ぼくの故郷(鳥取県)でらいをわずらった人たちは、どんな仕打ちを受けてきたのか、ぼくの故郷は、そこでらいをわずらった人たちに対して何をしてきたのか、その事実を知りたいと思った。そう思ってぼくは、ぼくと故郷を同じくするらい者の人たちを訪れ歩きはじめた。昭和47年に、初めて故郷を同じくする人から聞き書きをした。
・昭和27年だったね。娘さんに手をとられて入所してきたよ。そのときにもう目は見えなかった。来てからすぐ、弟さんが奥さんと結婚されたんだよ。そりゃぁもう、えらい怒って、手がつけられなかったよ。おれに相談せずにだって。わしなんか、もう怒られに行くようなものだったよ。
娘さんが高校生のころかな、夏休みに来て、一週間くらい泊まって、手をひいて園内を連れて歩いておって、みんなうらやましく思ったことあったね。息子さんが同じ病気で入って来たね。ざっくばらんな人でしたよ。盲人の女の人の所に行っては、お互いの打ち上げ話をされたりしとったね。
昭和54年の12月に危篤になって、娘さんが来たでしょ。あれから毎週月曜日に来てあげとったわな。
・Jさんは、「わしなんかもう、ひとりでこの島で死んでよ、それでしまいよ。もう誰も墓参りも何もしれくれんで、それでええよ。そんなこと、とっくに諦めてるもんな」
するとQさんが、「そうはいっても、この島でいっしょに暮してきただろう。家族以上に長い時間をいっしょに暮らしてきたんだよ。Jさん、だから、たとえJさんが死んでも、放っておくなんでことはしないよ。家から捨てられていても、それ以上のつきあいというもの、お互いにしてきたんじゃないか。負け惜しみじゃないよ。みんな放っときゃしないよ」
・自分の生まれた日を、誰も忘れない。らいを病んだ人たちは、生まれた日のほかにもうひとつ、忘れることのできない日を持っている。生まれた日は他人に教えられ、くり返すことで覚えたものだが、らい者の持っているもうひとつの日は、自分自身の体験の中で、深く記憶にとどめられたものである。
・熊本の本妙寺にらい者ばかりが家を捨てて集まり、ひとつのを作って住んでいましたが、私が回春寮世話係をしているときに、そのの刈り込みがありました。寝込みを警察が襲って、トラックに載せてやってきました。いくつかの療養所に分けて収容したそうですが、愛生園には40人くらいが、寝間着のままで連れてこられました。
・そのお医者さんは、母のきょうだいの友だちで「ぼくは診察せん」って言うんです。
「もしぼくが診察したら、診断書を書いて警察に届けねばならん。そしたら必ずらいの届をせにゃならん。そしたら警察が来て、療養所へ行きということになる。療養所へ行って治る病気なら行けばいいけど、治りゃあせん。ただそういう病気の人を一カ所に集めて治療するだけなのだから、私は診察せん」と、こう言われた。そのお医者さんは収容所へ送りとうなかったんだと思います。
・そのうちに、主人は後妻さんをもらわないとやっていけなくなりました。私はつらかったけど決心して息子に言いました。息子はランドセルと帽子を置いてその横にちょこんと座っていました。「私はあなたを育ててきたけど、あなたのほんとうのお母さんではない。あなたのお母さんは病気で遠くの病院に長いこと入院しておられた。今度帰ってこられるその人が、あなたのほんとうのお母さんだよ」 私は鬼でした。心が張り裂けるようでした。私はそれっきり親子の縁を切りました。それまで学校の春休み、冬休みに私のところに来ていた息子は、来なくなりました。それから今日にいたるまで、何の連絡もありません。
・この病気はつらい病気です。病気にかかった私らは仕方がないとしても、病気でない身内まで世間の白い眼でみられるでしょ。病気でない者をそんな眼でみんようにして欲しいと思います。
あのとき、ひとりで田舎に残った妹は、外島保養園にいるときに、一度きただけです。妹ももうおばあさんですけど、何の連絡もとらんようにしていいます。私さえがまんすれば、妹が悲しむことはないですから。弟が死んだことは妹には伝えてもらいましたが、妹きませんでした。田舎の友だちを通して、妹がどうしているかを前に聞いてました。妹もその友だちから私のようすを聞いて、泣いたりしたそうです。
