幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

「明治を生きた男装の女医高橋瑞」田中ひかる著 ”女医の道を切りひらいた一人(公許女医3人目)”

2021-04-07 23:00:00 | 本の紹介
・瑞は明治政府が定めた医事制度のもとに誕生した、荻野吟子、生澤久野(いくさわくの)に続く三人目の女医である。

・10歳で父を失った瑞は、母親とともに、家督を継いだ長兄に養われることになった。

・瑞は、長兄夫婦の間に次々と生まれる子どもたちの世話に明け暮れながら日々を過ごした。

・兄夫婦の長男にあたる甥が満六歳になり、近所の手習いに通い始めると、瑞は付き添いと称して一緒に出かけ、座敷の隅で読み書きや算術を習うようになった。満六歳から近所の手習いに通っていた瑞だが、父が亡くなった10歳のとき中断したきりになっていたのだ。

・甥や姪たちが成長し、あまり手がかからなくなった頃、瑞は兄の部屋へ行き、「兄上、私も漢学塾に通いとうございます」と頼んだ。しかし兄は「おまえが? 女が漢学塾に通うなど聞いたことがない」とまゆをひそめた。女が学問をすると縁遠くなるためである。とはいえ、瑞は20代半ばになっており、すでに「婚期」は逃していた。瑞は落胆したものの、学ぶことを諦めるつもりはなかった。

・兄嫁に代わって美代を育ててきた喪失感は大きかった(瑞のお願も聞いてくれず、早く医者に見せなかったので亡くなった)。ほかの甥や姪も十分に育ち、もはや自分の役目は終わったと感じた。年老いた母の分も、家事を一手に引き受けているが、兄嫁からは露骨に厄介者扱いされる。家を出て学問の道に入りたいと思う瑞だったが、性格のきつい兄嫁のもとに母を置いていくことだけが心配だった。だから母が流行り病で呆気なく逝くと、家にとどまる理由はなくなった。
母の四十九日が過ぎると、瑞は風呂敷包みを一つ持って、誰にも告げずに家を出た。24歳の、当時の女としては遅すぎる門出であった。
名古屋で四国から流れてきた旅芸人の一座と出会い、賄い婦の仕事を得る。

・とりあえずは食べていくために、住み込みの女中の仕事を見つけた。雇い主はある政治家の妾で、絹子といった。「弟があんたと一緒になってあんたのことを幸せにしてくれるなら、あたしも囲われた甲斐があったってもんだよ」
絹子は、両親はすでに亡くなっており、実家には弟しかいないから、家事さえ済ませれば気兼ねなく学問でも何でもすきなことができると言う。そう言われてみると、弟の教員という肩書は魅力的に思えた。教員ならば、読み書きや算術はもちろん、漢学も教えてくれるのではないだろうか。

・残念なことに、康成は短期で、すぐに手を上げる男だった。・・・康成は何かにつけて暴力を振るうようになった。

・「医者の試験に合格すれば、女でもなれるでしょう」
「試験に合格するためには、医学校で学ばなければならんが、女が入れる医学校はどこにもね」

・瑞の結婚生活は、9か月足らずで終わる。康成は思い切り足蹴りにした、瑞は肋骨が折れてあえなくへたり込み、そのまま数時間動けなかった。その夜、康成が酒を飲んで眠ってしまったあと、瑞は痛みをこらえて家を出た、一晩かけて中山道まで歩いたところで下腹部に痛みを覚えて座り込み、そのまま動けなくなった。そこに、空の俥が通りかかった。
気がつくと、瑞は板の間に如かれた藁布団の上に寝ていた。
車夫喜助の妻、カノの手厚い看護のもと、瑞はひと月後には家事が手伝えるほどに回復した。

・陣痛が始まって丸二日経っても、赤ん坊は出てこなかった。束の間、痛みが引いている間だけでも瑞はカノを眠らせてやりたかったが、スエ(産婆)は絶対に産婦を横にしてはいけないと主張する。・・・カノは力尽き、再び意識を失った。すでに赤ん坊は死んでいたのである。
スエは変え要り支度をすると、カノに「このまま三週間、ここで座っとき、最初の一週間は眠ってはいけねぇ。それから米と味噌以外は口にしてはいけねぇ」と言った。・・・カノの体温はますます低下していた。瑞は意を決して立ち上がると、蓑をつけて外に出た。車夫である喜助なら、名医として名高い福田明宗の医院を知っているだろう。喜助がいる隣家へと急いだ。

