つれもなく なりゆくひとの ことのはぞ あきよりさきの もみぢなりける
つれもなく なりゆく人の 言の葉ぞ 秋よりさきの 紅葉なりける
源宗于
私につれなくなっていくあの人の言葉こそが、秋が来るより先に色変わりする紅葉なのです。
第58代光孝天皇の子、源宗于(みなもと の むねゆき)の歌が久しぶりの登場。0624 に「技巧を凝らさず、心情をストレートに詠み込んだ歌が特徴」と書きましたが、この歌もそうですね。
つれもなく なりゆくひとの ことのはぞ あきよりさきの もみぢなりける
つれもなく なりゆく人の 言の葉ぞ 秋よりさきの 紅葉なりける
源宗于
私につれなくなっていくあの人の言葉こそが、秋が来るより先に色変わりする紅葉なのです。
第58代光孝天皇の子、源宗于(みなもと の むねゆき)の歌が久しぶりの登場。0624 に「技巧を凝らさず、心情をストレートに詠み込んだ歌が特徴」と書きましたが、この歌もそうですね。
あきかぜは みをわけてしも ふかなくに ひとのこころの そらになるらむ
秋風は 身をわけしても 吹かなくに 人の心の そらになるらむ
紀友則
秋風はあの人の身を二つに割って吹くわけでもないのに、どうしてあの人は私に飽きてしまって心がうわのそらになってしまったのでしょう。
「あき」は「秋」と「飽き」の掛詞。このような場合、古今集は「あき」を平仮名表記にしていることが多いですが、この歌では「秋」となっています。「そら」が「空」と「(うわの)そら」の掛詞なのも常套手段ですね。風が身を二つにわけて吹くという発想が現代人の感覚からは分かりづらいですが、「飽き」の風が愛しい人の心を二つに割って、自分以外の女性の方に向きかけているといったところでしょうか。
からごろも なればみにこそ まつはれめ かけてのみやは こひむとおもひし
唐衣 なれば身にこそ まつはれめ かけてのみやは 恋ひむと思ひし
景式王
唐衣は、着馴れれば良く身になじむものなのに、着ずに衣桁に掛けているだけのように、ただ心にかけて思うだけの関係になるなどと思っただろうか。
「唐衣」は、平安時代に女官たちが用いた正装の一つ。丈の短い上着のようなものだったようです。古今集でも、10首ほどに詠み込まれていますね。
第55代文徳天皇の孫、景式王(かげのり の おほきみ)の歌が 0452 以来の登場。古今集への入集はこの二首のみです。
ゆきかへり そらにのみして ふることは わがゐるやまの かぜはやみなり
行きかへり そらにのみして ふることは わがゐる山の 風早みなり
在原業平
行ったり来たりしてうわの空で時を過ごしているのは、雲である私が留まるはずのあなたという山の風が強いからなのですよ。
「そら」はうわの空の意と、雲だと言われた自分がいる空の両義。「ふる」は「経る」で、時間を過ごす意ですね。自分から離れていくのですねという紀有常娘の歌(0784)に対して、「留まろうにも貴女は私に冷たいではないですか」と返したというところでしょうか。
あまくもの よそにもひとの なりゆくか さすがにめには みゆるものから
天雲の よそにも人の なりゆくか さすがに目には 見ゆるものから
紀有常娘
あなたは、空の雲のように私から離れてゆくのですね。とはいえまだ私の目にそのお姿は見えているのですけれど。
詞書には、在原業平が紀有常の娘のところに通っていたけれど、気に入らないことがあって、しばらくの間、昼は来て夕方は帰るということをしていたので、詠んでおくった、とあります。業平からの返し(0785)とともに、伊勢物語第19段にある歌ですが、設定されている男女の状況はこの詞書とは異なるようです。
作者の紀有常娘(き の ありつね が むすめ)はその名の通り、0419 の作者紀有常の娘で、業平の妻であった人物。古今集への入集はこの一首のみです。