・不幸はつづきました。四十九日の(夫の)法事がおわったとき、今度は油屋の家(嫁ぎ先)が、まる焼けになってしまったのです。
岩子は、そのとき、おああさんといっしょに喜多方から二キロほどはなれた岩月村の親類の家にとまりに行っていました。
そこへ火事のしらせです。いそいでかえってみると、家は焼けくずれて、もえつきた黒い柱のかたわれが、くすぶっているだけでした。
おばあさんはぶじでしたが、火のまわりはやく、みんな灰になってしまいました。
火事のあと、おかあさんは、岩子と伴次を連れて、油屋の家を出ることになったのです。
「おまえは若いから、油屋の後家でくらすより、新しい道をえらんだほうが、身のためになるよ」
と、いうのが、油屋のおばあさんの意見でした。おかあさんは、それにしたがいました。
・山内春瑠は、オランダの医学を学ぶとともに、東洋の学問にもくわしく、藩主の侍医をしていました。おだやかな、人情味のゆたかな医者でした。診療にくる町の人には、だれからとなくしんせつにみてやり、病気ばかりか生活のめんどうまでみるのでした。
岩子は、おじさんの診療の手つだいをするようになりました。
春瑠のところに、病気の女の人がきました。
ひととおりみたあと、春瑠はくすりを調合してわたすとき、手文庫からお金をとりだして紙につつみ、いっしょに女の人にあたえました。
「これはくすりだ。こっちは特別なくすり。はたらきすぎて、つかれている。すこし休みなされ。」
女の人は、おしいただき、なんどもれをのべてさりました。
岩子は、そのうしろすがたを追いながら、
「世の中には、まずしい人、病気で苦しんでいる人が多いですね」
と、つぶやきました。春瑠はうなずいて、
「生まれつきからだがよわかったり、災難にあってどうしようもな人は、こちらから手をかしてあげねばならない。そして自分の力で生きていくようにしてあげるのだ。」
おじさんのかんがえは、若い岩子の心にしみとおりました。
おじさんの思いやりのあるふるまいは、岩子にあこがれをいだかせました。
おじさんは、いろいろな本の話もしましたが、
「本はいくら読んでも、それが実践にうつされなければ、なんにもならない。たいせつなのは、よく判断して行動することだ。」
と、いいました。
・墓まいりのあと、岩子は、和尚にあいました。
「わたしは、おさない日、父に死にわかれ、こんどは、夫、母、さらには心のよりどころにしていた、おじにも死なれて、ほとほと生きることにつかれました。もうなにもしたくありません。世間をはなれてしずかに余生をすごし、できるなら、和尚さまにみちびかれて、アマニでもなりたい気持ちです。」
すると、和尚は、大きな目をむいて、岩子をにらみつけ、大きな声で、
「かーっ、なにをいうか!」
と、どなりました。
「おまえが尼になったとて、お釈迦さまは、ちっともよろこばれはしない。いや、おまえには尼になる資格はありはせん。世の中がいやだから、尼になりたい。尼とはそんなものではないぞ。
おまえは、自分が世界一ふしあわせだと思うているが、おまえ以上にふしあわせなものが会津に五万とおる。
いまえのどこが不幸じゃ。五体はそろうている。目は見える、耳は聞こえる、手足はうごく、食べられる、呼吸もできる。
それだけのものがそろうて、なにが不幸じゃ。
生者必滅、会者定離、生きているものは死に、会うものはわかれる。これはこの世の道理で、おまえだけがとくべつに経験することではない。
おまえは、夫や母をうしなったが、子どもたちがいる。弟もいる。ひとりぼっちなどではない。――おまえには、なすべきことが、あるではないか。」
岩子は、和尚の顔を、きっと見ました。
「わたしに、なすべきことがありますか。」
「おまのこれからのいっさいを、もっと不幸な者にささげるのだ、情けのすべてをかけなさい。
おまえは、今までもそうやってきた。
他人のよろこびを、自分のよろこびとすることのできる人だ。
人につくしなさい、それがおまえの道、そして仏の道。それよりほかに、おまえは行くところ、なすところはない。」
和尚のさとしを、岩子をじっと聞いていました。
他人のよろこびを、自分のよろこびとする――おまえにはそれができる。
和尚さまは、そういわれたけれこ、ほんとうにできるのだろうか。
岩子は、小田村の自分の家にかえってきました。和尚のいったことを、かみしめ、かみしめ、考えました。
すこし気持ちが明るくなりました。
・会津を敵だと思っていた明治政府が、表彰したのです、。岩子の行動(会津の戦いで両軍の負傷兵を看護)に感心したのでしょう。
