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余命3日から始まった壮絶な闘病 元宝塚トップスター安奈淳さんが感じた“生きる力” ”3回自殺未遂も体験された”

2023-01-11 04:30:22 | 社会
https://news.yahoo.co.jp/articles/8cb2bc2da6ea9f0a8db506c4ac7276cfcf578a07 1/10(火) 12:09 Hint-Pot

「ベルばら4強」と呼ばれた安奈淳さんは1978年7月、13年間在籍した宝塚歌劇団を退団し、新たな道を歩み始めました。活躍の場を移してからも順調な活動を続けていましたが、2000年にはまさかの病魔に襲われます。宝塚歌劇団の世界をOGたちの視点からクローズアップする「Spirit of タカラヅカ」。今回は安奈淳さんインタビューの最終回です。「余命3日」の宣告から始まった壮絶な闘病生活や復帰に向けた周囲の温かな支え、現在の人生観などについて、宝塚をこよなく愛するフリーアナウンサーの竹山マユミさんが伺いました。

 ◇ ◇ ◇

「1時間遅かったら死んでいた」 当時はまだ“謎の病気”だった膠原病
竹山マユミさん(以下、竹山):安奈さんは宝塚時代も退団後も、ご家族の面倒を見ながら舞台への出演を続けていました。ですが2000年には、ご自身も病気をされてしまいます。

安奈淳さん(以下、安奈):膠原病です。遺伝ではないと思うのですが、やはり母親に体質がすごく似ているんですよ。妹は97歳で亡くなった父と体質が似ていて、丈夫なんです。私は血管の細さなど、何から何まで母親に似ている。当時、母親の病気はよく分からない難病でしたが、今思えば私と同じ病気だったのでしょう。

 私が病気になった時も、膠原病はまだ“謎の病気”でした。今でこそみんな知っていますが、昔は“高い原っぱの山みたいなもの(高原)”を思い浮かべるくらい。でも今は、病院に膠原病科もありますからね。

竹山:何の病気かが分かるまで、さらにその治療法が確立されるまでの過渡期を、ずっと過ごされたのですね。

安奈:20年くらい前でしたから、当時はもう何も分かりません。どうしてこうなるのかも分からないと、お医者様たちがチームを組んでいろいろ話し合って、検査、検査の毎日。最初に病院に運び込まれた時は、「1時間遅かったら死んでいた」という感じだったんです。それから何日間かは、意識不明みたいになってしまって……。

竹山:そこに至るまでにも、かなり苦しい時間がおありでしたよね。

安奈:今考えると私も悪いのですが、それまで病院に行ったことがなかったんですよ。具合は悪いけれど、放っておけば何とかなるかなと。だから、とうとう何かおかしいぞと思った時も病院には行かず、漢方を試したり、整体に行ったり。でもどんどん具合が悪くなり、最後は呼吸もできなくなってきて、これはダメだと救急車を呼びました。

 熱海の整体の先生のところから、聖路加国際病院(東京都中央区)に運ばれました。運が良かったのは、数年前に聖路加の日野原重明先生(のちの同病院名誉院長)がホスピスのためのコンサートをおやりになった時に上級生から誘われて私も出演したおかげで、先生と知り合いになっていたんです。そこで、「何かあったら電話しなさい」と名刺をいただいていました。

 それで、苦しみながらまず先生に電話をしたら「すぐいらっしゃい」とおっしゃってくれました。電話をしたのは正午頃だったでしょうか。でも、東名高速がものすごく混んでいて、到着が午後4時半くらいなってしまって。

竹山:壮絶なお話ですね。

安奈:病院に運ばれてベッドに寝かされた時は、体中に水が溜まってブクブクでした。肺から心臓まで水が溜まっていたようで、いわゆる溺れているような状態。あと1時間遅かったら、その水が全部上がってきて窒息し、溺死状態になっていたそうです。

 すぐに水を抜く作業が始まりました。ベッドの横に大きなビーカーが置かれ、そこに水が溜まっていくのを見て「あれは何でしょうか」と尋ねたら、看護師さんが「尿です」と。「そうですか」と答えた辺りから意識がなくなり、何日間か意識不明になっていました。

 一度に(水を)抜くと心臓麻痺を起こすということで、10日間くらいかけて抜いたそうです。運ばれた時に60何キロほどあった体重も、水を抜いたら最後は35キロくらいになっていました。元々体重は46、7キロだったんですけどね。

 運ばれる前は、のどばかり乾いて物が食べられないから、水分ばかり摂っていました。でもお小水が出ない。それが全部体に溜まっていったようで、足から顔からブクブクになっちゃって……。それでも最初の頃は舞台に出ていたんです。先生からは「どうしてこんな状態になるまで……」と言われましたけど。

