中学3年の春休みに、骨の発育に異常が出る晩期合併症のために入院したときの様子。
浦尻一乃さん(21歳)は、5歳のとき小児がんのひとつである神経芽腫を発症し、一度治療を終えたものの10歳で再発。大手術を乗り越えたのち、晩期合併症とつき合いながら、学生生活を送っています。再発する少し前に母親から「神経芽腫という病気で、今は寛解している」と説明を受けたそうですが、小学校に入ったころから「自分はがんだったのではないか」と感じてはいたそうです。小学校時代の闘病のことなど覚えていることを聞きました。3回シリーズでお届けする1回目です。
9歳のとき小児がんだと打ち明けられる。でも、治ったんだから大丈夫だと・・・
このまま治癒することを、家族みんなが信じていました。
神経芽腫は、交感神経節や副腎髄質にある神経の細胞にできるがんで、脳腫瘍を除いた小児期にできる固形腫瘍の中で、最も多い病気です。浦尻一乃さんは5歳のときに発症しました。
今から16年前のことですが、突然の入院後、68日間人工呼吸器を装着した状態に。ようやく人工呼吸器がはずれたとき、「あれ、この前まで歩いていたのに、今は歩けない」という気持ちになったのは記憶に残っているのこと。 「抗がん剤治療が始まったあと呼吸が苦しくなって、人工呼吸器をつけることになりました。腫瘍の影響で大量にたまった腹水や胸水が、胃や肺を圧迫していたんだそうです。
68日後に人工呼吸器をはずせたときは、これで自由に動けると喜んだのに、長期に人工呼吸器をつけた状態で寝ていた影響で筋力が低下してしまい、歩けなくなっていたんです。 実は私、神経芽腫を発症するまではかけっこが得意で、走るのが大好きでした。
それが自分の足で立つことすらできなくなっていて、とても悲しかったことを覚えています」(一乃さん)
初発治療を終えて無事退院し、小学校に入学した一乃さん。お母さんやまわりの人たちのサポートを受けながら、小学校生活を楽しく送っていました。でも、定期的な検査は必要で、晩期合併症を発症するリスクもあります。
一乃さんの両親は、一乃さん自身に病気のことを理解してもらう必要があると考えました。また、一乃さんは当時、すでにがんを“嫌なもの”と思ってしまっていたとのことで、自己肯定感を築くためにも、自分の病気のことを正しく理解することが大事だと考え、3年生(9歳)のとき、病気が神経芽腫であること、小児がんであることを打ち明けました。
「神経芽腫という病名までは知りませんでしたが、私が定期的に病院に行っていたりする病気は、小児がんなんだろうな…とは感じていました。当時、小児がんの子どもを扱ったドラマを見たことがあり、髪の毛が抜けるとか、治療法とか、思い当たることがたくさんあったからです。
両親から病名を聞いた直後は落ち込みましたが、治療は終わっていたので、『治ったんだからもう大丈夫』と考えていました」(一乃さん)
自分の気持ちや意見を言葉にして伝える大切さは、病院で学んだ
再発治療中に外泊した11歳の一乃さん。外出時はウィッグをつけていました。
しかし、一乃さんが10歳のとき、再発が確認されました。
母親のみゆきさんは、当時の一乃さんの様子で強く心に残っていることがあると言います。
再発の告知を受けたあと、「神様は不公平だよ。1回も病気にならない人もいるのに、なんでまた私が…」と一乃さんが話していたというのです。
「その言葉は覚えていません。ただ、当時はもう『がん』のことをわりとよく理解していて、がんが再発したんだから死ぬんだ…と思っていました。ちょっとやけになっていて、両親や看護師さんなどに反抗的な態度を取っていました」(一乃さん) 再発した腫瘍は抗がん剤が効かず、手術で腫瘍を切除するしか選択肢がない状態でした。セカンドオピニオンも受け、両親は手術を決断しますが、一乃さんは手術を激しく嫌がりました。
