・修行をつんで悟りをひらいたはずのお坊さんでさえ、ガンだと聞かされたとたんに生きる気力を失って、数日を経ずしてして亡くなったというような逸話を聞くこともよくある。
・イヌを3つのグループに分けた。
第一のグループは、ハンモックのなかでショックを受けるのであるが、そのときに鼻で板を押すとショックを止めることができるようになっている。したがって、体を動かしてショックを止めるというイヌも出てくるわけだ。
第二のグループは、第一のグループの対応するイヌと同じ回数、同じ長さのショックを与えられるのだが、このイヌは自分の行動によってショックを止めることができない。
第三のグループはいっさいショックを受けない群で、実験条件の効果を調べる統制群にあたる。
24時間後に実験箱に入れ、棚を跳び越えることによってショックを回避するという学習を行わせてみると、この第二群、つまり自分の行動によってショックが回避できないという経験をもった群においてのみ、成績が劣ることがわかった。第一群は、全くショックを受けなかった統制群のイヌと同様に正常に反応したのであった。
さらにここで注目すべきなのは、この無力感がもともとそれが獲得されたのとは非常に違う場面にまで一般化されるということである。
・セリグマンたちは、回避できない苦痛刺激に繰り返しさらされることは、三つのマイナスの効果をもつという。
1) 環境に能動的に反応しようという意欲が低下する
2) 学習する能力が低下する
3) 情緒的に混乱する
・ヒロトは、ものごとの成功・失敗は自分の統制できないものだ、偶然や、運・不運によって決まると考えている被験者のほうが無気力になりやすいことを見出したのである。
・ホスピタリズムと呼ばれる現象がある。とくに人手不足の著しい施設の子どもに見られる顕著な発達の遅れと無気力・無感動の状態をいう。・・・。このような施設児では、死亡率が異常に高いことも大きな特徴である。
・ロバートソンによれば、入院のため幼児が母親からはなされたとき、「落ちつく」に至るには次の三つの段階があるという。
1) 抗議の段階である
これまでの体験にもとづき、泣けば母親がきてくれることを期待する。
2) 努力が徒労に終わると、徐々に「絶望」がやってくる。
子どもは不活発になり、ひっこみ思案になり、無感動になる。泣き方も単調なものになる。この時期は静かな段階であって、外目には子どもが落ちついてきたようにみえる・
3) 最終段階が「否認」である。
ここでは、逆に子どもは環境に多くの関心を示し、誰にでも機嫌よく、ちょっとみたところは楽しげでさえあるという。・・・。だが、ロバートソンの観察によれば、この一見「落ちついた」子どもたちは、退院後、家庭にもどると、大きな行動障害や情緒的混乱を示すことがとても多いという。
・ベルとエインズワースという二人の研究者の報告にこんなのがある。それは、発達初期に乳児が泣いたとき、すぐに母親が応答したほうが、のちの時期には、かえって泣くことが少なくなる。そしてそのかわりに自分の感情や願望を伝えるのに、泣くのとは別のいろいろな手段を発達させることが多い。
・家庭に特別製のベッドを貸し、二週間の間、毎日20分間だけ、このベッドに乳児をねかせてほしい、とたのんだ。このベッドは、あおむけにねた乳児の目の上に、モビールがつるされているものだった。そして、特殊な枕を使って、頭の動きが記録できるようになっていた。
このベッドには3種類のものがあった。
1) 枕の上の頭を動かすとそれに対応して、このモビールが回転するようになっていた。
2) 乳児の頭の動きとは無関係に、3~4秒に一度、自動的にモビールが回転するものだった。
3) モビールは固定されて動かなかった。
⇒第一のベッドにいた子どもは、日がたつにつれて、頭を動かすことが活発になっていった。ところが、第二、第三のベッドの子どもでは、そうした変化はみられなかった。さらには、第一のベッドの乳児は、このベッドにいるのがとても楽しそうだった。そばでみていた母親の報告によると、乳児が、このベッドにねかされるようになって3,4日後には、うれしそうに笑ったり、声を出したりすることが目立つようになったという。
・失敗が連続しても、なんとか打開策があると思っていれば、無力感におちいらない。つまり、失敗そのものより、その失敗を何のせいにするかが、決定的なのである。
・成功や失敗に対するさまざまな原因(ウェイサーというアメリカの社会心理学者)
成功や失敗に対するさまざまな原因は、次の3つに次元で分けられるという。