声をかけたいけどかけられん。それが悲しいです。私の一生はほんとうに言うに言われん悲しいことばっかりでした。でも、もう諦めとります。
・「・・・、結婚したらここへ来るのは難しくなるんではないかと心配している」って、長女と次男に言ったことがことがあるんです。そしたら次男が姉に同意を求めるような仕草で、「たとえ結婚しても、こういう母がおるということを言って、理解してくれる人と結婚する。だから、結婚しても必ずここへ来る」っていうようなことを言うわけですよ。ばくは、それはありがたい気持ちだけで、実際は難しいだろうって、思ったんですよ。ところが三人とも嫁に行ったり、嫁を迎えて結婚したわけですよ。そして、それぞれが嫁を連れて療養所へ来たり、婿を連れてくるわけですよ。びっくりしちゃいましたよね。そしてうれしかったです。あのとき、彼らが言ったことはその場のつくろいごとではなくて、本気でそう言ったんだなって思うと、うれしかったね。
三人とも、もしこの人(田村温子さん)が、ここに来ていなかったら、それぞれの人生の方向も違った形になってただろうって思いますね。中学卒業で集団就職したりせず、あるいは大学へ進んでいたかもしれないなって。ぼくは学歴だけがすばらしいとは思いはしませんが、でもそれによって人の歩く人生は変わってきますよね。
・兵士のなかに、戦場でらいを発病する人たちがあった。らいを病んだ者は、戦場からはずされ、後方へと送られ、故郷ではなく、異郷にある傷痍軍人療養所へと隔離されていった。戦場でらいを病んだ者たちは、戦争が終わっても故郷に帰ることができなかった。家族や親類に、そして近所の人びとに迎えられていないという意味で、彼らはまだ正式に復員していない。・・・、復員できていないという意味で、彼らは今なお”兵士“である。
・らいという病気の悲しさのひとつは、どうしても、家族に発生しやすいということだという。体質が似ているということ、接触の機会が多いということも原因と考えられる。親と子が、きょうだい同士が、ともにらいに感染している人たちは多い。悲しみが集積されるという残酷さを、らいは残してきた。
・「私は、夫がこの病気だって聞いてからは、ほんとうに迷っていました。21歳で結婚して、そのとき、昭和9年に25歳でしたか。私の母親が仏を進行している人でね。私の夫がこの病気にかかったときに母は、私がこの人と別れるって言いはしないかって、そればかりを心配していたそうです。そして私に、『人間の一生ってものは、定められた縁でつながってんだから、この人と別れてもっと他の人と、って思うかもしれないけどね、あんたの縁は決まった道を歩いてんだから。悪いことをしたんじゃない。病気になったんだから、そんなことで別れちゃいけない』って、こんこんと私に言いました。それで私、あんまり知恵も才覚もないし、母の言ったことを、そうだなって思って、あとはそのまんま何迷うこともなく、くっついてきたというわけなんです」 淡々と澄み切ったきれいな声で奥さんは言う。
・私は愕然としました。とにかく話が違うんですからね。困ってしまっていると、心配してくれた職員が「行ってみないか」って、群馬県の草津楽泉園を紹介してくれました。そこへ行けば、夫婦がいっしょに住める自由地区(片方がらい者でない場合)があるって言うんです。「群馬県」って聞いて、「遠い」と思いました。でもね、「自由地区」って聞いてね、「欲しい」って思いましたよ。自由が、でしょうね。
・彼らが語る虚しさ、倦怠感は、故郷の拒絶に全ての原因がある。彼らは故郷の人にむかって、「まだ帰ってはいけませんか」と問い続けてきた。半世紀もの間、その問いだけがこだまのように返ってくるだけで、故郷の人びとは何も答えなかった。そして、島へ隔離された人々は、この拒絶のなかで、しかも異郷の地で、この世を去ろうとしている。
