・「真心を欠いた礼儀は、死んだ美人のようなものだ」
・「先生、私はここの仕事を中途で放り出して出て行ってしまいました。さぞお困りになったことでございましょう。私は、先生がきっとおこっておいでになるものと思っておりました」
「どうして私がおこったりしよう。怒りは、自分の期待が裏切られたときに生ずるものだ。わたしはひとに何も求めてはいない。だからひとがどんな行動を取ろうと、裏切られることもない。お前に対しても、わたしは自分のために利用しようと思ったことはない。お前の幸福が、そのままわたしの幸福だ」
・「もし、神を夏の客として招いておかなければ、人生の冬が来たときに、神は訪れてくれないだろう」
・「ヨガナンダ」私はちょっと考えてからこう答えた。この名は、“神との合一による至福”という意味である。
・真のヨギは、自分の思想や医師や感情を肉体的欲望の干渉から切り離し、心を常に脊髄中枢の超意識のレベルに置いて、神の意図されたとおりの人間としてこの世を生きている。
・「浮世の義務を放棄する者は、何か“より大きな家族”のための責任を負うことによってのみ是認されるということを忘れてはいけない」
・聖典の中で、神は人間の魂を三重のからだで包んでおられる
第一に他の二つのからだの根源をなす観念体(根源体)、第二に人間の知能や感情の座である精妙な幽体、そして第三に粗雑な肉体-
・世の中の害悪は、われわれが単にそえを社会的問題として考えている間は、抽象的な感覚で片付けられてします。しかし、もっと現実的に取り組むためには、各個人が自分自身の問題として考える必要がある。
・人間は、普通の意識状態(顕在意識)では、肉体と呼吸を意識しているが、潜在意識が活動している睡眠中は、心は一時的に肉体と呼吸から離れる。さらに超意識状態になると、自己の存在が肉体と呼吸に依存しているという妄想から解放されるのである。
・死とは、存在の消滅でもなければ、生からの永遠の逃避でもなく、また、直ちに不滅への門出を意味するものでもない。この世にある間、地上的欲望のみを追い求め、魂としての自己を見失った者は、優美な魅力に満ちた幽界ではなおさらそれを取り戻すことはできないであろう。彼はそこで、善と美-この両者は同一のものであるが-に対する、より繊細な感覚と、より敏感な反応を積み重ねてゆくにすぎない。人間が自己の霊性という不滅のの黄金を鍛えあげる場所は、この荒っぽい地球というかなところの上でなければならない。貪欲な死を満足させる唯一の贈り物であるこの得がたい黄金の宝を手に入れないかぎり、人間は、この世への生まれくぁりから解放されることはできないのである。
感想;
米国で人気が出た”マインドフルネス”は瞑想することにより、自分を知り、自分を管理し、自分をより人生をいきるための一つの手段になっているようです。
心も穏やかに。
それは禅宗の座禅から来ているのですが。
クリヤ・ヨガも瞑想の自分の人生をよりよくしてくれるのでしょう。
クリヤ・ヨガについて
クリヤ・ヨガ瞑想の道
https://www.yogananda-srf.org/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%A4%E3%83%BB%E3%83%A8%E3%82%AC%E7%9E%91%E6%83%B3%E3%81%AE%E9%81%93.aspx
「何千年もの間、インドのヨギや聖者たち、そしてイエスにも知られていた、明確な瞑想の科学を用いることによって、神を求める人は誰でも、意識の持つ力を全知にまで拡大し、自分の内に、神の普遍の知性を受け入れることができるのです。」
――
パラマハンサ・ヨガナンダ
英知、創造力、安心、幸福、無条件の愛 ―― 永続する本当の喜びをもたらすものを見つけることは、本当にできるのでしょうか?
