「しにたい気持ちが消えるまで」 詩人・エッセイスト 豆塚 エリ(東京いのちの電話広報誌)
私は 16 歳の冬、自宅アパートのベランダから飛び降 り自殺を図った。命は取り留めたが重度障害が残り、現 在も車椅子で生活をしている。 自殺未遂から 10 年間、その事実を人に隠していた。 当時はまだメンタルヘルスに問題を抱えることはあまり 良くないこととして認識されていた。しかし、26歳の時、 当事者であることをカミングアウトするきっかけになる 出来事があった。
私は韓国人の母と日本人の父の間に生まれた。そのこ とも長年隠していた。インターネットが急速に普及し、 嫌韓やヘイトスピーチと言われるような罵詈雑言が日常 的に目につくようになっていたからだ。仲の良い友人か ら「あなたは祖国と日本、どっちの味方なの?」と問い 詰められたこともある。「あなたは大分県と愛媛県のどっ ちの味方なの?」と聞かれたとすれば、その質問のばか ばかしさに気が付くと思う。 2019 年、日韓関係は悪化の一途を辿っていた。SNS では毎日のように韓国を非難する投稿が目に入ってき た。声を上げることは怖くはあったが、今言わないともっ と深刻なことになるのではないかと思い、twitter(現 X) で日韓ハーフであることをカミングアウトし、対立を煽 ることをやめるよう訴えた。心無い言葉を投げつけられ ることもあったが、圧倒的に好意的な励ましが多かった ことには驚いた。同じような立場のハーフの人や在日外 国人の人たちから、似た体験をしてきたという声が続々 と寄せられた。
長い間、生きづらいのは努力不足のせいだと思ってい た。しかし、共感や励ましの言葉をもらって、問題は社 会の側にもある。悪いのは私たちじゃない、変わらなけ ればならないのはこの社会なのだと思った。
誰しも声を上げていい。誰かに「あなたの責任でしょ」 なんてことを言い放ってしまうのではなく「あなたも 困っていたんだね」と寄り添えるように、私も自分の言 葉で自分のことを語れるようになりたいし、それを聞け るようになりたいと思うようになった。
「個人的なことは社会的なこと」という言葉が好きだ。 フェミニズム運動におけるスローガンで、個人的な経験 と、それより大きな社会、政治構造との関係を明らかに しようとする言葉だ。
自分のことを言葉で語ることで、それに共感してくれ る人が現れ、また、その相手の経験を聞くことができる。 自分だけが悩んでいたような気がしていたのに、私だけ じゃないんだ、仲間がいるんだと思える。お互いのこと を語り合うことで対話が生まれれば、共感や理解を得、 仲間を増やすことができ、その人とのつながりの中で自 分が変わり、相手も変わり、ひいては社会すらも変わっ ていくと信じている。
その後、NHK ハートネット TV の番組で初めて自殺 未遂の経験を語ったことをきっかけに、2020 年の暮れ 「しにたい気持ちが消えるまで」という自伝的エッセイ を書くことになった。ちょうどコロナが流行して女性や 子供の自殺が増えた時期に、自身の自殺未遂の経験を深く見つめることとなった。
対話が大切であることは先に述べたが、本気で「死に たい」と思っている人に他人の言葉なんて無力でしかないと思っている。福祉の業界では「つながり」を何より もよいものとして強く言われるが、うまくつながれない 人こそ困りを抱いていると思う。まさに自殺をしようと していた私自身が、人間不信に陥り、人と関係すること を強く拒んでいた。しかし本を読むことであれば、孤独 であっても、本の中で他者と対話することができるかも しれない。読書がサードプレイス(第三の居場所)のような役割を果たしてくれることを祈っている。
自殺未遂に至るまでの、私の昔話をしたいと思う。 母親は在日韓国人でシングルで私を出産した。元々働き 者で、一人で私を育てなくてはならないことから、どう してもネグレクト気味にはなってしまう。母自身、マイ ノリティとしての生きづらさを抱えていたと思う。そん な母から「将来は医者か弁護士になりなさい」と現実離 れした強い期待を持たれていた。
母は私の幼少期に再婚するが、義父との関係はうまく いかなかった。小学生の頃に別居、中学卒業の時に両親 は離婚した。義父は戦中生まれの元教員で厳しい人だっ た。若い頃、貧しくて苦学生だった義父は新興宗教が心 のよりどころだった。義父はお酒を飲むと我を失って、 しばしば子供を置いて外へ出る母をどなることがあっ た。家庭は息が詰まりそうな場所で、「居場所」とは思えなかった。
学校では友達との対人関係がうまくいかず、トラブルも多かった。家庭でストレスを抱えて、うまく人づきあ いができるはずがない。良かれと思ってやったことが、 相手を傷つけてしまうことがよくあった。
勉強は認められたい気持ちが強く、頑張っていた。義 父との生活や学校での人間関係に嫌気がさし、ここでは ない何処かとして、県内随一の進学校への高校受験を決 め猛勉強した。
