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【現代思想とジャーナリスト精神】

価値判断の基軸は自らが判断し思考し実践することの主体であるか否かであると考えております。

【色平哲郎氏のご紹介】竹中さんおめでとうございます

2021-02-12 14:22:19 | 転載
(ゴールドマン・サックスのロバート・)ゼーリック副会長から竹中平蔵氏へ送られたある手紙の存在が明らかに出たのは、2005年8月、まさに「郵政民営化」を問うあの解散総選挙の前月に行われた、参議院特別委員会でのことでした。
民主党(当時)の櫻井充参議院議員が、竹中郵政民営化担当大臣に、こんな質問をしたのです。


「竹中大臣、あなたは今まで、アメリカの要人と民営化について話し合ったことはありますか」

この質問に対し、竹中大臣はキッパリとこう否定しました。

「いいえ、一度もございません」

そうですか、では・・・と言って、櫻井議員がその場で読み上げたのが、ロバート・ゼーリック氏から竹中大臣に宛てた手紙だったのです(第162回国会 参議院 郵政民営化に関する特別委員会より:以下要約)。


「竹中さんおめでとうございます。
あなたは金融大臣としてよいお仕事をされ、それが新しい任務につながったのですね。
この任務を小泉首相が貴方に託した事は我々にとって非常に心強く、貴方には以前と同様の決意とリーダーシップを期待しています。

保険、銀行、速配業務において、競争条件を完全に平等にすることは、私たち(米国)にとって根本的に重要です。
郵貯と簡保を、民間とイコールフッティング(同条件)にすること、つまり、これらについて今までの税制や保護、政府保証を廃止して、民間と同じ条件にしてほしいのです。
具体的には以下について、貴方を後押し致します。

(1)民営化開始の2007年より、郵貯・簡保業務にも民間と同じ保険業法、銀行法を適用すること。
(2)競争条件が完全に平等になるまで、郵貯・簡保に新商品や既存商品の見直しは認めないこと。
(3)新しい郵貯・簡保は相互扶助による利益を得てはならない。
(4)民営化するプロセスの途中に、郵便局には一切特典を与えてはならない。
(5)民営化のプロセスの途中で、米国の業者を含む関連業者に口を挟む場を与え、
   その意見は決定事項として扱うこと。

これらの改革に取りかかる際、私の助けがいる時は遠慮なくおっしゃって下さい。

貴方は立派な仕事をされました、、、新たな責務における達成と幸運を祈念致します。
貴方と仕事をするのを楽しみにしております」


手紙で触れられているのはあくまでも郵便貯金と簡保のみ、明らかに日本国民の貯金340兆円を、ピンポイントで狙いうちにした指示でした。

まさに内政干渉の極みといったこの事件、そこにいた議員たちは皆ショックを受け、室内はざわめきで一杯だったそうです。

この手のことになると日本のマスコミは一斉に「報道しない自由」を行使して沈黙しますから、翌日の朝刊にはこの委員会のことどころか、竹中氏の「竹」の字すら載っていませんでした。

郵政民営化法案は、心ある愛国議員たちによって参議院では一旦否決されます。

その翌日、ワシントンの広報誌であるウォール・ストリートジャーナルはこんな記事を出しています。


「これで我々が待ち望んだ3兆ドルは、しばらくお預けだ。
が、しかし、小泉総理は頑張るに違いない」


ええ、頑張りました。

とりわけ、アメリカからの指示を受けた竹中郵政民営化担当大臣はしっかりとその期待に応え、それまで誰も手をつけなかった郵政民営化は、小泉政権下であっさりと実施されたのです。

07年には郵便局会社・郵便事業会社・ゆうちょ銀行・かんぽ生命保険の4社に再編され、15年には東京証券取引所第一部に上場、ゆうちょ銀行とかんぽ生命保険も同様に、日本郵政から株が売り出されました。

それまで安全な日本国債で日本国民のお金を運用していたゆうちょ銀行は、米系企業の株式や債券に投資する比率をどんどん上げ始め、ゴールドマン・サックスの勧めるリスク商品に投資するようになったのです。

竹中氏を後押しして郵政民営化の実現に貢献したゼーリック氏は「大金星」を上げ、世界銀行総裁、国務長官と順調に出世の階段を登ってゆき、13年には再びゴールドマン・サックスへと舞い戻り、国際戦略アドバイザー統括責任者という輝かしい椅子を手にいれたのでした。


ウォール街関係者との間でこの郵政民営化の話題に出ると、「小泉総理が郵便局の貯金を差し出し、次に彼の息子が農協の貯金をウォール街に捧げてくれる」などという不吉な言葉が出てきます。

350兆円の郵便貯金の次にウォール街が喉から手が出るほど欲しいのは、600兆円と言われる農協の貯金、そして私たちの老後を支える、130兆円の年金です。小泉進次郎議員が熱心に進める「農協改革(解体)」が完全に民営化路線なのは偶然ではありません。親子二代で貢献しています。

そして私たちの年金にも手が伸びてきました。


・私たちの年金がどんどんウォール街に流れていく

私たちの厚生年金と国民年金の管理・運用を行なっているGPIF(「年金積立金管理運用独立行政法人」)の資産規模は世界最大級です。

GPIFの運用比率が1%上がると1兆円を超える資金が市場に流入する、凄まじい規模で、ウォール街にとってはまさに垂涎(すいぜん)ものでした。

世界中どこの国でも、国民の老後を左右する年金の運用は慎重に行われています。
日本も例外ではなく、年金は6割以上が、最も安全な国内債券で運用されていました。

そこでウォール街が目をつけたのが、政権支持率を株価に支えられていた安倍政権です。
2014年10月、安倍政権の下でGPIFの運用委員会は、まず株式保有率の上限を撤廃し、年金は高リスク商品にバンバン入れられるようになりました。
国内株が25%、外国株が25%と、半分を株が占めるようになったのです。

すると15年には巨額の損失を出してしまった。
ただし国民がそれを知ったのは翌年7月末でした。
何故ならこの時期参院選があったので、不利になる情報は選挙後まで発表を遅らせていたからです。
それから19年までの5年間のうち、2年はマイナスを出し、19年には8兆円規模の損を出しています。

株式に投資する比率を跳ね上げてから、運用実績は悪くなってしまったのです。

でも政権支持率を株価に支えられている安倍政権と、年間数億円の運用手数料が流れこむ外資系金融機関および海外投資家にとっては順風満帆でした。

高い報酬を払ってウォール街から人材を入れる方針も閣議決定され、ゴールドマン・サックスらが私たちの年金を運用、利益を出しても損失を出しても、なんと彼らは毎年1億円の手数料を受け取っているのです。GPIFが運用を委託する金融機関14社に支払っている手数料は319億円。

