幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

「トヨタ物語強さとは 『自分で考え、動く現場』を育てることだ」野地秩嘉著 ”楽にそして楽しく!”

2021-01-17 02:35:35 | 本の紹介
・「楽しんでやらなきゃ、なにごとも身につきはしません」(『じゃじゃ馬ならし』ウィリアム・シェ―クスピア)

・「考えることを楽しいと思う作業者には向いている。現場でカイゼンできることはアメリカの作業者にはなかった経験だから」

・(豊田)佐吉は自動織機に関して発明王と言われている。しかし、彼の神髄は織機のスピードを上げたことではなく、不具合が起こった瞬間に機械を止める装置を考えたことだった。

・大野自身、「ジャスト・イン・タイムを考えたのは喜一郎さん」と公言し、「自動化は佐吉」と答えている。それは彼にとって二人の考えを2本柱として強調することが効果的だったからだろう。

・開戦した年の鉄の国内生産量は年間600万トン程度。一方、アメリカは600万トンをわずか20日間で生産してしまう。それでも日本はアメリカに宣戦布告した。どんなことをしても、かなうはずがないのである。(豊田英二)

・1935年、神谷は初めて喜一郎と会った。喜一郎が刈谷の工場で細々と作っていた頃である。
「自動車は作るよりも売るのが難しい」が口癖だった喜一郎は初対面の席で、こう口説いた。
「父の遺産を継いで何とか大衆自動車をものにしたいと思っている。私は技術者だから、自動車を作ることにかけては、どんな苦労をしてもやって見せる自信がある。しかし、自動車は作るだけでは駄目だ。いくら良い自動車を作ってもこれを売りさばく強力な販売手段がなければ、成功は望めない。・・・。そこで、製造の方は私は責任を持ってやるから、君はひとつ、販売の方を一切、引き受けてやってくれないだろうか」
神谷は喜一郎の真剣さと情熱に応えて、その年に入社した。以後、トヨタの自動車販売戦略を築き、着々と実行に移していったのである。
口説き方はひとつだった。トヨタの販売担当となった神谷は日本GMに所属していたディーラーを訪れ、「一緒に日本の車を売ろう」と熱意を込めてしゃべる。そうして、一軒ずつ口説いていき、トヨタの車を売るディーラー網を作り上げていったのである。
また神谷は月賦販売制度の確立にも力を注いだ。
「自動車は高い買い物です。月賦でないと大衆は買うことはできません」

・(神谷は)敗戦直後の世の中がごたごたしているうちに先手を打ってディーラーを獲得しようとしたのである。
「神谷さんがかけずり回って各県にある販売会社をみんなトヨタのディーラーにしてしまった。(略)日産に比べ、これだけは手の打ちようがえらく早かった。この差が今日のトヨタ、日産の国内販売の差といえばいえる」

・「人間は自分がいまやっていることがいちばんいいと思い込んでいる。オレがやることは、やつらに『いまやっていることを疑え』ということだろう。それは簡単ではない。そんなことができる人間はなかなかいない。考える人間を作る・・・。それがオレの仕事だ」

・多能工を育てる
次に導入したのはひとりの作業者が複数の機械を操作できるようにすることだった。実質上はこれが第一歩で、トヨタ生産方式はこのカイゼンから出発した。

・「ヘンリー・フォードと喜一郎、大野の発想の違いは現場経験があるかないかだった。フォードはあくまで経営者だ。だが、喜一郎、大野はずっと現場にいた。現場の実情、現場の知恵からトヨタ生産方式を考えたのである。

・「効率とはまずい方法をやめて、われわれが知り得るかぎりの最もよい方法で仕事をするという簡単なことである」(ヘンリー・フォード)

・切削に使う工具を集中研磨という方式に変えたのである。
集中研磨にしたのにはふたつの理由がある。ひとつは作業時間のロスだ。
「すり減ってきたな」とある作業者が判断し、研磨しようと思ったら、ラインから離れてバイトを研ぐことになる。その間、仕事は中断する。
もうひとつの理由は部品の質を一定にするためだ。それぞれが工具を研磨すれば上手な人間と下手な人間で仕上がり具合が変わってくる。そして鋭く研いだバイトとなまくらのバイトでは切削した部品の質が変わってしまう。
大野はそれを恐れた。
現場の作業者からの大反対にあった。
「工具は工員の魂だ。それを自分で研ぐのは当たり前だ」という精神論である。

・大野は管理職に「あんどん(故障を発見したらライン止める)のひもを引っ張った作業者には、どんな時でも、ありがとうと言え」と命じたのである。

・アンドンという作業の進行を知らせる装置はトヨタだけでなく、いまやどこの生産工場にも似たようなものはある。しかし、知らせた人間に対して「ありがとう」と感謝するよう教育しているのはトヨタだけだ。

