
会津若松市街地から車で10分ほどの所にある「飯盛山」。
小さいながらも、土産物店が軒を連ねる参道が整備されている。

参道の階段を上っていくと、こんな綺麗な水の流れを見つけた。
どうやら、市街地方面へと続いている様子。

ほほうなるほど。こんな風に、トンネルを通って、山の上から流れてきているんですね。
この「飯盛山」という場所は、戊辰戦争(の内会津戦争)でその名の知られる、「白虎隊」ゆかりの場所。
戦争において、旧幕府勢力の中心とみなされ、新政府側の仇敵となった、会津藩の、15歳から17歳までの武家の男子で構成されている兵隊である。
この戦争においては、、会津藩では、先日のレポで紹介した、若松城(鶴ヶ城)を死守すべく戦ったが、圧倒的な物量で迫る新政府軍に対しては劣勢は否めず、兵隊の一つであった白虎隊も各所で苦戦を強いられ、戦死者も出る中、負傷者を抱えながら落ち延びたきたのが、この飯盛山だったとされている。
彼らは、ここから戦闘の風景を眺める中で、市中火災の模様は目に止まり、それを、若松城が落城したものと誤認したことで、絶望感に包まれた総勢20名が自刃。一命を取り留めた、飯沼貞吉(のち貞雄と改名)を除く19名が死亡したとされる、悲劇のエピソードとして語り継がれている。

これが、唯一人生き残った、飯沼貞雄(貞吉)の墓。
自刃したものの、助けられて一命を取り留めた後は、当時の逓信省で電気技師として各地で勤務。明治38年には札幌に郵便局工務課長として赴任し、明治40年の札幌大火の復旧工事などに尽力したとされている。
色々と調べていく中で、思いがけず、札幌との繋がりが出てきたのには、ビックリでした。

白虎隊をはじめとする、少年兵達の慰霊碑。
白虎隊の外にも、14歳から17歳までの、多くの若い命が犠牲になったとされている。

これが、先程触れた、戦火に燃える会津若松市内を見下ろす少年兵の像。
その視線の先には・・・

これが、その視線の先にある、会津若松市内の様子。
写真真ん中ほどに、森のように緑が広がる箇所が確認できると思いますが、ここに、若松城(鶴ヶ城)があり、ここに目を向ける形で、像が作られているのです。
この位置から燃え盛る眼下の町を見つめ、絶望感に包まれた隊士達。その心中はいかばかりだったかと思うと、察しても察しきれないものがあります。


山頂に設置されている、隊士個々人の慰霊碑。
今も、手を合わせる人が後を絶たないようです。

参拝を終えた後は、再び階段で下へ。
上から見下ろすと、こんなにも急なのです。
ひゃ~怖い。


最後に立ち寄ったのが、この「白虎隊記念館」。
白虎隊ゆかりの展示品は言わずもがなだけど、一つ注目したいのが、「しょこたん」こと、タレントの中川翔子さんが来館された際の記念写真。
1986年に日本テレビ系で放送されたドラマ、「白虎隊」で、中川さんのお父さんである、故・中川勝彦さんが沖田総司役で出演されていたという縁で、中川さんが記念館を訪れた際の写真と、それを紹介する新聞記事が展示されていました。