「それまでの入院治療の経験から、麻酔で強制的に眠らされるのがほんとうに嫌でした。このまま目を覚ますことができないんじゃないか…という怖さがあったんです。また、子どもが全身麻酔をするときは、顔にマスクを当てて、甘いにおいのするガスの麻酔を吸うのですが、ゴムのにおいと甘いにおいが混ざったにおいをかぐことで、私の場合は気持ち悪くなってしまい、麻酔から覚めたときすごく頭が痛くなりました。それもとても嫌だったんです。 それに、両親や先生方が、手術をすれば治るのになんでやらないのかと、手術ありきで進めようとすることに、納得できない気持ちが強くありました。
『どうせ死ぬのに、どうして嫌な麻酔や手術をしなくちゃならないの』みたいな感じで、かなり反抗していた記憶があります。 でも、どんなに拒否しても手術するしかないこともわかってはいたので、最後は腹をくくった感じです」(一乃さん)
「手術は受けるから、その代わり私の希望通りの方法でして」と、両親や医師たちに意見を主張したという一乃さん。10歳の女の子が大人を相手に、そんなにはっきりと自分の意見を言えたことに驚きます。 「母に言わせると、病気をする前からわりとはっきりものをいう子どもだったそうなので、性格もあるのかもしれませんが、私が入院していた公立の子ども病院の方針も大きく影響していると思います。
長期入院する子どもにとって病院は家であり学校でもあるから、社会に戻るためのケアもしっかり行う必要があるという方針でした。 看護師さんたちはただ優しいだけではなく、悪いことをしたらしかられるし、自分の意見や考えは、きちんと言葉にしないと相手に伝わらないことなども教えてくれました。また、主治医の先生は毎日の検査結果を見せてくれ、説明をしながら私の意思を尊重してくれました。 そんな方針の病院だから、手術に際しても私の意見をきちんと受け止めてくれたのだと思います」(一乃さん)
学校の昼休みに毎日服薬。薬のことを聞かれるたびクラスメートとの違いを痛感
8時間に及ぶ大手術は成功。病棟の病室に戻ったあとは、同年代の子たちとガールズトークで盛り上がったといいます。
「抗がん剤治療のクールごとに、外泊の許可が出たりするんです。外泊のときはこんなおしゃれをしよう、こんなメイクをしてみようなど、女の子同士でいろいろな話をしたことが楽しかったです。外泊はおしゃれをする唯一の機会だから、外に出たときはみんな思いっきりおしゃれをするんです」(一乃さん) わが子が長期入院をしているとき、付き添いの親同士で情報交換をすることがよくありますが、子ども同士でも情報交換をしているそうです。
「退院して学校生活に戻れたとき、髪の毛がまだ生えていないから、帽子をかぶって通学していたのですが、普通に帽子をかぶるだけだと髪の毛がないのがバレちゃうんです。入院中に同室の子が、ウィッグを帽子の周囲に付けておくと、髪の毛が生えているように見えるよって教えてくれました。早速母が作ってくれ、退院後は、それをかぶって通学しました」(一乃さん)
学校生活に戻ってからの苦労は、ほかにもいろいろあったそうです。
「再発治療の7カ月に及ぶ入院生活で筋力が衰えてしまい、学校の階段を上るだけでも息が上がってしまうので、クラスメートの行動についていけないのがつらかったです。 また、1日3回薬を飲まなければならず、昼の分は学校の昼休みに飲んでいました。昼に飲む薬は1種類でしたが、とても飲みにくいうえ、小中学校では給食~昼休みはとにかく時間がなく、加えて昼食後には必ずトイレに行きたくなるので、食べる量を少なくするなどの工夫をして、薬を飲む時間を確保していました。
机の上に薬を出すとクラスの子が寄ってきて、『何の薬? なんで薬を飲むの? 』って聞いてくるのも、自分はみんなと違うんだと思い知らされて悲しかったです。 薬のことは中学、高校、大学と常に聞かれてきましたが、年齢が上がるにつれ、さほど興味を持たれなくなりました。でも今は医療系の大学に通っているので、医療的関心から話が広がったりしています」(一乃さん)
