・障害者について考えることは、じつは健常者について考えることであり、同時に、自分自身について考えることでもあります。
・練馬区に住む、橋本みさおさんは、専業主婦だった32歳のとき、突然ALSという病気を発症しました。小学3年生のとき入院した同じ病室にポリオという病気で、手の動かないおにいちゃんがいて、足で鶴をおっていた。(それが私にとって)インクルーシブ教育(同じ場で共に学ぶ教育のこと)の体験だった。
・「声に出せない あ・か・さ・た・な」天畠大輔著
・「福祉と贈与 全身性障害者・新田勲と介護者たち」深田耕一郎著
・植松被告(「津久井やまゆり園」で19名殺害、職員を含む27人に重軽症負わせた)は、入所者を殺傷する際に、職員を連れまわして、「この入所者は話せるのか」と障害の程度を聞き出そうとしており、できるだけ意思疎通が難しい重度の障害者を狙って犯行におよんだことがわかっています。
・植松被告には、当然誰もが考えるであろう、「もし私の身に起こったら」という視点(想像力)が欠落しているようなのです。
・植松被告の人間かどうかの条件
1)自己認識ができる
2)複合感情が理解できる
3)他人と共有することができる。
植松被告は、「おまえこそ『心失者』じゃないか」と言われる可能性があることについて、どう考えているのでしょうか。今のところ、彼にはそういう認識はないでしょう。
・記者が「もしあなたに子どもがいて、重度障害があったら、同じように殺すのですか?」と質問したのに対して、植松被告は「ちょっと・・・ん-」と口ごもり、答えなかったといいます。
・つまり、人には自分の意見は述べる、しかし、相手からの反論は受けつけない。そうした姿勢が、植松被告の主張を成り立たせている根幹にはあるようです。
・獄中の植松被告と接見し、手紙のやりとりを続ける続ける最首悟さんには、心を引き裂かれるような思いがあるといいます。
「まずは植松被告を非難しないということ。そして、事態はこうなんだ、事実はこうなんだと押しつけがましく解説することもしない」
「植松青年のほぐし方があるとしたら、いったい何だろうということの試行、一つの試みをやってみるということですかね」
・鹿野さん(そんな真夜中にバナナかよ のモデル)
「オレは、ボランティアとつき合うようになって、つくづく人を見る目がきたえられたわ!」
・“バナナ事件”の国吉智宏さん
「鹿野さんのところに来るようになったのも、それまでの生き方に満たされないものを感じていて、何かを求めていたからなのだと思う。ここにやってくる人たちは、多かれ少なかれみんなそうだ。何かを求めている」
・「一人の不幸な人間は、もう一人の不幸な人間を見つけて幸せになる」
(ボランティアをやる理由の一つ)
・いかにまわりの人から頼られたり、自分が誰かを支え、人の役に立っている存在なのだと実感できることが、生きていく上で大切な要素なのかがわかります。人は誰かを「支える」ことによって、逆に「支えられている」のです。
・中西庄司さんは、その著者「(障害)自立生活運動史」の中で。「(障害)当事者の要求を基にしぶしぶ行政が腰をあげるのが日本の現状」と書いています。
・「青い芝の会」の衝撃的な告発
世田谷区の光明養護学校を卒業した脳性まひを中心に結成された団体。
横浜市金沢区で、脳性まひだった2歳の女児を、母親がエプロンのひもで絞殺すという事件が起こりました。この母親は、女児の他に2人の男児を抱えていましたが、4歳の次男も脳性まひだったことから、過剰な負担を背負い、将来を悲観しての犯行だったといわれています。
そのため事件後は、この母親に対する同情論が一気に高まりました。母親を殺害に追い込んだのは、何より日本の福祉行政の貧困であり、母親が障害児を殺してしまったのはやむををえないことである。
約700名の署名が集められ、加害者である母親の「減刑」を嘆願する運動が開始されたのです。しかし、青い芝の会は、こうした社会の風潮に対し、徹底的な糾弾を行います。
「殺した母親を重罪にせよというのではない。障害者でもいのちの大切さは同じだから、母親は刑法によって罪は罪として裁いてほしい。障害者を殺してもいいという風潮が広まることがわれわれにとって一番こわい」
「母よ!殺すな」横塚晃一著
・「障害者に生まれて幸福だったと自分を偽るな。本音で生きろ!」新田勲著
・「自立生活運動」