14社中10社は外資系金融機関ですからウォール街は笑いが止まりません。

アメリカのある自治体議員にこの話をしたところ、「130兆円もの国民の老後資金を、危ない商品に投資するなんて正気なのか?」と呆れていました。
世界中を見ても、国民年金を国家レベルでこんなに株式運用している国などありません。

運用に失敗した場合、そのツケをかぶるのは私たち国民だからです。


さて、ウォール街の作った危ない商品を買い過ぎて、リーマン・ショックで1兆円を超える損失を出した農林中金も、郵貯やJAバンクと同様に、未だにハイリスク商品を買い続けています。
特に、信用の低いアメリカ企業が借りるローンを束ねた危険度の高い「CLO(ローン担保証券)」という商品を大量に買い続けているので心配ですね。

郵便局のお金、そして私たちの年金、農協のお金など、日本人の大切な資産は、ずっと前から、今も、彼らのターゲットにされてきたのです。

【堤未果「株式会社アメリカの日本解体計画」経営科学出版 2021年1月20日 52ページ】

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コロナ禍(か)で誕生した菅(すが)政権の人事を見ると、総理のブレーンに収まっているのは、元ゴールドマン・サックスのトップ(共同運営パートナー)でかつて安倍政権のIRやインバウンドを進めたデービッド・アトキンソン氏だ。

彼は前政権の頃から、日本の中小企業を「生産性が低い」と批判し、再編して数を半分に減らすべきだと主張し続けている。

政府は彼の助言に沿って、7月11日に企業の再編を促す「成長戦略実行計画」を閣議決定したが、アトキンソン氏の真のターゲットは、日本の中小企業を守っていた「中小企業基本法」の廃止だ。

成立すれば秀逸な技術を持つ日本の中小企業は淘汰(とうた)され、M&Aが盛んになり、ウォール街に巨額の手数料が流れこむ。
準備に余念がないールドマン・サックスは、早々と3月に日本で富裕層向け資産運用ビジネスへの参入を決定済みだ。

【堤未果「株式会社アメリカの日本解体計画」経営科学出版 2021年1月20日 13ページ】

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瑠璃色の真珠~【生放送!とことん共産党2月10日】~

2021-02-11 22:16:47 | 随想
【はじめに】
「生放送!とことん共産党」2021年2月10日放送。
「『緊急事態宣言』延長 この国はどうなってるのか どうしたら明日が見えるのか」
出演:ダースレイダーさん(ラッパー)、小池晃書記局長、朝岡晶子さん、赤旗スポーツ部・和泉民郎部長、勝又秀人デスク。
https://youtu.be/syAJycppshg
以上は日本共産党からの番組説明とそのユーチューブyoutube動画の記録である。
以下は番組を視聴しながらツイッターにメモした記録をひとつにまとめなおした文章である。


【随想】
ゲスト ダースレーダー氏について
そうかあ・・・・「#夜まで生テレビ」でラッパーの #ダースレーダーさん がでた関係で今日のゲストなんですね。身内にラップをやっていたが、若い世代の新しい音楽ですね。好きです。


山本薩夫さんは朝岡さんがご紹介の「戦争と人間」三部作も「皇帝のいない八月」も、以前の「松川事件」もじつに巨匠ですね。

 「#森喜朗氏発言」 鈴木瀬里奈さん、TBS日曜午前のサンデージャンボですね。私も鈴木さんの発言は勇気ある意外な真相にせまる発言と感銘しました。

森さんがもしも辞めたら橋本聖子さんです。
<政界は川淵三郎氏に流れている。だが、国際社会で日本の女性差別が厳しく問われ、それに対応するなら、森氏の問題発言にタイムリーに問題を指摘し国会答弁を続けた橋本聖子大臣を押す動きが道理ある対応と考える。>

小池晃氏質問と田村厚労相のやりとりがまともな国会論戦。
<「生活保護の扶養照会は義務ではない」。田村厚労相からこの発言を引き出した小池晃の質疑
2/2(火) 8:33配信
「生活保護の扶養照会は義務ではない」。田村厚労相からこの発言を引き出した小池晃の質疑(HARBOR BUSINESS Online) - Yahoo!ニュースhttps://news.yahoo.co.jp/articles/f512f50c9b42f549cb100dd09f4ec616bee887de
が参考になった。>


ダースレーダーさんの言説は、いまの国会と国政を鋭く突いている。日本は民主主義国家か?NO!私も「海洋軍事国家」志向の専制主義と思う。だが、市民の台頭と個性ある市民主義が立憲諸政党と共闘「しつつ」ある。立憲とれいわが共産を焦点にどう動くか。

夫婦別姓制度にしても男女差別にしても、うわべを取り繕う日本式方式は、ついにオリンピックによって国際世論に見抜かれて圧倒的批判の渦の中。

#ダースレーダーさんの以下の指摘は傾聴に値する
「野党第一党にうまみがあるうちは野党共闘はうまくいかない」
「共産党さんの方式がある種固定化から脱するべき」

「共産党」という名称の論議にコメント
➀中国共産党でもロシア共産党でもない。共産党でもない。 「日本共産党」。 共産党自身が言っているのだから、それで行ってみよう。 コンミューンorコミューン、私はコンミューンを重視するから「日本共産党」でいいとおもう。de
② パリコミューンはフランスパリ市の自治市会のこと。国防政府のプロイセンとの和平交渉に反対し同時期にフランス各地で蜂起したコミューンのうち普仏戦争後の1871年3月26日に史上初の「プロレタリアート独裁」による自治政府を宣言した1871年のパリのコミューン。ウイキペディア参照


今終わりました。 ダースレーダーさん、小池さん、朝岡さん ありがとうございました。 #とことん共産党 は、日本共産党自身にとっても 「異化」することでリフレッシュする素敵な機会となっていますね (^-^) 
私が書いたツイッターにコメントや「いいね」をくださった皆様に感謝します。

【終わりに】{とことん共産党}という番組の内容と発想が、やわらかく新鮮なイメージを視聴者国民に与えてくれている。
なおタイトルの「瑠璃色の真珠」は解釈的意味はなく印象語句です。(^^;)

 出口見えぬ帰還困難区域

2021-02-11 15:32:00 | 転載と私見
ふくしまの10年 地図に残してはいけない仕事⑩(最終回)
2020年11月07日東京新聞転載

【私見】
今朝の東京新聞で、「詩が生まれるとき」という記事を読んだ。感動的な作品で早速検索した。探していた記事はみあたらなかったが、いま転載している記事も参考になった。探し物は見つからなくとも、東京新聞の奥行きの深さに改めてさすがと感じた。