1)焦点の次元とよばれ、原因が自分の内部にあるか、それとも外部にあるかの軸である能力、努力、気力、健康状態などはすべて内部にある原因ということになる。それに対して、教師の教え方や課題のむずかしさ、運などは、外部にある原因になる。
2)安定性の次元である。努力や気分は、もっとその時々によって変動しやすいものだ。
3)コントロールの可能性とよばれている。努力のほうは、自分の意思でコントロールできるのに対し、気分のほうはそういきにくい傾向がある。
・がんばり型の者は、無力感型の者にくらべ、失敗を自分の努力不足のせいだとし、また成功は自分の努力のたまものとみる一般的な傾向が明らかに高かったのである。
・「治療教育」には算数の問題を使って、二通りの方法を試みた。
1) すべて成功経験のみで学習がすすめられるようにした。
2) 原因帰属の仕方を変えさせようとしたもので、再帰因法とよばれる。制限時間内には、提示された到達目標を達成できないという「失敗」経験を、約5回に1回の割で与えたのである。
再帰因法による「教育」を受けた生徒は、失敗に出会っても、それ以後、ガタンと成績が下がる子どもは1人もいなかった。そればかりか、多くの子どもが、失敗のあと成績が上昇した。
成功経験のみを与えられた子どもでは、中間テストでも事後テストでも、何の改善もみられなかった。失敗に出会うとガタっとくずれ、今までの力が出せなくなる傾向はそのままだった。
・自分の努力に依存して環境内に好ましい変化を創り出すことができるという見通しや自信を持つには
1) 子どもたちに、自分に合った分野、自分がとくに力を発揮できそうな分野をさがすように奨励することである。
2) ただ「努力せよ」というよりも、どのように努力するか、そのやり方をくふうすることに重点をおくように促すことである。
・自分の命があと数か月、とわかったとしても、このとき、すべての人が無力感におちいるかというと、必ずしもそうではないだろう。これは、その人が獲得した効力感が、いわば命綱となって、無力感におちいるのを防いでいる。
・実験群では、解けると報酬のもらえる二日目では、パズルをいじりつづけることが多かった。しかし、解けても無報酬の三日目になると、とたんに興味を失うのである。他方、一日目から三日目まで、一貫して何の報酬も与えられなかった統制群では、そうした興味の低下はみられなかった。
・成績をつけると予告することは、明らかに向上心に水をさすものであるといえよう(アナグラム課題)。
・効力感の形成には、努力の主体、つまり行動をはじめ、それをコントロールしたのは、ほかならぬこの自分であるという感覚-自律性の感覚が必要不可欠だと思われるからだ。
・(「赤旗」教育取材班編『生きる意欲をそだてる』)
欠席過多による原級すえおきを繰り返している、いわゆる「手に負えない」不登校児の例である。この少年は、学校に行かないときには、窓のカーテンも開けず、うす暗い部屋に一人でひきこもっていることが多かった。自殺未遂をおこしたこともあるという。極度の無気力の状態にいたと推定できる。
彼は、クラスの仲間たちの粘り強い働きかけが功を奏して、二学期の半ばになってやっと登校するようになる。ちょうど、間近に迫っていた文化祭の準備期間だったこともあり、クラスの一員として活躍する場が次々と与えられた。クラスで上演することになっていた劇の舞台装置を準備する役になる。クラスの代表で出したポスターが学校中の一位になり、文化祭のプログラムの表紙として採用される・・・。彼のクラスではクラスの仲間がそれぞれ得意な分野で「小先生」になってお互いに教え合う制度があった。そこで、技術科が得意であることがわかった彼は、ここで先生役になって仲間に教えることもした。こうして、仲間とやり取りする中で、生き生きと活動し、一日も休まず登校するようになる。その年度の終わりには、新年度の全校の生徒会長にも選ばれるほどになった。そして「学校がいきがいだ」とさえ、口にするまでに変わったのである。
仲間から必要とされているという確かな手ごたえ、これが、ただ単に無気力から回復させるのに寄与したというだけでない。生きる意欲ともいうべきものの形成にもつながっていったことがよく示されている。他者、とくに自分の仲間からの応答やそれを支えている関心が、そして、仲間に「貢献しうる」という実感が、効力感の源泉としていかに重要かを物語っている。
・仲間同士の教え合いが、とくに教える側の子どもの効力感を高める証拠と考えてよいだろう。
教えあいが教える側の者にとってもつ利点のひとつに、「影響力があり、感謝され、必要とされていると感じる機会を与えてくれる」ことをあげている。教えられる側から寄せられる感謝や尊敬が、同時に、他人の役に立てたという教える側の内的な満足が、自分に対する肯定的な見方の形成に寄与したと解釈することができる。