・明治13(1880)年秋、28歳になった高橋瑞は、前橋の産婆、津久井磯子の内弟子として働いていた。
喜助と瑞が医師福田明宗を伴って戻ったとき、すでにカノは亡くなっていた。
「磯さんだったら、どうにかなっただろうに」
「それはトリアゲババのことですか」
「内務省の免許を持った優秀な産婆だ。津久井磯子といって前橋におる。私は磯さんの亡くなった夫君の世話で医者になったんだ」
「免許のあるトリアゲババと、ないトリアゲババがいるのですか」
「そうだ。産婆は大昔からいるが、少し前に免許制になったんだ。この辺りの村にはまだ免許を持ってる産婆はおらんが、街へ出れば免許を持った新しい産婆もちらほらおる」
新しい産婆なら、カノを救うことができたのか。いや、赤ん坊も死なずに済んだのかもしれない」

・津久井磯子の弟子になろうと考えた瑞は、仲介を頼むため、福田明宗の医院を訪ねた。ところが明宗は診療中ということで、弟子が取り次いでくれなかった。こんなこともあろうかと、瑞は仲介を依頼する文章を巻紙に記し、持参していた。これがなければ、明宗も、数日前に診療を頼んできたにすぎない村の女の頼みなど、聞いてくれなかったかもしれない。しかし漢字も駆使した確かなる文章は、明宗に紹介状を書かせるに十分だった-。

・瑞は磯子の部屋に呼ばれた。
「瑞、来年、東京の産婆学校で勉強する気はないか。学費は出してやる。一年通って、免許を取ってこんか」
「行かせてください。よろしくお願いします」

・瑞はここで、岡田美寿子と駒井せい子という二人の年下の友人を得る。三人は同じ下宿で暮らし始める。
磯子から学費の援助は受けたが、下宿代や生活費は自分で賄わなければならなかったため、瑞は裁縫の内職を探すつもりでいた。しかし、美寿子とせい子が実家から十分な仕送りを受けていたので、下宿代や生活費は二人が出してくれた。代わりに瑞が、二人の苦手な料理、掃除、洗濯など家事一切を引き受けた。

・紅杏塾で産婆の何たるかについて学んだことで、かえってその仕事の限界を知ることになった。医学的処置や投薬、産科機器の使用などは医者のみに許され、産婆には禁じられた。したがって、産婦は胎児、嬰児が危険な状態に陥った場合には産婆の出番はほどんどなく、それでは産婆になる意味がない、と瑞は感じた。
「私はたくさんの女や子どもを助けたいんだ。産婆では物足りない。医者になりたい」

・瑞の免許が登録された明治16(1883)年の全国の産婆総数は20,805人。うち内務省免許を持つ産婆はたったの145人しかいなかった。群馬県でも免許所有者は希少であり、瑞は磯子の勝腕として多忙な日々を送ることになった。
この頃、妊産婦死亡率は現在と比較にならないほど高かったが、死産率も高かった。群馬県では出産1000に対し死産は約52、全国平均は約32だった。現在の日本の周産期死亡率は出産1000に対し約3である。

・「あんたにあたしの跡を継いでほしいんだけど、どうかね」
「これまでお世話になったのに、ご恩に報いることができず、申し訳ありません。紅杏塾の学費はこれから働いてお返しします」
「そうか、それは残念だ。ところで、あんたがやりたいことって何さね」
「私は、女や赤ん坊を救う医者になりたいのです」
「知らんのか。女は医者にはなれないんだよ」
「女でも医者にしてもらえるよう、お国に頼みます」
磯子は呆れたように溜息をつき、二人の間に沈黙が流れた。
「そうか。わかったよ。そう簡単にお上の考えは変わらないと思うが、やるだけやってみればいい。万一、あんたが医者になって、あたしには救えん女や赤ん坊たちを救えるようになるなら、それがあたしの本望だ。あんたはあたしより器が大きい、跡を継がせるより、その方が世の中のためかもしれんね」
意志を告げた以上、もう磯子のもとで暮らすわかにはいかなかった。すでに引き受けていたお産を一通り終えた3月下旬、瑞は前橋をあとにした。磯子が診療鞄として愛用している鞄を、磯子がくれた。
のちの瑞の弟子たちによれば、前橋時代のことは一切語ろうとしなかった瑞が、唯一、磯子のことだけは懐かしそうに振り返り、たびたび「師匠にはよくしてもらった」と口にしたという。