【転載】
写真:福島県飯舘村長泥地区。除染が進むのは一部で、汚染土の再利用に向けた実証試験が進む=本社ヘリ「あさづる」から

 東京電力福島第一原発から30㌔前後離れているのに、高濃度に汚染されたのが飯舘村だ。とりわけ村南部の長泥地区は許可なく立ち入りできない帰還困難区域で、部分的にしか除染が進んでいない。

 一方、汚染土の上に汚れていない土をかぶせて農作物を育て、影響の有無を調べる場ともなっている。まだ試験は進行中だが、既に村の別の地区から大量の汚染土が運び込まれている。問題なしとなれば、道路拡幅の資材にも使われる見込みだという。

 除染が進む復興拠点は3年後の避難指示解除を目指しているが、それ拠点外で具体的な除染計画はまだない。

 しかし、引退した菅野典雄前村長の旗振りで、拠点外も一括で避難指示解除する方向で話が進んでいる。村から避難指示がなくなる代わり、拠点外の住民は帰還して住むことも想定されていない。
 「国が責任をもって除染をし、戻れるようにする」。こう約束し、これまでに4兆円を投入した除染事業。だが、拠点外の16軒に対し、約束が守られるのかどうか。まだ見えない。

 環境省の除染責任者だった小沢晴司さん(59)に疑問をぶつけると、「地元での塗炭の苦しみの中から提案があったことであれば、私がコメントすることはせんえつで回答は控えたい」と答えた。

 =おわり (長久保宏美が担当しました)

【色平哲郎氏のご紹介】 周庭が収監されてから2ヶ月が過ぎました

2021-02-09 22:37:41 | 転載
送り先:香港九龍中央郵政局郵政信箱73962號
Rie(りえ)@japanaviさん
周庭が収監されてから2ヶ月が過ぎました。応援の手紙を受け取る時間は、身動きが取れない周庭にとって唯一
の外との接点であり、楽しみです。
皆さんもぜひ引き続き送ってください
Rie(りえ)@japanavi 2020年12月18日
手紙を読むのが一番の楽しみだそうです。応援の声を届けたい方は、関係者指定の私書箱宛にご送付ください
。周庭は日本語堪能だから日本語で大丈夫ですが、刑務所が検閲しますのでガイドラインを守らなかったり敏
感な話題に触れると本人に届きません
送り先、ガイドラインは
Agnes Chow 周庭@chowtingagnes 2020年11月25日
周庭への手紙は下記宛先にお願いします。
送り先:香港九龍中央郵政局郵政信箱73962號
(封筒に書くのはこれだけです。受取人の名前は封筒には書かないこと)周庭の友人たちが本人に届けます。

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院内で「発掘」された70年前の若月先生の脚本
日経メディカル 2020年9月29日 色平哲郎

先ごろ、筆者が勤める佐久総合病院の名誉総長、故・若月俊一が書いた脚本『村のうた』のガリ版刷りが出てきた。1950年に、院内劇団の公演用に書かれたものだ。ガリ版刷りといってもピンとこないかもしれないが、「ロウ紙」と呼ばれる原紙に先が硬い鉄筆で一文字、一文字手で刻み、輪転謄写機で印刷する手法のことだ。1960年代にコピー機が普及するまでは軽印刷の主流だった。

当時、40歳だった外科医の若月は、既に院長のポストにあり、何年か前に火事で焼け落ちた病棟の再建祝賀会での上演に向けて『村のうた』を書き下ろしていた。若月にとって演劇は、まだ医療との縁が薄く、知識も少なかった山村の人々に、楽しみつつ公衆衛生や保健の知識を伝える大切な手段だった。

若月は生涯で30本以上の脚本を書いたというが、著作集にも収録されていない脚本がある。『村のうた』もその1つだ。現役の病院劇団部員たちが、佐久総合病院本院の書庫に眠っていた『村のうた』のガリ版刷の、かすれて読めない文字などを補い、台本の形で復刻させた。

脚本のテーマは、まさにコロナ禍の今にぴったり。赤痢や腸チフスなどの伝染病=感染症がまん延している中、いかに「伝染病棟」を建設するか、というものだ。これら細菌性の感染症は、現代の日本では大きく減ったが、感染症が流行したときの人々の反応や偏見、差別の横行は70年前も現在もあまり変わらない。

脚本に凝縮された信念

あらすじはこうだ。戦前から感染者の隔離には「避病舎」が使われてきた。しかし、「近代的設備がない、荒屋にすぎないんですからね。十分に消毒もできない中で、患者は只寝て居るだけ。一日に一回、医者が見廻りに来てブドウ糖をうってくれるだけじゃあ、どうにもならないわね」と看護婦が嘆くほど粗末なもの。そこで院長は、病院の敷地内に「伝染病棟」を建設し、本格的な感染症治療に乗り出そうとする。

だが、村人は大反対だ。伝染病棟は感染者を集め、わざわざ災厄を呼び込むようなもの。用水路の川上に伝染病棟ができれば、川下の自分たちに害毒が及ぶ、と憤慨する。そんな村人の中にあって、夏季脳炎にかかった弟を避病舎に隔離されたまま亡くした井出という青年は、伝染病棟の建設に賛成する。

すると、反対の急先鋒、よろず屋の息子が「きさま、村を賣(う)るつもりか」「診療所が大切か。村が大切か」と井出に迫り、仲間を使って殴る蹴るの暴行を加える。古い殻に覆われた村に伝染病棟は無理かと、諦めムードが漂う。

ところが、よろず屋の一番下の子どもがジフテリアで呼吸困難に陥り、院長に気管切開をしてもらわないと命が危うくなる。よろず屋は平身低頭、「お願いします」と院長に手術を頼む。院長は、避病舎に向かい……。

場面が変わって、伝染病棟の上棟式。よろず屋は「おめでとうごわすなあ。こんなに早く伝染病棟ができ上るなんで、まるで夢のようですな」と上機嫌だ。院長の手術で末子は助かり、すっかり近代医学の威力に心服。伝染病棟の推進派に変わったのである。

この脚本には、若月の信念が凝縮されている。脚本の冒頭、東京からきた医師に「あーあー本当に田舎っていやだなあー。本当に百姓の利己心にあー全く、くさらされるよ」と言わせている。

