田子の浦
ふくかぜに あかずおもひて うらなみの かずにぞきみが としをよせける
吹く風に あかず思ひて 浦波の 数にぞ君が 年を寄せける
田子の浦
吹く風につれて立つ田子の浦の波を飽きることなく思い眺めて、その波の数にも及ぶあなた様のご長寿に思いを寄せておりました。
絶えることなく、数限りなく寄せ続ける波に寄せて、「それにも匹敵する」と長寿を寿ぐ詠歌ですね。
田子の浦
ふくかぜに あかずおもひて うらなみの かずにぞきみが としをよせける
吹く風に あかず思ひて 浦波の 数にぞ君が 年を寄せける
田子の浦
吹く風につれて立つ田子の浦の波を飽きることなく思い眺めて、その波の数にも及ぶあなた様のご長寿に思いを寄せておりました。
絶えることなく、数限りなく寄せ続ける波に寄せて、「それにも匹敵する」と長寿を寿ぐ詠歌ですね。
延長二年左大臣の北の方の御屏風の歌、十二首
かひがねの やまざとみれば あしたづの いのちをもたる ひとぞすみける
甲斐が嶺の 山里見れば 葦田鶴の 命をもたる 人ぞ住みける
延長二年(924年)左大臣の北の方に奉呈した屏風歌、十二首
甲斐国の山里を見ると、まるで鶴のように長命の人が住んでいた。
「左大臣」は藤原忠平(ふじわら の ただひら)、その「北の方」は源能有(みなもと の よしあり)の娘昭子のこと。「葦田鶴の命をもつ」のはすなわち昭子のことで、その長寿を願い、寿ぐ歌ですね。
十二月、人行きて梅を見る
ふるゆきに いろはまがへば うちつけに むめをみるさへ さむくざりける
降る雪に 色はまがへば うちつけに 梅を見るさへ 寒くざりける
十二月、人が行き交って梅を見る
降る雪と色がまぎらわしいので、ふと梅を見ても寒さを感じることよ。
「うちつけに」は唐突なさま。最後の「ざりける」は「ぞありける」が縮まった形なので否定・打消しの意味はまったくないのですが、この語を見るといつも第一感として「あらざる」「見ざる」と言った語が頭に浮かんで、否定の意味かと思ってしまいます ^^;;
十一月、葦刈りつみたるところ
なにはめの ころもほすとて かりてたく あしびのけぶり たたぬひぞなき
難波女の 衣ほすとて 刈りてたく 葦火の煙 立たぬ日ぞなき
十一月、葦を刈って集めているところ
難波の女性が濡れた衣を干すために、葦を刈って焚く火の煙が立たない日はない。
「難波女」は、難波の海の海女を指す言葉。その仕事には一日の暇もないありさまを詠んだ歌です。
この歌は、新古今和歌集(巻第十七「雑歌中」 第1593番)に入集しています。