・身体が、かの聖職者が着ているような聖衣を着たところで、それがたましいにとって何の飾りにもならないし、また教会が神聖な霊域に詣でたとしても無用であり、神聖な行事にあずかっても役にたたないし、身体だけで祈願し断食し巡礼に加わり、更にまた身体をもってまた身体において行われ得るような善行をことごとく完うしたところで、すべて無益である。実にたましいに義をもたらし自由を与えることのできるものは、およそこれとは全く異なるところのものでなければならない。
・たましいは神の言以外のあらゆるものを欠くことはできるが、神の言なしには他の何をもってしてもその代わりはならない。しかしたましいがもし神の言をもつなら、もはや他の何ものをも必要としない。
・神の言とは福音書ののうちに含まれているようにキリストのなされた説教以外にはない。
・善い義しい行為が決してもはや善い義しい人をつくるのではなく、反対に善い義しい人が善い義しい行為をなすのである。次には、悪い行為がもはや決して悪い人をつくるのではなく、悪い人が悪い行為を生ずるのである。つまりどんな場合にも人格が、あらゆる善い行為にさきだってあらかじめ善且つ義しくなければならないのであり、善い行為がこれに従い、義しい善い人格から生ずるのである。
キリストが「悪い木がよい実をならせることはないし、よい木が悪い実をならせることはできない」と言われたのが(マタイ伝福音書7章18)、まさにこれである。
・旧約聖書は神の律法及び誡めと、なおこれに加えてそれを遵守した人々と遵守しなかった人々との歴史を記述した書であるし、同様に新約聖書は福音及び神の約束と、ならびにそれを信仰する人々と信仰しない人々の歴史を記述した書であるとの点であり、この故に新約聖書がただ
一つしかないように、福音もただ一つのみであり、そして信仰も一つであり、約束を与えたもう髪もただひとりであるとの点も、決して誤解されてはならないのである。
・福音書は法律の書ではなくて、本来われわれの信じるキリストの慈愛の業についての説教をわれわれに示しまた所有せしめようとするためのものにほかならないことは、どこを見ても明らかである。
・新約聖書中のどの書が優れているかを正しく判断し且つ見別けることができるであろう。すなわちヨハネ福音書と、聖パウロの手紙、なかんずくローマ人への手紙と、聖ペテロの第一の手紙とは、あらゆる書のうちで真実の中核また精髄であり、当然第一のもととせらるべく、どんなキリスト者にも最初に且つ最も熟読させ、しかも日々これを読むことによって日常の食物のように親しむにいたるように、すすめらるべきである。
・誰しも自己のうちに、善への嫌忌と悪への愛着とをも蔵しているからである。善に対する心からの願いの在しないところでは、心の根は律法にかかっていない。そしてそのとき、たとい外見的には多くの善行と貴むべき生活とが輝いていたとしても、罪もまた疑いなく在し、神の前には怒りに価いするのである。
・信仰はわれわれのうちに働きたもう神の御業であり、ヨハネ伝福音書第二章にあるようにわれわれをかえて新しく神からうまれさせ(十三節)、古いアダムを殺し、心も精神も念いもすべての力も、われわれをまったく別人となし、更に聖霊をも伴いきたらしめるのである。これ実に信仰についての生ける活発な能動的な力強いものであって、それが絶え間なく善を働きださないということはありえない。信仰は、善行をなすべきであるかどうかを問うことをしない、これを問う以前に、すでにそれがなされているし、また常になされつつあるからである。しかるにかような行いをなさない者は、無信仰の人間である。
・詩篇は、キリストの死と復活とをかくもはっきり約束し、その御国と全キリスト教会の現状と本質を予示しているほどに、貴重で且つ愛すべきであり、全聖書中にあるすべてのことがもっとも美しくもっとも簡潔に要約され、立派な「エンキリディオン」と言わば虎の巻とされ備えられているので、これを小さな聖書と名付けたいほどである。
感想;
宗教は頭で考えるものではなく、その宗教を信じたいかどうかなのだと思います。