劇の観客は、当の村人たちである。反発を買っても、とにかく、医療の民主化、近代化を進めたいという思いが、こうした台詞を吐かせたのだろう。それは信念の表出だ。

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「マスコミは戦争を始める、でも絶対に責任はとらない。だから私たちは気をつけなければならないの。トランプ候補はね、『マスコミの言うことなんか信用するな、私が、全部、ツイッターで教えるから。~』と言ったのよ」
イラク戦争は政府が完全報道規制を敷いたため、アメリカ国民が「あの戦争は間違いだった」と認識したのは、多大な人的・経済的犠牲を払った後のことでした、、、
16年4月の農地改正法によって、外国人でも農地を買いやすくしてしまったのです。~これにより、日本の農地が手にいれられるようになるための条件が大幅に緩和され、農業に関係ない外国企業にも大きく扉を開くことになりました。
日本では外国に土地の所有権を与えてしまっています。
この商品(ラウンドアップ)に対する批判記事を書くと農薬工業会から抗議されるので、マスコミは沈黙、ニュースにすらなりませんでした。
命に関わるものーすなわち、国民の命やライフラインに関わるインフラーは、絶対に外国資本に売ってはいけない。これは鉄則です。

https://amba.to/39ZLTWA
「株式会社アメリカの日本解体計画」堤未果著 2021年1月発行

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Bent Rold Andersen 教授@ デンマーク Roskilde ロスキル大学

1982年に、世界的に有名な「高齢者福祉の3原則」が打ち出されました。この委員会の委員長が、ベント・ロル・アナセン(Bent Rold Andersen)氏です、、、
高齢者福祉の3原則(アナセンの3原則)

高齢者問題委員会が打ち出した「高齢者福祉の3原則(アナセンの3原則)」とは(1)生活継続の原則(2)自己決定の原則(3)残存能力活用の原則です。これらは、現代の日本の介護においても、根底に流れる大事な哲学になっています。以下、それぞれについて、もう少し詳しく考えてみます。

https://bit.ly/3cQz7vF

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習い事と試験   ノートとは・・・むむっ卑怯な

三十年前、私が十歳だったころ、習い事といえば、習字とそろばんだった。
今は、英会話と水泳なのだと聞く。
ワープロと電卓の普及で、ずいぶん様変わりした。
ピアノは情操教育によいのだそうで、いつの時代も盛んだ。
この点で、ピアノには大変感謝している。
学生結婚して、ピアノ教師の女房に、しばらくの間養ってもらっていたからだ。
結婚することで親の扶養を離れたことで「無収入」となり、大学から授業料の免除を受けた。
少しくやしかったが、「助かった」とも思った。
それまで親からの仕送りに頼らず、自分で働いて学費を支払い生活していくのは苦しかった。
一カ月の寮費が百円という学生寮に住んで、自分の大学の生協食堂で働いた。
この自治寮を見つけていなかったら、医学部を卒業することは、とても出来なかっただろう。
金がない。
日本語の医学書は高くて、とても買えなかった。
英語のは安いが、英語は難しい。
日本の医師国家試験は日本語だから、講義に出席して、医学用語の難しい漢字を何とかして覚え込む必要がある。
医学部専門課程になると、臨床各科の講義に、ほとんど出席者がいない。
京大生は、頭がいいんだろう。
講義など聴かずとも、教科書を読めば試験に通る、との自信の表れだったのだろうか。
朝、私ひとりの前で講義が始まり、昼前になって出席者五人、というのが一番ひどかった。
講義で不明な点はその場で確かめ、終了後は、講師を引き留めて、研究的な内容についても、個人的に質疑とした。
意味不明の講義を続けた教授には、何度か質問したが、らちがあかず、講義の最終日に「来年からあなたは講義をせんでよろしい」と申し渡した。
こっちは年をくっているし、講義を聴いて理解不能なら、試験に通らないではないか。
自分で働いて学費を払っていた当時の私にとって、趣味的な講義を看過する余裕はなかった。
生き残りがかかっていた。
いつも最前列で講義を受けていた。
講堂の後ろの席で、ざわついている学生たちがいた。
私は立ち上がって「出て行け!」と、怒鳴りつけた。
怒鳴って悪いことをしたかなあ。
でも、彼らはたぶん、自分の金で学費を払ってはいないんだ。
小学生ころから変わっていた。
九九は半分しか覚えなかった。
九の段は、九九八十一とだけ覚えた。九八は八九と同じはずだ。
九七は七の段でやったじゃないか。
裏九九を覚えていない分、筆算では慎重になり、決して間違えなかった。
ある時、怒りとともに、突然気づいたことがある。試験のことだ。
正々堂々と、腕組みをして先生の授業を集中してきく。
その場で理解できるだけ理解して覚え、それで「勝負」する。
世間知らずにも、そう信じていた。
ところがなんと、「ノート」というメモを取っているヤツがいる。
その上、試験前に読み返して覚えるヤツまでいるという。
なんて卑怯(ひきょう)な連中だ……。
十歳の私は、この時初めて、試験の「常識」を知った。

2000年5月25日朝日新聞長野県版 連載第3回 色平哲郎
http://irohira.web.fc2.com/0206IroMokuji.htm

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経済的基盤を作るために、イエズス会士らは武器を含めた貿易にもタッチしましたが、なぜそんなことが可能だったのか、、、
イエズス会は単にポルトガル商船に寄港地を指定するだけでなく、イベリア半島のコンベルソ商人のネットワークと密接に結びついていたのではないでしょうか。血の純潔が重視されるスペインやポルトガルでは、新キリスト教徒は第一線で活躍することはできません。コンベルソ商人は活躍の場を国外に求めたのではないでしょうか、、、
イエズス会は、先祖代々の純粋なカトリック信者の集団ではなく、ユダヤ人を祖先とする人々を含んでいた。
そのために彼らのネットワークにアクセスすることができた。その構造があったため、ロヨラの時代に、急速に海外展開できた理由ではないかと思うのです。

https://bit.ly/3jx5MaI
創設間もないイエズス会が急速に世界展開できた理由

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現在の状況はかなり異なるだろうが、軍隊内の人権問題とほぼ無報酬に近い若者の時間の浪費は依然として変わらない。  
筆者は20歳で入営令状を受けたが、一度延期した後、21歳で陸軍に入隊した。韓国の男性にとって軍隊は一種の通過儀礼といえる。良く言えば、団体生活を通して忍耐と社会生活を学ぶ場所だが、悪く言えば、自由が制限されたあらゆる不正に満ちた場所である。
事実、この期間は、不完全な補償だけが提供される国家の奴隷として時間を過ごす。以前の韓国では、軍隊を正常に終えた人は公務員試験を受ける際に若干の加算点が与えられ、将校や副士官として軍服務を終えると企業の入社試験で優遇されたが、2000年代以降は加算点や優遇制度はほとんどなくなった。女性団体の抗議のた
めだ。

