幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

伊藤詩織氏「やめてと言った」 元記者への賠償請求訴訟で証言 ”刑事訴訟が上の圧力で停止されたので、民事訴訟で責任を!”

2019-07-08 13:01:08 | 社会
https://news.goo.ne.jp/article/kyodo_nor/nation/kyodo_nor-2019070801001409.html 2019/07/08 kyodo

 ジャーナリストの伊藤詩織さん(30)が、元TBS記者の山口敬之氏から性暴力を受けたとして慰謝料など1100万円の損害賠償を求めた訴訟の口頭弁論が8日、東京地裁で開かれた。伊藤さんが出廷し「(山口氏と)会食中に目まいがして、気付いたらホテルで暴行されていた。『やめて』と言って、体を守るのに必死だった」と証言した。

 午後は山口氏の証人尋問が実施される。
 伊藤さん側は、2015年に就職先の紹介を受けるため山口氏と飲食した際に記憶をなくし、ホテルで乱暴されたと主張。山口氏側は「同意に基づいており不法行為は一切ない」と反論している。

感想
ウイキペディアより
O・J・シンプソン事件(O・J・シンプソンじけん)はO・J・シンプソンが殺人事件で逮捕されて裁判になった、アメリカで起きた事件。
被疑者・被告人となったシンプソンが高名な人物であったことから全米のみならず世界中の注目を集め、リジー・ボーデン以来のアメリカ史における犯罪学の象徴となり、以降様々なジャンルで取り上げられることとなった重要な事件である。刑事裁判では殺人を否定する無罪判決となり民事裁判では殺人を認定する判決が下った。

詩織さんのこの事件では、シンプソン事件を思い出しました。
刑事では裁判では無罪、民事裁判では有罪になりました。

逮捕直前に上の指示で逮捕が中止になりました。
警察や検察の関係者はどう思っているのでしょうか?

もし、自分に、自分の家族に同じことが起きたらどう思うのでしょうか?

阿川佐和子さん「サワコの朝 原普さん(青山学院大学陸上部監督)」 ”自分たちで考える”

2019-07-08 09:34:08 | 生き方/考え方
青山学院大学 陸上部 箱根駅伝2連覇。
弱小チームを強くした。首寸前のことも。12年前に。10年後に優勝するから。
廃部寸前だった陸上部の話をサワコさんに語る。

去年に雑誌のインタビューをした。2連覇は大変だろうなと思った。
出雲、全日本、箱根が3つ。その内全日本で負けた。
去年と同じであれば勝てると思っていた。同じことをやっているのは退化だと思った。去年と同じことをしていたのが自分のミスだったと謝った。チームは皆で話し合うことを大切にしていた。
「個の色合わせて緑になれ」このテーマは学生が考えた。色は混ざって色がでる。その話し合い後、学生たちの顔色が変わった。それまでは守りの姿勢になっていた。知らず知らずの内にそうなっていた。チャレンジ姿勢が必要だと気づいた。39年ぶりに全区間1位を達成した。

中国電力陸上部1期生として招かれた。五年で陸上部が首になった。それで18歳の高卒の人と同じテーブルで仕事をした。中国電力で当たり前なんだけど。プライドがガタガタになった。何をやっても陸上で入って来たんだろうと周りから思わた。
苦い挫折を思い出す曲 ゆず「栄光の架橋」 聴くと涙がでる(涙が出た)。
原監督の人生の聴いてこの曲を聴くと私も涙が出て来た。

仕事の挫折感を思い出す。青山学院に入って、3年目でガタガタになった。3年で何とかしろとか。いろいろあった。首になるところ、1期生がもう一年やりたいと言ってくれた。「4年間で箱根駅伝に参加させることはできないが、10年後にはひな壇に上げるから」と言った約束は果たせた。
いろんなところから、講演とか呼ばれるのでは? 読売巨人から呼ばれて話をした。3分間スピーチをした。「感動を与えるチームになりましょう」と話をした。

駅伝最強チームの寮生活に密着(寮生活をビデオで紹介)
原監督と妻みよさんと選手が一緒に生活。朝と夜は一緒に生活。掃除は学年関係なく一緒に掃除。選手一人ひとりが目標管理を上げている。自分で目標を上げて取り組んでいる。これまでの体育会系の監督でない。日頃から怒鳴っている監督もいるが。共通の仲間意識を一緒にすることで生まれる。チーム青山。それまでは監督が選手に与えていた。自分で考える。
・目標を数字にして書き出す。
具体的な数字を出させる。自分でやれる数字を出す。低すぎたり高すぎるとアドバイスする。
・陸上部は明るさが大切。
陸上はもくもくという考えがあるが、明るいのがよい。
・相談してくる人に育てる。
具体的に人に話すセンテンスで相談できるようにする。
・答えは出さずに出るまで待つ。
監督がいなくなると弱くなる。監督がいなくても選手が自主的にやれるようにしたい。

陸上部を5年で首になり、中国電力のサラリーマンになった。このようなコミュニケーション能力がなかった。一つひとつ学んでいった。陸上界があって社会があるのではない。社会があって陸上界がある。社会で通用する人間に育てる。ビジネスの世界でも通じるようにしないとならない。そのためにも勝ち続けたい。
”感謝の気持ち“を思い出す曲 いきものがかり「ありがとう」
妻に苦労をかけた。スタッフに厳しいことを言って来たが、それについて来てくれた。それに対して、“ありがとう”の思い。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1342507178
『ありがとう』
ありがとうって伝えたくて あなたを見つめるけど
つながれた右手は 誰よりも優しく
ほら この声を受止めてる

