・死にたい、と漠然と思い始めたのはいつだったろう。
小学校高学年の頃だったろうか、死というものに興味を持ち始め。憧れ始めたのは。
それからずっと、来る日も来る日も、死にたいと思ってきた。けれども、この日は違った。
はっきりと、「死ななきゃいけない」と思った。今しななきゃいつ死ねる?
死ぬなら今だ。今なら死ねる。
いても立ってもいらてななかった。
とても幸福な気分だった。何か正解を見つけたような気持だった。
ひらめきに興奮していた。
高校の制服姿で、屋上に上がろうとしてみたが、屋上に続く扉は固く閉ざされていた。
それでもあきらめきれなかった。焦りもあった。今の気分が変わらないうちに、どうにかしないといけなかった。
部屋に戻ってベランダのサッシを開け放した。
住んでいた部屋は三階で、正直、死ねるかどうか自信がなかった。
死ねなかったら? 痛かったらどうしよう? そんなことを考えた。
死ねなかったら死ねなかったときだ。そのときは神様がそうしたということにしよう。
少なくとも骨折ぐらいはするだろう。そうなれば少しは学校を休める。
できれば、苦しみなく死にたいな。
十二月十四日、空はよく晴れで曇り一つなかった。その空気は冷たかったけえど、陽射しはぽかぽかと暖かかった。
とても明るく、清々しい朝で、こんな日に死ねるなんて、と感動すら覚えた。
この日のために生まれてきたのだ、と。
うきうきして、でも少し寂しかった。名残惜しさはあった。やらなきゃいけないことはたくさんあって、仲のいい友達もそれなりにいた。恋人だっていた。
それでも、私はやらねばならないと思った。世界から剥がれ落ちてしまった私を、誰も必要とはしないだろう。
悲しんでくれたら嬉しいい。そうやって誰かの、何らかの記憶に爪を立てることができたら。あるいは復習だったのかもしれない。・・・
三階のベランダから、私は飛び降りた。
・この日のことを私は何度も振り返る。感覚を、感触を、情景を、忘れないように。
あるいは、どうしてこうなったのか、と考える。
私は死ねなかった。神様は私を生かした。
けれど、罪を与えた。
胸から下に麻痺が残った。歩くことも、立つことさえかなわない。手指にも麻痺があって、思い通りに動かしにくい。今の医学では一生治らないとされている。
頸椎損傷。それが私の身体に残った障害の名前だ。
あの日から十二年経った。私は車椅子で生活している。
・学校では授業以外のほとんどの時間を図書室で過ごした。朝、本を借りて放課後までに読んでしまい、また借りてその日に読んでしまって次の朝に返す、という日々だった。私立図書館の存在を知ってからは、休みの日に通うようになった。
・両親から愛されることに絶望してから、孤独は苦でなくなった。むしろ、一番自分らしくいられるのが、一人で過ごす時だと気がついた。誰かと一種にいる方が孤独なくらいだ。一人の時間とはなんと贅沢で豊かだろう。一人でいて、退屈を感じたことはない。それを教えてくれたのが、皮肉にも義父だったのだ、と最近気がついた・・・
義父との暮らしは窮屈で、悲しいことばかりで、あまり好きにはなれなかったが、義父がいてこそ今の私があることは間違いない。
・人を好きになると、相手に嫌われるのではないか、という気持ちばかりが膨らんで、自分なんてとるに足らない人間だと思えてくる。だから尽くしたいと思う。とは言えできることなんて思いつかなくて、ただひたすら楽器を吹き、絵を描いた。
・人間関係で何かに失敗するたびに、もうこんな失敗を繰り返さないという戒めのために切っていたところがあった。
自ら罰する。痛みは許しだった。そして、痛みは私を裏切らないし、否定しない。
黄色い液が染み出してきて、血が止まるまでの様をじっと観察していると、不思議と心が落ち着いた。
一方で、馬鹿馬鹿しい、と思ってはいたが、自分の地が赤いことを確認すると、なぜかほっとした。そしてそれは本当だったなあと思う。
心の痛みに比べ、ひりつく切り傷の痛みは甘美でさえあった。
・傷は戒めであり、お守りだった。生きている証であった。・・・
とはいえ、自傷に溺れていった先に、徐々に自殺が具体的なものとなり、現実味を増してきたようにも感じている。
・中学の頃から、常に自己否定を行う、もう人の自分のような意識が頭の片隅にあった。
・意識が身体と別々にあるみたいで、人から話しかけられているのに、その話がうまく理解できず、「そうですね」とただ繰り返す自分をどこか遠くから「ちゃんと話を聞けよ」「ちゃんと反応しろよ」と非難しているのだ。テレビで観ているかのような第三者的な感覚だった。
・だから飛び降りた日のことが不思議でたまらない。
もしかしたら、本当に彼女が自分と入れ替わっていたのかもしれない、とすら思う。
記憶はしっかりとあるし、飛び降りた瞬間から、病院に搬送されるまで、意識はあった。
しかし、じつは飛び降りてから、今まで、自傷に及んだことは一度もない。
まるで憑き物が落ちたみたいに、あれほど辛辣に私を攻撃してきた彼女もいなくなった。
彼女は、死神だったのだろうか。
リストカットの痕は未だに手首に残っている。
・すると母が怒鳴り始める。アパートの壁は薄い。隣のテレビの音が聞こえるほどだ。ちょっと静かにしなよ、という注意も虚しく、逆上した母が私に今食べている朝ごはんをを投げつけ始めた。皿が我、食べ物が飛び散る。制服にスープとコーヒーとドレッシングの大きなシミができる。私は泣きながらやめてと叫ぶが、母は止まらない。パスコンを、配線を引きちぎりならが投げつけ、デスクトップを投げつけてくる。壁に穴が開く。そこでようやく母が止まった。陶器の破片を母が踏み、畳に血がにじむ。