韓国兵役残酷物語、ここは人であることを捨てる場所
韓国人が語る、日本人は兵役のない国に生まれたことを感謝すべき
https://bit.ly/3aMbkdF

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陸軍中野学校 最後の証言
(その1)「落花流水」受け継ぐ
(その2止)戦中戦後、情報追い
毎日新聞 2021年2月7日「ストーリー」

 東京・中野。東京警察病院敷地内の北西角地の木々で覆われたわずかな空間に「陸軍中野学校趾(し)」碑は人目を避けるように建っていた。この地に、かつて諜報(ちょうほう)、防諜、謀略、そして遊撃戦を専門とする秘密戦士養成の陸軍学校があった。
 白髪の男は手押し車を脇にどかし、身の丈ほどの石碑に手を差し出した。口調を改めるように言った。「参りました」。元陸軍大尉、牟田照雄氏である。この1月で99歳を迎えた。
 日中戦争が始まった翌1938(昭和13)年7月に後方勤務要員養成所として開校した中野学校は、敗戦までのおよそ7年間に、戦争末期に併設された二俣分校(浜松市)を含めて2170人の卒業生を送り出した。牟田氏は44年1月、中野本校に入校し8カ月間教育を受けたのち北海道で終戦を迎えた。
 「実は戦後もここで勉強したんですよ。公安調査庁に入ってからの研修は中野学校の後にできた警察学校で行われました」
 同校の移転後には警察病院が建ち、施設は2度転変するなか、牟田氏は戦後もインテリジェンス(情報)の世界に身を置いた。いや、正しくは「置いている」である。
 昨年12月20日、都心のビルの一室。ロの字に並べられたテーブルに23人が座った。日曜日だというのに、男たちの多くはスーツ姿だった。昼過ぎ、いつもの手押し車で牟田氏が入ってくる。勉強会「桜花梅香懇話会」。牟田氏が主宰して30年を超える。出席者の多くは諸官庁の情報担当者だという。国際情勢などの専門家を呼び、最新情報を聞くのが目的だ。3時間のうちの1時間は牟田氏の講義で、体験談や知見が語られる。ある官庁の情報担当官は「牟田さんという伝説のインテリジェンスの話を聞けるうえ、横の関係が築ける貴重な機会」と明かした。
 日露戦争で謀略活動を繰り広げて日本の情報戦の祖と評される陸軍軍人の明石元二郎は、活動報告書を「落花流水」と名付けた。花びらは、今も人知れず受け継がれているのだろう。満で白寿の牟田氏は言う。「情報に携わって70年。モットーは『生涯現役、生涯情報』」。初めて明かされるその来し方は戦中、戦後の日本の知られざるもう一つの世界を照射する。 <取材・文 隈元浩彦>

死ねない秘密戦士 

 「3・14159……」。最近頭が鈍って、と言いながら円周率をそらんじはじめた。「1万桁を目指していたんです。でも、2000桁がやっとです」
 牟田照雄氏(99)の日課である。
 「『桜花梅香懇話会』のいわれですか。桜花梅香のそれぞれの語を中国語風に読むと『インフォメーション』の音に似てるんです。警戒されないようにね。誰の目を用心しているかって? ハハハッ」
 時にユーモアを交え、笑みを絶やさない。だが目にたたえる光は鋭い。
 「『中野は語らず』。それが仲間との約束です」と長年取材には応じなかった。「正しく伝えてくれるなら」と心変わりしたのは、中野本校卒業生の証言者としては恐らく最後の一人となったことも無縁ではあるまい。「多くの仲間が戦死しています。こうして生きていることに引け目も感じています」と言いながら、真一文字に結んでいた口元が開いた。
 史上初の社会主義国家、ソ連(現ロシア)が成立した1922(大正11)年、北海道・美唄で11人きょうだいの末っ子に生まれた。教員一家だった。旧制旭川中学に進学後、40(昭和15)年に陸軍士官学校に進んだ。陸士55期の騎兵科だった。翌年夏に卒業し、旧満州(現中国東北部)のソ連との国境近くに駐留する部隊の将校として配属された。
 最初の任務は、ソ連極東地域(沿海州)に展開するソ連軍の監視だった。41年6月に独ソ戦が始まり、おびただしい数の軍用車両が西に移動していた。「日本に潜入したソ連のスパイ、ゾルゲの手柄です。日本の国策が『南進』であると知って、ソ連は満州との国境に張りつけていた軍隊を対独戦に向かわせたんです」
 その年の暮れ、太平洋戦争が始まった。翌年、国境近くで気象研究を命じられた。ソ連軍侵攻の際、季節風を利用して沿海州のソ連の軍都、ウラジオストクを焼き払うための調査だったと耳にした。
 43年、まだこの地に砲火は響かなかった。戦車学校に通い、無線通信教育隊で暗号文の作成、解読に当たった。暮れに新たな命令が下った。「東京・九段の偕行(かいこう)社(陸軍将校の親睦団体)に出頭せよ」
 東京都豊島区の雑司ケ谷霊園。時折北からの風がほおを刺すなか、牟田氏と一緒にある墓を目指した。その墓標には「誠」とだけ刻まれていた。陸軍少将、秋草俊氏が眠る。陸軍中野学校前身の後方勤務要員養成所(38年7月開所)所長を務め、中野学校生みの親と呼ばれる。
 「『誠』なんですね」。静寂を破るように低い声が広がる。「いらぬは手柄/浮雲の如(ごと)き/意気に感ぜし/人生こそは/神よ与えよ/万難我に」。中野学校愛唱歌の「三三壮途( わかれ )の歌」だった。
勇ましさとは無縁の哀調を帯びた曲調だった。
 「この『誠』が中野の教えです。まさか墓石に刻んでいるとは……」
 「秘密戦では誠に勝るものはないということをたたき込まれました。つくりごとのない真実の心が協力者づくりには欠かせないというわけです。『条理をきわめるところ即(すなわ)ち誠』。中野の精神であり、戦後の公安調査庁時代もそれが指針でした」。秘密戦とは諜報(ちょうほう)、宣伝、防諜、謀略、そして遊撃戦のことだ。
 秋草氏の生家を守る本家の秋草俊二氏(66)は言う。「俊はソ連に抑留され、49年にモスクワ近郊で死んだという話ですが、遺骨は戻っていません。遺族は返還を待ち望んでいますが、男の子どもたちは無念のうちにこの世を去りました」。こんな話をした。「『他者を思え』が秋草の家の教え。誠に通じますね」
 牟田氏の回想。偕行社に出頭すると、将官ら3人から軍歴などを問われた。あとで中野学校入校試験だと知った。スパイになるため戸籍が抹消される――。そんなうわさを耳にしていた。だが、戸籍の改変はもちろん、偽名を使うこともなかった。戦局の悪化で、すでにゲリラ戦である遊撃戦が主体になりつつあった。
 「三乙」と呼ばれるクラスは、士官学校出身者が主体で28人いた。実技として潜入法、謀略なども教わったがよく覚えていない、と言った。語学、専門家による一般教養が充実していた。時代を先取りする「イスラム教と秘密戦」に関する論文を仕上げ称賛されたこともあった。面食らったことが二つあった。「民間人になりきれ」と命じられ、背広に長髪を強いられた。そして「戦場で死ぬことを教えられてきたのに、生きて情報を送り続けろ、舗装道路の下の砂利になれ、と指導されました。潔く散るという軍人の価値観とは正反対で驚きました」。
 校内には楠木正成をまつる楠公社があった。忠君愛国の象徴でもあったが、楠木一族の七たび生まれ変わっても国に尽くすという「七生報国」は「死ねない秘密戦士」の精神的支柱だった。
 44年秋。8カ月の教育後、故郷北海道の第五方面軍司令部参謀部に着任する。暮れから、本土決戦に備えた遊撃戦の準備指導に当たった。沖縄で絶望的な戦いが始まった翌45年春には旭川で幹部を対象に本格的な遊撃戦演習を行った。旭岳ふもとにいくつかの基地(根拠地)を設営、NHKに「敵上陸」などを想定した信号として特定の音楽を流させた。
 牟田氏の意見具申で同年7月には札幌近郊の現・恵庭市に島松遊撃戦幹部教育隊が開設された。楠公にちなみ菊水教育隊と名付け、約100人の将校に中野仕込みの遊撃戦を伝授した。札幌市中心部にほど近い空沼岳(そらぬまだけ)に武器弾薬、食料を貯蓄する根拠地を数カ所つくった。当時、15~60歳の男子、17~40歳の女子に兵役を義務づける義勇兵役法が施行されていた。義勇兵の指導者育成が目的だった。
 沖縄戦では少年たちを動員した遊撃戦部隊「護郷(ごきょう)隊」が組織され、多数の犠牲者を出した。指揮官の2人の将校は牟田氏の中野時代の同期である。「民間人が戦火に……」と問いかけると、押し黙ったまま厳しい表情を浮かべた。お前など、あの時代のことを何も知らないだろう――。そう言っているようだった。
 そして敗戦。玉音放送は札幌の軍司令部で聞いた。司令部は虚脱感に包まれた。数日後、軍服姿で司令部に向かう途中、被服工場の女子工員の集団からやじられた。「バカヤロー」。みじめだった。そして牟田氏の「戦争」が始まった。
 上官は去り軍の機能は止まった。10月には米軍が函館、小樽に上陸した。60代の女性が乱暴され、花嫁がさらわれる事件が続いたという。これに先だって牟田氏は10人ほどの中野学校出身者に声をかけ占領軍監視の秘密部隊を組織した。米軍による事件が続けば独自に遊撃戦をやるつもりだった。地元紙の「尋ね人欄」を使って「○日に結婚」という文面であれば、武器をとって司令部を襲うことを申し合わせた。占領軍の監視の目をそらすため結婚を奨励した。自身も中野学校後輩の姉と所帯をもった。仲間の一人は農家に変じた。戦時中、大本営が作成した「極秘 国内遊撃戦ノ参考」(45年1月)には「遊撃部隊ハ朝ニ耕作シ、夕ニ戦フ部隊ニシテ」とあり、その実践であろう。だが、占領政策が比較的穏健に進み、幻の作戦になった。武器は?の問いに「忘れました」と笑うばかりだった。

