https://news.yahoo.co.jp/articles/f5c5197f20c35905ff11f597883f0ae2f6b6f737 3/2(水) 10:00 AERA dot.
栗原卯田子さん/1976年、都立高校の数学科教員に採用後、都立水元高校、都立小石川中等教育学校、成城中学校・高等学校の校長を歴任
2004年、教育困難校だった都立水元高校に校長として着任し、3年間で中退率を激減させた栗原卯田子先生。その後、中高一貫校になったばかりの都立小石川中等教育学校、そして私立の伝統校である成城中学校・高等学校を歴任。学校は違っても、生徒をよく観察し、生徒の意見に耳を傾けながら自分の考えをはっきりと述べる”卯田子流”で、数々の難題と向き合ってきた。2021年に退職し教師という重責から離れたが、栗原先生はやはり「先生」と呼ぶのが一番ふさわしい。4回に分けてお届けする集中連載、初回は「水元高校編」。
【写真】「あんな学校なくなったほうがいい」と言っていた地元商店街も、生徒との交流で見る目が変わった
* * *
校長として勤めた17年間、栗原先生は毎朝校門に立って生徒を迎えた。そのきっかけとなったのが、2004年に校長に昇任してから初めて勤めた水元高校だ。
水元高校は教育困難校と言われた荒れた学校で、中退率が都立全日制で一番高く、2割近くに達していた。地元の商店街に名刺を持って校長就任の挨拶にいくと「あそこの校長をやるの!あんたも大変だねえ」と言われるほど、評判も最悪だった。しかも3年後に閉校することが決まっており、3年間限定の校長就任だった。
「女では務まらないと思われていたのか、女性が管理職として就任するのは初めてでした。聞こえてきた水元高校の評判は確かに芳しくなかった。どういう生徒たちなのか、自分の目で確かめたいというのが、校門に立つきっかけでしたね」(栗原先生、以下同)
赴任初日、案内してもらった校長室の前の廊下で目に飛び込んできたのは、長針が垂直にねじ曲げられた蓋のない時計。校内を見回るとトイレのドアが壊されて壁は陥没し、至るところに落書きがしてあった。荒れた校舎を見て「校長に昇任した」という高揚感は薄らぎ、「この学校で校長をやるんだ」と覚悟した。
在校生徒との初対面となる始業式。体育館に行くと、生徒はみな床に座ったまま。「立たせているとどこかに行ってしまうから」だという。入学式を翌日に控えて1年生はまだおらず、2、3年の生徒は半分ほどしかいない。栗原先生が壇に上がっても車座になっておしゃべりし、前を向こうともしなかった。
「用意した式辞を取りやめて壇から下り、『おへそをこっちに向けなさい!』と、呼びかけました」
ふり返った生徒に伝えたのは、三つのことだ。
「授業と、命と、財産を大事にしよう」
そう話し掛けると、生徒たちの視線が集まった。
「一生懸命授業に出たら、みんな卒業させてあげる、と約束しました。授業に出ても勉強がわからなければ、それは先生の責任だからとにかく授業に出ること、と。『命を大事にしよう』というのは、暴力事件も起きていたので、他人を傷つけてはいけないということを伝えたかった。自分だけでなくほかの人も大事だということをわかってほしかったのです」
「財産」とは生徒にとっての学校のこと。3年後には閉校し、取り壊される校舎だけれども、大切に使おうと訴えた。
◇ ◇
教員との関係も、はじめはぎくしゃくした。初めての職員会議。会議室に入り、教員たちと向かい合う前面の席に腰掛けると、「校長の席はそこではない」と、古株の教員からクレームがついた。校長も教員と同じ並びに座るのだという。「職員会議は校長の責任で行うもので、全体を見渡せる席のほうがいい」。栗原先生がそう話すと、「水元高校では、これまでそういうしきたりでやってきた。教員の親睦を深めることが大事」と返された。
「職員会議は親睦会ですか、親睦は大切だから大いにやりましょう。でも職員会議は学校の方針を決める大事な場。親睦ではありません、と言いました」
その教員は「撤回します」と引き下がり、栗原先生はそのまま席に座った。会議室は水を打ったように静まりかえった。
