・スキタイ人が先住者キシメリア人を駆遂したのも、ペルシアの一部から小アジアまで席捲したのも、またペルシア帝国のダリウス大王(在位前522~前486)の遠征を阻止したのも、その騎馬による機動力と騎射による破壊力によるものであった。
・キエフ・ルーン公国は、中世ヨーロッパに燦然と輝く大国あった。最盛期のヴォロディーミル聖公の時代には、ヨーロッパ最大の版図を誇り、彼の息子のヤロスラフ賢公は、自分の娘たちをフランス、ノルウェー、ハンガリーの王に嫁がせただけの力を持ち、「ヨーロッパの義父」というわれるほどであった。
・ロシア側の言い分はこうである。キエフ公国の滅亡後、ウクライナの国はリトアニアやポーランドの領土となり、国そのものが消滅してしまって、継承しようにも継承者がいなくなってしまった。これに対し、キエフ・ルーシ公国を構成していたモスクワ公国は断絶することなく存続して、キエフ・ルーシ公国の制度と文化を継承し、その後のロシア帝国に発展していった。これからみてもロシアがキエフ・ルーシ公国の正統な継承者であることにはいまさら議論の余地はない。
しかし、ウクライナにとっては、キエフ・ルーシ公国の正統な継承者であるかどうかは、自国が1000年前からの栄光の歴史をもつ国が、またはこれまでロシアの一地方であった単なる単なる新興国かどうかという国の格にも関係する重要な問題である。ウクライナのナショナリストの言い分はこうである。モスクワを含む当時のキエフ・ルーシ公国の東北地方は民族・言語も違い、ようやく16世紀になってフィン語に代わってスラブ語がつかわれるようになったほどであった。15世紀のモスクワは、キエフ・ルーシ公国の支配下にあった非スラブ語部族の連合体であり、キエフ・ルーシ公国の後継者とはとても言い難い。また過酷な専制中央集権のロシア・ソ連のシステムはキエフ・ルーシ公国のシステムとはまったく異なり、別系統の国である。キエフ・ルーシ公国の統治・社会・文化は、モンゴルによるキエフ破壊(1240年)後も一世紀にわたって現在の西ウクライナの地に栄えたハーリチ・ヴォルイニ公国に継承された。
・東スラヴ人の中で周辺に住んでいたのはポリャーネ氏族であった。そこに三人の兄弟、キー、シチェック、ホリフと一人の娘ルイペジがいた。キーはポリャーネ氏族の長であった。そして彼らは町を作り、長兄の名前にちなんでキエフと名づけた。これがキエフの始まりである。(六世紀後半)
なお現在キエフ市のドニエブル川沿いの公園には、この三兄弟と妹の群像が立っている。
・キエフ・ルーシ公国は東スラブ人の移住地域に建設されたが、その触媒的役割を果たしたのがハザール人と北欧からのヴァリャーダ人(ヴァイキング)であった。・・・
ハザールは三つの点で世界史に足跡を残した。第一に、九世紀のはじめ、短期間であったが国の宗教としてユダヤ教を採用したことである。・・・。
第二に、ハザールはカフカス方面から侵入してきた新興イスラム帝国との約一世紀にわたり戦い、イスラムが東からヨーロッパへ侵入するのを食い止めたことである。・・・。
第三に、ハザール人はもとより戦闘的な遊牧民であったが、ハザールの血がユーラシア平原の東西の交易路(シルクロード)と、アラブとヨーロッパ中部を結ぶ南北の交易路の交差点にあたっていることから、次第に通商を保護し、戦争よりも外交を重視する国家となっていったことである。
・ハザールがキエフ・ルーシ建国の土壌を整備したとすれば、東スラブ人の地に実際に国家を樹立したのは北欧から来たヴァリャーグ人であった。
・オレフは都をノヴゴロドからキエフに移し、キエフからノヴゴロドに至る広大な地を支配し、またビザンツ帝国からも恐れられる王国を建設した。オレフこそが実質的にキエフ・ルーシ公国の創始者といってもよいであろう。
・当時キエフ・ルーシ公国の地では昔ながらアニミズム的な多神教が支配的であったが、オリバはキリスト教に関心をもち、957年コンスタンティノーブルに赴いて洗礼を受けた。次のような逸話が残っている。オリバ(イホルの妻/息子が幼かったので後見で事実上彼女がキエフ公)がコンスタンティノーブルに着くと、ビザンツ皇帝は彼女が非常に美しく聡明であるので彼女に求婚した。オリハは、「私は異教徒です。もしあなたが私に洗礼を受けさせようとするなら自分で私に洗礼を授けてください。そうでなければ私は洗礼を受けません」と言った。そこで工程は総主教とともにオリハに洗礼を授けた。洗礼後に皇帝があらためて妻に迎えたいと言ったところ、彼女は、「私に自ら洗礼を授け、娘と呼びながら私を娶ろうとするのはいかがでしょうか。基督教にはそのような掟はありません。あなた自身知っていることではありませんか」と答えた。皇帝は、「私を見事に欺いたな。オリハよ」と感嘆し、多くの金銀、綿と種々の贈り物を与え、自分の娘と呼んで彼女を帰らせた。彼女はキエフ公の身内で最初のキリスト教徒となった。のちに聖オリハと呼ばれ、ウクライナとロシアで最初の聖人になった。