竹山:ご自身には、体調の悪さを押し殺して舞台に出ていらっしゃった自覚があったのですか。

安奈:何というか「休んじゃ悪いかな」みたいな感じで。今では考えられないですけど、休むと人に迷惑をかけるという思いだけでしたね。

竹山:芸事に関して“穴を開ける”ことはしないという、プロ意識だったのでしょうね。

安奈:本当はちょっと具合が悪かったら病院に行くじゃないですか。でも宝塚での積み重ねで、集団の中で自分が休むとえらいことになるというのを何年も見てきたんです。だから、「自分一人のために迷惑かけちゃいけない」という固定観念で凝り固まっていましたね。

告げられた余命3日 周囲がお別れの会を準備する中で奇跡の復活

竹山:代役さんもいらっしゃるでしょうが、やはりトップスターの代役になると簡単ではないですよね。セリフも出番も多いですし……。

安奈:宝塚時代に「虞美人」の項羽役をやった時、東京宝塚劇場での公演中(1974年7月)に、ものもらいをひどくしたような「眼瞼膿瘍」という病気になったんです。朝起きたら腫れ上がっていて、病院行ったら「切ります」と。「今日は公演があるんですけど」と言ったら「あなた、何言っているんですか」と返されて、切開したんです。

 膿を出してから眼帯をつけて楽屋に行ったら、「どうしたの」と言われて。「こんなんです」と眼帯を取ったら、大変驚かれました。そこで代役の方に「やってくれる?」と言ったら「できません」と泣かれてしまって……。仕方がないから眼帯を黒にしてもらって、“独眼竜”みたいにやりました。

竹山:それで舞台はできたのですか。

安奈:私は目が悪くてコンタクトレンズを入れているんです。舞台では劉邦(瀬戸内美八、52期)が長刀を持ち、項羽の私は青龍刀を持って、2人でにらみ合いながら降りてきてチャンバラをやるシーンがありました。私は片目が眼帯でもう片方はコンタクトですから、どうやって降りてこようかと。だって足が見えないんですよ。どうやったのか今でも覚えていません。

竹山:責任感や使命感といったものが強かったのでしょうね。

安奈:なせばなる、じゃないけど、例えばすごく難しい振付がついても、人間が振り付けることだからできないはずがないでしょう。そういう“やればできる”みたいなものが、みんなの中にあるのでしょうね。

竹山:余命宣告されていたというのは本当ですか。

安奈:はい。私の場合、最初は「今晩が峠、余命3日」でしたが、未だに生きています。

竹山:それはご自身がお聞きになったのですか。

安奈:周りの方から聞きました。だから「お別れの会を準備された方がいいですよ」って。みんな「どうしよう」って慌てて、聖路加病院の教会でお別れの会をすることになったらしいんですけど、洗礼を受けていないから断られて。それでまた皆さんが「どうしよう」と右往左往しているうちに、私が生き返っちゃったという……。その後も2~3回くらい、ちょっと危ない時期があったのですが、その時についてはあまり覚えていないですね。

竹山:お医者様も毎回びっくりですね。「この方は奇跡の人だ」と思っていらっしゃったはずです。

安奈:何しろ、良い研究材料になったことは間違いないです。初めて使うお薬もありましたからね。1粒何千円、1万円ぐらいするような。それがちゃんと私に合ったんですよ。いろいろなお薬を試してもらったおかげです。

情緒不安定な時期を支えてくれた仲間とマージャン 真相を聞いて流した涙

竹山:病気の度に克服なさって、また舞台に復帰するという精神力の源は何なのでしょうか。

安奈:先にお話しした通り、私には努力しようとか、何とか頑張ろうというような気持ちがないんですよ。私の場合、歌うと楽しいし幸せ。これが好きなんだなって。好きなことをやっているという、自分の幸福感みたいものがどこかにあるのでしょう。だから、「誰かのために頑張らなくちゃ」ではなく、根本を突き詰めれば「自分が好きで、これをやりたいから」ということなんでしょうね。

 闘病中にまったく声が出なくなった時もありました。声が出なくなったら歌うこともできない。もう引退かと思ったけれど、他に何もできないから、どうやって生きていけばいいんだろう……そんな風に思うことがありました。でも1年半くらい闘病して、それでもやることがないからもうちょっと頑張ってみようと、ボイストレーニングに通って発声練習などを始めました。

竹山:もう声が出ないかもしれない、体調が戻らないかもしれないと思った時は、どうやって乗り越えられたのですか。

安奈:体調が戻らないかもしれないと思ったことはないんですよ。いつか何とかなる。だから、悪くなった時も「いつか治る」と思ってしまうわけで。その辺りが能天気なんです。これで死ぬとは思わない。いつかは死ぬ時が来ますけど、あまり悲観はしていません。

