幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

輝く太陽がなくなったら、私が小さく輝けばいい 菊地里帆子さん(小6)

2015-01-29 22:59:19 | 生き方/考え方

"輝く太陽がなくなったら、私が小さく輝けばいい、小さな私でもだれかの心の光、希望の光となれる"「希望の光~世界への感謝」菊地里帆子さん(小学校6年)



「希望の光~世界への感謝」 菊地 里帆子さん(当時小学校6年)の作文が多くの人に感動と元気を与えたそうです。
この作文は知りませんでした。その彼女が中学3年生になり、行動を始めたそうです。河北新報にその記事が紹介されています。
言葉の大切なこと、そしてそれを実行していくことの大切さ。自分のことを振り返りました。とても素敵な作文と活動ですので紹介します。

河北新報(2015/1/27)"共に歩もう「子どもの遊び場必要;菊地里帆子さん(中学3年)"より
「中学校の同級生8人で昨年9月、東日本大震災で被災した子どものための復興プロジェクトを始めました。
中学生の私たちでもできる理科実験教室を開催しています。・・・子どもたちが歩いて行ける場所で遊んだり、勉強したりする空間が必要です。
・・・後輩の閖上の子どもたちと一緒に、元気で頑張っていることを外部にも発信していきたいです。」

「希望の光~世界への感謝」 菊地 里帆子さん(当時小学校6年)
http://ameblo.jp/rebirth2010102/entry-10969269957.htmlより
私は3月11日2時46分に起こった東日本大地震で、家を小学校をそして大好きな街「ゆりあげ」を津波ですべて失ってしまいました。
私にとっては ゆりあげ はとても大事な存在でした。小さいころかわいがってくれたおじいちゃんと歩いた商店街。
「りほちゃん、りほちゃん」と声をかけてくれた近所のおばあちゃんたち、松林ごしに吹く潮風を感じながら過ごす毎日、
そしてキラキラと輝く穏やかな海そんなたくさんの思い出が詰まった街はあの日の津波がいっしゅんで消してしまいました。

地鳴りが鳴る程の大きな地震の後、私たちはすぐ体育館にひ難していました。
しばらくして、ラジオを聞きながら外を見ていた人の「津波だー」と叫ぶ声が体育館にひびきわたりました。
そして、屋上に上がり、見た光景は、津波が渦を巻き、おおいかぶさってくるように車も家も人も街も黒い闇のように奪っていく、
あの大好きな海の変わり果てた姿でした。呆然としていた私たちに、冷たい雪が降ってきました。

一晩真っ暗な校舎の中で、寒さにこごえながら。テスト用紙を床にしき詰め、みんなではげましあいながら、助けを待っていました。
時間がたつにつれて、頭の中は真っ白になり、ただただおそろしい時間が過ぎていきました、私たち姉弟は、家族のことを考えながら空をみていました。
私たちの不安な気持ちとは裏腹にあの日の星は恐ろしいほど光って、私達をはげまし続けてくれました。
そして、いつもは街の明かりで見えなかった小さな星たちが、大きな大きな希望の光となり照らしてくれていたのです。

あれから4ヶ月が過ぎ、私は今までの友達と又学校に通うことができています。
それは自衛隊・消防・警察の方々、全国そして世界のみなさんが支えてくれたおかげだと思います。本当にありがとうございました。
今多くのみなさんはきっと元の生活をしていると思います。あの日私たちは大切な多くの命だけでなくすべてを失ってしまいました。
でも、どんなに苦しい思い出あっても、私たちはひとつの経験として未来へ一歩をふみだそうとしています。
だから、この震災を心の片すみでかまわないので覚えていてください。震災をきっかけにたくさんの人の優しさや温かさを感じることができました。
将来、私は元気をあたえてくれた方々に「ありがとう」と恩返しをしたいです。感謝を忘れず精一杯生きていきたいです。

When the balzing sun is gone when he nothing shines upon. Then you show your little light.
輝く太陽がなくなったら、私が小さく輝けばいい、小さな私でもだれかの心の光、希望のひかりとなるように一生懸命頑張ります。


「AV女優」の社会学 鈴木涼美著 ”何故、AV女優になるのか?、何故、続けるのか?”