アメリカ発祥の運動は、1962年にカリフォルニア大学バークレー校に入学したエド・ロバーツという学生による権利擁護運動がきっかけでした。
ロバーツは、13歳のときポリオという病気にかかり、その後遺症で首から下がまひするという障害がありましたが、優秀な知性をもっていたことから、同大学に初めて重度の障害学生として入学します。しかし、キャンパス内の病院で管理され、保護されるだけの生活を不服として運動を起し、卒業後の1972年にはカリフォルニア州バークレーに、障害者が地域で暮らすためのサポート拠点を開設します。
・自立とはいうのは、自分でものごとを選択し、自分の人生をどうしたいかを自分で決めることであり、そのために他人や社会から支援を受けたからといって、そのことは、なんら自立を阻害する要素にほかならない。ましてや、その人の人格が侵されることもない。
・マサチューセッツ州・ボストンの自立生活センターでカウンセラーを務めるエド・ロングと鹿野さんのやりとり。
「アメリカでは、『何ができないか』ということよりも、『何ができるか』が問題なのだ。だから、『できる』と主張する人には、どんな援助をしてもそうさせるだろう」
「主張すれば与えられる。主張しなければ与えられないということですか?」
「そのとおりだ。だからこそ、主張することを恐れてはいけない」
「自立とは、誰の助けも必要としないということではない。どこに行きたいか、何をしたいかを自分で求めること。自分が決定権をもち、そのために助けてもらうことだ。だから、人に何か頼むことを躊躇しないでほしい。健康な人だって、いろんな人と助け合いながら暮らしている。一番大事なことは、精神的に自立することなんだ」
・中西庄司さん(上智大学経済学部の3年生だった20歳のとき、オートバイ事故を起こして頚髄を損傷し、以降、四肢まひという重度の障害)
「ボランティアに頼るのはやめて、有料の介助者を使うことにしよう。資本主義社会の論理を逆手にとって、障害者が雇用主になって、介助者の雇用と解雇権を持つ」(「当事者主権」中西庄司・上野千鶴子共著)
・障碍
仏教用語で「しょうげ」と読まれ、とりわけ平安末期以降は、「悪霊、怨霊などが邪魔すること。さわり。障害」などの意味で用いられることがあり、とらえ方によっては「障害」以上にマイナスイメージが強い言葉であること。
そのため、「障碍」こそが適切だという主張は、しだいにトーンダウンすることにもつながりました。
・障害者に 価値があるか ないか ということではなく、価値がない と思う人のはうに、価値を見いだす能力がない だけじゃないかって私は思うのです。脊髄性筋萎縮症という難病で、鼻マスク型の人工呼吸器をつけた海老原宏美さんの講演の言葉
・都知事に海老原宏美さんが手渡した手紙
映画「風はいきようという」公式サイトに公開
https://blog.goo.ne.jp/egaonoresipi/e/5973e3f42d5861782b2fbe05e5ddec8d
知事への手紙(老原宏美さん) ”映画「風は生きよという」”
・分離教育が進むなか、海老原さんは小中高、そして大学にいたるまで、ずっと地域の普通学校で学ぶことを貫きました。そこには、海老原さんの母・けえ子さんの類い稀な強い意志がありました。
当時の学校や教育委員会の対応はどうだったかというと、「前例がない」「何かあったとき責任をとれない」「他の子どもたちに迷惑がかかる」などの理由で反対をし続けますが、交渉のすえ、「学校では面倒みられませんから、母親の付き添いはぜったいですよ」という条件をのむことで、入学を許可されます。
まわりの床には半径1メートルくらいに赤いビニールテープが貼られていたといいます。「触って転んだら大変だから、他の子はテープ内に立ち入り禁止」という、今の感覚からすると悪い冗談のような”教室内隔離“の状態からスタートしました。
しかし、そこから、けえ子さんの大胆な作戦が始まります。仮病などを口実に、だんだん「母親の付き添いは絶対」という条件をうやむやにしていく“暴挙”に出たのです。
「母親がいないから、担任が介助をせざるをえないのですが、介助といっても、車いすを押すとか、その程度の介助なんです。で、やってみたら、ぜんぜん大したことなかった。時間をとることでもなかった。だから、先生たちも安心して、じゃあ、お母さん、普段はいなくていいですから、お昼のといれのときだけ来てください。体育の着替えのときだけきてください。そうやって、だんだん親の付き添いから解放されていったんです」