「私は、トップダウンは好きではありません。でも校長としての責任がある。ほかの学校でもそうでしたが、栗原が言うんじゃしょうがないな、という関係をつくるまでが大変でしたね」
初年度に掲げた目標は「中退防止」だった。
栗原先生は始業式の日から、校門に立って生徒を迎えた。8時半の始業時間になってもほとんどの生徒は来ず、10時過ぎにぞろぞろと登校してくる有り様だった。
ある日、髪の毛を虹色に染めた生徒が「先生は本所から来たんだろう」と、粋がって話しかけてきた。教頭を務めていた前任の本所高校では、「茶髪ゼロ」の目標を立てて生活指導を行い、成果を出していた。そのうわさを聞きつけ「俺たちの髪も黒く染め直すつもりだろう」と言う。
「そんなことしないよ。それよりも遅刻のほうが問題。髪の毛の色は自分だけのことだけど、遅刻はほかの人に迷惑を掛けるから、そっちのほうを直そう」
そう言うと、生徒は拍子抜けしたような顔になった。
「学校によって抱えている問題は違います。水元の場合、まず髪の毛はどうでもいい。朝起きて制服を着て、時間通り学校に行く。そのサイクルを作ることが先決でした」
毎朝校門に立ち「今日はいつもより早く来たね」「時間通りに来ると、いいことがあるよ」と声をかけていると、だんだん遅刻が減ってきた。生徒たちの励みになればと、欠席・遅刻・早退のない生徒に、1カ月ごとに、月間皆勤賞を渡すことを思いついた。
「賞といっても、校長室で手作りした賞状ですよ。だからあまりうれしくないかなと思ったら、それを集め出す生徒が増えてきたんです。俺は何枚たまった、と自慢げに言いに来る生徒もいました」
着任当初「そこは校長の席ではない」と言い放った古株の先生は、そのうち栗原先生と一緒に校門に立ち、2人で向かい合って生徒を出迎えた。授業を抜け出す生徒を見つけると「授業を大事にするって約束したでしょう」と、連れ戻した。
◇ ◇
校長室の扉はいつも開け放してあり、ときどき生徒がおしゃべりをしに訪れるようになった。ある日、腰にじゃらじゃらとチェーンを下げた生徒が校長室をのぞき込んでいる。「おいで」と校長室に呼んで、だらしなく緩めているネクタイを結び直した。「ほら、こっちのほうがかっこいいよ」と言うと、照れくさそうな顔をする。
「悪ぶっていたり粋がっていたりする生徒たちも、あどけない一面がある。家庭環境や周囲の環境など、生徒だけの問題ではないのです」
経済的な事情を抱えていたり、そもそも親が子どもの教育に無関心だったりする家庭も多かった。
生徒自身は卒業の単位を取得しているのに、授業料が振り込まれず、卒業が危うい生徒がいた。何度保護者に電話してもらちがあかず、栗原先生が出向いて父親に直談判することになった。ファミリーレストランで数時間にわたり説得した末、「あんたには負けたよ」と、誓約書へサインすることに同意させた。
卒業式の日。壇上で祝辞を述べていると、体育館の入り口に仁王立ちしている男性の姿を見つけた。卒業式への誘いを「そんなところへ行けるか」と一蹴していた、あの父親だ。式が終了した後、「確かに授業料を受け取りましたよ」と声をかけると、「なかなかいい式辞だった」と、笑顔を見せてくれた。
1年が終わるころに中退率は半減し、中退防止プロジェクトは結果を出しつつあった。
就任1年目の春休みには、長靴、レインコートにホースを持って、トイレ掃除のために登校した。
「いくら取り壊される校舎とはいえ、汚れたままにしておくと生徒の心が荒んでいくから」
提案した時には渋っていた先生も大勢参加し、生徒までも加わって便器にブラシをかけ、落書きだらけの壁にペンキを塗り、壊れたドアを修繕した。
「掃除が終わった後は家庭科室で作った豚汁を、わいわいおしゃべりしながら食べました」
学校の雰囲気は明らかに良くなっていた。
2年目には地域貢献を目指し、「地域と連携するプロジェクト」を目標に掲げた。
「万引きが横行し、アルバイトすらさせてもらえない。あんな学校なくなったほうがいいと言われることもありました。地元の商店に職場体験をお願いしても、最初は断られました」
美術部が商店街のシャッターに絵を描いたことをきっかけにして、商工会の会合に出席して職場体験の趣旨を説明し、他からも協力を得て、なんとか全員の受け入れ先を確保した。