・岩子は、東京養育院の院長、渋沢栄一から、子どものせわをしてもらいたいと、たのまれました。
・東京のちかくの川越地方はさつまいもの特産地、おいしいいもが、たくさんにとれます。
それに、やきいも屋では頭としりを切りおとして、すてます。その切れはしだけでも、たいへんな量になるでしょう。
岩子はすぐに、くずいもで、飴をつくり、飴粕で、飴とパンをつくりました。
「うまい、だいじょうぶです」
試食したみんなは、たいこばんをおしました。
蒸留夫人たちにも食べてもらいました、みな、ほめてくれます。戦争で物資のたりないおり、これは大きな食料補給になります。
・宮中で、なみいる女官の前、会津弁で説明しながら、岩子は、今、水飴をつくっています。
まるで夢みたいです。でも、岩子の水飴づくりをおおぜいの女官たちが見つめているのでした。
水飴 つくろ とおろとろ
水飴 ひかる、とうろとろ
水飴 あまい、とうろとろ
おさない日の思いでがだぶって、岩子は、歌いだしそうになりました。
・なくなる二日前、歌をよみました。
老いの身の ながからざりし 命をも たすけたまえる 慈悲のふかさよ
明治i三十年(1897年)四月十九日、瓜生岩子はなくなりまいた、六十九才でした。
・岩子は、熱塩の示現寺の瓜生家の墓地にしずまりました。質素な墓石に、財界の元老、渋沢栄一の筆による「瓜生岩子之墓」の六文字が記されています。
・銅像の碑文は、実践女子大を創設した下田歌子が、記したものです。
「岩子さんは、ほんとうに仏さまの生まれかわりです。会津の山のなかに生まれ、不幸な未亡人となったのに、その功績はかぞえることができないほどです。学校を建て、仏教をひろめ、いなかの悪い風習をなくし、育児会をおこし、病院をつくり、貧民をたすけ、兵士をなぐさめ、戦死者の遺族をいたわり、あるいは廃物利用をくふうして社会に益をもたらすなど、一生すべて世を正し、善を積むはたらきでした。」
感想;
瓜生岩子さんのことは知りませんでした。
瓜生岩子さんの人生をみていると、できないと諦めるよりも、自分の周りを見て、今自分が出来ること、それも周りの困っている人のために自分が出来ることをされてこられたようです。
会津戦争で会津は悲惨な状況になり、食べ物にも困りました。
棄てられるくず米をもらってきて水飴をつくって、体が弱った人たちに与えました。
子どもの教育のために県の許可をもらうために何度も何度も断られても、諦めずに訴え、そして許可を得ていました。それが人を動かしました。
瓜生岩子さんの活動は皇后陛下の知るところになり、宮中に招かれています。
まなざしを何に向けているかなのでしょう。
福島県民でも、瓜生岩子さんのことを知らない人が多かったです。
埼玉県の三大偉人を埼玉県民が知らない人が多いので、案外郷土の偉人は知らないのかもしれません。
会津のことわざ「砂糖樽三本の暮らし」
(この本に紹介されていました。黒砂糖・赤砂糖・白砂糖の三本)geminiの回答;
「砂糖樽三本の暮らし」は、会津地方で古くから言い伝えられていることわざです。江戸時代、会津藩は豊かな米どころとして知られ、年貢として大量の米を幕府に納めていました。その代わりに、幕府から砂糖などの貴重な物資が送られてきたのです。
このことわざは、そのような会津藩の繁栄の様子を表現したものです。「砂糖樽三本」という具体的な数字は、単なる量を表すだけでなく、会津藩の経済力や文化的な豊かさをも象徴していると言えるでしょう。
しかし、このことわざには、もう一つの意味合いも込められています。それは、「たとえ裕福であっても、驕らずに質素倹約を心がけなければならない」という戒めです。
会津藩は、戊辰戦争で敗北し、多くの犠牲を払いました。その原因の一つとして、藩内の財政状況の悪化が挙げられます。藩は、戦争の準備のために莫大な費用を費やし、財政が逼迫していたのです。
「砂糖樽三本の暮らし」のことわざは、会津藩の歴史を教訓として、「栄枯盛衰は世の常であることを忘れず、常に努力を怠らないように」というメッセージを伝えていると言えるでしょう。
このことわざから学べること
「砂糖樽三本の暮らし」のことわざから、私たちは以下のことを学ぶことができます。
- 驕らずに質素倹約を心がけること
- 栄枯盛衰は世の常であることを忘れず、常に努力を怠らないこと
- 歴史から教訓を得て、未来に活かすこと
現代社会においても、このことわざは普遍的な教訓として活かすことができます。私たちは、物質的な豊かさに満足することなく、常に努力を続け、未来に向けて進んでいく必要があるでしょう。