・「人サーフィン」で生きる
母親の来なくなった学校で、海老原さんは朝学校に着くと、通りがかった見ず知らずの生徒に、「私の教室は3階なんですが、上まで私を運んでもらえませんか?私の車いすを持ち上げるには4人必要なので、あと3人そろうまで、ちょっと待っててもらえます?」と声をかけることから始まります。
・「まぁ、空気でも吸って」海老原宏美・けえ子共著
・人に何かをやってもらうのは、傍から見ればラクをしているように見えるかもしれませんが、とんでもないことです。ものを頼むということは、生きていく中でももっとも神経をすり減らす作業の一つです。気持ち良く手を貸してくれる人ばかりではありません。明らかに気づいているのに無視されることもあります。その時の『あぁ・・・あの人にとっては私の存在は迷惑だったんだなぁ』というやるせない凹んだ気持ちを、syん時に切り替えて、次のターゲットを狙うわけです。それを何百回、何千回と繰り返していく中で、顔や態度を見ただけで、その人が手伝ってくれるかどうか、瞬時に見分ける術なども身に付けました。疲れる作業でしたが、自分という存在が、直接他者とつながる喜びには代えられない、という楽しさがありました」
・そんな海老原さんですが、大学の就職活動時に初めての挫折を経験しました。一般の会社からまったく相手にされなくて・・・。
しばらく実家にひきこもるようになります。
・「自立生活センター東大和」の設立へ
・「東大和障害福祉ネットワーク」という組織を立ち上げて、地域にどんなニーズや課題があるのかを掘り起こすことから始めます。
東大和に住んでいる障害者や、親の会、共同作業所などを結ぶ情報共有や相談の場。
・代表に就任した海老原さんは、その設立趣旨についてこう書いています。
「ネットワークは、市民と行政のつながりを作っていくことにも力を注ぎたいと思っています。自分たちの要望を主張するだけでは対立以外の何ものをも生み出しません。相手の意見にも耳を傾け、納得んいくまで議論をし、お互いに提言していけるような関係を築いていきたいです。
・「障害者運動のバトンをつなぐ」熊谷晉一郎共著
・人は「誰かの(何かの)役に立つ」ということを通して自分の存在価値を見いだす生き物なんじゃないか、という気がします。でも、役に立てる対象(困っている人)がいなけれあ、「誰かの役に立つ」ということ自体ができないので、困っている人の存在というのも、社会には欠かせません。となると、「困っているよ」ということ自体が、「誰かの役に立っている」ということになりますね。つまり、世の中には「困っている対象者」と「手を貸してあげられる人」の両方が必要なんです。
一生困ったことがない人なんていないんだし、一生困ってる人を助けるだけの人だっていない。それが「平等」ということ。
・「福祉が芽生える瞬間」
47人を殺傷した植松被告は、じつは施設で働いていた時代に、入所者が風呂場で発作を起こしておぼれそうになっているところを、助けた経験があると報じられたことがあるからです。しかし、それに対して、家族から何のお礼をいわれなかったので、障害者は家族にとって望まれない存在なのではないかと感じるようになったといいます。
・人と人が支え合うこと。それによって人は変わり得るのだということの不思議さに、人が生きていくことの本質もまた凝縮しているのだと。
感想;
障害というものをもう一度考える機会を与えてくれる本でした。
障害者にも役割があるから一定の割合で生まれてくるのだと思います。
あるいは、生き物としてどうしても一定の割合で障害を持って生まれるものだと思います。
神さまが皆にこれから生まれるとしたどちらの社会に生まれますか?と質問しました。
一定の割合で障害を持って生まれます。
A社会;障害を持って生まれた場合、社会はあなたを支援しません。
でも障害を持って生まれなければ自分の人生を自由に使えます。
B社会;障害を持って生まれた場合、社会はあなたを支援します。
その代わり、あなたの人生の一部をその人たちを支援するするためにお金と時間を使わなければなりません。
私はB社会を選択しますと、神さまに約束しました。
それを思い出し、それに気づいて、時間とお金をそれに使います。