竹山:そういう考え方をされると、周りで支えていらっしゃる方々にとっても救いですね。

安奈:退院してからも寝たきり。それでも時々病院に行かなきゃいけない。そこで車に乗せてくれる人や、食事を作ってくれる人がいるわけですよ。それで生き延びていました。

 でも薬の副作用で自殺願望がひどくなりましたね。3回ほど未遂を起こしています。思考回路がズタズタになり、頭の中に文字とか数字とかが洗濯機の中にいるみたいに回っていて10日間くらい眠れない……という状態が続きました。

 何しろ物を考えられなくなって、「1+1」すら分からない。幻聴や幻覚がひどくなってしまい、それで「死ななくちゃいけない」という強迫観念みたいなものもありました。何回か入退院を繰り返して、そうしたことも乗り越えてきました。

竹山:自分の意識が戻ってくれば、当然そんなことは考えないわけですよね。意識がちょっと離れていると、何に支配されているのかもう分からないくらいなのでしょう。

安奈:私はすごくマージャンが好きなんです。友達が道具を持ってきて、気を紛らわすためにやっても、牌を並べた後に「これ、どうしたらいいの」という状態。でも、分からなくなっていることをみんなに悟られたくないから、そのままやる。

 マージャンは4人でやるので、他の3人は実のところ、私がそうなっていることを知っていたんです。知っていながらやってくれた。「知ってたよ」と後で聞いた時、もうボロボロ泣いてしまって。そうやって支えてくれた人がいたから、今の私がある。人間、一人じゃ生きられないなとつくづく思いますね。

竹山:コロナ禍になって、先行きに不安を感じる方もたくさんいらっしゃったと思います。そんな方々に、こんな風に考えたらやっていけるんじゃないかというものがあれば、ぜひ教えていただけますか。

安奈:明けない夜はないんですよ。いつかは夜が明けて朝が来る、と私は思います。私が宝塚を辞める時にやった役は「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラでした。その役は最後に「明日になれば」という曲を歌うんです。明日になれば日は昇り、月は沈む。いつか絶対に良い方になっていく。人生って丸い輪っかになっていて、最後はちゃんと辻褄が合うようにできているのですね。

 人間っていろいろ悪い方に考えたりして、そちらに引っ張られることが多いのですが、なるべくそうではない明るい方に自分を持っていく、持っていこうとする努力は絶対に必要です。負の方に行っちゃいそうになっても、そこから自分を引き離し、「自分は良い方に行くんだ」という強い気持ちをいつも持っていないといけないと思います。コロナだっていつかは明ける。だから頑張らなくちゃ、と思いますけどね。

竹山:いつも向上していくための何かを持ち続けることも、若々しくて生き生きとするコツですね。

安奈:せっかく生きているからね。私なんか何回か死にかけて、その度に生かされているんだから、もったいないなと思います。今の新しい音楽にはついていけないけど、自分をもっと向上させたいという気持ちをいつもどこかに持っていますから。生きている限り、1ミリでも前に進みたいですね。

竹山:これからの夢や目標があれば、ぜひお聞かせください。

安奈:夢も目標もないんですけども(笑)。できれば元気で長く歌っていたいなとは思っています。もうみんなに「やめた方がいいんじゃない」と陰で言われないように。

 みんななかなか言えないじゃないですか、そういう話って。だから私は周りに「そうなったら、はっきり言ってちょうだい」と言っているんです。そう言われるようになるまでには、フェードアウトしたいと思っています。

竹山:まだまだこれからも、素敵な歌声を聞かせていただきたいと思います。今回はありがとうございました。

<終わり>

◇安奈淳(あんな・じゅん)
大阪府出身。7月29日生まれ。愛称は「オトミ」「ミキ」。1965年に51期生として宝塚歌劇団に入団し、花組公演「われら花を愛す/エスカイヤ・ガールス」で初舞台。雪組に配属され、1966年に組替えで星組へ。1970年から鳳蘭とともに星組のダブルトップスターとして活躍し、1974年に組替えで花組でもトップスターに。1975年には「ベルサイユのばら」のオスカル役で人気を博す。1978年に「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラ役で退団。退団後は「屋根の上のバイオリン弾き」「サウンド・オブ・ミュージック」「レ・ミゼラブル」などの舞台を中心に活躍し、2012年に第33回松尾芸能賞・優秀賞を受賞。2014年には「宝塚歌劇の殿堂」の最初の100人の1人として殿堂入りした。現在は歌手としてリサイタルやコンサートを中心に活動し、2019年に芸能生活55周年記念コンサート、2021年にオリジナルリサイタル「Bouquet d'espoir」を開催した他、同年に初の自身のビジュアル本「70過ぎたら生き方もファッションもシンプルなほど輝けると知った」(主婦の友社刊)を上梓。2022年は「Anniversary Concert 75th」(銀座ヤマハホール)、「Anniversary Lunch Show」(宝塚ホテル)を開催。