・自治権と生活改善を要求しようと、大半の患者がハンガーストに入ったんです。それが昭和11年8月の長嶋事件です。・・・。そのとき三人の患者が逃走したということで、監房に入っていたんんですよ。・・・。結局三人を監房から出したけど、園当局は患者の要求をなお聞き入れないというので、ハンストに入ったんですよ。・・・。でもひどかったですよ。そのあと、長島事件をおこした幹部の人たちをいじめ倒したんですよ。病気になって病室に入室するでしょ。すると、「お前はあのとき、あれだけがんばれたんだから、病気になってがんばれんことがあるか」って医者がさんざんに言うんですよ。Kという患者総代は出血をしておるのに、「もう医者に診てもらわん」と言って、病室を出て舎で死にました。もうひとりは荒磯のむこうに行って自殺しました。幹部だった人はそれぐらいいじめ倒されたんです。
・親の名前を呼んだり、誰々に会いたいと言って死んでいくんですよ。昭和20年に335人死亡、1日に4人も5人も死ぬ日がありましたよ。昭和17年に1800人いたのが、昭和22年には1200人ですからね。この分だと4年もしたら自分のところにまわってくるなと思いました。全員死ぬと思いましたよ。私は戦場に行ってないけど、療養所も戦場と同じだったんじゃないかという気がしていますよ。
・長島愛生園に来て全てがひどかったというわけではないんですよ。初めて島に来たとき、あんな若い看護婦さんが、あんな重症の患者さんを両脇からかかえている姿をみて、ほんとうに感動しましたよ。職員は警察権を持っていて、高圧的で反感を持ちましたけど、そういう献身的な看護婦さんたちの姿を見て、あるいは生きることができるかもしれんなって思いましたよ。私たちも苦しむ同僚の世話を24時間したんですよ。
・部屋には1枚の写真が大事そうにかざってあった。やさしい表情でこちらをみつめている白衣の女性だった。「私たち、よくしてもらいました。ほんとに心の支えです」と奥さんが言う。この聞き書きをしたころはまだ生きておられ、写真に映っているころは愛生園の五病棟(精神科病棟)で勤務されていた神谷美恵子さんの写真であった。マリアを見るように野田さん夫婦は、その1枚の写真をみつめていた。
ぼくは40人のらいを病んだ故郷の人たちの聞き書きをした。嘘ではないのかと思うことを、彼らは語った。どれも事実だった。怖いほどの事実だった。
極端な悲しさに慣れてしまって、らい者の感情はすでに風化し、鈍麻してきたといわれる。そして収容から半世紀も経って、今や彼らのことを語り忘れてしまっているのかもしれない。感情の鈍麻のために、たとえ形容を欠落させていたとしても、彼らが語った事実そのものが、常識を超えていた。常識を超えたむごさであったし、常識を超えた悲しさであった。
それを彼らは、ときには笑いながら話した。
らいという病気のために、手や足や光を失うという悲しさが確かにあった。そしてさらに「家」と「故郷」を失うという悲しさが、手や足や光を失ったらい者にも、失わなかったらい者にも共通してあった。「家」と「故郷」を失う悲しさこそが、なによりもらいの悲しさだった。
光田健輔の「祖国浄化」への熱意が、らい者に悲しみを強制した。光田健輔は確かに、らいを病むことの悲しみを社会的に最小限にくいとめるために隔離をはじめた。しかし、隔離のやり方のなかで、彼はいくつかの間違いを犯した。
ひとつは、隔離が「終生」であったことであった。隔離を決めて20年経って、らいを治癒させる薬、プロミンが登場した。「終生」の必要はなくなった。しかしすでにそのとき、家や故郷はらい者にはもう二度とかえらないものになってしまっていた。もし隔離が、治らい薬ができるまでという前提で、医療者とらい者と家族と故郷の人びとの間に了解されておれば、こんな悲しい話にはならなかっただろう。らいが最愛の家族に感染していく悲しみは今はないが、「終生」であることの悲しみは今も続いている。
もうひとつの間違いは、隔離が「強制」されたということであった。隔離が遂行されるまでに、サーベルの音があったし、「1~2年したら帰れるから」という嘘があったし、脅しがあったし、検診という名のみせしめがあった。場合によっては手錠もあった。目に見える手錠であったか、見えない手錠であったかという違いはあったが、どのらい者の強いられて隔離されたといえる。全員といっていいほど、収容は未明であった。故郷の人にみられたくない「強制」であったからこそ、それは未明でなければならなかった。