この本は、神さまとの約束を思い出させてくれる本でもありました。
・練馬区に住む、橋本みさおさんは、専業主婦だった32歳のとき、突然ALSという病気を発症しました。小学3年生のとき入院した同じ病室にポリオという病気で、手の動かないおにいちゃんがいて、足で鶴をおっていた。(それが私にとって)インクルーシブ教育(同じ場で共に学ぶ教育のこと)の体験だった。
・「声に出せない あ・か・さ・た・な」天畠大輔著
・「福祉と贈与 全身性障害者・新田勲と介護者たち」深田耕一郎著
・植松被告(「津久井やまゆり園」で19名殺害、職員を含む27人に重軽症負わせた)は、入所者を殺傷する際に、職員を連れまわして、「この入所者は話せるのか」と障害の程度を聞き出そうとしており、できるだけ意思疎通が難しい重度の障害者を狙って犯行におよんだことがわかっています。
・植松被告には、当然誰もが考えるであろう、「もし私の身に起こったら」という視点(想像力)が欠落しているようなのです。
・植松被告の人間かどうかの条件
1)自己認識ができる
2)複合感情が理解できる
3)他人と共有することができる。
植松被告は、「おまえこそ『心失者』じゃないか」と言われる可能性があることについて、どう考えているのでしょうか。今のところ、彼にはそういう認識はないでしょう。
・記者が「もしあなたに子どもがいて、重度障害があったら、同じように殺すのですか?」と質問したのに対して、植松被告は「ちょっと・・・ん-」と口ごもり、答えなかったといいます。
・つまり、人には自分の意見は述べる、しかし、相手からの反論は受けつけない。そうした姿勢が、植松被告の主張を成り立たせている根幹にはあるようです。
・獄中の植松被告と接見し、手紙のやりとりを続ける続ける最首悟さんには、心を引き裂かれるような思いがあるといいます。
「まずは植松被告を非難しないということ。そして、事態はこうなんだ、事実はこうなんだと押しつけがましく解説することもしない」
「植松青年のほぐし方があるとしたら、いったい何だろうということの試行、一つの試みをやってみるということですかね」
・鹿野さん(そんな真夜中にバナナかよ のモデル)
「オレは、ボランティアとつき合うようになって、つくづく人を見る目がきたえられたわ!」
・“バナナ事件”の国吉智宏さん
「鹿野さんのところに来るようになったのも、それまでの生き方に満たされないものを感じていて、何かを求めていたからなのだと思う。ここにやってくる人たちは、多かれ少なかれみんなそうだ。何かを求めている」
・「一人の不幸な人間は、もう一人の不幸な人間を見つけて幸せになる」
(ボランティアをやる理由の一つ)
・いかにまわりの人から頼られたり、自分が誰かを支え、人の役に立っている存在なのだと実感できることが、生きていく上で大切な要素なのかがわかります。人は誰かを「支える」ことによって、逆に「支えられている」のです。
・中西庄司さんは、その著者「(障害)自立生活運動史」の中で。「(障害)当事者の要求を基にしぶしぶ行政が腰をあげるのが日本の現状」と書いています。
・「青い芝の会」の衝撃的な告発
世田谷区の光明養護学校を卒業した脳性まひを中心に結成された団体。
横浜市金沢区で、脳性まひだった2歳の女児を、母親がエプロンのひもで絞殺すという事件が起こりました。この母親は、女児の他に2人の男児を抱えていましたが、4歳の次男も脳性まひだったことから、過剰な負担を背負い、将来を悲観しての犯行だったといわれています。
そのため事件後は、この母親に対する同情論が一気に高まりました。母親を殺害に追い込んだのは、何より日本の福祉行政の貧困であり、母親が障害児を殺してしまったのはやむををえないことである。
約700名の署名が集められ、加害者である母親の「減刑」を嘆願する運動が開始されたのです。しかし、青い芝の会は、こうした社会の風潮に対し、徹底的な糾弾を行います。
「殺した母親を重罪にせよというのではない。障害者でもいのちの大切さは同じだから、母親は刑法によって罪は罪として裁いてほしい。障害者を殺してもいいという風潮が広まることがわれわれにとって一番こわい」
「母よ!殺すな」横塚晃一著
・「障害者に生まれて幸福だったと自分を偽るな。本音で生きろ!」新田勲著
・「自立生活運動」