「情報科の先生がパワーポイントの使い方を指導し、職場体験で学んだこと、今後の課題、自分の夢をスライドで作るという授業をおこなってくれました」
職場体験を行った生徒の評判も良く、学校を見る目が変わりつつあった。近くの保育園児を文化祭に招いたりするなど積極的に交流を進め、地域に受け入れられるようになってきた。これら一連の活動が新聞で紹介され、生徒たちを喜ばせた。
栗原先生がどうしても実現したかったのが、生徒全員に資格を取らせることだった。
「このままだと、彼らは何の資格もないままに卒業してしまいます。ほとんどの生徒が就職を希望しますが、履歴書にひとつだけでも資格を書かせてあげたかったのです」
生徒たちの経済事情はさまざまなので、英語検定のようなお金がかかる資格は難しい。すると地元の消防署の署長から「普通救命講習」はどうかと無料で受けられる方策を提案された。
「命を大事にするという目標にもかなっているし、人の命を助ける救命講習なら地域貢献にもつながります」
生徒たちは体操着を着て、AED操作などの講習を受けた。生徒が全員揃って真剣に取り組んでいる様子は、着任時には想像できない光景だった。
講習の後、バスの中で倒れた乗客を、生徒が救助するという出来事があった。バスの中で、大声で騒いだり飲食をしたりしてかつては迷惑がられていた水元の生徒たちが起こした快挙だった。
最終年の3年目に掲げた目標は、「自分で進路を決定する」という「進路実現」。生徒に「もう学校はなくなるんだから、相談するところがなくなるんだよ。自分の進路は自分で決めていこう」と、はっぱをかけた。
すると、ここまで栗原先生と一緒にやってきた先生たちが動いた。4月1日から3月31日までの1年間の日付が入ったカレンダーが、教室一面に張り巡らされた。日付の要所要所に、「自分の思いを300字で書きましょう」「面接の練習をしましょう」と、生徒への指示が書き込んである。卒業式の日付にはクラス全員の名前が記されていた。誰一人取りこぼさずに卒業させるという、先生たちの意志の表れだった。
「着任した当初、先生たちはあきらめていました。生徒の自己肯定感も低かったけれども、一人ひとりの先生と面談すると、ほぼ全員が『できれば早く異動したい』と言いました。学校全体がマイナスに引っぱられて、どんよりとした空気が漂っていました。けれど3年間で雰囲気はすっかり変わりました」
17.6%だった2003年度中退率(年度当初の在籍者数に対する年度内の退学者数の割合)は、2004年度8.4%、2005年度0.86%と激減。2007年3月4日の閉校式には地元の人も大勢集まった。東京都教育委員会から学校表彰を受けるという、おまけまで付いた。
生徒全員の進路も決まり、栗原先生が3年間言い続けた「水元高校最後の卒業生として誇りを持ち、輝いて閉じよう」という、言葉通りの幕引きだった。
(文/柿崎明子)
○栗原卯田子/東京・中野区出身。1976年東京学芸大学大学院修了(教育学修士)後、東京都立高校の数学科教員に。八丈高校、小松川高校、本所高校などを経て、閉校が決まっていた水元高校(葛飾区)に最後の校長として着任。その後は中等教育学校を併設した小石川高校(文京区)の第20代校長として高校の最後を見届けつつ、並行して小石川中等教育学校の校長を6年間務めた。定年退職後、8年間にわたり成城中学校・高等学校(新宿区)の校長に就任し、男子伝統校を復活させた。
感想;
組織はトップの考えと行動で変わるものですね。
栗原校長先生と一緒に過ごせた生徒さん、教員たちは貴重な学びをされたと思います。
勉強は誰のためでもない、自分のためだということを自覚していったのでしょう。
一緒にトイレ掃除をする。
やはり心の乱れは外に出ますから。
5Sをしっかりしていくことは大切ですね。
私の5Sは躾の代わりに精神です。
ルールに強制的に従うのではなく、自らが守りたいと思う気持ちがあるかどうかが大切だと思います。
栗原先生は生徒さんや教員たちの心に”希望”という苗木を植えられたように思います。
