先週末は、いつもの西部地区を離れて、湯の川地区でぶらり歩きをしてきた。
そこで見つけた、旧戸井線の痕跡を幾つかご紹介します。

跨道橋。
今回はここからスタートします。
この位置から後方は、こちらとこちらをご覧下さい。


ここにも大きな橋があります。

橋の下を流れるのは、温泉街の名前にもなっている「湯の川」。
「湯の川」とは、アイヌ語由来の地名で、「ユ・ペツ」(湯の・川)が語源とされています。

しばらく進むと、函館市内から南茅部地区へ向かう幹線道路と交差します。
横断歩道からすぐ左側に、一方通行を示す標識がありますね。もしかすると、その先も鉄路の予定地だったのかな・・・。
(ここまでのルートはこちら)

ということで、更に進んでみました。

その先に、一つの公園が。

ん?何やら傾いているコンクリート製の標柱がありますね。
文字が書いてあります。何かの痕跡でしょうか・・・?

もったいぶっちゃったけど、実はこれこそが、この場所が戸井線の予定地だったことを示す痕跡なのです。
「工」というのは、明治政府下に設置されていた「工部省」という、社会基盤整備を担っていた官庁のことだと言われています。
もっとも、工部省自体は戸井線が事業化されるずっと以前の1885年に廃止され、鉄道事業は、内閣直属の鉄道省が担うことになりましたが、この「湯川幼児公園」という公園が、戸井線の湯川駅の予定地だったとされています。
(この公園の位置はこちら)
今回はここまでですが、また時間を作って、戸井線の痕跡巡りをしてみたいと思います。
さて、これまでも触れてきたとおり、1937年に着工された戸井線は、一度も列車が走ることがないまま1943年に事業が中断されてしまいましたが、列車は走らなかったものの、ある別な目的で線路が使われたことがあったとされています。
それについては、また次の記事で。
そこで見つけた、旧戸井線の痕跡を幾つかご紹介します。

跨道橋。
今回はここからスタートします。
この位置から後方は、こちらとこちらをご覧下さい。


ここにも大きな橋があります。

橋の下を流れるのは、温泉街の名前にもなっている「湯の川」。
「湯の川」とは、アイヌ語由来の地名で、「ユ・ペツ」(湯の・川)が語源とされています。

しばらく進むと、函館市内から南茅部地区へ向かう幹線道路と交差します。
横断歩道からすぐ左側に、一方通行を示す標識がありますね。もしかすると、その先も鉄路の予定地だったのかな・・・。
(ここまでのルートはこちら)

ということで、更に進んでみました。

その先に、一つの公園が。

ん?何やら傾いているコンクリート製の標柱がありますね。
文字が書いてあります。何かの痕跡でしょうか・・・?

もったいぶっちゃったけど、実はこれこそが、この場所が戸井線の予定地だったことを示す痕跡なのです。
「工」というのは、明治政府下に設置されていた「工部省」という、社会基盤整備を担っていた官庁のことだと言われています。
もっとも、工部省自体は戸井線が事業化されるずっと以前の1885年に廃止され、鉄道事業は、内閣直属の鉄道省が担うことになりましたが、この「湯川幼児公園」という公園が、戸井線の湯川駅の予定地だったとされています。
(この公園の位置はこちら)
今回はここまでですが、また時間を作って、戸井線の痕跡巡りをしてみたいと思います。
さて、これまでも触れてきたとおり、1937年に着工された戸井線は、一度も列車が走ることがないまま1943年に事業が中断されてしまいましたが、列車は走らなかったものの、ある別な目的で線路が使われたことがあったとされています。
それについては、また次の記事で。