・効力感を発達させるため
1) 本人が自己向上心を実感しうる。
2) 自己向上が本人にとって、価値のある、真に「好ましい」ものでなければならない。
・熟達に至るまでには、500時間、1,500時間、5,000ないし10,000時間といった三つの壁があるように思われる。
500時間は初心者の段階である。英会話でも500時間習ったところでやっと初心者卒業ということであろうし、1,500時間やると素人ではかなりうまいほうになる。ピアノを1,500時間弾いた人は、素人としてなら人前で弾くことができるかもしれない。
・人々の実存的な要求の様相が創造と愛と自己統合の三つであるとすれば、これをもたらすような熟達の過程こそ、その人にとって最も好ましいということになる。
1) 創造により自分を価値ある存在として確認しうる根拠は、結局のところ、自分なりのものをつくりあげていくという満足感である。
2) 愛による自己実現とは、最も広い意味では、他者との暖かい交流、人の役に立ちうるという満足に基づくものであろうから。
3) 自己統合とは、自分が自分らしくあること、といいかえることができよう。
・古典的な無力感をひきおこす経験を減らしていくことである。子どもが身体的不快や生理的欠乏を訴えたら、おとなが応答してやればよい。
「よい」応答をするためには。
1) タイミングの問題である。子どもの示すさまざまな信号を敏感にキャッチし、すばやく反応を返すことでできなくてはならない。
2) 子どもに対する応答は、丁寧すぎないようにするべきだ。ヒントや方向づけといった応答の仕方をまず心がけるべきだろう。
・子どもたちはいろいろな考え方を吟味し、納得のいく考え方を自分で採用していくようになる。その意味で、友だちづきあいを奨励することを、親として心がける必要がある。そのうえでおとなが意見をいうようにすべきだろう。こうすれば子どもはおとなの意見をも同じく批判的に受け取るだろう。はじめからおとなの考え方を与えてしまうのは、意図はどうあれ押しつけに終わりやすいことは銘記されるべきである。
・社会心理学者のディンは、評価には二つの側面があることを指摘している。
1) 人を統制するという側面である。
2) そこでとった行動が良かったか、悪かったかの情報を与えるという側面である。
・「落ちこぼれ」をなくそうという努力で知られる篠ノ井旭高校での実践報告にこんなのがある。
各個人の達成度にあわせて、個別に宿題を課すようにした。すると、宿題をやってくる者がふえたのである。なかには、「もっと出してほしい」と要求する者も出てきたほどだ。一律に同じ宿題を出していたときには、どんなに罰を厳しくしても、宿題をサボる者があとをたたなかったことからみると、目ざましい変化である。
・愛知県大府市に明南製作所とよばれる工作機械を開発する会社がある。そこでは、全社員が勤務時間中に毎週、物理学の学習会をしている。社員の誰もが創造的に仕事をする喜びを味わえるようにしたい、一部の者だけでなく全員が、新しい機械を開発でき、その楽しさを体験できるようにしたい、それには、物理学の法則を使って考えられるようにする必要があるーこれが、この学習会がもたれるようになったいきさつだそうだ。社外からは講師はよばず、会社員が数グループの学習班に分かれ、輪番制で、お互いが講師になりながら、もう十数年もこうした学習会をやっているということである。
・老人ホームにいる老人たちに対してさまざまな選択肢を与え、選択を許し、かつそれを奨励すること、自分のことだけでなくて、簡単にできる植物などの世話を責任をもってさせること、などの変化を導入すると、老人がより生き生きとし、より活発になり、そしてより幸福に感ずるということを、彼女らは見出している。さらに興味深いのは、こういった変化の導入された老人ホームの場合には、そうでない統制群とくらべて、18か月以内での死亡率がおよそ半分に低下したという事実である。セリグマンも指摘しているように、極端な無力感は死へとさえ導きかねないのである。
感想;
無気力感に沈むことなく、やりがいをいかに持つか。
周りから効力感をもたらすあるいは減らすいろいろな働きがあります。
仮に効力感を失いたくなる状況においてもやる気を持つようにすることなのでしょう。
真っ暗な夜道、この道を歩んで目的地に行けるかどうかわからない。獣が襲ってくるかもしれない。そんな時、自ら自灯明を照らして、自分の足元を照らして希望を失わずに一歩一歩歩めるかどうかなのでしょう。