その苗木をどう、各自が育てていくか、栗原先生にとっても楽しみだと思います。
栗原卯田子さん/1976年、都立高校の数学科教員に採用後、都立水元高校、都立小石川中等教育学校、成城中学校・高等学校の校長を歴任
2004年、教育困難校だった都立水元高校に校長として着任し、3年間で中退率を激減させた栗原卯田子先生。その後、中高一貫校になったばかりの都立小石川中等教育学校、そして私立の伝統校である成城中学校・高等学校を歴任。学校は違っても、生徒をよく観察し、生徒の意見に耳を傾けながら自分の考えをはっきりと述べる”卯田子流”で、数々の難題と向き合ってきた。2021年に退職し教師という重責から離れたが、栗原先生はやはり「先生」と呼ぶのが一番ふさわしい。4回に分けてお届けする集中連載、初回は「水元高校編」。
【写真】「あんな学校なくなったほうがいい」と言っていた地元商店街も、生徒との交流で見る目が変わった
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校長として勤めた17年間、栗原先生は毎朝校門に立って生徒を迎えた。そのきっかけとなったのが、2004年に校長に昇任してから初めて勤めた水元高校だ。
水元高校は教育困難校と言われた荒れた学校で、中退率が都立全日制で一番高く、2割近くに達していた。地元の商店街に名刺を持って校長就任の挨拶にいくと「あそこの校長をやるの!あんたも大変だねえ」と言われるほど、評判も最悪だった。しかも3年後に閉校することが決まっており、3年間限定の校長就任だった。
「女では務まらないと思われていたのか、女性が管理職として就任するのは初めてでした。聞こえてきた水元高校の評判は確かに芳しくなかった。どういう生徒たちなのか、自分の目で確かめたいというのが、校門に立つきっかけでしたね」(栗原先生、以下同)
赴任初日、案内してもらった校長室の前の廊下で目に飛び込んできたのは、長針が垂直にねじ曲げられた蓋のない時計。校内を見回るとトイレのドアが壊されて壁は陥没し、至るところに落書きがしてあった。荒れた校舎を見て「校長に昇任した」という高揚感は薄らぎ、「この学校で校長をやるんだ」と覚悟した。
在校生徒との初対面となる始業式。体育館に行くと、生徒はみな床に座ったまま。「立たせているとどこかに行ってしまうから」だという。入学式を翌日に控えて1年生はまだおらず、2、3年の生徒は半分ほどしかいない。栗原先生が壇に上がっても車座になっておしゃべりし、前を向こうともしなかった。
「用意した式辞を取りやめて壇から下り、『おへそをこっちに向けなさい!』と、呼びかけました」
ふり返った生徒に伝えたのは、三つのことだ。
「授業と、命と、財産を大事にしよう」
そう話し掛けると、生徒たちの視線が集まった。
「一生懸命授業に出たら、みんな卒業させてあげる、と約束しました。授業に出ても勉強がわからなければ、それは先生の責任だからとにかく授業に出ること、と。『命を大事にしよう』というのは、暴力事件も起きていたので、他人を傷つけてはいけないということを伝えたかった。自分だけでなくほかの人も大事だということをわかってほしかったのです」
「財産」とは生徒にとっての学校のこと。3年後には閉校し、取り壊される校舎だけれども、大切に使おうと訴えた。
◇ ◇
教員との関係も、はじめはぎくしゃくした。初めての職員会議。会議室に入り、教員たちと向かい合う前面の席に腰掛けると、「校長の席はそこではない」と、古株の教員からクレームがついた。校長も教員と同じ並びに座るのだという。「職員会議は校長の責任で行うもので、全体を見渡せる席のほうがいい」。栗原先生がそう話すと、「水元高校では、これまでそういうしきたりでやってきた。教員の親睦を深めることが大事」と返された。
「職員会議は親睦会ですか、親睦は大切だから大いにやりましょう。でも職員会議は学校の方針を決める大事な場。親睦ではありません、と言いました」
その教員は「撤回します」と引き下がり、栗原先生はそのまま席に座った。会議室は水を打ったように静まりかえった。