治療の影響で、腎臓や腸などに障害が残り、排せつのコントロールが難しくなっている一乃さん。通常の学校生活では、トイレに行きやすい席に座らせてもらえるよう配慮をお願いしたそうですが、長距離の移動がある校外学習は、母親の車で送迎してもらい、現地集合現地解散する方法でしか参加できませんでした。
「遠足で山登りに行ったときは、みんながお弁当を食べる時間に合わせて合流し、帰りはまた別行動でした。昼食だけでも参加できたことはうれしかったけれど、みんなと一緒に行動できないのはやっぱり悲しかったです」(一乃さん)
一乃さんは12歳のとき、神経芽腫の症状や検査に異常がない寛解と判断されました。しかし、骨に晩期合併症が現れるなど、病気と向き合っていく生活が続いています。 お話・写真提供/浦尻一乃さん 取材・文/東裕美、たまひよONLINE編集部
小児がんは治療が終わったら病気と決別できるものではなく、病気とのつき合いは大人になっても続くことが多いです。
一乃さんは腎臓や腸などに障害が残り、骨への晩期合併症も抱えながらも、明るく前向きに学生生活を送っています。
●この記事は個人の体験を取材し、編集したものです。
●記事の内容は記事執筆当時の情報であり、現在と異なる場合があります。
神経芽腫の会 公式HP https://nbj-net.jimdofree.com/ ※2月15日は「国際小児がんデー」です。
小児がん治療支援チャリティーライブ「LIVE EMPOWER CHILDREN」が行われます。 LIVE EMPOWER CHILDREN 公式HP https://empower-children.jp/lec/
監修者 富澤大輔 先生 PROFILE:国立成育医療研究センター小児がんセンター血液腫瘍科診療部長。東京医科歯科大学医学部卒業。医学博士。専門分野は小児血液・腫瘍学、とくに小児白血病。日本小児科学会専門医、日本小児血液・がん学会専門医、日本血液学会専門医、日本造血・免疫細胞療法学会認定医、日本がん治療認定機構がん治療認定医。
感想;
大学病院の小児病棟に行くと、固形がんや血液のがんで多くの子どもたちが入院しています。
学校にもいけない、勉強もできない、遊びもできない。
そんな子どもたちと一緒に遊ぶボランティアがあります。
よく50歳くらいでがんになると「なぜがんになったのか?」と多くの人が思います。
がんと闘っていた子どもたちを遊んだ体験から、「なぜ、これまでがんにならなかったんだろう? 子どもの時にがんにならなかったんだろう?」と思いました。
私も38歳の時に胃がんになり胃を2/3切除しました。
小児がんは昔は100%亡くなっていました。
聖路加国際病院の小児科の細谷亮太先生は、なす術もなく悲嘆にくれていました。
そんなとき、小児がんを薬物療法で延命することが米国で行われていることを知り、米国で学ばれ帰国して子どもたちの命を救うことに全力を費やされました。
その結果、7~8割の子どもたちの命を助けることができるようになりましたが、2~3割が亡くなっています。
またこの記事にあるように、治ってからもいろいろ心身で大変なことがあるので、細谷先生は3人の先生で、子どもたちのメンタルケアもされて来られました。
その活動を伊勢監督がずーっと追いつづけたものが映画になっています。
神さまは、不公平だと思います。
あるとき、神様は一人ひとりに使命を与えてこの世に送り出したと思うようになりました。
確かに、大変な使命を与えられた人は「なぜこんな大変な使命を!」と思います。
でも、視点を変えると、「この大変な使命をできるのは私だと神様は見て下さっている」と思うこともできます。
よっくんは11歳で亡くなりました。
でも多くのステキな詩を残しています。
その詩に励まされた人も多いと思います。
よっくんは、しっかりと神様から与えられた使命を果たしたのです。
そして、よっくんと遊んだ私は、よっくんの詩を一人でも多くの人に知って欲しいと思って、機会を見つけては紹介しています。
よっくんは亡くなりましたが、よっくんは私の心の中で生き続けています。
これも、神様が私に与えた使命の一つだと思っています。