私たち自身の魂の内に神を経験すること、神の至福を私たちの手に取り戻すこと――これが、パラマハンサ・ヨガナンダのクリヤ・ヨガの教えによって、私たち一人ひとりにもたらされるのです。
クリヤ・ヨガの聖なる科学は、高度な瞑想技法で構成され、これを誠実に実践することによって、神を悟り、あらゆる束縛から魂を解き放つことが可能になります。クリヤ・ヨガは、ヨガ、すなわち神との合一に至る、究極の技法であるといえます。
クリヤ・ヨガの歴史
はるか昔に忘れ去られていた聖なる科学クリヤ・ヨガを見出したのは、悟りを開いたインドの聖者たちでした。主クリシュナは、バガヴァッド・ギーターの中でクリヤ・ヨガを絶賛し、聖哲パタンジャリも、ヨガ・スートラの中でクリヤ・ヨガに言及しています。パラマハンサ・ヨガナンダによれば、この古(いにしえ)の瞑想法は、イエス・キリストや、聖ヨハネ、聖パウロなどの弟子たちにも知られていました。
クリヤ・ヨガは、暗黒の時代に何世紀ものあいだ失われていましたが、マハアヴァター・ババジによって、再び現代にもたらされました。そしてババジの弟子のラヒリ・マハサヤ (1828–1895) が、現代において初めてクリヤ・ヨガを広く教えました。後にババジは、ラヒリ・マハサヤの弟子のスワミ・スリ・ユクテスワ・ギリ (1855–1936) に、パラマハンサ・ヨガナンダを訓練して西洋に派遣し、真の自己(魂)を明らかにするこの技法を、世界に伝えるよう依頼しました。
パラマハンサ・ヨガナンダは、同じ系譜にたつ大師たちから、古(いにしえ)の科学クリヤ・ヨガを西洋に伝える者として選ばれました。そしてこの目的のために、1920年にSRF を設立しました。
古代のクリヤの科学は、かつて、世を捨てて人里離れて生きる、少数の忠実な修行者のみに許されていましたが、インドの偉大な大師たちは、パラマハンサ・ヨガナンダと彼が設立した求道のための団体(SRFおよびYSS) を媒介として、このクリヤの科学を、世界中の真剣に神を求めるすべての人々が手にできるようにしました。
ヨガナンダ師は次のように書いています。「1920年、アメリカに来る前、マハアヴァター・ババジは、私を祝福してくださり、私がこの神聖な使命のために選ばれたことを告げられた。『お前は、わたしがクリヤ・ヨガの福音を西洋に広めるために選んだ使者なのだ。今から何年か前、わたしはクンバメラで、お前の師のユクテスワに、お前を彼のもとに送るから訓練してくれるようにと頼んでおいたのだ。』ババジはそれからこう予言された。『クリヤ・ヨガは、神を知るための科学的技法として、ついにはあらゆる国々に広まるだろう。そして、各人が超感覚的知覚を通して無限の父に目覚めるようになり、それが国々の和合のうえに役立つだろう。』」
イエス・キリストとクリヤ・ヨガ
パラマハンサ・ヨガナンダの使命の重要な目的の一つは、「イエス・キリストの教えた元来のキリスト教と、バガヴァン・クリシュナの教えた元来のヨガが、完全に調和していて根本的に一致することを明らかにし、かつ、キリスト教とヨガの示す真理の原則が、あらゆる真の宗教に共通する科学的基盤であると示すこと」でした。
イエスは、広く一般の人々に対しては、信仰や愛や許しという簡潔な哲学を説いていました。そして多くの場合、普遍的な教訓を含めた、たとえ話の形で話をしました。その一方で、側近の弟子たちには、より深い真理を教えていました。それは、さらに古い時代のヨガ哲学の根底にある、形而上学的な概念に一致するものでした。
The Second Coming of Christイエスの元来の教え(弟子たちにヨガ瞑想の秘術を授けていたという事実も含めて)を完全に理解するには、パラマハンサ・ヨガナンダによる、聖書の詳細な注釈書『The Second Coming of Christ: The Resurrection of the Christ Within You』をお読みください。
クリヤ・ヨガの道の瞑想法
パラマハンサ・ヨガナンダは、自著『あるヨギの自叙伝』の中でクリヤ・ヨガについて述べています。実際の技法はSRFのレッスン受講者に授けられますが、その前に一定期間、パラマハンサ・ヨガナンダが教えた3つの準備技法を学び、実践する必要があります。
これらの瞑想技法を、総合的な体系の一部として実践すると、古代のヨガ科学がもたらす恩恵を最大限に得ることができ、聖なる目標に到達することが可能になります。
1. 活性化の技法:この一連の心身の訓練方法は、1916年にパラマハンサ・ヨガナンダによって開発されたもので、体を瞑想にふさわしくする準備のために行います。規則的に訓練することで、心と体をリラックスさせ、原動力を生みだす意志の力をつちかうことができます。この技法は、呼吸と生命力と集中力を用いて、意識的に体内に大量のエネルギーを取り込むことを可能にし、その結果、体のすべての部分を系統的に浄化し強めます。活性化の技法にかかる時間は15分ほどで、ストレスや神経の緊張を取り除くためのもっとも効果的な方法の一つです。瞑想前にこれを行うと、静かに内面に集中した意識状態にはいるのに、大いに役立ちます。