「私は、トップダウンは好きではありません。でも校長としての責任がある。ほかの学校でもそうでしたが、栗原が言うんじゃしょうがないな、という関係をつくるまでが大変でしたね」
初年度に掲げた目標は「中退防止」だった。
栗原先生は始業式の日から、校門に立って生徒を迎えた。8時半の始業時間になってもほとんどの生徒は来ず、10時過ぎにぞろぞろと登校してくる有り様だった。
ある日、髪の毛を虹色に染めた生徒が「先生は本所から来たんだろう」と、粋がって話しかけてきた。教頭を務めていた前任の本所高校では、「茶髪ゼロ」の目標を立てて生活指導を行い、成果を出していた。そのうわさを聞きつけ「俺たちの髪も黒く染め直すつもりだろう」と言う。
「そんなことしないよ。それよりも遅刻のほうが問題。髪の毛の色は自分だけのことだけど、遅刻はほかの人に迷惑を掛けるから、そっちのほうを直そう」
そう言うと、生徒は拍子抜けしたような顔になった。
「学校によって抱えている問題は違います。水元の場合、まず髪の毛はどうでもいい。朝起きて制服を着て、時間通り学校に行く。そのサイクルを作ることが先決でした」
毎朝校門に立ち「今日はいつもより早く来たね」「時間通りに来ると、いいことがあるよ」と声をかけていると、だんだん遅刻が減ってきた。生徒たちの励みになればと、欠席・遅刻・早退のない生徒に、1カ月ごとに、月間皆勤賞を渡すことを思いついた。
「賞といっても、校長室で手作りした賞状ですよ。だからあまりうれしくないかなと思ったら、それを集め出す生徒が増えてきたんです。俺は何枚たまった、と自慢げに言いに来る生徒もいました」
着任当初「そこは校長の席ではない」と言い放った古株の先生は、そのうち栗原先生と一緒に校門に立ち、2人で向かい合って生徒を出迎えた。授業を抜け出す生徒を見つけると「授業を大事にするって約束したでしょう」と、連れ戻した。
◇ ◇
校長室の扉はいつも開け放してあり、ときどき生徒がおしゃべりをしに訪れるようになった。ある日、腰にじゃらじゃらとチェーンを下げた生徒が校長室をのぞき込んでいる。「おいで」と校長室に呼んで、だらしなく緩めているネクタイを結び直した。「ほら、こっちのほうがかっこいいよ」と言うと、照れくさそうな顔をする。
「悪ぶっていたり粋がっていたりする生徒たちも、あどけない一面がある。家庭環境や周囲の環境など、生徒だけの問題ではないのです」
経済的な事情を抱えていたり、そもそも親が子どもの教育に無関心だったりする家庭も多かった。
生徒自身は卒業の単位を取得しているのに、授業料が振り込まれず、卒業が危うい生徒がいた。何度保護者に電話してもらちがあかず、栗原先生が出向いて父親に直談判することになった。ファミリーレストランで数時間にわたり説得した末、「あんたには負けたよ」と、誓約書へサインすることに同意させた。
卒業式の日。壇上で祝辞を述べていると、体育館の入り口に仁王立ちしている男性の姿を見つけた。卒業式への誘いを「そんなところへ行けるか」と一蹴していた、あの父親だ。式が終了した後、「確かに授業料を受け取りましたよ」と声をかけると、「なかなかいい式辞だった」と、笑顔を見せてくれた。
1年が終わるころに中退率は半減し、中退防止プロジェクトは結果を出しつつあった。
就任1年目の春休みには、長靴、レインコートにホースを持って、トイレ掃除のために登校した。
「いくら取り壊される校舎とはいえ、汚れたままにしておくと生徒の心が荒んでいくから」
提案した時には渋っていた先生も大勢参加し、生徒までも加わって便器にブラシをかけ、落書きだらけの壁にペンキを塗り、壊れたドアを修繕した。
「掃除が終わった後は家庭科室で作った豚汁を、わいわいおしゃべりしながら食べました」
学校の雰囲気は明らかに良くなっていた。
2年目には地域貢献を目指し、「地域と連携するプロジェクト」を目標に掲げた。
「万引きが横行し、アルバイトすらさせてもらえない。あんな学校なくなったほうがいいと言われることもありました。地元の商店に職場体験をお願いしても、最初は断られました」
美術部が商店街のシャッターに絵を描いたことをきっかけにして、商工会の会合に出席して職場体験の趣旨を説明し、他からも協力を得て、なんとか全員の受け入れ先を確保した。