・いよいよ貸してくれるところがなくなり、2億円の年末資金がなければ、会社はつぶれてしまうという瀬戸際に追い込まれた。喜一郎が「親会社(豊田織機)は儲かっている」と言っても、銀行は耳を貸してはくれない。その時、動いたのは販売担当常務の神谷正太郎だった。神谷は旧知の日本銀行名古屋支店の支店長、高梨壮夫の部屋に駆け込む。
「トヨタがつぶれると中京地区の部品会社など300社以上が連鎖倒産します。中京地区の経済を助けるために日銀が協調融資の融資団を作ってください」
だが、高梨は一度は断った。
「日銀は民間企業に金を貸すことはできませんし、民間企業に金を貸せと命令することもできません」
「金は貸さなくていいんです。命令しなくともいい。集めて声をかけてくれればそれでいいんです」
神谷は詭弁ともとれる言葉で何度も日銀を尋ねては、高梨に頼み込んだ。神谷に動かされた高梨は自分自身で調べてみると、トヨタのトラックが売れていること、もし、トヨタがつぶれたら、神谷が言うように注きゅお地区の経済がガタガタになることがわかった。
「見過ごしてはいけないな」
高梨は日銀本店に相談してみた。しかし、総裁、一万田尚登は自動車の国際分業を唱える人間である。
「乗用車はアメリカにまかせればいい」と事態に乗り出そうとしなかった・
普通の金融マンならそこであきらめてしまうところだけれど、高梨は中京地区の経済が破綻するのを手をこまねいていることはできなかった。
彼は自分でリスクを取って名古屋に支店を持つ金融機関を集めた。そきに喜一郎も呼んでおいた。
「みなさん、日銀は民間の金融機関に命令することはできません。今日は集まってもらって、話を聞いていただくだけです」
「大阪銀行さん、私は融資のお願いはしていません。皆さんができることをやってくださいとお願いしただけです」
言外の意味を察しろというわけだ。だが、大阪銀行の担当者は返事をせず、その場から引き揚げていった。残った銀行団は高梨の意を体して、トヨタへの融資を話し合った。
この時、席を立った大阪銀号(住友銀行)と日本興業銀行は融資団に入らなかった。そのため長いあいだ、トヨタと取引することができなかった。

・具体的な再建案
1) 販売が視野の設立
2) 販売の裏付けがある台数の生産
3) 過剰とみなされる人員の整理
ポイントは販売会社の設立と人員の整理である。

・1950年6月5日、喜一郎以下3人は辞任を発表した。それによって争議は終わった。労働組合と合意したのは人員整理、従業員の賃金を1割引きを下げること。経営陣が辞める代わりに会社側の主張がすべて通ったのである。
トヨタが人を整理したのは創業から現在まで、この一度限りである。
豊田自動織機社長の石田退三がトヨタ自工のの社長を兼務することになった。
石田は最後にこう話した(臨時株主総会)。
「粉骨砕身して会社の業績好転に努力し、必ず各位のご期待に沿うことを得ました暁には、再び豊田喜一郎氏を社長にお迎えすることを前もって、皆様にご承認おき願いたいのです」

・約3年間の朝鮮戦争の結果、日本の産業界には11億3600万ドル(特需契約高)が入った。1ドル360円とすると、4089億円。国連軍は不良品を一切、受け付けなかった。戦場で部品が壊れてトラックが止まったら、兵士の命にかかわるからだ。このため、トヨタ、日産をはじめとする各社は大量生産システムと同時に品質向上を学んだ。トヨタには創業以来の不良品追放の精神があったが、朝鮮戦争の特需生産で不良品を出さないことを徹底する作業を覚えた。

・アメリカ人の経営者や管理職は現場に降りてきて、ワーカーと話をすることはない。計画を伝えるだけだ。その点、オレたちは喜一郎のように現場の作業者と話をしている。みんな平等だ。オレたちがフォードに勝とうとするなら経営者も作業者もない。みんな一緒に考えることだ」

・この時にトヨタで始まった「創意くふう」運動は、英二がフォードで見てきたことがきっかけだった。従来、創意くふう運動とトヨタ生産方式とは別の改善運動と思われていたが、めざすところは一緒だ。現場で、それぞれの作業者が考えることが創意くふうであり、しかも、現場の改善なのである。

・大野は手元の紙に図を描いて、周りの人間に説明する。
「できあがった部品にはこのかんばんを付けておく、すると、後の工程の人間が取りに来る」
後の工程の人間は部品をもらったらかんばんだけを外して、前の工程に戻す。前の工程は、かんばんが戻ってきたら、そこに書いてある数量だけ部品を作る。部品ができたら、かんばんを付けて後の工程が取りに来るのを待つ。
要するに、作った部品に指示票が付くというシステムだ。
かんばんという指示票が付いているため、前の工程は、後の工程が必要とする量しか作らない。