そうしているといつか辿り着くのでしょう。
・イヌを3つのグループに分けた。
第一のグループは、ハンモックのなかでショックを受けるのであるが、そのときに鼻で板を押すとショックを止めることができるようになっている。したがって、体を動かしてショックを止めるというイヌも出てくるわけだ。
第二のグループは、第一のグループの対応するイヌと同じ回数、同じ長さのショックを与えられるのだが、このイヌは自分の行動によってショックを止めることができない。
第三のグループはいっさいショックを受けない群で、実験条件の効果を調べる統制群にあたる。
24時間後に実験箱に入れ、棚を跳び越えることによってショックを回避するという学習を行わせてみると、この第二群、つまり自分の行動によってショックが回避できないという経験をもった群においてのみ、成績が劣ることがわかった。第一群は、全くショックを受けなかった統制群のイヌと同様に正常に反応したのであった。
さらにここで注目すべきなのは、この無力感がもともとそれが獲得されたのとは非常に違う場面にまで一般化されるということである。
・セリグマンたちは、回避できない苦痛刺激に繰り返しさらされることは、三つのマイナスの効果をもつという。
1) 環境に能動的に反応しようという意欲が低下する
2) 学習する能力が低下する
3) 情緒的に混乱する
・ヒロトは、ものごとの成功・失敗は自分の統制できないものだ、偶然や、運・不運によって決まると考えている被験者のほうが無気力になりやすいことを見出したのである。
・ホスピタリズムと呼ばれる現象がある。とくに人手不足の著しい施設の子どもに見られる顕著な発達の遅れと無気力・無感動の状態をいう。・・・。このような施設児では、死亡率が異常に高いことも大きな特徴である。
・ロバートソンによれば、入院のため幼児が母親からはなされたとき、「落ちつく」に至るには次の三つの段階があるという。
1) 抗議の段階である
これまでの体験にもとづき、泣けば母親がきてくれることを期待する。
2) 努力が徒労に終わると、徐々に「絶望」がやってくる。
子どもは不活発になり、ひっこみ思案になり、無感動になる。泣き方も単調なものになる。この時期は静かな段階であって、外目には子どもが落ちついてきたようにみえる・
3) 最終段階が「否認」である。
ここでは、逆に子どもは環境に多くの関心を示し、誰にでも機嫌よく、ちょっとみたところは楽しげでさえあるという。・・・。だが、ロバートソンの観察によれば、この一見「落ちついた」子どもたちは、退院後、家庭にもどると、大きな行動障害や情緒的混乱を示すことがとても多いという。
・ベルとエインズワースという二人の研究者の報告にこんなのがある。それは、発達初期に乳児が泣いたとき、すぐに母親が応答したほうが、のちの時期には、かえって泣くことが少なくなる。そしてそのかわりに自分の感情や願望を伝えるのに、泣くのとは別のいろいろな手段を発達させることが多い。
・家庭に特別製のベッドを貸し、二週間の間、毎日20分間だけ、このベッドに乳児をねかせてほしい、とたのんだ。このベッドは、あおむけにねた乳児の目の上に、モビールがつるされているものだった。そして、特殊な枕を使って、頭の動きが記録できるようになっていた。
このベッドには3種類のものがあった。
1) 枕の上の頭を動かすとそれに対応して、このモビールが回転するようになっていた。
2) 乳児の頭の動きとは無関係に、3~4秒に一度、自動的にモビールが回転するものだった。
3) モビールは固定されて動かなかった。
⇒第一のベッドにいた子どもは、日がたつにつれて、頭を動かすことが活発になっていった。ところが、第二、第三のベッドの子どもでは、そうした変化はみられなかった。さらには、第一のベッドの乳児は、このベッドにいるのがとても楽しそうだった。そばでみていた母親の報告によると、乳児が、このベッドにねかされるようになって3,4日後には、うれしそうに笑ったり、声を出したりすることが目立つようになったという。
・失敗が連続しても、なんとか打開策があると思っていれば、無力感におちいらない。つまり、失敗そのものより、その失敗を何のせいにするかが、決定的なのである。
・成功や失敗に対するさまざまな原因(ウェイサーというアメリカの社会心理学者)
成功や失敗に対するさまざまな原因は、次の3つに次元で分けられるという。
1)焦点の次元とよばれ、原因が自分の内部にあるか、それとも外部にあるかの軸である能力、努力、気力、健康状態などはすべて内部にある原因ということになる。それに対して、教師の教え方や課題のむずかしさ、運などは、外部にある原因になる。