満田健輔は、生活者としてらい者をみることよりも、この国から一人のらい者もなくすのだという官吏の立場をいつも優先させた。らい医学会の権威者でもあり、官吏でもあった彼の完全隔離実施の考えそのものが、国家のらい者への拒絶となり、それが上から下へと指令され、日本中の故郷へ広がって行ったのだった。
そして拒絶は、国家の側だけに留まらなかった。国家の意図に貫かれた故郷の人たち側からもあった。多くのらい者が聞き書きのなかで、故郷の人たち、そして家族の人たちの拒絶のことを語っている。
久しぶりに療養所から故郷に帰郷して、らい者は故郷の人たちと家族が、自分のことを迷惑がっているのに気づく。らい者は世間の目に屈服し、自分の意志で、初めて故郷と故郷の家をあとにする。国家によって収容されたときの、家と故郷との別れを第一の解かれとするなら、家族のなかに拒絶が生じるようになったときの別れが、第二の別れと言えるだろう。第二の別れは、家と故郷からの完全な決別であった。完全な決別を不可避にする仕組みが、「隔離」の中に組み込まれていた。
故郷の人々のすみずみに、しかも最も親しい家族のすみずみに拒絶が広がっていったことが、らい者にとって最も悲しい部分だった。故郷の人々の側からの拒絶によって、隔離は急速に進展し、徹底し、確固としたものになった。
この聞き書きのなかには書かれなかったが、隔離を考えるうえで忘れてはならないことがあった。そのことをTさんは教えてくれた。
「うちのやつ、らいじゃないんだ。ただ小指が他の病気で、ちょっと曲がっていただけなんだ。でも故郷ではらいじゃないかって疑われてね。この病気、一度疑われたらしまいよ。もう故郷には帰れないからな。女房みたいなやつ、島になんぼもいるよ」
感想;
国で決めたことを、忠実に行った結果なのでしょう。
ヒットラーが行ったユダヤ人大量虐殺も、それを忠実に実行した多くの人がいたということです。
でも中にはささやかな抵抗をした人もいました。
また、人としての情愛を持ち続けた人もいました。
まさに自分がどう考え行動するかなのでしょう。
決して風化させてはいけないと思いました。
・昭和27年だったね。娘さんに手をとられて入所してきたよ。そのときにもう目は見えなかった。来てからすぐ、弟さんが奥さんと結婚されたんだよ。そりゃぁもう、えらい怒って、手がつけられなかったよ。おれに相談せずにだって。わしなんか、もう怒られに行くようなものだったよ。
娘さんが高校生のころかな、夏休みに来て、一週間くらい泊まって、手をひいて園内を連れて歩いておって、みんなうらやましく思ったことあったね。息子さんが同じ病気で入って来たね。ざっくばらんな人でしたよ。盲人の女の人の所に行っては、お互いの打ち上げ話をされたりしとったね。
昭和54年の12月に危篤になって、娘さんが来たでしょ。あれから毎週月曜日に来てあげとったわな。
・Jさんは、「わしなんかもう、ひとりでこの島で死んでよ、それでしまいよ。もう誰も墓参りも何もしれくれんで、それでええよ。そんなこと、とっくに諦めてるもんな」
するとQさんが、「そうはいっても、この島でいっしょに暮してきただろう。家族以上に長い時間をいっしょに暮らしてきたんだよ。Jさん、だから、たとえJさんが死んでも、放っておくなんでことはしないよ。家から捨てられていても、それ以上のつきあいというもの、お互いにしてきたんじゃないか。負け惜しみじゃないよ。みんな放っときゃしないよ」
・自分の生まれた日を、誰も忘れない。らいを病んだ人たちは、生まれた日のほかにもうひとつ、忘れることのできない日を持っている。生まれた日は他人に教えられ、くり返すことで覚えたものだが、らい者の持っているもうひとつの日は、自分自身の体験の中で、深く記憶にとどめられたものである。
・熊本の本妙寺にらい者ばかりが家を捨てて集まり、ひとつのを作って住んでいましたが、私が回春寮世話係をしているときに、そのの刈り込みがありました。寝込みを警察が襲って、トラックに載せてやってきました。いくつかの療養所に分けて収容したそうですが、愛生園には40人くらいが、寝間着のままで連れてこられました。