・反発した点はふたつ。
作業者が嫌がった第一は、これまでやっていた仕事に対して、他人からノーと言われることだった。
「ひとつの機械でなく、いくつもの機械を操作しろ」
「ラインの出口に部品を置くな」
「大きなロットで生産するな。なるべく小さなロットで作れ」
人間は自らが現実にやっていることを肯定する。たとえ、無駄が多い作業をやっていても、他人から「やめろ」と言われると頭に来るのである。
もうひとつ、作業者の癇に障ったのは、標準作業を設定するために工長あるいは管理職がストップウォッチを持ち、背後に立って計測することだった。

・オースチンは1200cc、ルノーは750ccである。価格はオースチンが112万円でルノーが73万円。対して、トヨタが売っていたSF型トヨペット(1000cc)は93万円だった。公務員の初任給が7650円(1952年)の時代である。

・1955年、トヨタはクラウンを発売した。・・・
だが年を明けたら販売台数は急増する。発売と同時に買ったタクシー会社の運転手たちが「お客さんが乗り心地がいいと言っている」とアナウンスしたため、追随して購入するタクシー会社が増えたのだった。
クラウンは月差約800台のヒットとなり、10月には自家用車向けのクラウンだけで月産1000台になった。

・「いいか、キミ。車の部品、3万点のうち7割は購入部品だ。7割を安くしなければ原価は下がらない。だから、作りやすい部品こそ外製するんだ。作りやすいから彼らはがんばって原価を下げる。社内で作る3割は手間のかかる部品だけにする。難しいものに挑戦して原価を下げるのが俺たちトヨタ社員の仕事だ」(大野)

・張が覚えているのは珍しく鈴村が大野の前で弱音を吐いたことだ。
「大野さん、オレたちは一生懸命、会社のためにやっている。ですが、大野の一派は会社をつぶすと言われました」
よほど悔しい思いをしたのだろう、鈴村の目には涙が光っていた。大野は「そうか」と鈴村の肩に手をかける。
「鈴村、お前は泣けばそれで済む。しかし、わしはどうすればいいんだ。泣くこともできんぞ」
張、池渕直属の部下はまわりから孤立したが、かえって結束した。それがトヨタ生産方式を進化させることにつながった。大野一派は会社にいる間じゅう、生産性を向上させることしか考えていなかったのある。

・トヨタ生産方式を導入する際、もっとも現場が抵抗したのは標準作業の設定だった。組み立て工程では「監視されてるみたいで嫌だ」という反発を受け、鋳造、プレスの工程では「標準作業の設定に意味はない」と言われたのである。

・大野たち一派が闘っていたのはトヨタの社内ではなく、現状維持をよしとする日本社会の風土だった、だから、導入には時間がかかったし、また、一方的に押しつけるだけでは圧着しなかったのである。現場の人間を大切にし、毎日、しつこいくらいに足を運ばなければカイゼンは進まなかった。

・7つのムダ
1) つくりすぎのムダ
2) 手持ちのムダ
3) 運搬のムダ
4) 加工そのもののムダ
5) 在庫のムダ
6) 動作のムダ
7) 不良をつくるムダ

・張も池渕もラインが止まったら飛んで行って、一緒になって不具合を見つけたり、作業者が「部品を持ってきてくれ」と言ったら、急いで取りに行ったり・・・。作業服を油で汚すことで作業者との距離を詰め、そして、世間は無しができる関係になってから、ムダを見つけたのである。
考えてみれば、最初のうちは手を動かすこともなく、冷たい視線のなかで、ただ立っているしかない仕事だ。しかし、彼らはそこから始めたのである。

・トヨタ生産方式を全社あるいは協力工場に受け入れさせるにはマニュアルを作っただけでは不可能だった。人間が手取り足取り、実地にやってみなければ現場の人間たちは絶対にやろうとはしなかった。

・全工場でトヨタ生産方式が定着したのは70年代に入ってからのことになる。
1) 後工程の引き取り(48年)
2) エンジン組付けラインにアンドン採用(50年)
3) 標準作業の設定(53年)
4) かんばん方式導入(機械工場53年)
5) 組み立て工場と車体工場の同期化が完成、全工場へのトヨタ生産方式の導入に着手(60年)
6) 全社で、かんばん方式を全面的に採用(62年)、プレス段取り替えの短縮(62年)

・常識とされていたことを疑い、新しい方法を考えることだ。今やっていることを否定し、新しいくふうを導入することだ。
「表現はよくないかも知らんけど、優等生よりも横着なやつの方が工夫を生む」