・キリスト教を国教化してみると、それは外交にも役に立つことがわかった。キエフ・ルーシ公国はキリスト教の国としてビサンツ帝国を中心とする「文明国の共同体」の一員として認められた。・・・
この国教化後、キリスト教はキエフ・ルーシ公国にみならず、後世のロシア帝国やコサックに統治のイデオロギーを授け、また民衆には精神的な拠りどころを与えるなど計りしれない大きな影響を与えることになった。・・・。ただローマ・カトリックではなくギリシャ正教を選んだことは、後世ロシアが西欧やポーランドとの政治的、文化的断絶を生むきっかけとなったもので、その歴史的意味合いは大きい。
・『モノマフ公の庭訓』
「何よりも客をうやまえ。・・・・・よきにつけ、あしきにつけ、旅をする者はすべての国々に人の噂を広めるものであるから。
人に会ったら、かならず挨拶をし、やさしい言葉をかけよ。自分の妻を愛せ、しかしその言うなりになってはならぬ」
・このモンゴルの制服によってこれまで名目上残っていたキエフ・ルーシ大公国は終焉を迎え、長いモンゴル支配の時代に入るが、個々の諸公国がこれによってただちに消滅したわけではない。ほどんとの公国はモンゴルの支配に服し税を収めるかわりにその存続を認められた。そしてもんドルの支配下では比較的平和な時代を送った。
・モンゴルは破壊や殺戮それ自体を欲したのではなく、支配と税収が目的であった。抵抗すれば徹底的に報復
しるが、服従を誓って納税すれば自治を認めた。
・14世紀後半ばにハーリチ・ヴォルイニ公国が滅亡してから、17世紀半ばにコサックがウクライナの中心勢力になるまでの約300年間、ウクライナの地にはウクライナを代表する政治権力は存在しなかった。
・キエフ・ルーシ公国の時代にはほぼ全滅にわたって単一のルーシ民族であったものが、この期間中に、ロシア、ウクライナ、ベラルーシの三民族に分化した。分化の一つの要因には、かつてのキエフ・ルーシ公国がこの時代にモスクワ大公国、ポーランド王国、リトアニア大公国と分割され、それが長期間固定されたことがある。キエフ・ルーシ公国の末期からすでに分化し始めていたと想定される言語も、この時期にロシア語、ウクライナ語、ベラルーシ語というそれぞれに独立した言語になっていった。また「ウクライナ」という地名が生まれたのも、ウクライナの歴史を通じてもっともウクライナ的といえるコサックが生まれたのもこの時期である。
・ポーランドの支配下にあったウクライナ社会の特徴は、帰属の力が強まり農民が農奴化していったことである。
・コサックの生い立ち
15世紀からウクライナやロシアの南部のステップ地帯に棲みついた者たちが、出自を問わない自治的な武装集団を作り上げた。「コサック」とはその集団や構成員のことである。
・ウクライナ史上最大の英雄はボラダン・フメリニッキーということになろう。フメリニッキーは、組織者、軍司令官、外交官としての卓越した能力をもってウクライナの歴史の中ではじめて自分たちの国家と作り上げた。しかし他方、彼がモスクワと結んだ保護条約がウクライナをロシアに併合されるきっかけをつくったとして彼をウクライナの裏切り者とする非難もある。
・ベレヤスラ協定は、ウクライナにとっては結果的には破滅の第一歩となったが、モスクワ国にとっては帝国への道を歩みだす大きな一歩になった。
・クリミア戦争(1853~56年)
これは東欧や地中海に進出しようとしたロシアを英・仏がトルコを助ける形で食い止めようとした典型的かつ大規模な帝国主義戦争であった。ロシアは18世紀末クリミア半島にセヴァストーポリ軍港を築き、そこに黒海艦隊を置いて黒海、地中海への進出の基地とした。・・・。双方合せて20万人以上の兵が動員され、同要塞をめぐる凄惨な攻防戦が数か月続いた。ロシアも奮闘したたが、結局ロシア側は撤退し、ロシアの敗北となった。
・ウクライナの民族運動が新たな段階に入るのは、日露戦争の敗北をきっかけに起こった第一次革命のときである。
・現在アメリカでは150万人、カナダでは100万人ものウクライナ系の住民がいるといわれる。
・鉄道の建設と運行には石炭と鉄が必要である。そしてウクライナ東南部には石炭と鉄の大宝庫であることがわかった。
・ウクライナで重工業が急成長すると工場労働者が必要になってくるが、その労働やは近郊の農村から集められるという単純な形にならなかった。記述のように農民は土地不足と人口増で捌け口に困っており、確かに相当数が工業地帯に流れたが、それ以上に工業労働者になったのはロシア人であった。
第一次世界大戦では、ろ紙は英仏側の「連合国」となり、オーストリアはドイツ側の「同盟国」となったため、同じウクライナ人が敵味方に分かれて戦わなければならなかった。ウクライナ人はロシア軍に350万人が、オーストリア軍には25万人が動員され、自分たちを抑圧している国のために戦った。