占領期、謀略事件の渦に

 東京・本郷台の旧岩崎邸庭園。三菱財閥を率いた岩崎家の豪壮な2階建て洋館が建つ。コンドル作のコロニアル風の大邸宅で、一般に公開されている。「帰ってきました」と牟田氏はおどけた。受付の女性も「お帰りなさい」と応じた。「私、ここに拉致されていました」という言葉に、女性は二の句を継げなかった。敗戦で屋敷は連合国軍総司令部(GHQ)に接収され、戦後47年末から52年にかけてキャノン機関と呼ばれる謀略機関が置かれていた。牟田氏は50年前後、この洋館の客間で1週間軟禁されたという。
 「戦後も札幌にいたのですが、GHQの札幌CIC(対敵情報部)に呼ばれ、本郷へ行けと命じられました。占領軍監視計画が発覚したのではと不安でしたが、ただ何かを聞かれるわけでもない。飯を食べて寝ていただけです」。面通しをされたとは感じている。冷戦が進行する中、キャノン機関は対ソ連のスパイ工作などを手がけていた。「今思えば危ないところでした」。中野学校出身者の名簿がGHQの手に渡っていると悟った。
 都内で会社を経営する太郎良(たろら)譲二氏(71)。父、定夫氏は中野学校の卒業生でインドシナ半島で秘密戦に従事、終戦時は中野学校で教官を務めていた。戦後の父の苦労を見聞してきた。「常時監視の対象だった。帝銀事件(48年)、下山事件(49年)などが起きるたびに警視庁に調べられたと。中野はそんな恥ずべき事件を起こす謀略組織ではないと怒っていたよ。78年に60歳で亡くなったが、その翌年にも警視庁の公安が来て『どうしてますか』と探ってきた。国のために尽くしたのに、中野というだけで犯罪者扱いだった」。自然に声は荒くなる。
 牟田氏もある事件への関与が疑われた。52年、札幌で市警察本部(当時)の公安担当の警部が射殺された白鳥事件である。ある日、刑事が訪ねてきた。「自転車に乗った男に撃たれた。中野出身のあなたじゃないか」。射撃学校ではないんだと追い返した。武装闘争に傾斜していた共産党北海道委員会の幹部と、同姓同名の男が陸士・中野学校の1期後輩にいた。この男と取り違え、中野つながりで牟田氏も疑われたようだった。
 敗戦後の牟田氏は公職追放で定職がなく、広告取り、卵売りなどで飢えをしのいだ。教員を目指そうと50年春に北海道大文学部に入学したが、白鳥事件の一件など「中野学校出身」が重く感じてもいたのだろう。そんな折の53年、元大本営参謀の声かけで公安調査庁に入庁した。卒業まで半年を残した31歳の夏だった。
 「役所時代の話は墓場に持っていく」とかたくなだ。戦時中の満州時代と同じ、対ソ諜報が任務だった。「シベリア抑留者のうち500人がソ連のスパイになるという盟約をして帰国したとされています。私が把握したのは10人ほどですが……」。つれづれにこんな話をしてくれた。64年の東京五輪の頃だ。「ソ連選手団に紛れ込んでコワレンコという男が来日したのですがひそかに帰国。何かあると思っていたら、フルシチョフ失脚の政変です」。鉄のカーテンの向こう側の緊迫した情勢をいち早くつかんだ。宿泊したホテルに中野出身者がいた。「戦時中、参謀本部は諜報のため何人かを潜らせていて、要員がまだ勤めていたんです」
 コワレンコと話す口調がどこか懐かしげだった。対日工作の責任者だった。公安調査庁時代の好敵手だったのだろう。
 秋が深まった頃、牟田氏は東京・四谷三丁目の居酒屋「酒房 一」を訪ねた。あるじの中森珂一(かいち)氏の父茂樹氏(92年に74歳で死去)も中野学校出身で南洋の激闘地ラバウルで戦った。最近、父を思い出すという。話の最中、珂一氏が重い病気にかかっていると聞いた牟田氏は「私もがんを経験し半身不随です。
諦めはいけませんよ」と声をかけた。帰りがけに珂一氏の弟の名前が「誠」と知り、牟田氏は驚いたふうだった。
 「誠」と聞き、前出の太郎良譲二氏の話を思い起こした。譲二氏は中野学校出身者の子ども、孫たちの世代で組織する「中野二誠(にせい)会」の会長を務める。第2世代の戦友会は他に例がないだろう。その譲二氏にはもう一つの顔がある。68年、巨額使途不明金問題に端を発した日大闘争の闘士であり、今も時代の証言者の一人として発言している。全共闘運動のさきがけだったが、それと陸軍中野学校とが結びつかなかった。
疑問を口にすると、「左翼やセクトとは無縁の不正を許さないという『誠』の戦い。父もその点で共感し、バリケードの中まで来てカンパしてくれた。それぞれの誠があるんだよ」。
 秘密戦とは何だったのか。「武力戦争を防ぐためです」と牟田氏。ただ、と言い添えた。「武力戦の拡大で秘密戦はできなくなった。中野の悲劇です」。ふと、英諜報機関出身の作家ジョン・ル・カレの晩年の長編「スパイたちの遺産」のエピローグが頭をよぎる。老いた元英情報部員が自身の仕事を顧みて言う。「世界平和のためだ、それが(???)なんであれ」
 妻は13年前に亡くなった。2人の娘はとうに独立し1人暮らしである。不自由は、の問いかけには応えず、趣味の歌を見せてくれた。<いくさの火やみてやすらぎとりもどし亡き妻とみし伊豆の踊り子>。「家内には苦労をかけました」。何事も恐れぬフクロウのような表情に、はじめて悲しみの色がほんのりとさした。
 珂一氏は牟田氏と会って2週間後に他界した。父の享年に1歳及ばなかった。直前まで店を開いていた。中野の教えという「倒れて後止(や)む」の人生だった。