「情報科の先生がパワーポイントの使い方を指導し、職場体験で学んだこと、今後の課題、自分の夢をスライドで作るという授業をおこなってくれました」
職場体験を行った生徒の評判も良く、学校を見る目が変わりつつあった。近くの保育園児を文化祭に招いたりするなど積極的に交流を進め、地域に受け入れられるようになってきた。これら一連の活動が新聞で紹介され、生徒たちを喜ばせた。
栗原先生がどうしても実現したかったのが、生徒全員に資格を取らせることだった。
「このままだと、彼らは何の資格もないままに卒業してしまいます。ほとんどの生徒が就職を希望しますが、履歴書にひとつだけでも資格を書かせてあげたかったのです」
生徒たちの経済事情はさまざまなので、英語検定のようなお金がかかる資格は難しい。すると地元の消防署の署長から「普通救命講習」はどうかと無料で受けられる方策を提案された。
「命を大事にするという目標にもかなっているし、人の命を助ける救命講習なら地域貢献にもつながります」
生徒たちは体操着を着て、AED操作などの講習を受けた。生徒が全員揃って真剣に取り組んでいる様子は、着任時には想像できない光景だった。
講習の後、バスの中で倒れた乗客を、生徒が救助するという出来事があった。バスの中で、大声で騒いだり飲食をしたりしてかつては迷惑がられていた水元の生徒たちが起こした快挙だった。
最終年の3年目に掲げた目標は、「自分で進路を決定する」という「進路実現」。生徒に「もう学校はなくなるんだから、相談するところがなくなるんだよ。自分の進路は自分で決めていこう」と、はっぱをかけた。
すると、ここまで栗原先生と一緒にやってきた先生たちが動いた。4月1日から3月31日までの1年間の日付が入ったカレンダーが、教室一面に張り巡らされた。日付の要所要所に、「自分の思いを300字で書きましょう」「面接の練習をしましょう」と、生徒への指示が書き込んである。卒業式の日付にはクラス全員の名前が記されていた。誰一人取りこぼさずに卒業させるという、先生たちの意志の表れだった。
「着任した当初、先生たちはあきらめていました。生徒の自己肯定感も低かったけれども、一人ひとりの先生と面談すると、ほぼ全員が『できれば早く異動したい』と言いました。学校全体がマイナスに引っぱられて、どんよりとした空気が漂っていました。けれど3年間で雰囲気はすっかり変わりました」
17.6%だった2003年度中退率(年度当初の在籍者数に対する年度内の退学者数の割合)は、2004年度8.4%、2005年度0.86%と激減。2007年3月4日の閉校式には地元の人も大勢集まった。東京都教育委員会から学校表彰を受けるという、おまけまで付いた。
生徒全員の進路も決まり、栗原先生が3年間言い続けた「水元高校最後の卒業生として誇りを持ち、輝いて閉じよう」という、言葉通りの幕引きだった。
(文/柿崎明子)
○栗原卯田子/東京・中野区出身。1976年東京学芸大学大学院修了(教育学修士)後、東京都立高校の数学科教員に。八丈高校、小松川高校、本所高校などを経て、閉校が決まっていた水元高校(葛飾区)に最後の校長として着任。その後は中等教育学校を併設した小石川高校(文京区)の第20代校長として高校の最後を見届けつつ、並行して小石川中等教育学校の校長を6年間務めた。定年退職後、8年間にわたり成城中学校・高等学校(新宿区)の校長に就任し、男子伝統校を復活させた。
感想;
組織はトップの考えと行動で変わるものですね。
栗原校長先生と一緒に過ごせた生徒さん、教員たちは貴重な学びをされたと思います。
勉強は誰のためでもない、自分のためだということを自覚していったのでしょう。
一緒にトイレ掃除をする。
やはり心の乱れは外に出ますから。
5Sをしっかりしていくことは大切ですね。
私の5Sは躾の代わりに精神です。
ルールに強制的に従うのではなく、自らが守りたいと思う気持ちがあるかどうかが大切だと思います。
栗原先生は生徒さんや教員たちの心に”希望”という苗木を植えられたように思います。
その苗木をどう、各自が育てていくか、栗原先生にとっても楽しみだと思います。