感想
「今考えると私も悪いのですが、それまで病院に行ったことがなかったんですよ。具合は悪いけれど、放っておけば何とかなるかなと。だから、とうとう何かおかしいぞと思った時も病院には行かず、漢方を試したり、整体に行ったり。」

民間療法を頼りがちです。
母親ががんで苦しんだので、民間療法を頼って手遅れになった有名人も何人かおられます。
おかしいなと思うとやはり早めに病院に行くことが必要ですね。
ただ、どの病院に行くかですね。

会社の先輩の奥さんが医者に行ったのですが、適切な診断と治療がされずに亡くなられたこともありました。
尿毒症を起していたのですが、その医者は気づきませんでした。
直ぐに透析すれば助かりました。

私が一週間研修になりました。
妻は実家に帰るか迷った末に実家に帰りました。
そうすると母が寝ていました。
「どうしたの?」
「疲れたみたい」
「病院に行ったの?」
「近くの**医院に行ったら『疲れです。お薬上げますから、寝ていてください』と言われた」
妻は様子がおかしいと思い、翌朝直ぐに母を病院に連れて行きました。
車で帰っていました(実家まで約2~3時間)。
妻はどこの病院に連れて行くか迷ったそうです。
循環器系だと死につながるリスクがあるからと考え、県で一番の循環器センターに連れて行きました。
そこの病院には東京女子医大(循環器系で有名)から先生が来ていました。

「すぐに入院してください」
「入院だと荷物もあるので一度帰ってからまた来ます」
「ご本人はこのまま入院してください」

体重計に義母が乗った時に倒れました。
直ぐに集中治療室に運ばれました。
心筋梗塞だったのです。
高齢の心筋梗塞は、なんとなくだるいと言う症状の場合があるのですが、近くの町医者は分からなかったようです。
医師から「どこまで心筋梗塞が進むかわかりません。ご家族をお呼び下さい」と言われました。

直ぐに集中治療室で血管を拡張する薬が投与されて24時間体制です。
心臓の冠動脈半分が壊死しましたが命を取り留めました。
それから、ワーファリン服用で血が凝固するのを防ぎながら、また発作が起きたときの血管拡張剤を常に持つようにしました。

義母が60歳の時でした。
それから無理をせずに、100歳まで生きました。
義兄はまだその時は結婚していなくて、その後結婚し子ども、その子どもと、義母はひ孫まで見ることができました。

私の研修がなかったら
妻が実家に帰らなかったら
車で帰らなかったら(直ぐに連れていけた)
循環器センターに連れて行かなかったら
その病院が県で一番の循環器センターでなかったら

亡くなっていたでしょう。
運も左右しますが、やはりおかしなとき、そのおかしさで行く病院を選ぶことが命を左右するようです。

ボランティア友だちの友だちがおかしいと思って、これは大きな病院の方が良いとはんだんして近くの大学病院に行ったら、直ぐにステロイドの大量投与で一命を取り留めました。

石田純一さんはコロナに感染しても、保健所が直ぐに対応できませんでした。
そこで知り合いの順天堂の医師に直接電話したら「直ぐに来なさい」と言われたそうです。
当時唯一効果が期待されたアビガンの大量投与をしたら回復されました。
意識がなくなりかけていたほど重症だったそうです。
一方、岡江久美子さんはコロナになり、保健所が同じように直ぐに対応できず、乳がんを診てもらった医師に連絡したら様子をみましょうとのことでした。
急激に悪化して救急車で運ばれましたが助かりませんでした。


「薬の副作用で自殺願望がひどくなりましたね。3回ほど未遂を起こしています。思考回路がズタズタになり、頭の中に文字とか数字とかが洗濯機の中にいるみたいに回っていて10日間くらい眠れない……という状態が続きました。」
自分が自分で亡くなり、正常な判断ができなくなっているのです。
正常な判断ができないから、自殺をしたいんだと思うことが必要なのでしょう。
正常になれば必ず良くなると普段から思っていることが大切なのでしょう。
ギリギリのところで自殺を踏み止まることが。
「明けない夜はないんですよ。いつかは夜が明けて朝が来る、と私は思います。」
それを信じることなのでしょう。

安奈淳さんが勇気をもって、ご自分の大変な体験をお話して下さっていることが、どこかできっと誰かの命を助けることになると思います。
いつ誰にどこで起きるかわかりません。
その時に先達の体験が、蘇って来て、自分の助けになるかもしれません。