ひとにあはむ つきのなきには おもひおきて むねはしりびに こころやけをり
人にあはむ つきのなきには 思ひおきて 胸走り火に 心焼けをり
小野小町
思う人に逢う手立てのない闇夜には、熾き火のような思いで起き、胸が騒いで走り火に心が焼けることです。
「つき」に「手立て」の意と「月」が掛かっているのは一つ前の 1029 と同じですね。「思ひ」の「ひ」は「火」、「おきて」は「起きて」と「熾」、「走り」は胸騒ぎがする意の「胸走り」と「走り火(ぱちぱちと跳ねる火)」が掛かっています。掛詞を巧みに多用している分、現代人にはなかなか難解な歌ですね。
あひみまく ほしはかずなく ありながら ひとにつきなみ まどひこそすれ
あひ見まく ほしは数なく ありながら 人につきなみ まどひこそすれ
紀有朋
逢いたいと思う気持ちは、星の数のように限りなくありながら、思う人に近づく手立てがないので、月のない闇夜のように迷っているのです。
第二句「ほし」は「見まくほし」と「星」が掛かり、第四句「つきなみ」は「付きなみ(取り付くすべがない意)」と「月なみ」が掛かっています。「み」は理由を表す接尾語ですね。
紀友則の父、有朋の歌は 0066 以来の登場。古今集への入集はこの二首です。
ふじのねの ならぬおもひに もえばもえ かみだにけたぬ むなしけぶりを
富士の嶺の ならぬ思ひに 燃えば燃え 神だに消たぬ むなし煙を
紀乳母
富士山のように、かわなぬ思いに燃えるなら燃えるがよい。神でさえ消すことのできない、むなしくくすぶる煙よ。
恋の歌で「思ひ」の「ひ」に「火」を掛けるのは常套手段ですね。火山である富士山が煙を吐いている光景が普通に見られたことを物語る歌でもあります。
第57代陽成天皇の乳母であったので紀乳母(き の めのと)と呼ばれた紀全子(き の ぜんし)の歌が 0454 以来の登場。古今集への入集はこの二首です。
あしひきの やまだのそほつ おのれさへ われをほしてふ うれはしきこと
あしひきの 山田のそほつ おのれさへ われをほしてふ うれはしきこと
よみ人知らず
山田の案山子よ、お前までもが私を妻に欲しいというのか。困ったことだ。
「そほつ」は「案山子」の意で、ここではみすぼらしい者、身分の卑しい者の比喩。見目麗しく、身分も高い女性が詠んだ歌ということになるでしょうか。品の良い詠歌とは言い難いですが、だからこその諧謔歌ということなのでしょう。