おきつなみ あれのみまさる みやのうちは としへてすみし
いせのあまも ふねながしたる ここちして よらむかたなく
かなしきに なみだのいろの くれなゐは われらがなかの
しぐれにて あきのもみぢと ひとびとは おのがちりちり
わかれなば たのむかげなく なりはてて とまるものとは
はなすすき きみなきにはに むれたちて そらをまねかば
はつかりの なきわたりつつ よそにこそみめ
沖つ波 あれのみまさる 宮のうちは 年経て住みし
伊勢の海人も 舟流したる 心地して 寄らむ方なく
かなしきに 涙の色の 紅は われらが中の
時雨にて 秋の紅葉と 人々は おのが散り散り
別なれば 頼むかげなく なりはてて とまるものとは
花すすき 君なき庭に 群れ立ちて 空を招かば
初雁の 鳴きわたりつつ よそにこそ見め
伊勢
沖の波が荒れるように、日に日に荒れて、人々も去ってゆくこの御殿の中では、長い年月住んでいた伊勢の漁師でもある私も、舟が流されてしまった気持ちがして、寄り付くところもなく、悲しいので、涙の色の紅は私たちの時雨であり、秋の紅葉が時雨に染められて散り散りになるように、人々もそれぞれ散り散りになって別れてしまい、いよいよ頼りとする蔭もすっかりなくなってしまって、留まるものといえば花薄くらいのもの。その花薄がお后さまのいらっしゃらない庭に群れになって立ち、空を招くしぐさをしたならば、初雁が鳴いて渡って来ることでしょう。私も、初雁のように泣きながら遠くからこのお屋敷を見ることにいたしましょう。
詞書には「七条の后うせたまひにけるのちによみける」とあります。「七条の后」は第58代宇多天皇の中宮温子のことで、907年6月に崩御しています。従ってこの歌は、仮名序などで成立年とされる905年より後に詠まれたもので、905年が古今和歌集編纂の命が下った年なのか、完成した和歌集を奉呈した年なのかの議論おいて取り沙汰される歌となっています。