幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

「倚りかからず」茨木のり子著 ”言葉はエネルギーにも癒しにも”

2020-11-01 01:58:00 | 本の紹介
・四十年前の ある晩秋
 夜行で発って朝まだき
 奈良駅についた
 法隆寺へ行きたいのだが
 まだバスも出ない
 しかたなく
 昨夜買った駅弁をもそもそ食べていると
 その待合室に 駅長さんが近づいてきて
 二、三の客にお茶をふるまってくれた
 ゆるやかに流れていた時間

 駅長さんの顔は忘れてしまったが
 大きな薬缶と 制服と
 注いでくれた熱い渋茶の味は
 今でも思い出すことができる

・倚りかからず
もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある

倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ

・笑う能力 
 「先生 お元気ですか
 我が家の姉もそろそろ色づいてまいりました」
 他家の姉が色づいたとて知ったことか
 手紙を受け取った教授は
 柿の書き間違いと気づくまで何秒くらいかかったか
 
 「次の会にはぜひお越しください
 枯れ木も山の賑わいですから」
 おっとっと それは老人の謙譲語で
 若者が年上のひとを誘う言葉ではない
 
 着飾った夫人たちの集うレストランの一角
 ウェイターがうやうやしくデザートの説明
 「洋梨のババロワでございます」
 「なに 洋梨のババア?」
 
 若い娘がだるそうに喋っていた
 あたしねぇ ポエムをひとつ作って
 彼に贈ったの 虫っていう題
 「あたし 蚤かダニになりたいの
 そうすれば二十四時間あなたにくっついていられる」
 はちゃめちゃな幅の広さよ ポエムとは
 
 言葉の脱臼 骨折 捻挫のさま
 いとをかしくて
 深夜 ひとり声をたてて笑えば
 われながら鬼気(きき)迫るものあり
 ひやりとするのだが そんな時
 もう一人の私が耳もとで囁く
 「よろしい
 お前にはまだ笑う能力が残っている
 乏しい能力のひとつとして
 いまわのきわまで保つように」
 はィ 出来ますれば
 
 山笑う
 という日本語もいい
 春の微笑を通りすぎ
 山よ 新緑どよもして
 大いに笑え!
 
 気がつけば いつのまにか
 我が膝までが笑うようなっていた

・苦しみの日々 哀しみの日々 
苦しみの日々
哀しみの日々
それはひとを少しは深くするだろう
わずか五ミリぐらいではあろうけれど

さなかには心臓も凍結
息をするのさえ難しいほどだが
なんとか通り抜けたとき 初めて気付く
あれはみずからを養うに足る時間であったと

少しずつ 少しずつ深くなってゆけば
やがては解るようになるだろう
人の痛みも 柘榴のような傷口も
わかったとてどうなるものでもないけれど
(わからないよりはいいだろう)

苦しみに負けて
哀しみにひしがれて
とげとげのサボテンと化してしまうのは
ごめんである

受けとめるしかない
折々の小さな刺や 病でさえも
はしゃぎや 浮かれのなかには
自己省察の要素は皆無なのだから

・マザー・テレサの瞳
マザー・テレサの瞳は
時に
猛禽(もうきん)類のように鋭く怖いようだった
マザー・テレサの瞳は
時に
やさしさの極北を示してもいた
二つの異なるものが融けあって
妖しい光を湛(たた)えていた
静かなる狂とでも呼びたいもの
静かなる狂なくして
インドでの徒労に近い献身が果せただろうか
マザー・テレサの瞳は
クリスチャンでもない私のどこかに棲みついて
じっとこちらを凝視したり
またたいたりして
中途半端なやさしさを撃ってくる!

鷹の眼は見抜いた
日本は貧しい国であると
慈愛の眼は救いあげた
垢だらけの瀕死の病人を
- なぜこんなことをしてくれるのですか
- あなたを愛しているからですよ
愛しているという一語の錨(いかり)のような重たさ

自分を無にすることができれば
かくも豊饒(ほうじょう)なものがなだれこむのか
さらに無限に豊饒なものを溢れさせることができるのか
こちらは逆立ちしてもできっこないので
呆然となる

たった二枚のサリーを洗いつつ
取っかえ引っかえ着て
顔には深い皺を刻み
背丈は縮んでしまったけれど
八十六歳の老女はまたなく美しかった
二十世紀の逆説を生き抜いた生涯

外科手術の必要な者に
ただ包帯を巻いて歩いただけと批判する人は
知らないのだ
瀕死の病人をひたすら撫でさするだけの
慰藉(いしゃ)の意味を
死にゆくひとのかたわらにただ寄り添って
手を握りつづけることの意味を

- 言葉が多すぎます
といって一九九七年
その人は去った

・行方不明の時間  
人間には
行方不明の時間が必要です
なぜかはわからないけれど
そんなふうに囁くものがあるのです

三十分であれ 一時間であれ
ポワンと一人
なにものからも離れて
うたたねにしろ
瞑想にしろ
不埒なことをいたすにしろ

遠野物語の寒戸の婆のような
ながい不明は困るけれど
ふっと自分の存在を掻き消す時間は必要です

所在 所業 時間帯
日々アリバイを作るいわれもないのに
着信音が鳴れば
ただちに携帯を取る
道を歩いているときも
バスや電車の中でさえ
<すぐに戻れ>や<今 どこ?>に
答えるために

遭難のとき助かる率は高いだろうが
電池が切れていたり圏外であったりすれば
絶望は更に深まるだろう
シャツ一枚 打ち振るよりも

私は家に居てさえ
ときどき行方不明になる
ベルが鳴っても出ない
電話が鳴っても出ない
今は居ないのです

目には見えないけれど
この世のいたる所に
透明な回転ドアが設置されている
無意味でもあり 素敵でもある 回転ドア
うっかり押したり
あるいは
不意に吸いこまれたり
一回転すれば あっという間に
あの世へとさまよい出る仕掛け
さすれば
もはや完全なる行方不明
残された一つの愉しみでもあって
その折は
あらゆる約束ごとも
すべては
チャラよ

感想
言葉は力になります。
言葉が癒してくれたり、慰めてくれたり、支えてくれたり、エネルギーをくれたり。

そういう言葉を私も口にしたいと思いました。

一方、言葉は人を傷つけることもあります。

同じ言葉でも、出る人によって伝わる重みが変わります。

人は言葉を選んでいますが、言葉も人を選んでいるのかもしれません。