2)安定性の次元である。努力や気分は、もっとその時々によって変動しやすいものだ。
3)コントロールの可能性とよばれている。努力のほうは、自分の意思でコントロールできるのに対し、気分のほうはそういきにくい傾向がある。
・がんばり型の者は、無力感型の者にくらべ、失敗を自分の努力不足のせいだとし、また成功は自分の努力のたまものとみる一般的な傾向が明らかに高かったのである。
・「治療教育」には算数の問題を使って、二通りの方法を試みた。
1) すべて成功経験のみで学習がすすめられるようにした。
2) 原因帰属の仕方を変えさせようとしたもので、再帰因法とよばれる。制限時間内には、提示された到達目標を達成できないという「失敗」経験を、約5回に1回の割で与えたのである。
再帰因法による「教育」を受けた生徒は、失敗に出会っても、それ以後、ガタンと成績が下がる子どもは1人もいなかった。そればかりか、多くの子どもが、失敗のあと成績が上昇した。
成功経験のみを与えられた子どもでは、中間テストでも事後テストでも、何の改善もみられなかった。失敗に出会うとガタっとくずれ、今までの力が出せなくなる傾向はそのままだった。
・自分の努力に依存して環境内に好ましい変化を創り出すことができるという見通しや自信を持つには
1) 子どもたちに、自分に合った分野、自分がとくに力を発揮できそうな分野をさがすように奨励することである。
2) ただ「努力せよ」というよりも、どのように努力するか、そのやり方をくふうすることに重点をおくように促すことである。
・自分の命があと数か月、とわかったとしても、このとき、すべての人が無力感におちいるかというと、必ずしもそうではないだろう。これは、その人が獲得した効力感が、いわば命綱となって、無力感におちいるのを防いでいる。
・実験群では、解けると報酬のもらえる二日目では、パズルをいじりつづけることが多かった。しかし、解けても無報酬の三日目になると、とたんに興味を失うのである。他方、一日目から三日目まで、一貫して何の報酬も与えられなかった統制群では、そうした興味の低下はみられなかった。
・成績をつけると予告することは、明らかに向上心に水をさすものであるといえよう(アナグラム課題)。
・効力感の形成には、努力の主体、つまり行動をはじめ、それをコントロールしたのは、ほかならぬこの自分であるという感覚-自律性の感覚が必要不可欠だと思われるからだ。
・(「赤旗」教育取材班編『生きる意欲をそだてる』)
欠席過多による原級すえおきを繰り返している、いわゆる「手に負えない」不登校児の例である。この少年は、学校に行かないときには、窓のカーテンも開けず、うす暗い部屋に一人でひきこもっていることが多かった。自殺未遂をおこしたこともあるという。極度の無気力の状態にいたと推定できる。
彼は、クラスの仲間たちの粘り強い働きかけが功を奏して、二学期の半ばになってやっと登校するようになる。ちょうど、間近に迫っていた文化祭の準備期間だったこともあり、クラスの一員として活躍する場が次々と与えられた。クラスで上演することになっていた劇の舞台装置を準備する役になる。クラスの代表で出したポスターが学校中の一位になり、文化祭のプログラムの表紙として採用される・・・。彼のクラスではクラスの仲間がそれぞれ得意な分野で「小先生」になってお互いに教え合う制度があった。そこで、技術科が得意であることがわかった彼は、ここで先生役になって仲間に教えることもした。こうして、仲間とやり取りする中で、生き生きと活動し、一日も休まず登校するようになる。その年度の終わりには、新年度の全校の生徒会長にも選ばれるほどになった。そして「学校がいきがいだ」とさえ、口にするまでに変わったのである。
仲間から必要とされているという確かな手ごたえ、これが、ただ単に無気力から回復させるのに寄与したというだけでない。生きる意欲ともいうべきものの形成にもつながっていったことがよく示されている。他者、とくに自分の仲間からの応答やそれを支えている関心が、そして、仲間に「貢献しうる」という実感が、効力感の源泉としていかに重要かを物語っている。
・仲間同士の教え合いが、とくに教える側の子どもの効力感を高める証拠と考えてよいだろう。
教えあいが教える側の者にとってもつ利点のひとつに、「影響力があり、感謝され、必要とされていると感じる機会を与えてくれる」ことをあげている。教えられる側から寄せられる感謝や尊敬が、同時に、他人の役に立てたという教える側の内的な満足が、自分に対する肯定的な見方の形成に寄与したと解釈することができる。
