北の風に吹かれて~独り漫遊記~

町歩きを中心に、日々の出来事を綴ります。 
(C)ナナマガラー All Rights Reserved.

若松城を歩く

2008-09-07 20:11:24 | 道外旅行記
先日、ロケ地巡りで紹介した「鶴ヶ城」。
今回は、城そのものとその周辺についてレポートします。





まず、やってきたのが、JR会津若松駅。
福島からは、東北本線と磐越西線を乗り継いで、普通列車で約2時間。長くもなく短くもなく、普通列車の旅としては適当(と私が勝手に思っている)な時間です。
ご覧のとおり、さすが武家の伝統が息づく町だけあって、駅舎も、何やらお城のような形をしています。




駅前に設置されている「白虎隊士の像」。
白虎隊ゆかりの地については、後日レポートします。





これは、会津若松市内を循環する、その名も「ハイカラさん」。
1回200円、フリーパス500円で乗れる、大変手ごろな交通手段です。
このバスに乗り、目指す鶴ヶ城までは、約20分です。





ん?「若松城」?
やってきたのは「鶴ヶ城」のはずだが・・・

なんて、ご心配(?)なく。「鶴ヶ城」と「若松城」はイコールの存在。
「鶴ヶ城」とは、「若松城」の愛称とも言うべき名称なのです。





鶴ヶ城の誕生は、1384年、時の葦名家が築いたとされる、東黒川館(ひがしくろかわやかた)という館と伝えられています。
後に「黒川城」と名を改め、蒲生、伊達、上杉、加藤といった戦国諸大名によって、統治されてきた後、1590年、小田原の北条氏を滅ぼした豊臣秀吉が会津へ入り、蒲生氏郷(がもううじさと)が、秀吉より、この城の統治を命ぜられたとされています。
その氏郷が築城したのが、七層の天守閣を持つ、「若松城」で、空高く翼を広げているかのような天守閣の形から「鶴ケ城」の名で親しまれています。
その後、加藤明成によって五層の天守閣に改築された城は、白虎隊のエピソードでも知られる戊辰戦争でも、1ケ月も続いた籠城戦にも耐えたことで知られています。
戊辰戦争後、明治7年に城は取り壊しとなったが、会津市民の要望などもあって昭和40年に今の天守閣が復元され、現在に至っています。

最近は、毎年のようにどこかの城(今年6月に弘前城、昨年は浜松城、一昨年は熊本城、3年前は名古屋城、その前は岡山城などなど)を訪れている私ですが、どの城を見ても、その勇壮な雰囲気に心を奪われ、言葉を失くしてしまいます。





このように、歴代城主の家紋が掲示されています。
この城が、いかに長きにわたって、様々な経緯を辿って現在に至っているかがわかります。








公園内で見つけた花。
桜でしょうかね・・・?時期はとうに過ぎているはずですが・・・?
(スミマセン。こういうことにはとんと疎いもので・・・)





公園内を歩いていると、こんな碑を見つけました。





ご存知、唱歌「荒城の月」。
皆さんも音楽の授業等で触れたことがあるかと思います。
私は小学校6年生の時、学年の代表として、新入生歓迎会で演奏する曲を、この曲に決めたという思い出があり、今でも、メロディーが頭に残っています。

では、なぜこの曲の碑がここにあるのか?
作詞者の土井晩翠が、仙台市の青葉城や、旧制二高時代に会津若松市の取り壊された鶴ヶ城跡を訪れたことが作詞のモチーフになったと言われているようです。(昭和21年会津若松市で行われた講演会で、土井氏が自ら語ったそうです。)
事前に知らなかったことなので、思いがけない物を見つけたという感覚でしたが、こういう発見というのも、また楽しいものです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする