘルパー。
楽天的で面倒見がよいが、反面、文化の違いから周囲との間に軋轢を生じてしまう。今後ますます”高貴”高齢者が増える日本の将来、当然のように予想される場面といえ
ましょう。フィリピンを通して我々日本人の家族、家庭を知る。これは本当にいい本ですよ~。
3冊目は加藤周一著作集 第23巻  現代日本私註 「羊の歌その後」
著者の加藤さんと軽井沢でお目にかかったときの印象は、優しい方だなあ、というものでした。前半生医師でもあった加藤さんが「みんなのものである医療を権威づけや金もうけに使ってはいけない」と常々語っていた姿を思い起こします。
日本の医療が今後どうなっていくのか、彼を手本にしながら見据えていきたいものです。彼は自衛隊の海外での武力行使に反対し、「9条の会」を設立した反戦の歴史家です。
その加藤周一さんが昨年08年12月5日に89歳で亡くなりました。
知識人の定義を、「仕事の社会への影響、歴史的な意味を問い始めることで知識人になる」と、サルトルを引用されていた方でした。
まさに知識人の鏡、心からご冥福をお祈りいたします。
文学、芸術から、社会、政治論にまで及ぶ幅広い見識を持つ戦後 日本を代表する知識人といえる彼の著作、1冊は読んでおきたいものです。
次、4冊目は、元東大経済学部長 神野直彦教授の「二兎を得る経済学」です。これは経済学というよりは財政学についての本です。
21世紀の医療者にとって、財政学はますます重要です。この本はとても分かりやすく経済・財政について書かれてあって、元気が出ますよ、お薦めです。
5冊目は洋書です。
David Werner著「Where There Is No Doctor」
プライマリー・ヘルス・ケア(プライマリー・ケアとは、まったく違いますよ!)の世界的な教科書です。
文字の読めない人であっても、イラストを見れば処方や治療法がわかるように書かれていて、「医師のいないところ」での実践医療のためのガイドブックとしてホントに世界中で利用されています。
これを中学生の教科書に使えば、英語を勉強することがもっと楽しくなるんじゃないでしょうか。
ちなみにこの本、医学生さん方に翻訳いただき私のH.P.に載せていますから、ぜひ、ご利用ください。
最後は山岡淳一郎著「後藤新平 日本の羅針盤となった男」です。 後藤新平も、前半生、医者だったんですよ。
明治初年、板垣退助が刺された時、一番に岐阜の演説会場に駆けつけたのは彼でした。明治の医者はこんなに面白い(何が面白いかは読まなければ分からないでしょうけど)。
簡単にいうと、近代日本が抱える矛盾を一身に背負った人物、それが後藤新平です。若い人に彼の生き方を読んでもらって、ぜひ、感想を伺いたいですね。
あの時代だからこそこんな天才的な豪傑が生まれるんでしょうけど、とにかくすごい人すごすぎる人です。現代の医療人も彼から学ぶことが多いはずですよ。
私は、後藤新平さんのお孫さんと親しくしておりますが、ご存知でしょうか、鶴見俊輔さんという方です。
まだまだ、たくさん紹介したい本はありますし、映画も見てほしいですね。
ぜひ、次の機会に紹介させてください。

JA長野厚生連・佐久総合病院医師 色平哲郎(いろひら・てつろう) 
1960年、横浜市生まれ。
東大理科一類を中退し、アジアなど世界を放浪後、京大医学部へ。
長野県南牧村野辺山へき地診療所長、南相木村診療所長を経て、現職。
著書に「大往生の条件」など。



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「若月俊一さんを悼む」 06年8月31日 朝日新聞

最初にお目にかかったのは佐久総合病院研修医の採用面接でした。大きな声で我々に質問し討議して、その場を仕切っていらっしゃいました。ある当直明けの早朝、院長室に呼ばれ、えらく怒鳴られました。なんであんなに叱られたのか、今はいい思い出となりました。研修修了の早春、大学に戻る私は送別の宴を開いていただき、ハッパをかけられました。家族5人で佐久地方の山中に暮らし、村の医療に取り組んで十年余。診療中、外科医時代の先生の思い出が語られます。明治・大正生まれの患者さんは、おなかの古い手術痕を誇らしげに披露されます。山の村のお年寄りを見送り、先生を見送る巡り合わせになりました。
「佐久病院の昭和」が終わりました。
先生が「農民とともに」「村で病気とたたかっていた」ころ、農村は部分的にしか医療保険に守られていませんでした。「医者どろぼう」という言葉も生きていたと伺います。
先生は全国民をカバーする皆保険制度を実現するため、必死に取り組まれました。その皆保険がいまや空洞化し、国内に格差が拡大しつつあります。
医者が「どろぼう」と呼ばれる時代に逆戻りしてしまわないよう、未来を闘いとらねばなりません。
「予防は治療に勝る。そう我々に教えてくれたのはドクター・ワカツキ」
敬意を込めたスピーチに驚いたのは、医学生でフィリピン・マニラに滞在していた時でした。先生が率いた農村でのプライマリーヘルスケア。
佐久病院のこの分野の実績は、世界保健機関(WHO)によるアルマアタ宣言(78年)に30年先行するパイオニアワークです。
78年、「サクのワカツキ」が世界医師会大会で演説してまいた種は、世界各国の保健活動に受け継がれました。
マニラ駐在のWHO医務官も注目し、今も途上国の若者の心に先生のメッセージを届ける金字塔になっています。
佐久では実現かなわなかった先生の「農村医科大学構想」。レイテ島にフィリピン大学医学部分校が設立され、先生の理念は結実しました。
10年ほど前、母校での講演をお願いした時、先生はおっしゃいました。
「東大は権威主義だ、におってくるぞ」
果たしてお話しいただけるものか、心配でした。
「母なる農村を守れ」「学問を討論のなかから」「農村では、演説するな、劇をやれ」。当時の私は先生のおっしゃること、よくわかりませんでした。その後、地域でもまれ、先生のこと、少しは理解できるようになったかもしれません。
「キラワレルコトヲオソレズ/ドロヲカブルコトヲオソレズ」
空襲下の東京から臼田に移って六十余年。親分肌の気配りで、一筋の道を突き進んだ先生の心意気と存在感を当地に感じます。思想によって集めた力を、いかに政治的に使うか。先生の孤独、困難もまた、これに尽きることでしょう。
宿題として残された「メディコポリス構想」(医療・福祉・教育などを連携し、若者の雇用を地域に確保する)実現にむけた新たな模索。
それは地域の民主化と医療の社会化を目指す運動です。私たち後輩医師は、暮らしと仕事、技術そして文化と平和を一貫して考え抜いた「若月学」を語り継いで参ります。
(佐久総合病院内科医 色平哲郎)
(逝去8月22日 若月俊一さん)


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