 ◆今回のストーリーの取材は隈元浩彦(くまもと・ひろひこ)(オピニオングループ記者)
 1985年入社。東京社会部、ヘミングウェイ編集長、山形支局長、夕刊編集部長などを経て、2018年から20年春までサンデー毎日編集長。著書に「私たちはどこから来たのか」。今年還暦を迎える。はるかなる夢は「生涯現場、生涯記者」。写真は手塚耕一郎が担当した。

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女性差別と元総理森喜朗氏の発言

2021-02-06 08:34:38 | 転載と私見
写真:日刊スポーツ
【私見】

 森喜朗氏の女性差別発言は、国際的問題として取り返しのつかない事態に陥っている。以前から多かった問題発言は、森喜朗氏が首相の時批判をすべき問題だった。なんら深める作業をせぬままに今流れにのって非難をするなら、森氏を温存してきた日本的体質は温存され続けることだろう。あまり問題としては騒がれていないが竹田某氏の言動も海外で批判されている。努力してきたアスリートや関係者。非常に大きな問題だ。組織委が自己解決すべき。
日本の男女差別発言は、深く国民の中に根づいている。意識というより実態の差別が労働現場から政府閣僚まで根づいている。世界的なフェミニズムなど人権の運動は貴重な前進をとげている。それは中ロのような国家でもなく欧米大国の指導者でもない。国際的な市民の運動と労働者から起きている。



【転載】

森喜朗会長発言、海外メディアはどう伝えた?ュースが少しスキになるノート from TBS
2021/02/04 20:10
東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗会長が3日、「女性がたくさん入っている会議は時間がかかる」などと発言した問題。4日午後、森会長は「発言を撤回する」との会見を行いました。各国は今回の森氏の発言についてどんな報道をしているのか、短くですがまとめました。経済誌Forbesは、森氏の発言に関する、興味深い研究結果を紹介しています。


目次
■フランス AFP通信
■英BBC
■AP通信(ESPNや他国に配信されている)
■NYタイムズ
■Budget Insider India
■Forbes(キンバリー・エルセッサー記者)
■フランス AFP通信
「失言が多いことで知られる森元首相」「日本国内のツイッターでは、”いいかげんにしろ”や”女性蔑視だ”、”組織委員会会長をやめろ”といった声があがっている」「JOCは女性理事の割合を40%以上とする目標を掲げているが、24人のうち女性は5人にすぎない」と報じたうえで、「日本はさまざまな国際的指標で上位にランクインしているが、各国の男女格差を示す世界経済フォーラムのジェンダーギャップ指数では153か国中121位と、ジェンダー平等の推進にはまだまだ遅れている。」と締めくくった。
■英BBC
「東京五輪のトップが性差別騒動で謝罪」と見出し。
森氏について、「2000年から2001年に首相を務めたが、在任中、日本国内では繰り返される失言や気の利かない発言で知られている」。「会見で女性の話が長いという根拠を問われると、”最近は女性と長くしゃべっていないからわからない”と答えていた」「東京オリパラ組織委員会は、新型コロナの影響で1年延期となった大会の確実な実施を任務としている」
■AP通信(ESPNや他国に配信されている)
「森会長、女性蔑視発言で批判の的に」との見出し。
「森会長はこの発言で辞任に追い込まれるかもしれない」「新型コロナの影響で1年延期になった大会に水を差す新たな問題」と指摘。「女性が政治や役員室のなかで著しく過小評価されている日本でこの発言は物議をかもしている」「森氏が船長を務める東京五輪は問題だらけの沈みつつある船だ」と揶揄。
■NYタイムズ
「組織委員会はコスト上昇や国民の反対といった問題に直面しているのに、会長の”女性の話が長い”発言で新たな怒りをうんだ」「ツイッターでは森氏の辞任を求める声があがるとともに、森氏の年齢と時代遅れの態度が本当の問題だと言われている」と紹介。会見で森氏が「不快な思いをした方に」謝罪し、辞任は否定した、と報道。「開幕まで約5ヶ月となったが東京は緊急事態宣言下でワクチン接種も始まっていない。国民の7割が延期か中止すべきだとの調査結果も出ている」「森氏の発言に関して広報担当者のコメントはなかった」「SNSでは、森氏の発言そのものよりも、そこでだれも森氏に意見しなかったことについて落胆の声があがっている」
■Budget Insider India
「森氏は失言で知られる。たとえば2000年にはエイズについてジョークを言った。首相辞任時の支持率は一桁台だった」「ソチ五輪のショートプログラムで16位発進となった浅田真央さんについて”あの子、大事な時には必ず転ぶ”と批判した」「東京五輪が予定通り開催されるのか不透明な中での今回の森氏の発言だが、組織委員会側は予定通り開催すると強気だ」
■Forbes(キンバリー・エルセッサー記者)
「森氏は、自身の主張を裏付ける証拠がほとんどないことを知ったら驚くかもしれない」としたうえで、研究結果を紹介した。