・提携してから10年後、社長の荒川政司は次のように成果を語っている。
「われわれは貴重なノウハウを取得し、日野の体質改善は急速に進んだ。工場の生産性は倍加し、仕掛品は3分の1に減少した。提携直後17%にすぎなかった日野のトラック・シェアは、年を追って伸び昭和48年にはトップメーカーの地位を占めるに至った」

・トヨタ生産方式の指導は現場を観察することから始まります。答えを出すにはまず根気強く観察する。そうしてやっと頭のなかにカイゼンの提案が生まれてくる。しかし、いくらいい案でも現場の人たちが理解してくれなければ実践できません。誰も助けてくれないから、自ら現場に溶け込んで味方を作るしかない。

・「管理職部下によく考えさせる人でなくてはならない。部下にやりがいを持たせて、そして、人間尊重だ」(大野)

・「南八、アメリカ人は納得しないと動かんぞ。お前も怒っちゃいかん。とにかくやってみろでは通じないからな。現場を見せるんだ」(池渕)

・「日本人社員は固まらずにバラバラに住むこと。隣家は必ずアメリカ人ファミリーにすること」を徹底させた(楠が米国進出時)

・「不良品を出さないためには一日、車を造らなくていいんだ。それがトヨタ生産方式なんだ」

・「標準時間とか作業手順書なんてものは作業者が自分で決めればいい」(大野)

・自販売を作った神谷正太郎は「1にユーザー、2にディーラー、3にメーカー」と繰り返し訓戒を垂れた。

・友山と小栗が次にやったのは納車前の点検・整備と車検の時間を短縮することだった(販売会社のカイゼン)。

・トヨタ生産方式とは意識改革である。
「以前からやっている仕事のやり方を考え直す」
「自分がやっている無駄な作業を他人に指摘してもらう」
「経費の精算、机上の整理整頓、事務連絡などの本来の仕事以外と整理整頓、IT化して、クリエイティブな仕事に充てる時間を長くする」
「ムダを切り詰めて提示に仕事を終える。家族と過ごす時間を長くする」

・大野は自分が言った通りのことを部下がやると「なぜ言われたとおりにやったのか」と問い、違うことをやると「なぜ言われたとおりにやらなかったのか」と問うた。つねに考えることを求め、決して褒められることはなかった。
「褒めるという行為は相手を馬鹿にしている」と大野は言った。
「相手に答えを教えるのではありません。答えが出てくるのを待つ。それが僕らの仕事です」

・同方式の目的は原料が工場に届いてから製品になるまでのリードタイムを短くすること。そのために作業のムダをなくす。日々、生産性を向上させ続ける。
「昨日と同じことをやっていていいのか」そう自らに問う。自分なりにムダを省く。
進化、成長はそういう態度からしか生まれない。
作業者がやりやすいようなカイゼンを施す。

・指導員に必要な資質が3つある。
同方式を理解していること。現場の作業者と導入しようとする企業の経営者に共感を感じること。そして、危機感にあふれていること。

・「工場長、私は町工場の人たちに愛情を感じました」
大野は叱る。
「愛情? よせ。そんなしめっぽい感情はいらん。余計なことは考えなくていい。それより仕事を楽しめ」
大野が望んだことは、工場にいる誰もが楽しく仕事をして、稼いだ金で家族が楽しく食らうことだったと思われる。

・「みなさん、(米国議会)公聴会では私ひとりではありませんでした。あなたたちがそばにいてくれました。世界中のトヨタの社員、家族も私と一緒だった。ですから、何もつらいことなどなかったのです。今後も私がみなさんのためにできることがあれば何でもやります。どうか、教えてください、私がみなさんのために何をすればいいのかを・・・」(豊田章男)
瞬間、クリス・ライトが立ち上がった。大声で、豊田に叫んだ・
「社長、あなたはもう、やってくれました。もう、何もやらなくていいいんです」
叫びながら、クリスの頬は涙で濡れていた。
「今日は、あなたは私たちのためにやってくれました。どんな質問に対しても尊厳を失わずに答えてくださった。私たちのためにやってくださった。私たちは・・・」
クリスはそこでまったくしゃべれなくなった。

感想
トヨタ関連の本は何冊か読んでいましたが、この本はトヨタ生産方式のカンバンがとてもよくわかる内容でした。

カイゼンの目的はコストを下げることではなるが、作業者を楽にすること、そしてそれを楽しみながら行うことがなくてはならないのです。

現場が自ら考えること。それができるようにお手伝いすることが基本のようです。
コンサルは多くは指摘して、解決策もアドバイスしがちですが、解決策は自ら見つけ出すようにしています。標準作業も自分たちで考えるのでしょう。

経営トップが働いている仲間をメンバーと呼び、メンバーのために出来ることしようとの姿勢を感じました。

自動車業界で資格のない人が試験をしていたと大きな問題になりましたが、トヨタは問題になりませんでした。
それだけ現場を理解したマネイジメント、経営トップなのでしょう。