・そのお医者さんは、母のきょうだいの友だちで「ぼくは診察せん」って言うんです。
「もしぼくが診察したら、診断書を書いて警察に届けねばならん。そしたら必ずらいの届をせにゃならん。そしたら警察が来て、療養所へ行きということになる。療養所へ行って治る病気なら行けばいいけど、治りゃあせん。ただそういう病気の人を一カ所に集めて治療するだけなのだから、私は診察せん」と、こう言われた。そのお医者さんは収容所へ送りとうなかったんだと思います。
・そのうちに、主人は後妻さんをもらわないとやっていけなくなりました。私はつらかったけど決心して息子に言いました。息子はランドセルと帽子を置いてその横にちょこんと座っていました。「私はあなたを育ててきたけど、あなたのほんとうのお母さんではない。あなたのお母さんは病気で遠くの病院に長いこと入院しておられた。今度帰ってこられるその人が、あなたのほんとうのお母さんだよ」 私は鬼でした。心が張り裂けるようでした。私はそれっきり親子の縁を切りました。それまで学校の春休み、冬休みに私のところに来ていた息子は、来なくなりました。それから今日にいたるまで、何の連絡もありません。
・この病気はつらい病気です。病気にかかった私らは仕方がないとしても、病気でない身内まで世間の白い眼でみられるでしょ。病気でない者をそんな眼でみんようにして欲しいと思います。
あのとき、ひとりで田舎に残った妹は、外島保養園にいるときに、一度きただけです。妹ももうおばあさんですけど、何の連絡もとらんようにしていいます。私さえがまんすれば、妹が悲しむことはないですから。弟が死んだことは妹には伝えてもらいましたが、妹きませんでした。田舎の友だちを通して、妹がどうしているかを前に聞いてました。妹もその友だちから私のようすを聞いて、泣いたりしたそうです。
声をかけたいけどかけられん。それが悲しいです。私の一生はほんとうに言うに言われん悲しいことばっかりでした。でも、もう諦めとります。
・「・・・、結婚したらここへ来るのは難しくなるんではないかと心配している」って、長女と次男に言ったことがことがあるんです。そしたら次男が姉に同意を求めるような仕草で、「たとえ結婚しても、こういう母がおるということを言って、理解してくれる人と結婚する。だから、結婚しても必ずここへ来る」っていうようなことを言うわけですよ。ばくは、それはありがたい気持ちだけで、実際は難しいだろうって、思ったんですよ。ところが三人とも嫁に行ったり、嫁を迎えて結婚したわけですよ。そして、それぞれが嫁を連れて療養所へ来たり、婿を連れてくるわけですよ。びっくりしちゃいましたよね。そしてうれしかったです。あのとき、彼らが言ったことはその場のつくろいごとではなくて、本気でそう言ったんだなって思うと、うれしかったね。
三人とも、もしこの人(田村温子さん)が、ここに来ていなかったら、それぞれの人生の方向も違った形になってただろうって思いますね。中学卒業で集団就職したりせず、あるいは大学へ進んでいたかもしれないなって。ぼくは学歴だけがすばらしいとは思いはしませんが、でもそれによって人の歩く人生は変わってきますよね。
・兵士のなかに、戦場でらいを発病する人たちがあった。らいを病んだ者は、戦場からはずされ、後方へと送られ、故郷ではなく、異郷にある傷痍軍人療養所へと隔離されていった。戦場でらいを病んだ者たちは、戦争が終わっても故郷に帰ることができなかった。家族や親類に、そして近所の人びとに迎えられていないという意味で、彼らはまだ正式に復員していない。・・・、復員できていないという意味で、彼らは今なお”兵士“である。
・らいという病気の悲しさのひとつは、どうしても、家族に発生しやすいということだという。体質が似ているということ、接触の機会が多いということも原因と考えられる。親と子が、きょうだい同士が、ともにらいに感染している人たちは多い。悲しみが集積されるという残酷さを、らいは残してきた。