2. ホン・ソー集中法は、人間が潜在的に持つ集中力を高めるのに役立ちます。この行法を実践することによって、思考やエネルギーを、気を散らす外部のものから引き上げて、達成すべき目的や解決すべき問題に、集中させることができるようになります。あるいは、この集中させた注意力を、自分の内にある「聖なる意識」を悟るために用いることもできます。
3. オーム瞑想法は、集中力を最も高度な形で用いて、私たちの真の自己が持つ神性に目覚め、神性を開花させていく方法を教えています。この古(いにしえ)の行法は、あらゆるものに浸透する、聖なる存在を経験する方法を教えてくれます。この聖なる存在は、「オーム」もしくは「神のことば」、「聖霊」として知られ、万物の背後に存在して万物を支えています。この行法によって、体と心の限界を超えて意識が拡大し、自分の無限の可能性を、喜びあふれて知ることが可能になります。
4. クリヤ・ヨガ行法
クリヤは、プラーナヤーマ(生命エネルギーの統御)という高度なラージャ・ヨガの技法の一つです。クリヤは、脊髄と脳を流れる精妙な生命エネルギー(プラーナ)の流れを強化し、活性化します。インドの古代のリシ(賢者)たちは、脳と脊髄を、生命の木として見ていました。脳脊髄にある、生命と意識の精妙な中枢(チャクラ)からエネルギーが流れ出て、人体のあらゆる神経、器官、組織に活力を与えています。ヨギたちはクリヤ・ヨガの特別な技法によって、この生命の流れを、脊柱に沿って上下に絶えず循環させることで、内なる進化と覚醒を大幅に速めることができるのを発見しました。
クリヤ・ヨガを正しく実践すれば、心臓と肺と神経組織の通常の活動を、自然に低下させることができます。すると、心と体の内に深い静寂が生み出され、思考、感情、感覚によって絶え間なくかき乱される状態から、注意力を解き放つことができます。この澄みわたる内なる静寂の中で、人は心の平安の深まりを経験し、自らの魂と、そして神と同調した状態を経験するようになります。
ヨギについて
https://sudarshanayoga.com/archives/1107
日本では一般的に、ヨガを練習している人を「ヨギ」と言いますが、ヨガ的にはそれは誤りです。
実際の「ヨギ」について、「バガヴァッド・ギーター」第六章で、次のように語られています。
「ヨーガに登ろうする者にとって、行為が手段であると言われる。ヨーガに登った人にとっては、寂静が手段であると言われる。」
この記述で明確に区別されているのが、「ヨーガに登ろうする者」と「ヨーガに登った人」です。
では、その違いは、どのようなものなのでしょうか。
1 ○ ヨーガに登ろうする者
2 ○ ヨーガに登った人
○ ヨーガに登ろうする者
ヨーガに登ろうする者が、いわゆる一般的にヨガを実践して、練習している人を指しており、このような人のことをサンスクリット語で、「サーダカ」といいます。
「サーダカ」とは、探求者という意味で、本質的な自分を求めて、ヨガの実践をしたり、ヨガの勉強をしている人のことです。
そして、「バガヴァッド・ギーター」では、そのような人にとって、自分をヨガの境地に導くのは、「行為」が手段であるとしています。
この「行為」こそが、「カルマ」と言われるもので、それは日常の仕事や人間関係、そしてヨガの練習など、すべてに当てはまります。
本当の意味でヨガとは、日常生活すべての行為が、自分を静寂に導くすべての手段であるとしているのです。
つまり、ヨガの観点である「自己の探求者」という視点を、日常の生活全てに取り入れるだけで、あらゆる行為行動が、ヨガになってしまうのです。
その時、ヨガとはマットの上での運動ではなく、生きることそのものが、ヨガとなっていくのです。
○ ヨーガに登った人
バガヴァッド・ギーターで「ヨーガに登った人」は、「静寂」が手段だと言っていますが、実は「ヨギ」とは、「ヨーガに登った」人のことを指しているのです。
そのような人は、常に自分の中に「静寂」を保ち続けられる人であり、別の言い方をすると「アートマン」という自己の本質とつながっている人を、指しているのです。
「ヨギ」とは、サンスクリットで「ヨーガ」という語幹に、「イン」 という、「~を持つ人」と言う意味の接尾語を付加した言葉です。
そして、「ヨーガ」とは、サンスクリットで「ユジ(yuj)」 という動詞の原型から来ており、「ユジ(yuj)」とは、「結合する」という意味になります。
「ヨーガ」と「イン」 という意味が結びついて、何か常に結びついてものを保有している人を指しているのです。
つまり、その結びつく対象が、「アートマン」である自己の本質です。
それ故に、そのような「ヨギ」は、そこから得られる「静寂」が、ヨガを実践していくうえでの手段となっているのです。
その意味で「ヨギ」とは、「アートマン」以外のものに対して、完全に執着を切り離している人のことを指しているのです。
そのことを本当に理解していると、気軽に「私はヨギです。」と言えないことに、気が付くでしょう。
そして、そこに向かうには、普段の生活の中で「自己の探求者」という視点を、ただ忘れてはならないとう「シンプルな結論」に導かれるのです。
もちろん、私もヨガを通じて、単なる自己探求者の一人として、今後も在り続けようと思います。