2015-01-29 01:01:06 | 本の紹介
著者は慶応大学でのレポートと東京大学の修士論文での研究のまとめをこの本にされたそうです。
慶応のある駅周辺ではキャバクラなどの店員やスカウトマンがたむろしていて、キャバクラ体験入店などを経験している内に、
そのような人と親しくなり、AVのプロダクションを紹介して貰い、そこに出入りしている内に、
AV女優やスタッフとも接する機会が増え、このテーマを選んだそうです。

AV出演は裸になればよいと意識して入ってくる人が多いが、
モデルとの意識(見る人に満足を与える)を持つようにと監督は説明するとありました。
このようにAVにはエンターテイメントとしての要素があるため、
セックスをする観点からすれば、ソープランドやデリヘルなどとおなじなのだが、、
ハードなものほど、終わった後の達成感が強くでるそうです。仕事に一生懸命取り組んだからのようです。
一緒に作って行くとの気持ちも大きいようです。

出演する動機は、借金や性に興味があって、また自分から応募してくる人は少ないそうです。
ほとんどかスカウトマンに声をかけられ、お金の魅力もあり、興味もあり、上手い説得で出演に至るそうです。
そこには、他の風俗と一線を隔てるものはなく続いているとの考察でした。
また風俗に行く女性と行かない女性との間にも大きな違いはないとのことでした。
たまたまスカウトマンに声をかけられ説得された人、スカウトマンに声をかけられなかっただけの違いかもしれない。
AV女優は出演して行くことでAV女優として意識が育てられ、そして続けて行くのではないだろうかと考察しています。

面接を受けた後、プロモーション用ツールを撮影するそうです。
その撮影前は出るかどうか迷いが最後まであるそうですが、
ツール撮影後は、撮影時に何人か一緒に撮影することもあり自分だけでないとの意識も働き、迷いが減るそうです。

単体、企画ものの二つがあり、単体(女優は一人で出演)での女優は70~120万円/1本(1~2日撮影)、
企画(複数の女優出演)ものだと10~50万だそうです。
単体に10本ほど(人によって差がでる)出ると、飽きて来られ企画ものに移って行くそうです。

AV女優になった人の心配は、①親ばれ(親や友達などに知られる)、②辞めた後の生活だそうです。
著者がインタビューした11人の内親が知っているのは2人だけでした。
辞めた後に、多くのお金を得ていた生活が元の生活に戻れるかどうかの心配です。

一度、贅沢を味わうと、元に戻すのはとても難しいです。
AV女優の体験がそれだけで終わらずにその後の人生に大きな影響を持つことになります。
AV女優を引退しても映像は制作会社側にあるため、復刻版として出されたりWebにずっと残る場合もあり、
いつ周りに知られるかの不安も抱えながらの人生になります。

日テレ採用で、銀座のクラブのホステス経験はアナウンサーとしての清廉性に問題ありとのことで内定が取り消されました。
この件は、日テレ側が不利とマイナスのイメージを与えると思ってか一転内定取り消し撤回になりました。
銀座のクラブを使っていながらホステスに対して差別的な考えです。
ホステスでさえこのレベルですから、AV女優としてはさらに社会の冷たい視線を意識せざるを得ない状況です。
実際は、AVを見ている人がいるからそのような需要があるわけで、AV女優だけを差別化するのはおかしいのですが。

売春は法的に処罰されますが、ソープランドは見てみぬふりをしています。
性産業は非難/否定しながらも、なくならない、存在続けています。
それは社会に必要との考え方も一方ではあります。
戦争中は女性に兵士の性処理用として部隊に付いて行動していました。
女性にその選択の自由意思があったとしていますが、戦争中のの自由はどのような自由なのかと思います。
制約やそうしなければならない中での自由、そういう社会の中での仕方がない選択だったのではと思います。

AV女優になるのも本人の自由なのですが、そこには周りの甘い誘いの中での、
つまりそのような社会の中での自由のように思えます。
AV女優を経験した人も、その後の人生がその人にとって輝く人生であればと願いながら読み終えました。