アメリカ発祥の運動は、1962年にカリフォルニア大学バークレー校に入学したエド・ロバーツという学生による権利擁護運動がきっかけでした。
ロバーツは、13歳のときポリオという病気にかかり、その後遺症で首から下がまひするという障害がありましたが、優秀な知性をもっていたことから、同大学に初めて重度の障害学生として入学します。しかし、キャンパス内の病院で管理され、保護されるだけの生活を不服として運動を起し、卒業後の1972年にはカリフォルニア州バークレーに、障害者が地域で暮らすためのサポート拠点を開設します。
・自立とはいうのは、自分でものごとを選択し、自分の人生をどうしたいかを自分で決めることであり、そのために他人や社会から支援を受けたからといって、そのことは、なんら自立を阻害する要素にほかならない。ましてや、その人の人格が侵されることもない。
・マサチューセッツ州・ボストンの自立生活センターでカウンセラーを務めるエド・ロングと鹿野さんのやりとり。
「アメリカでは、『何ができないか』ということよりも、『何ができるか』が問題なのだ。だから、『できる』と主張する人には、どんな援助をしてもそうさせるだろう」
「主張すれば与えられる。主張しなければ与えられないということですか?」
「そのとおりだ。だからこそ、主張することを恐れてはいけない」
「自立とは、誰の助けも必要としないということではない。どこに行きたいか、何をしたいかを自分で求めること。自分が決定権をもち、そのために助けてもらうことだ。だから、人に何か頼むことを躊躇しないでほしい。健康な人だって、いろんな人と助け合いながら暮らしている。一番大事なことは、精神的に自立することなんだ」
・中西庄司さん(上智大学経済学部の3年生だった20歳のとき、オートバイ事故を起こして頚髄を損傷し、以降、四肢まひという重度の障害)
「ボランティアに頼るのはやめて、有料の介助者を使うことにしよう。資本主義社会の論理を逆手にとって、障害者が雇用主になって、介助者の雇用と解雇権を持つ」(「当事者主権」中西庄司・上野千鶴子共著)
・障碍
仏教用語で「しょうげ」と読まれ、とりわけ平安末期以降は、「悪霊、怨霊などが邪魔すること。さわり。障害」などの意味で用いられることがあり、とらえ方によっては「障害」以上にマイナスイメージが強い言葉であること。
そのため、「障碍」こそが適切だという主張は、しだいにトーンダウンすることにもつながりました。
・障害者に 価値があるか ないか ということではなく、価値がない と思う人のはうに、価値を見いだす能力がない だけじゃないかって私は思うのです。脊髄性筋萎縮症という難病で、鼻マスク型の人工呼吸器をつけた海老原宏美さんの講演の言葉
・都知事に海老原宏美さんが手渡した手紙
映画「風はいきようという」公式サイトに公開
https://blog.goo.ne.jp/egaonoresipi/e/5973e3f42d5861782b2fbe05e5ddec8d
知事への手紙(老原宏美さん) ”映画「風は生きよという」”
・分離教育が進むなか、海老原さんは小中高、そして大学にいたるまで、ずっと地域の普通学校で学ぶことを貫きました。そこには、海老原さんの母・けえ子さんの類い稀な強い意志がありました。
当時の学校や教育委員会の対応はどうだったかというと、「前例がない」「何かあったとき責任をとれない」「他の子どもたちに迷惑がかかる」などの理由で反対をし続けますが、交渉のすえ、「学校では面倒みられませんから、母親の付き添いはぜったいですよ」という条件をのむことで、入学を許可されます。
まわりの床には半径1メートルくらいに赤いビニールテープが貼られていたといいます。「触って転んだら大変だから、他の子はテープ内に立ち入り禁止」という、今の感覚からすると悪い冗談のような”教室内隔離“の状態からスタートしました。
しかし、そこから、けえ子さんの大胆な作戦が始まります。仮病などを口実に、だんだん「母親の付き添いは絶対」という条件をうやむやにしていく“暴挙”に出たのです。
「母親がいないから、担任が介助をせざるをえないのですが、介助といっても、車いすを押すとか、その程度の介助なんです。で、やってみたら、ぜんぜん大したことなかった。時間をとることでもなかった。だから、先生たちも安心して、じゃあ、お母さん、普段はいなくていいですから、お昼のといれのときだけ来てください。体育の着替えのときだけきてください。そうやって、だんだん親の付き添いから解放されていったんです」