・「私は、夫がこの病気だって聞いてからは、ほんとうに迷っていました。21歳で結婚して、そのとき、昭和9年に25歳でしたか。私の母親が仏を進行している人でね。私の夫がこの病気にかかったときに母は、私がこの人と別れるって言いはしないかって、そればかりを心配していたそうです。そして私に、『人間の一生ってものは、定められた縁でつながってんだから、この人と別れてもっと他の人と、って思うかもしれないけどね、あんたの縁は決まった道を歩いてんだから。悪いことをしたんじゃない。病気になったんだから、そんなことで別れちゃいけない』って、こんこんと私に言いました。それで私、あんまり知恵も才覚もないし、母の言ったことを、そうだなって思って、あとはそのまんま何迷うこともなく、くっついてきたというわけなんです」 淡々と澄み切ったきれいな声で奥さんは言う。
・私は愕然としました。とにかく話が違うんですからね。困ってしまっていると、心配してくれた職員が「行ってみないか」って、群馬県の草津楽泉園を紹介してくれました。そこへ行けば、夫婦がいっしょに住める自由地区(片方がらい者でない場合)があるって言うんです。「群馬県」って聞いて、「遠い」と思いました。でもね、「自由地区」って聞いてね、「欲しい」って思いましたよ。自由が、でしょうね。
・彼らが語る虚しさ、倦怠感は、故郷の拒絶に全ての原因がある。彼らは故郷の人にむかって、「まだ帰ってはいけませんか」と問い続けてきた。半世紀もの間、その問いだけがこだまのように返ってくるだけで、故郷の人びとは何も答えなかった。そして、島へ隔離された人々は、この拒絶のなかで、しかも異郷の地で、この世を去ろうとしている。
・自治権と生活改善を要求しようと、大半の患者がハンガーストに入ったんです。それが昭和11年8月の長嶋事件です。・・・。そのとき三人の患者が逃走したということで、監房に入っていたんんですよ。・・・。結局三人を監房から出したけど、園当局は患者の要求をなお聞き入れないというので、ハンストに入ったんですよ。・・・。でもひどかったですよ。そのあと、長島事件をおこした幹部の人たちをいじめ倒したんですよ。病気になって病室に入室するでしょ。すると、「お前はあのとき、あれだけがんばれたんだから、病気になってがんばれんことがあるか」って医者がさんざんに言うんですよ。Kという患者総代は出血をしておるのに、「もう医者に診てもらわん」と言って、病室を出て舎で死にました。もうひとりは荒磯のむこうに行って自殺しました。幹部だった人はそれぐらいいじめ倒されたんです。
・親の名前を呼んだり、誰々に会いたいと言って死んでいくんですよ。昭和20年に335人死亡、1日に4人も5人も死ぬ日がありましたよ。昭和17年に1800人いたのが、昭和22年には1200人ですからね。この分だと4年もしたら自分のところにまわってくるなと思いました。全員死ぬと思いましたよ。私は戦場に行ってないけど、療養所も戦場と同じだったんじゃないかという気がしていますよ。
・長島愛生園に来て全てがひどかったというわけではないんですよ。初めて島に来たとき、あんな若い看護婦さんが、あんな重症の患者さんを両脇からかかえている姿をみて、ほんとうに感動しましたよ。職員は警察権を持っていて、高圧的で反感を持ちましたけど、そういう献身的な看護婦さんたちの姿を見て、あるいは生きることができるかもしれんなって思いましたよ。私たちも苦しむ同僚の世話を24時間したんですよ。
・部屋には1枚の写真が大事そうにかざってあった。やさしい表情でこちらをみつめている白衣の女性だった。「私たち、よくしてもらいました。ほんとに心の支えです」と奥さんが言う。この聞き書きをしたころはまだ生きておられ、写真に映っているころは愛生園の五病棟(精神科病棟)で勤務されていた神谷美恵子さんの写真であった。マリアを見るように野田さん夫婦は、その1枚の写真をみつめていた。
ぼくは40人のらいを病んだ故郷の人たちの聞き書きをした。嘘ではないのかと思うことを、彼らは語った。どれも事実だった。怖いほどの事実だった。