・衛生局への請願「女にも医術開業試験を受けさせてほしい」
たまたま奥に居合わせた医術開業試験に関する最高責任者、長与専斎の登場となった。
「ほかからも頼んできているが、まだ時が至らぬから少し待ってくれ。産婆の開業は許されているから、とりあえず産婆になってはどうか」
「するとせい子が、「うちらはもう産婆になってますわ」と返した。
「そうか。では産婆を続けながら、時が至るのを待つのだ。

・長崎の女子学生の請願が拒否された翌年、のちに公許女医第一号となる荻野吟子が、東京府に医術開業試験の受験を願い出て、拒否されている。瑞たちが専斎に請願したのがその翌年なので、「ほかからも頼んできている」の「ほか」には荻野吟子も含まれていたことになる。

・明治17(1884)年9月、女子受験者を迎えた初の医術開業試験の前期試験が行われた。前期試験で基礎科目(物理、化学、解剖、生理)に合格したものだけが、臨床科目(病理、薬物、内外科、眼科、産婦人科)と実地から成る後期試験を受験することができる。
東京会場の前期試験受験者数は800人、しかしこの中には高橋瑞の姿はなかった。女で受験したのは、荻野吟子、岡田美寿子、生野久野ら5人と報じられたが、生野久野は、願書は提出したものの過労で病床にあり、受験することができなかった。前期試験を通り、翌年3月の後期試験を受けた128人のうち、合格者は27人、女で合格したのは荻野吟子だけだった。美寿子が瑞に連絡を取ろうにも、居場所がわからなかったのである。
瑞が大阪へ行ったあと、美寿子は瑞の願いを叶えるため、毎月一回、一人で衛生局へ足を運び、受験の請願を続けていた。
瑞が女にも受験資格が与えられたことを知ったのは、荻野吟子の前期試験合格を報じた新聞記事によってであった。

・公許女医第一号誕生
吟子(首席で東京女子師範学校卒業)は早速、(陸軍軍医総監となる)石黒忠悳を訪ね、
「医者になりたいのですが、先生は、女が医者になることについてどう思われますか」と訊ねた。忠悳は「女が医者になってもよいのでないか」と答えた。
後日、吟子は再び忠悳を訪ね、「先生は女医に賛成なのですから、どうか医学校を紹介してください」と頼み込んだ。こう言われては断るわけにはいかず、忠悳は吟子が私立医学高「好寿院」で学べるよう手配してくれた。
吟子は、好寿院で学べるよう取り計らってくれた医学界の有力者、石黒忠悳を三たび訪ねた。
「男子学生たちと同じように、いえ、彼ら以上に一生懸命学んだというのに、女であるというだけで開業試験を受けられないなんで、あんまりです」
「医師免許規則には、女が受験できないなんて一言も書いてありません。書いていないのに受けられないなんて、ひどすぎます」
忠悳は早速、衛生局長の長与専斎を訪ね、医師免許規則に「女は不可」という条文がない以上は、開業試験を受けさせるべきだと意見した。