「学校行くから」
と私は精いっぱいの虚勢を張って鞄を持って立ち上がる。
「着替えていきなさい」
母が言う。大人に相談しようと思っていたので、そのまま無視して行こうとすると、母から作欲静止される。仕方なく着替え、家を出た。
さすがに、許せなかった、というか、許すとか許さないとか、そういう問題じゃない。せめて一言でも、形だけでもいいから、謝罪してほしかった。そうでなければ、これを赦してしまえば、今後こういうことを甘んじて受けることにもなりかねない。相手が自分の子どもだとしても、許されないことがあるのだと、認めてほしかった。
私は家出をすることにした。
・このときの私は心穏やかであった。早く死んでしまいたいと逸つ気持ちはあったが、そこに不安も怒りも苦しみもなかった。死は生きることを断念することではなかった。今日まで生きてきたことを肯定していた。強いて言うなら、少し悲しい。コンクールに向けて書いた作品が日の目を見ることがなくなってしまう。恋人と会えなくなってしまう。文芸部のみんなに死後を押し付けることになってしまう。そのいくつかの心残りが、世界をより美しく見せた。
覚悟が揺らぬうちに私は行動した。今のこの気持ちのまま死にたかった。
あとは冒頭の通りだ。
私はアパートの三階のベランダから飛び落り自殺を図った。
・生きる意味がないなら、生きている意味がないと思っていた。
他者から認められるひとかどの人物になりたい。それが生きる意味。それにはなるべく早くからたくさんの努力が必要で、才能も必要。
才能がなかったら、努力ができないのなら、生きている意味がない。
・毎日彼が来ることを待ちわびる日々だったが、失禁してしまったときに彼が言合せるのだけ、つらく、恥ずかしかった。
・人に頼ることも、そう悪いことではないのかも、と思える最初の一歩を私は踏みだしていた。
・やはりどう言っても、口からごはんが食べられるのはこの上ない幸せなことだと私は思う。今の私は、美味しいものを食べるためにただ生きていると言っても過言ではない。
・比べちゃ駄目だ、と自分自身に言い聞かせる。比べたところで、何もいいことはない。嫉妬の感情が湧き上がってくるたびに、頑張ろう、頑張ろうと自分を励ました。そうするしかない。
・そうやって触れ合い、陸み合う二人はきらきら輝いて見える。人生の終盤で、不治の病に罹っても支え合うパートナーがいる。二人の生活を支えてくれるケア ワーカーがいる。これって、そこにいる誰にとっても豊かなことではないのか。結局のところ、誰かのために時間を割く-いや、こういう言い方はよくない-誰かと時間を共有するために、私たちは生きているのではないのか、と思った。その時間をより豊かなものにするために、教養があり、仕事があり、お金があるのではないか。そうやって豊かな時間を過ごす時間を惜しんで得られるお金に、なんの意味があるのだろうか。時間は使うものでも、節約するものでも、まして浪費するものでもない。ただ流れていくものだ。川のように、音楽のように「時は金なり」なんて、まったくナンセンスだと思う。
・十七歳にしておむつ再デビュー。なんだかちょっと笑えた。
・「しかし先生たちは前例がない、バリアフリーにすればいいという問題ではないと言って私に自主退学を促しました。とても残念です」(校長に対して)・・・
「もう出ていったよろしい」
校長は顔を真っ赤にして怒りをにじませながら言う。これほどまでに稚拙な大人を見たことがない。こんな人が校長になれるのだ。なんて恥ずかしい学校なのだろう。
・けれど私は今、毎日が楽しい。明日を恐れることがない。できないことはできないと深く諦め、それでも自分の生きたいスタイルを貫いた結果、世界すらもそれに沿うような形で回っているのではないかと思える瞬間がある。
現に私はこうやって、他者から頼まれて本を書かせてもらっている。この十年ずっと夢をみたことだ。自分のやりたいことと他者が私に求めることが合致したとき、これほどやりがいを感じることはない。そして私の周りには、それを心から求められなくても生きていていい、無価値のままで、生きることに意味なんてなくていいと教えてくれた。ままならず、どうしようもないこともあるけれど、案外、どうにかなるものだ。それを肌身で感じさせてくれる。
感想;
東京いのちの電話の広報誌で豆塚エリさんのことを知り、本を読みました。
人は何のために生きたいかそれを持たないと、生きるのはとても辛くて苦しいのでしょう。
そして生きている喜びを感じないと生きるのは大変です。
豆塚エリさん、どうすることも出来なくて、死ぬしか選択肢がないと思いました。
でも、自殺未遂で下半身まひになり、周りの人の温かみを感じられたようです。
自殺する前にはその温かみを感じることがなかったようです。
生きている意味が見つからない。
五木寛之さんの本に、「生きているだけで意味がある/生きているだけで価値がある」とありました。
生きている意味が見つからないと思っている自分自身に意味がもうあるのです。
豆塚エリさんは今、多くの生きることで苦しんでいる人々の支えになられています。そして積極的に講演活動をされています。
失ったものは大きいですが、失ったからこそ見つけたものがあったのだと思います。