まぶしい朝に苦笑いしてさ あなたが窓を開ける
舞い込んだ未来が 始まりを教えて
またいつもの町へ出かけるよ

でこぼこなまま積み上げてきた 二人の淡い日々は
こぼれた光を 大事に集めて
今 輝いているんだ

あなたの夢がいつからか 二人の夢に変わっていた
今日だっていつか 大切な思い出
青空も泣き空も 晴れ渡るように

ありがとうって伝えたくて あなたを見つめるけど
つながれた右手が まっすぐな思いを
不器用に伝えている

いつまでもただいつまでも あなたと笑ってたから
信じたこの道を 確かめていくのに
今 ゆっくりと歩いて行こう

喧嘩した日も泣き合った日も それぞれいろ咲かせて
真っ白な心に描かれた未来を
まだ書き足していくんだ

だれかのために生きること だれかの愛を受け入れること
そうやって今を ちょっとずつ重ねて
喜びも悲しみも 分かち合えるように

思い合うことに幸せを あなたと見つけていけたら
ありふれたことさえ 輝きを抱くよ
ほら その声に寄り添ってく

愛してるって伝えたくて あなたに伝えたくて
かけがえのない手を あなたとのこれからを
わたしは信じてるから

ありがとうって言葉を今 あなたに伝えるから
つながれた右手は 誰よりも優しく
ほら この声を受止めてる


平坦な道ではなかったけど、豊かな道を歩んで来られた。チャンスを与えたい。チーム青山で戦って行きたい。

感想;
栄光から挫折の体験があるからこそ、身に付けられた指導方法なのでしょう。
聖書に「神様はあなたの将来のために今の苦難を与えられている。あなたが耐えられるだけの」の言葉があります。
苦難の時は、それが将来役立つとは思うことができません。
でも、そう信じて今を大切に生きるときっとその苦難が意味があったとことになるのでしょう。
ロゴセラピーでは自分が人生に意味を見出すのではなく、人生が自分に問いかけて来ると考えます。
人生からの問いにどう応えて生きるか。人生からの問いに応えて生きるときっと意味(価値)が生まれるのでしょう。
原監督はそんな生き方をされているように思いました。

阿川佐和子さん「サワコの朝 山本リンダさん」 ”ヒットは努力の結果”

2019-07-08 09:33:10 | 生き方/考え方
「狙いうち」で皆を釘付けにする秘訣
思い切ってやることも大事。

1951年生まれ。「こまっちゃうナ」でデビュー
6年後「どうにもとまらない」で再デビュー
世に発表する前には猛特訓があった。

2016年 歌集生活50周年。忙しかった。
至る所で身体を動かして鍛えている。後ろ向きで歩いて脳を鍛えているなど。逆のことをやると脳に良い。

1曲目「夜明けのうた」
子どもの頃からシャンソンが好きだった。憧れだった。
岸洋子さんのステージを見に行ったり、レコード買って聞いたりと。
歌の素晴らしさを知った。歌って素晴らしいな。50代、60代と長く歌える歌手になりたいと思った。岸洋子さんが私の歌を聞きに来てくださった。その後あった時に、「がんばってるはね」と言ってくださった。楽屋には忙しいと思われ、来てもらえなかった。

小倉生まれ。父はアメリカ人。米軍の人。1歳になる前に朝鮮動乱で亡くなった。ハーフだったので虐められたこともあった。
小学校6年生でモデルデビューした。
母から時々、天狗になっていると注意されたこともあった。
ツイッギーと会ったこともある。

歌手には小学校1年生のときから歌っていた。
母が働いて一人だったので、歌を歌っていると寂しくなかった。

最初は着物着せて演歌を歌わそうと思われたそうです。歌は何が好きと問われ、夢見るシャンソン人形が好きと言った。ボーイフレンドが居るか?と問われ、とてもあがっていて「こまっちゃうな」と言ったら、遠藤実先生が、その言葉をすごく印象深かったみたいで、帰りのタクシーの中で歌ができた。

15歳デビュー曲「こまっちゃうナ」が150万枚の大ヒット。紅白歌合戦にも出演。だんだんヒットしなくなっていった。本当に困っちゃった。
1971年リンダプロジェクトができたが、ヒットが出なかった。
都倉俊一さんの曲ができた。都倉俊一さんが大物になる前。阿久悠さんが作詞。笑顔で歌ったら、これは笑う歌か。口を立てにするんだ。腹から声を出すんだ。もっと睨め。
衣装とダンスも徹底的に追及。
子どもたちがついて来てくれた。崖っぷちだった。
今聞いても迫力がある(サワコ)。ウララウララには意味はなかった。私について来なさいよ。私は自分の道を行きますとの気持ちをウララと。
阿久悠さんが、女性が伸び伸びしている、女性が幸せな社会でなければならないとの思い。その思いをリンダプロジェクトに込められた。

これがヒットした後に母が亡くなった。母からいつも励まされていた。私が元気にしていると母は嬉しそうにしてくれていたので、母が悲しむと思って落ち込んだ時も元気にするようにしている。

2曲目、愛があふれるジョン・レノンの曲。「LOVE」
シンプルなのにすてき。
結婚されて歌うことが変わったことは?2010年に結婚した。
人と人とのつながりは何事にも代えがたいなと思う。昨日の夜も主人が寝た後に思った。

感想
昔はハーフというだけでいじめがあったのでしょう。
母とリンダさん二人だけ。
おかあさんも大変だったと思います。

一つの歌を世に送り出すのも大変な努力があるのだと知りました。