・「人サーフィン」で生きる
母親の来なくなった学校で、海老原さんは朝学校に着くと、通りがかった見ず知らずの生徒に、「私の教室は3階なんですが、上まで私を運んでもらえませんか?私の車いすを持ち上げるには4人必要なので、あと3人そろうまで、ちょっと待っててもらえます?」と声をかけることから始まります。
・「まぁ、空気でも吸って」海老原宏美・けえ子共著
・人に何かをやってもらうのは、傍から見ればラクをしているように見えるかもしれませんが、とんでもないことです。ものを頼むということは、生きていく中でももっとも神経をすり減らす作業の一つです。気持ち良く手を貸してくれる人ばかりではありません。明らかに気づいているのに無視されることもあります。その時の『あぁ・・・あの人にとっては私の存在は迷惑だったんだなぁ』というやるせない凹んだ気持ちを、syん時に切り替えて、次のターゲットを狙うわけです。それを何百回、何千回と繰り返していく中で、顔や態度を見ただけで、その人が手伝ってくれるかどうか、瞬時に見分ける術なども身に付けました。疲れる作業でしたが、自分という存在が、直接他者とつながる喜びには代えられない、という楽しさがありました」
・そんな海老原さんですが、大学の就職活動時に初めての挫折を経験しました。一般の会社からまったく相手にされなくて・・・。
しばらく実家にひきこもるようになります。
・「自立生活センター東大和」の設立へ
・「東大和障害福祉ネットワーク」という組織を立ち上げて、地域にどんなニーズや課題があるのかを掘り起こすことから始めます。
東大和に住んでいる障害者や、親の会、共同作業所などを結ぶ情報共有や相談の場。
・代表に就任した海老原さんは、その設立趣旨についてこう書いています。
「ネットワークは、市民と行政のつながりを作っていくことにも力を注ぎたいと思っています。自分たちの要望を主張するだけでは対立以外の何ものをも生み出しません。相手の意見にも耳を傾け、納得んいくまで議論をし、お互いに提言していけるような関係を築いていきたいです。
・「障害者運動のバトンをつなぐ」熊谷晉一郎共著
・人は「誰かの(何かの)役に立つ」ということを通して自分の存在価値を見いだす生き物なんじゃないか、という気がします。でも、役に立てる対象(困っている人)がいなけれあ、「誰かの役に立つ」ということ自体ができないので、困っている人の存在というのも、社会には欠かせません。となると、「困っているよ」ということ自体が、「誰かの役に立っている」ということになりますね。つまり、世の中には「困っている対象者」と「手を貸してあげられる人」の両方が必要なんです。
一生困ったことがない人なんていないんだし、一生困ってる人を助けるだけの人だっていない。それが「平等」ということ。
・「福祉が芽生える瞬間」
47人を殺傷した植松被告は、じつは施設で働いていた時代に、入所者が風呂場で発作を起こしておぼれそうになっているところを、助けた経験があると報じられたことがあるからです。しかし、それに対して、家族から何のお礼をいわれなかったので、障害者は家族にとって望まれない存在なのではないかと感じるようになったといいます。
・人と人が支え合うこと。それによって人は変わり得るのだということの不思議さに、人が生きていくことの本質もまた凝縮しているのだと。
感想;
障害というものをもう一度考える機会を与えてくれる本でした。
障害者にも役割があるから一定の割合で生まれてくるのだと思います。
あるいは、生き物としてどうしても一定の割合で障害を持って生まれるものだと思います。
神さまが皆にこれから生まれるとしたどちらの社会に生まれますか?と質問しました。
一定の割合で障害を持って生まれます。
A社会;障害を持って生まれた場合、社会はあなたを支援しません。
でも障害を持って生まれなければ自分の人生を自由に使えます。
B社会;障害を持って生まれた場合、社会はあなたを支援します。
その代わり、あなたの人生の一部をその人たちを支援するするためにお金と時間を使わなければなりません。
私はB社会を選択しますと、神さまに約束しました。
それを思い出し、それに気づいて、時間とお金をそれに使います。
この本は、神さまとの約束を思い出させてくれる本でもありました。