小学校高学年の頃、「消えてしまいたい」という淡い希死念慮を抱くようになった。中学の時にはリストカットなどの自傷行為に及ぶようになる。インターネットで具体的な自殺の方法を調べていた。辛くなった時に自傷 行為をしたり、頭の中で自殺のシミュレーションをしたりすると気持ちが楽になった。
授業中に意味もなく涙が出て、無事高校に入学すると、 離人感と言って、ふわふわした感じで現実味を感じられ ない、主体性が失われているような感覚にしばしば陥る ようになった。目が滑って文字が読めない、物忘れが多 い、判断力の低下などの鬱のような症状が表れ始める。 忘れ物やうっかりミスが増え、授業についていけず、余 計に自分はダメだ、馬鹿だと自責の念に駆られた。自分を保つため文芸部と美術部の活動に逃避し、睡眠時間を削っていた。
また、母子の二人暮らしでは、お金がなかったのでい つもお腹が空いていた。進路の悩みに、余裕のない母は 全く相談に乗ってくれず、話せば不満をぶつけあう口論 になるばかり。教員に相談したものの「子供を愛していない親などいない」と頼りにならず、大人への強い不信感を抱いた。
また、自分で自身を苦しめてしまう思い込みがたくさんあった。認めてもらうために頑張らないといけない、 ありのままの自分は愛されない。人に頼ることは迷惑な こと。学校でも家でも同じことが説かれ、あまりにそれらを強く思い過ぎて、誰かに助けてもらうなんて屈辱的 なこととすら感じていた。弱さは恥。価値ある人間にな れないなら死んだ方がいい。その思い込みは簡単にはぬぐえず、いつも自分を責めるもう一人の自分に苦しんだ。
ある朝、急に起きられなくなり、午前中、布団から起 き上がれずに学校をサボったら夜勤明けの母に見つかり叱られた。「居場所がない」と強く思った。
「今死ななくては」と、それまでの鬱々とした気分が すーっと消えて、躁のスイッチが入ってしまったような、 晴れやかな気分で、居ても立っても居られず、そのまま 飛び降りた。
落ちた後も意識があり、後から振り返れば、死ななくてほっとしていたのを覚えている。「居場所」がないか らこの場からいなくなりたいと思うのであって、本当は 死にたくなんてないのではないか。
ところが、首の骨を折る重傷で、手指と胸から下が麻 痺する障害を負ってしまった。集中治療室での外科手術の後も呼吸不全に陥るなど危うい状況がしばらく続く。 身体につながった様々なチューブによってやっと生かされている状態で、苦しくて辛かったけれど、「死にたい」 とはなぜか思わなかった。身体が生きたがっているのだ、 と気が付いた。
「今ここ」に自分の身体がある。生きている、ただそれだけ。生きることは無意味であり、それでいいのだ、と。 散々苦しい思いをして死の淵を彷徨った経験が、死への 甘い幻想を打ち砕いてくれたように思う。「安楽死」という言葉がある。私はずっと安楽死ができるならしたい、 と思っていた。「生きるに値しない命は安楽死させるべ きだ」と主張したのは、1920 年にドイツで優性思想に基づいた「生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁」 を書いたビンディングとホッヘである。彼らの思想はナチス政権下のドイツで利用され、障害者の安楽死計画に発展した。「安楽死」という言葉によって、つい「安楽な死というものがある」と思い込んでしまう。しかし、 本当に安楽な死というものがあるだろうか。死とは暗くて冷たくて寂しくて怖い。それは苦しみそのものだ。そ の苦しみから逃げるように生きなくてはならない。そう思っている。
障害者となってからの生活は、日常から様変わりしたものだったが、たくさんの気付きを与えてもらえた。そのうちのひとつを紹介したい。(詳しくは著書を読んでいただけると嬉しい。)
入院当初は呼吸器にも麻痺があり、肺炎を起こし、気 管切開をして人工呼吸器をつけていた。呼吸はできるようになったが、その代償として一時的に声の出ない生活となった。
ベッドで寝たきりのため、清拭も排泄も全て看護師や 介護士に頼っていた。当時の私はそれが申し訳なく、「すみません」が言いたいが、声が出ないため、なるべく笑 顔を向けるように意識した。すると相手も笑顔になる。 そういえば自分は笑ったことがあまりないとその時に気が付いた。私の周りにいる大人たちは、いつも何かを我慢していて、何かを楽しむことを悪いことだと思ってい るようだった。人に頼ることは迷惑だと思っていたが、 頼られることを喜んでくれる人もいることを知った。笑うように努力してみると、自然と「ありがとう」の気持ちが湧くようになった。 「何でもひとりでできなければ」「人に迷惑をかけては いけない」の裏返しの「自分はなんでもひとりでできる」 「誰にも迷惑をかけていないのだから何をしてもいい」 という驕りがあった。しかし、頼ることは甘えではなく、 むしろ人を頼って生きていることに無自覚なことこそが 甘えだ。自分の至らなさ、欠点を認め、上手に人を頼る ことこそ本当の自立なのだと思う。
感想;
カミングアウトするのはとても勇気が必要だったと思います。
カミングアウトすることで、同じように苦しんでいた人の灯になっていると思います。
豆塚エリさんインタビュー「とにかく生きてほしい」(YouTube)