極端な悲しさに慣れてしまって、らい者の感情はすでに風化し、鈍麻してきたといわれる。そして収容から半世紀も経って、今や彼らのことを語り忘れてしまっているのかもしれない。感情の鈍麻のために、たとえ形容を欠落させていたとしても、彼らが語った事実そのものが、常識を超えていた。常識を超えたむごさであったし、常識を超えた悲しさであった。
それを彼らは、ときには笑いながら話した。
らいという病気のために、手や足や光を失うという悲しさが確かにあった。そしてさらに「家」と「故郷」を失うという悲しさが、手や足や光を失ったらい者にも、失わなかったらい者にも共通してあった。「家」と「故郷」を失う悲しさこそが、なによりもらいの悲しさだった。
光田健輔の「祖国浄化」への熱意が、らい者に悲しみを強制した。光田健輔は確かに、らいを病むことの悲しみを社会的に最小限にくいとめるために隔離をはじめた。しかし、隔離のやり方のなかで、彼はいくつかの間違いを犯した。
ひとつは、隔離が「終生」であったことであった。隔離を決めて20年経って、らいを治癒させる薬、プロミンが登場した。「終生」の必要はなくなった。しかしすでにそのとき、家や故郷はらい者にはもう二度とかえらないものになってしまっていた。もし隔離が、治らい薬ができるまでという前提で、医療者とらい者と家族と故郷の人びとの間に了解されておれば、こんな悲しい話にはならなかっただろう。らいが最愛の家族に感染していく悲しみは今はないが、「終生」であることの悲しみは今も続いている。
もうひとつの間違いは、隔離が「強制」されたということであった。隔離が遂行されるまでに、サーベルの音があったし、「1~2年したら帰れるから」という嘘があったし、脅しがあったし、検診という名のみせしめがあった。場合によっては手錠もあった。目に見える手錠であったか、見えない手錠であったかという違いはあったが、どのらい者の強いられて隔離されたといえる。全員といっていいほど、収容は未明であった。故郷の人にみられたくない「強制」であったからこそ、それは未明でなければならなかった。
満田健輔は、生活者としてらい者をみることよりも、この国から一人のらい者もなくすのだという官吏の立場をいつも優先させた。らい医学会の権威者でもあり、官吏でもあった彼の完全隔離実施の考えそのものが、国家のらい者への拒絶となり、それが上から下へと指令され、日本中の故郷へ広がって行ったのだった。
そして拒絶は、国家の側だけに留まらなかった。国家の意図に貫かれた故郷の人たち側からもあった。多くのらい者が聞き書きのなかで、故郷の人たち、そして家族の人たちの拒絶のことを語っている。
久しぶりに療養所から故郷に帰郷して、らい者は故郷の人たちと家族が、自分のことを迷惑がっているのに気づく。らい者は世間の目に屈服し、自分の意志で、初めて故郷と故郷の家をあとにする。国家によって収容されたときの、家と故郷との別れを第一の解かれとするなら、家族のなかに拒絶が生じるようになったときの別れが、第二の別れと言えるだろう。第二の別れは、家と故郷からの完全な決別であった。完全な決別を不可避にする仕組みが、「隔離」の中に組み込まれていた。
故郷の人々のすみずみに、しかも最も親しい家族のすみずみに拒絶が広がっていったことが、らい者にとって最も悲しい部分だった。故郷の人々の側からの拒絶によって、隔離は急速に進展し、徹底し、確固としたものになった。
この聞き書きのなかには書かれなかったが、隔離を考えるうえで忘れてはならないことがあった。そのことをTさんは教えてくれた。
「うちのやつ、らいじゃないんだ。ただ小指が他の病気で、ちょっと曲がっていただけなんだ。でも故郷ではらいじゃないかって疑われてね。この病気、一度疑われたらしまいよ。もう故郷には帰れないからな。女房みたいなやつ、島になんぼもいるよ」
感想;
国で決めたことを、忠実に行った結果なのでしょう。
ヒットラーが行ったユダヤ人大量虐殺も、それを忠実に実行した多くの人がいたということです。
でも中にはささやかな抵抗をした人もいました。
また、人としての情愛を持ち続けた人もいました。
まさに自分がどう考え行動するかなのでしょう。
決して風化させてはいけないと思いました。