・医師免許規則には「外国の医学部もしくは医学校において卒業したる者」について「試験を要せずして免状を授与することあるべし」と記されたいる。吟子はもはや留学するしかないと思いつめ、援助を受けていた高島嘉右衛門に相談をもちかけた。吟子の悲壮な覚悟に同情した嘉右衛門は、吟子が長与専斎に直訴できるよう紹介状を書いた。しかしこれまでと同様に「女医の前例がない」という理由で却下される恐れがあるため、吟子に、以前師事していた国学者井上頼圀に協力を仰ぎ、かつて日本にも女医が存在したという史実を探し出すようにと助言した。
吟子は以前、江戸中期の本草学者、貝原益軒が編んだ『和漢名数』という書物の中に、「女博士」とい文字を見つけたことがあった。そして嘉右衛門の意見に従い頼圀のもとであらためて古い文献を渉猟したところ、『養老令』(718年制定)の注釈書である『令義解』に、国が女医を養成していたという記述を見つけた。吟子は今度こそという意気込みで、嘉右衛門が書いてくれた紹介状にこれら史料を添え、長与専斎を訪ねた。そして、そのわずか二か月後に、衛生局から「女医開業許可の儀は種々評定のすえ、女子たりとも相当の手続きをなし候上は、差し許し候趣旨に省議決定いたし候」とい通知が下され、医術開業試験の受験資格が与えられたのです。
実は専斎は、女子の受験志願者たちからの度重なる請願を受け、受験を許可するつもりでいた。しかし衛生局として「前例がない」という理由で却下してきた以上、大義名分が必要だった。そこへ吟子が「前例がある」という証拠を携えてやってきたのである。
こうして荻野吟子の名は、公許女医第一号としてのみならず、女に閉ざされていた医術開業試験の扉を最初に開いた人物とし日本の女医史に刻まれた。しかし実際には、吟子と同じ頃、高橋瑞、生澤久野、本多銓子らも請願を行っていた。当時はお互いを知る由はなかったが、彼女たちの立て続けの請願が功を奏したことは間違いない。
公許女医第四号となった本多銓子の「後ろ盾」による請願もかなり強力なもだった。銓子は、東京女学校切っての秀才だったことから、同窓の松浦里子とともに、成医会講習所(原東京慈恵会医科大学)校長でのちの海軍軍医総監高木兼寛に見出され、医者を目指すことになった。兼寛はかつてイギリスに留学した際、女医の活躍を目にし、「女子の能力が女医として適するや否や」を確かめたかったのである。銓子は兼寛の期待に応え、成医会講習所で十分に学んだ。当然ながら、兼寛は彼女が医術開業試験を受けられるよう、衛生局に働きかけた。海軍軍医総監戸塚文海とともに、「我が国では平安朝において『女医博士』なるものが置かれていた。しかるに現治世において何故女子の開業の不可などということがあろうか」と、やはり公に女医が存在したとい史実を持ち出して、要請したのである。

・生澤久野は1864年、深谷宿で代々医業を営む生澤家に、四人姉妹の三女として生まれた。医者の家に生まれ、男兄弟と区別されることなく育った久野にとって、医者になることはさほど特別なことではなかった。しかし、上京しても女が学べる医学校はないため、吟子同様、女にとっての最高学府、東京女子師範に入ることを念頭に、九段にある松本萬年の止敬学舎で学び始める。

・医学試験請願書 生澤久野
東京府へ医学試験の出願を行い受理されたので、受験できるものと喜んでおりましたところ、どうしたことが願書を却下されてしまいました。医学を学んできた数年間の刻苦が泡沫に帰し、憂慮を捨て去ることができないため、恐れ多いのですがこうして懇願いたします。・・・
女性が妊娠したときに生殖器病を患っておりましたら、無病健康な子供が生まれることは少ないのです。これは公衆衛生上、最も注意すべき点です。女性は柔和軟弱で、物に恐れ人に恥じるところがあるので、生殖器に異常をきたしても恥じて夫にさえ告げません。・・・女性患者も女医が相手ならばそれほど恥ずかしさを覚えず、症状が軽いうちに診察を受けることができるでしょう。
埼玉県令 吉田清英殿
却下され、衛生局長の長与専斎の目に触れることもなかったのである。
上京以来の過労が重なったためか、久野の体調不良は続き、翌年、女子の受験が許可されたときには、願書は提出したものの、受験することができなかったのだ。果たして久野が請願書を提出した事実も埋もれ、公許女医第一号として注目を浴びた吟子とは対照的に、久野の存在も埋もれたいった。

・昭和16(1941)年に刊行された吉岡彌生の自伝には、「荻野さんが日本の女医の生みの親だとすれば、育ての親にあたるのが、三番目の女医になった高橋瑞子さんであります。その間に生沢そのという方が挟まっておりますが、荻野さんと同じく埼玉県の出身で、明治20年3月に医籍に登録されたという以外、残念ながら詳しいことがわかりません」とある。
久野の消息が明らかになるのは、亡くなる二年前にあたる昭和18年である。久野は、吟子より二年遅れて医者となり、郷里の埼玉県を中心に、68歳まで地域医療に貢献した。医者として活動した年数は、吟子よりもはるかに長い。