・効力感を発達させるため
1) 本人が自己向上心を実感しうる。
2) 自己向上が本人にとって、価値のある、真に「好ましい」ものでなければならない。
・熟達に至るまでには、500時間、1,500時間、5,000ないし10,000時間といった三つの壁があるように思われる。
500時間は初心者の段階である。英会話でも500時間習ったところでやっと初心者卒業ということであろうし、1,500時間やると素人ではかなりうまいほうになる。ピアノを1,500時間弾いた人は、素人としてなら人前で弾くことができるかもしれない。
・人々の実存的な要求の様相が創造と愛と自己統合の三つであるとすれば、これをもたらすような熟達の過程こそ、その人にとって最も好ましいということになる。
1) 創造により自分を価値ある存在として確認しうる根拠は、結局のところ、自分なりのものをつくりあげていくという満足感である。
2) 愛による自己実現とは、最も広い意味では、他者との暖かい交流、人の役に立ちうるという満足に基づくものであろうから。
3) 自己統合とは、自分が自分らしくあること、といいかえることができよう。
・古典的な無力感をひきおこす経験を減らしていくことである。子どもが身体的不快や生理的欠乏を訴えたら、おとなが応答してやればよい。
「よい」応答をするためには。
1) タイミングの問題である。子どもの示すさまざまな信号を敏感にキャッチし、すばやく反応を返すことでできなくてはならない。
2) 子どもに対する応答は、丁寧すぎないようにするべきだ。ヒントや方向づけといった応答の仕方をまず心がけるべきだろう。
・子どもたちはいろいろな考え方を吟味し、納得のいく考え方を自分で採用していくようになる。その意味で、友だちづきあいを奨励することを、親として心がける必要がある。そのうえでおとなが意見をいうようにすべきだろう。こうすれば子どもはおとなの意見をも同じく批判的に受け取るだろう。はじめからおとなの考え方を与えてしまうのは、意図はどうあれ押しつけに終わりやすいことは銘記されるべきである。
・社会心理学者のディンは、評価には二つの側面があることを指摘している。
1) 人を統制するという側面である。
2) そこでとった行動が良かったか、悪かったかの情報を与えるという側面である。
・「落ちこぼれ」をなくそうという努力で知られる篠ノ井旭高校での実践報告にこんなのがある。
各個人の達成度にあわせて、個別に宿題を課すようにした。すると、宿題をやってくる者がふえたのである。なかには、「もっと出してほしい」と要求する者も出てきたほどだ。一律に同じ宿題を出していたときには、どんなに罰を厳しくしても、宿題をサボる者があとをたたなかったことからみると、目ざましい変化である。
・愛知県大府市に明南製作所とよばれる工作機械を開発する会社がある。そこでは、全社員が勤務時間中に毎週、物理学の学習会をしている。社員の誰もが創造的に仕事をする喜びを味わえるようにしたい、一部の者だけでなく全員が、新しい機械を開発でき、その楽しさを体験できるようにしたい、それには、物理学の法則を使って考えられるようにする必要があるーこれが、この学習会がもたれるようになったいきさつだそうだ。社外からは講師はよばず、会社員が数グループの学習班に分かれ、輪番制で、お互いが講師になりながら、もう十数年もこうした学習会をやっているということである。
・老人ホームにいる老人たちに対してさまざまな選択肢を与え、選択を許し、かつそれを奨励すること、自分のことだけでなくて、簡単にできる植物などの世話を責任をもってさせること、などの変化を導入すると、老人がより生き生きとし、より活発になり、そしてより幸福に感ずるということを、彼女らは見出している。さらに興味深いのは、こういった変化の導入された老人ホームの場合には、そうでない統制群とくらべて、18か月以内での死亡率がおよそ半分に低下したという事実である。セリグマンも指摘しているように、極端な無力感は死へとさえ導きかねないのである。
感想;
無気力感に沈むことなく、やりがいをいかに持つか。
周りから効力感をもたらすあるいは減らすいろいろな働きがあります。
仮に効力感を失いたくなる状況においてもやる気を持つようにすることなのでしょう。
真っ暗な夜道、この道を歩んで目的地に行けるかどうかわからない。獣が襲ってくるかもしれない。そんな時、自ら自灯明を照らして、自分の足元を照らして希望を失わずに一歩一歩歩めるかどうかなのでしょう。
そうしているといつか辿り着くのでしょう。