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幹線道路である「産業道路」に架かる「亀田中学校前横断歩道橋」。
「歩道橋マニア」の活動ではなく、函館の歴史に関するエピソードの紹介です。
この場所はこちらなんだけど、地図や航空写真でおわかりのとおり、この地区は、郊外型の大型店舗の進出や、それに伴う宅地開発の進行などにより、函館の人口重心の中心ともいえる地区になっているのだけど、実はこの場所には、かつて飛行場の建設が進められたという歴史がありました。
かつてというのは、太平洋戦争末期の1945年4月のことで、軍司令部より軍用機専用飛行場建設の命令が下されたことで、地図にある亀田中学校のグラウンド一帯で建設が進められました。
飛行場造成工事には、軍関係者はもとより、女性、勤労学徒、老人も含めた数多くの市民が駆り出され、造成に必要な土砂の運搬には、資材不足により建設が中断された、戸井線のレールを使ってトロッコを走らせたとされています。
(一昨日の記事の最後で触れた、戸井線が活用された目的とはこのことでした。)
多くの市民の人海戦術により、着工から四ヶ月が経った8月に滑走路が整備されましたが、「8月」と書いたことからお察しのとおり、時既に遅し、日本は敗戦を迎え、飛行機が離発着することはありませんでした。
敗戦後、米軍機が函館に飛来した際にはこの滑走路が使用されたとされていますが、それだけ多くの労力を用いて整備されながら、一度も本来の目的で用いられることなく終わった飛行場。ここにもまた、戦争の悲しく理不尽なエピソードが存在していました。