・四か国に分かれたウクライナ
(第一次世界大戦後)新しい体制下では、ウクライナはソ連、ポーランド、ルーマニア、チェコ・スロヴァキアの四か国に分割統治されることになった。
・スターリンは自身グルジア人ながら、ロシア中心の中央集権主義者で、かねてから民族の自治拡大に反対であった。また彼は農民を信じておらず、農民は革命の担い手というより克服すべき対象と考えていた。彼は、農民の国で民族主義の強いウクライナにとりわけ猜疑心を抱いていたようである。
・集団化はスターリンとその党の支配の永続化には寄与したかもしれないが、ウクライナにとっては惨憺たる結果をもたらした。それが1932~33年の大飢饉である。・・・
しかしモスクワの党・政府は強引に調達を進めた。等の活動家は農家から穀物を押収する法的権利を得た。党活動家の一団が都市からやって来て農家の一戸一戸を回り、床を壊すなどして穀物を探した。飢えていない者は食物を隠していると思われた。食物を隠している者は社会主義財産の窃盗として死刑とする法律が制定された。
こうして飢餓は933年春にそのピークを迎えた。飢餓はソ連の中ではウクライナと北カフカスで起きた。都市住民ではなく食糧をを生産する農民が飢え、穀物生産の少ないロシア中心部ではんく穀倉のウクライナに飢餓が起きたということはまことに異常な事態である。農民はパンがなく、ねずみ、木の皮、葉まで食べた。人肉食いの話も多く伝わっている。村全体が死に絶えたところもあった。フルシチョフはその回想録の中で、一本の列車が飢え死にした人々の死体を満杯にしてキエフ駅に入ったが、それはポルタヴァからキエフまでずっと死体を拾い上げてきたからだとの話を紹介している。
この飢餓でとれだけの餓死者が出たかは、ソ連政府が隠していたためよくわからない。ある学者は300万~600万人の間と推計している。
・この飢餓の特徴は何であろうか。第一に、これは強制的な集団化や穀物調達のために起こった人為的な飢餓であり、必然性はなかったということだ。その意味ではこれはユダヤ人に対するホロコーストにも四滴するジェノサイドだという学者もある。これはスターリンがウクライナの民族主義を弱めるために意図的にやったことだという発言や、1930年の『プラウダ』紙の『ウクライナにおける集団化はウクライナ民族主義の基盤を破壊するという特別な任務をもつと』という所説が挙げられている。第三に、この飢餓はソ連ではできるだけ隠されていたところである。公式には存在しないことになっている。
・ドイツは東部戦線において食糧と労働力の供給源としてウクライナを重視した。ドイツがソ連占領地から徴発した食糧の85%はウクライナからのものであった。またドイツは「オストアルバイター」(東方労働者)と称してソ連占領地域から人々をドイツに強制連行して過酷な労働を強いた。ドイツの警察は、ウクライナの市場や教会、映画館などで偶々そきに居合わせた若者を手当たり次第搔き集めてドイツに送った。全体で280万人といわれる旧ソ連領からのオストアルバイターのうち230万人はウクライナからの労働者であった。
・フルシチョフのもう一つの贈り物はクリミアの移管である。1954年、フメリニツキーがロシアの宗主権を認めたベレヤスラフ協定の締結300周年記念の際に、これまでロシアの一部だったクリミアが「ウクライナに対するロシア人民の偉大な兄弟愛と信頼のさらなる証し」としてウクライナ共和国に移管された。これは対ウクライナ懐柔政策であったが、他方ロシア人が人口のの70%を占めるクリミアをウクライナに帰属させることによってウクライナの中でロシアの比率を高める意図もあったとされている。
・ウクライナでソ連体制に対する不信が最初に高まったのは、チェルノブイリ原子力発電所の爆発事故によってであった。
感想;
ウクライナの国の歴史とロシアとの関係がよくわかりました。
また、ウクライナの人々がロシアの支配下に絶対入りたくない気持ちもよくわかりました。
そしてウクライナも東西、南部、クリミアではロシア人の比率も大きく違っており、とても複雑な状況だということもわかりました。
東部は石炭と鉄が産出され、そのための労働力としてロシア人が大量に入ってきたため、ロシア人の比率がさらに高くなったようです。
ロシアは、ウクライナを兄弟と呼んでいますが、これまでどれだけ弟に辛い目に遭わせたか。
ナチスによるユダヤ人大量虐殺に近いに人数が、スターリンによる人為的な飢餓で殺害させたのです。
こんな過去があると、プーチンの言うことなど、信頼できないのは当然です。
降参すると、どんな酷い目に遭うかが、過去の歴史からわかっているのでしょう。
そのため、子どもたちのために、武器を持って戦っているのです。
やはり知ることが大切だと思いました。
知らないと正しく判断するための判断材料なしで判断していることになります。
キエフは今はキーフとウクライナの発音になっています。