「どちらの性別がより多く話すかを調べた56の研究で、女性が男性よりも多く話すことを明らかにした研究は2つだけであることがわかった。なんと34の研究が反対を示し男性が女性より多く話したという結果が出たのだ。誰がより多く話すかは、性別とは関係がなく、ステータスと関係があることがわかる。研究者たちは、より話す人はより高い地位を持っていると結論付けた。職場では、それは男性である可能性が高い。 女性5人と男性19人の五輪委員会の理事会では、男性の地位が高く、話すことが多い可能性がある」
「女性はおしゃべりという固定観念が広まり、女性は男性よりも多く話すと思うのは森氏だけではないだろう。たとえば、ある研究によると、学校では、男子は女子よりも話す傾向がある。しかし、教師にどっちがたくさん発言していたか聞くと、森氏のように「女子だ」と思っているのだ。教師は、女子生徒が話すのにより多くの授業時間を費やしていると誤って信じていて、そのために男子にもっと多くの発言機会を与えている。
さらに悪いことに、女性が発言するとき、自己主張感が強いと思われ時に反感を買うことがある。ある調査によると、会社内でより多く話す男性幹部は、能力が高いと評価された。それに対し、同じことをした女性幹部は、能力が低いと認識された」
「女性の方が競争力があるという森氏の説明も、研究での裏付けはない。ある研究によると、男性は通常、闘争心があり、競争しているときにパフォーマンスが向上する。さらに競争することで、男性は自分の能力に自信過剰になる傾向があり、それにより彼らがより多くの競争を追求するように導く」  
「女性はおしゃべりすぎて静かにする必要があるという誤解は、職場に深刻な影響を及ぼす。私たちが女性に「話に入ってきて」と奨励しているときに、女性が発言することについて文句を言うのは逆効果だ。声を上げ、声を聞いてもらうことは、自分を認知してもらい、アイデアを共有するためには必要なステップ。女性が発言するのを思いとどまらせるのではなく、もっと参加するよう、女性に勧めるべきなのだ」 《了》

【孫崎享のつぶやき】 地方選挙で厳しい状況に直面する自民党。2021-02-02 08:365

2021-02-02 12:46:41 | 転載
①北九州市議会選挙で公認候補(現職)の6人落選、他党現状維持、②山形県知事選挙、現職が自民・公明推薦候補を破る。⓷東京都千代田区区長選で、小池知事はの候補(36)が自公推薦候補を破る。コロナの菅政権批判が影響。



 一月の世論調査ではほぼすべての世論調査で、内閣支持率について不支持が支持を約10%程度上回る現象が出た。これが実際の投票にどう影響するかが注目されているが、①北九州市議会選挙で公認候補(現職)の6人落選、他党現状維持、②山形県知事選挙、現職が自民・公明推薦候補を破る、⓷東京都千代田区区長選で、小池知事はの候補(36)が自公推薦候補を破ると、自民の敗北が続いている。これらはすべて、コロナを巡る政府の対応が影響しているとみられている。


A 北九州市選挙
 1「北九州市議選、自民大敗 公認候補のうち6人落選」(毎日新聞)

・北九州市議選(定数57)が31日投開票され、自民党(現有議席22)は公認候補22人のうち6人が落選。新型コロナウイルスへの対応などを巡る政権批判も逆風になったとみられ、与党内には年内に実施される次期衆院選への影響を懸念する声が出ている。
・公明党(現有議席13)は前回に続き、13人の公認候補全員が当選(注前回に比し4000票位落としたとの書き込み別途あり)。立憲民主党(同5)は公認候補7人全員が当選。日本維新の会は3人が当選。
・自民は公認22人全員を現職で固めて臨んだが議席の維持はならず、党内では「政府への不満も一因」との見方が出ている。

2:自民大幅減の衝撃、11選目指した重鎮「6人も落選するとは…」(読売)
 現職22人全員を擁立した自民党は6人が落選して16議席に減らす一方、公明党と立憲民主党は全員が当選し、明暗が分かれた。自民党福岡県連幹部は1日、新型コロナウイルスへの対応などを巡って内閣支持率が落ち込んでいることに加え、「コロナで活動に制約を受け、逆風をはね返せなかった」と総括した。
 自民党は県連副会長で小倉南区で11選を目指した重鎮・片山尹おさむさん(74)らが議席を失った。 「6人も落選するとは誰も思っていなかったのではないか」。全国市議会議長会の会長も務めた片山さんは1日朝、「新型コロナを巡る政府の対応への不満が影響したのかもしれない」と硬い表情で語った。

B:山形県知事選挙

山形知事選、吉村氏4選 コロナ対応を前面に新顔破る(25日毎日)
 12年ぶりの選挙戦となった知事選は24日投開票され、無所属現職の吉村美栄子氏(69)が、無所属新顔の前県議、大内理加氏(57)=自民、公明県本部推薦=を破り、4選を決めた。
県内13市長のうち、8市長は大内氏を推薦。

C: 東京都千代田区区長選
 今年7月の東京都議選の前哨戦で、小池百合子都知事と自民党都連の「代理戦争」となった東京都千代田区長選は31日、投開票され、小池氏が特別顧問を務める都民ファーストの会推薦の元都議、樋口高顕氏(38)が、自民推薦の早尾恭一氏(59)ら3人を破り、初当選した。推薦候補が敗れた自民は、菅内閣の支持率急落や、与党議員の緊急事態宣言下での銀座クラブ通いに批判が出る中で、手痛い敗北となった。