幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

阿川佐和子さん 「サワコの朝 森昌子さん」 ”精一杯努力を続ける”

2016-07-02 08:08:52 | 生き方/考え方
13歳でデビュー。45周年。芸能界に復帰して10年。
1958年生まれ。「せんせい」1972年で歌手デビュー。史上最年少で紅白の司会とトリを努めた。
支えになったのは息子3人。離婚の時、お母さんと一緒に行くと息子たちが言ってくれた。

9月からデビュー45周年のコンサートを行う予定。阿川さんが「せんせい」を少し歌った。上手!
記憶に残る曲「ホテル・カルフォルニア」。将来に迷った高校時代の曲。皆と一緒に就職活動した方がよいかと。それまで一日も休みを取っていなかった。それで一カ月休みを取って、ロサンゼルスに行ったら皆がキラキラしていた。自分は「森昌子」という名前が既にあるのに何で悩んでいるんだろうと思った。その一カ月があったので戻って来られた。

父親が歌が好きだった。3歳くらいから父が歌を教えてくれた。父のために歌を習った。おばがだったらオーディション番組に出してみようと。それがスター誕生だった。

デビュー曲は「先生」。大ヒットした。その時の先生はよくしてくれた。担任の先生が勘違いしていた(私がその先生を好きだと)。めまぐるしい日々が始まった。学校終わると黒い車が待っていた。制服のまま仕事場に行った。その時、武田鉄矢さんに「なんばしとる」と言われた。
美空ひばりさんに可愛いがわれた。美空ひばりさんから一緒に出たいと言われた。楽屋に挨拶に行ったら「小さいのね」と言われた。ご自宅にも招いていただいた。音程を丁寧に、言葉を丁寧に。歌は語らないといけないと直接教わった。

13歳からデビューなのでいろいろあったかと。その1年後、桜田淳子さん、山口百恵さんが出て来た。山口百恵さんはしっかりしていた。桜田淳子さんは天然だった。三者三様。写真は私が真ん中で、桜田淳子さんが前に出ると山口百恵さんが注意していた。

山口百恵さんが専業主婦になったことは影響したのか?私が結婚する時に、周りの人は全員辞めるように言われた。家で母親が家を笑顔で守っているのが夢だった。長男は人気グループのボーカル。歌手の先輩としては長男の歌唱力は「まあまあかな」。おやつを「いただきます」と言わなかったらパシと子供の手を叩いて「いただきますは」と言った。

46歳で離婚。長男が13歳くらい。それだけは子どもたちに悪かったな。子ども心にもなんとなく家庭の雰囲気がわかっていた。一番下の子はどこ行くのどこ行くの?と。皆が行くなら一緒に行くと。離婚する時は経済的な問題を感じた。長男が「母さんの歌聴いてみたいな」と朝出かける時に。次男はおやつ食べる時に「母さんはどんな歌歌っていたの?」三男は「お母さんはどんな歌うたっていたの」と言った。子どもたちが相談してやっていたのが見え見えだった。それで歌手を再開したが、歌い始めた時、声がでないのに驚いた。当たり前だが。やはり練習していなかった。周りも声が出ていないと思っていると感じた。2年間はボイストレーニングを行った。思い更年期障害に悩まされた。子宮頸がんにもなった。

今日一日は頑張ろう。明日は今日よりよくなると信じて。鏡を見て笑顔になろうと思った。
聴くと元気になる曲「ロッキーのテーマ」。

自分の人生。これから。今は歌手として充実している。今歌いたいものをスタッフに言えるようになった。それから毎日が楽しい。

感想
一生懸命生きることが大切なんでしょう。
それが出来れば何とかなっていくように感じました。
歌うことは日常の努力があった上で、その努力を怠っていると声がでなくなる。
日々の努力があったうえなのでしょう。