・明治17(1884)年9月、初めて女に開放された医術開業試験の受験者の中に、高橋瑞の名前はなかった。府立大阪病院で研修を受けていた瑞はこの頃、学費と生活費が底をついたため、いったん研修を中断して、大阪で産婆として働いていたのである。

・瑞は産婆として訪問した家で偶然、荻野吟子が医術開業試験の前期試験に合格したことを報じる新聞記事を目にした。
「こうしちゃいられない」と、その日のお産が終わるのももどかしく、夜半、荷物をまとめ、下宿を出た。

・京橋にある成医会講習所へ足を運んだ瑞だったが、事務所で学費についての説明を聞き、諦めた。他の医学校と比べて決して高い金額ではなかったが、月謝は半年分前納しなければならず、貯えのない瑞には無理であった。
学費が払えそうな医学校を探すことを優先し、湯島になる済生学舎(現日本医科大学)へ向かった。瑞は、校長の長谷川泰に直談判して入学の許可を得ようと考えた。
瑞は通りかかる学生たちの好奇の視線を浴びながら、一日中目を凝らして(校長を見つけるために校門の脇に)立ち続けた。すると四日目の朝、老書生風の男から「毎日ここに立っておいでだが、誰か待つ人でもあるのですか」と声を掛けられた。
「校長の長谷川泰先生を待っています」
「私が長谷川です」
「ご存知だろうが、うちには女子の学生はいない。禁じているわけではないが、これまで一人も入りたいと言ってきた者がない」
・・・
「考えておきましょう」と言って、去っていった。
昨日と同じ時間に、泰が歩いてやってきた。
瑞を一瞥する泰に「よろしくお願いします」と頭を下げると、泰は「うん」と言って通り過ぎる、同じことが四日続いた。泰はそのうち瑞が諦めるだろうと踏んでいた。しかし、泰の企みに気づいた瑞は、意地でも諦めないと決意した。その決意に今度は泰が気付き、五日目に瑞の前で足を止めた。
「毎日、ご苦労だね。ともかく私の一存では決められないので、会議にかけ、ほかの教師たちの意見を聞いてみよう。来週の月曜日のこの時間にここに来れば、回答をお聞かせしよう。約束するから、もうここに立ち続けなくともよい」
果たして月曜日、中から事務員が出てきた。瑞の姿を見とめると、「入学を認めます。どうぞ、中で手続きを」と言った。瑞は喜びのあまり言葉も出ず、黙って頭をさげるばかりだった。

・瑞が済生学舎への入学を果たしたことは、吟子が好寿院へ、久野が東亜医学校へ、それぞれ特別に許可をもらって入学したこととは意味合いが異なる。済生学舎がまったく伝手のない瑞の入学を認めたということは、以後、女子学生の入学を拒まないということを意味したからである。
その後、済生学舎が再び女子学生を受け入れなくなるまでの16年間に、400人以上の女子学生が同校で学、100人近い女医が誕生した。その中の一人である吉岡彌生が、のちに「荻野さんが日本の女医の生みの親だとすれば、育ての親に当たるのが、三番目の女医になった高橋瑞子さんであります」と語るのは、瑞が女に閉ざされていた医学校の扉を体当たりで開き、その後の女医志願者たちに道筋をつけたことによる。
彌生が済生学舎で学んで医者となり、その後、東京女医学校を創設したことを思えば、瑞が女医の一般化にどれほど貢献したかがうかがえる。

・席について黒板を見ると、「女は帰れ」「女医は不可」から、「乞食」「行かず後家」といった瑞の貧しさや年齢をからかう悪口が書かれている。これが最初の一か月、毎日続いたが、ある程度予想はついていたので、さほど気にならなかった。
そんなことよりも、瑞にとって深刻な問題は貧困であった。

・普通は一年かけて全課程を終えるのだが、できるだけ月謝を節約したかった瑞は、独学できるところは夜中に下宿で済ませ、入学から四か月後には医術開業試験の前期試験に挑んだ。そして合格を勝ち取る。

・後期試験を受けるためには病院での実習が必要だった。済生学舎の学生たちは順天堂医院で実習することができたが、それは男子学生に限られていた。実習先がなくて困った久野は、成医会講習所校長の高木兼寛が設立した有志共立東京病院(東京慈恵病院)で実習する手筈を整えた。