善い行為をし心がある。
善い行為をするが心がない。
善い行為をしないが心がある。
善い行為をしないし心がない。
善い行為自体は善いのだが、心がない善い行為をどう考えるかは難しいと思いました。
・たましいは神の言以外のあらゆるものを欠くことはできるが、神の言なしには他の何をもってしてもその代わりはならない。しかしたましいがもし神の言をもつなら、もはや他の何ものをも必要としない。
・神の言とは福音書ののうちに含まれているようにキリストのなされた説教以外にはない。
・善い義しい行為が決してもはや善い義しい人をつくるのではなく、反対に善い義しい人が善い義しい行為をなすのである。次には、悪い行為がもはや決して悪い人をつくるのではなく、悪い人が悪い行為を生ずるのである。つまりどんな場合にも人格が、あらゆる善い行為にさきだってあらかじめ善且つ義しくなければならないのであり、善い行為がこれに従い、義しい善い人格から生ずるのである。
キリストが「悪い木がよい実をならせることはないし、よい木が悪い実をならせることはできない」と言われたのが(マタイ伝福音書7章18)、まさにこれである。
・旧約聖書は神の律法及び誡めと、なおこれに加えてそれを遵守した人々と遵守しなかった人々との歴史を記述した書であるし、同様に新約聖書は福音及び神の約束と、ならびにそれを信仰する人々と信仰しない人々の歴史を記述した書であるとの点であり、この故に新約聖書がただ
一つしかないように、福音もただ一つのみであり、そして信仰も一つであり、約束を与えたもう髪もただひとりであるとの点も、決して誤解されてはならないのである。
・福音書は法律の書ではなくて、本来われわれの信じるキリストの慈愛の業についての説教をわれわれに示しまた所有せしめようとするためのものにほかならないことは、どこを見ても明らかである。
・新約聖書中のどの書が優れているかを正しく判断し且つ見別けることができるであろう。すなわちヨハネ福音書と、聖パウロの手紙、なかんずくローマ人への手紙と、聖ペテロの第一の手紙とは、あらゆる書のうちで真実の中核また精髄であり、当然第一のもととせらるべく、どんなキリスト者にも最初に且つ最も熟読させ、しかも日々これを読むことによって日常の食物のように親しむにいたるように、すすめらるべきである。
・誰しも自己のうちに、善への嫌忌と悪への愛着とをも蔵しているからである。善に対する心からの願いの在しないところでは、心の根は律法にかかっていない。そしてそのとき、たとい外見的には多くの善行と貴むべき生活とが輝いていたとしても、罪もまた疑いなく在し、神の前には怒りに価いするのである。
・信仰はわれわれのうちに働きたもう神の御業であり、ヨハネ伝福音書第二章にあるようにわれわれをかえて新しく神からうまれさせ(十三節)、古いアダムを殺し、心も精神も念いもすべての力も、われわれをまったく別人となし、更に聖霊をも伴いきたらしめるのである。これ実に信仰についての生ける活発な能動的な力強いものであって、それが絶え間なく善を働きださないということはありえない。信仰は、善行をなすべきであるかどうかを問うことをしない、これを問う以前に、すでにそれがなされているし、また常になされつつあるからである。しかるにかような行いをなさない者は、無信仰の人間である。
・詩篇は、キリストの死と復活とをかくもはっきり約束し、その御国と全キリスト教会の現状と本質を予示しているほどに、貴重で且つ愛すべきであり、全聖書中にあるすべてのことがもっとも美しくもっとも簡潔に要約され、立派な「エンキリディオン」と言わば虎の巻とされ備えられているので、これを小さな聖書と名付けたいほどである。
感想;
宗教は頭で考えるものではなく、その宗教を信じたいかどうかなのだと思います。
善い行為をし心がある。
善い行為をするが心がない。
善い行為をしないが心がある。
善い行為をしないし心がない。
善い行為自体は善いのだが、心がない善い行為をどう考えるかは難しいと思いました。