・後期試験受験のため、瑞も病院での実習が必要となったが、久野と同じ有志共立東京病院に行こうとは考えなかった。済生学舎の男子学生たちと同様に順天堂医院で実習すれば、月謝が格安で済むからである。

・瑞はお暗示湯島にある順天堂医院まで走った、正面の病棟に入ると院長の佐藤進を探した。必死の形相で病院内を歩き回ったので、ちょっとした騒ぎになった。そこに現れたのが、佐藤進の妻で、佐藤尚中の娘、志津である。
「佐藤はあいにく、今日は戻りません。もしよろしければ、私がお話を伺いますよ。どうぞ」
瑞は、すでに女医が誕生しているというのに、実習をさせてもらえないのは不都合だという話から始まり、自分は望んで女に生まれてきたわけではない。
三日後、瑞は学校で長谷川泰に呼ばれ、順天堂医院での実習が許可されたと告げられる。

・順天堂医院で実習を済ませた瑞は、前期合格から二年後の明治20(1887)年3月、後期試験に合格。34歳になっていた。

・大隈重信は椅子から立ち上がると、ゆっくりと進んで壇上に上がり、皆が見守る中、
「諸君!」と声を発した。
「女子が教育を受けることや、女子が医者に向くか否かについて論争しているようだが、かりに明日の朝まで続けたところで答えは出まい。10年ないし15年後に現れ来たる女医たちの成果如何によって判断しようではないか」
重信の一声で会場は落ち着きを取り戻し、(卒業)式を続行することができた。
吉岡彌生、竹内茂代、そして会場にいた女医学校の生徒たちは重信の言葉を胸に刻み、女医の評価を高めるべく懸命に努めようと誓い合った。

・「匿名でしか物を言えないヤツの話になんか、耳を貸す必要はない。毎日真面目に仕事をやってれば、いずれ批判するヤツなんていなくなるだろう」(瑞)
「でも、女には医者になる資質がないなんて書かれて、腹が立たないのですか?」(済生学舎に通う柏木トシで瑞に師事)
「腹が立つというよりも、そいつの言ってることが間違っているとしかいいようがないな。女でもこうして試験に合格して医者をやってるわけだから」

・瑞は50を過ぎた頃から、「年をとって診療に万一間違いがあったらいけない。私は60になったら引退する」と周囲に話していた。そして、東京女子医学校を立ち上げた吉岡彌生を呼びつけるとこう告げた。
「私が死んだら、遺体はあんたの学校にやるから解剖して役に立てておくれ、それから骨も活かせ。私は死んだあと、骨格標本になりたい」
彌生は申し出をありがたく受けた。

・(瑞は)1927年2月28日、大葉性肺炎のため74歳で亡くなった。
辞世の句には、瑞の潔い性格がよく表れている。
「わかれをば おしまん人もなく身なり 心もかろく いざいでたたむ」
瑞の遺体は遺言に従い、東京女子医学専門学校において解剖に付され、骨格は標本にされた。

感想
荻野吟子さんのことは、「花埋み」渡辺淳一著を読んで知っていました。
埼玉県の妻沼(合併して熊谷市)出身です。荻野吟子さんの記念館を訪れたことがあります。
二人目の女医生澤久野さんも埼玉県出身でした。

高橋瑞さんは知りませんでした。
読んで、「すごいな!」と思いました。
できない、周りの理解がない、難しいなんていっているうちはまだまだ壁でないというように思いました。
産科の患者さんについてはお金のない人は無料で診たそうです。

この本はお薦めです。
女性をお産から救いたいとの気持ちの強さが壁を乗り越えて来られたのでしょう。
ドイツ留学にもチャレンジされました。
ドイツでも女性を受け入れていませんでしたが、周りの人の協力で聴講生として学ぶことができました。
その協力は瑞さんの思いと行動から周りが何とかしてあげようと思われたようです。
残念ながら吐血し、日本に帰国せざるを得ませんでした。

女性に対して厳しい社会、理解しない男性が多いですが、その中にも女性の進出を理解し手助けしてきた人もいたことが救いでした。

学べることの有難さを改めて思いました。