昨日の記事を書いた後、写真を整理していて、まだ紹介していなかったが幾つかあることに気付いたので、順次紹介していきます。
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谷地頭にある、箱館戦争での旧幕府軍の戦没者(約800人)を供養する「碧血碑(へきけつひ)」。
ここで紹介したのはもう九年前ですが、谷地頭を歩く時は、何度かぶらりと行っていました。
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その「碧血碑」の横に、ひっそりと建立されている小さな碑があります。
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この碑は、柳川熊吉という幕末の侠客を称えるものです。
箱館戦争終結後、政府軍の戦死者が函館招魂社(現在の「函館護国神社」)で手厚く葬られ、祀られた一方、「賊軍」と呼ばれた旧幕府軍の戦死者は、弔うことも許されず、遺体が野ざらしにされていました。
そんな様子を見かねた柳川は、実行寺の住職であった松尾日隆や、箱館奉行所建築に携わった棟梁・大岡助右衛門らと共謀し、数日間をかけて遺体を集めて、実行寺の境内に合葬。1871年には、函館山山腹に土地を購入し、戦死者の遺骨を改葬したとされています。
その後新政府軍の取調べを受け、軍事裁判で死刑判決が出されましたが、柳川の侠気に感動した新政府軍の田島圭蔵の計らいで放免され、谷地頭で料亭「柳川亭」を開業。米寿(88歳)を迎えた1913年に、有志によってこの碑が建立されています。
目立たないといえば確かに目立たない場所にありますが、終結後とはいえ、箱館戦争を語る上では欠かせないエピソードだと思います。
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谷地頭にある、箱館戦争での旧幕府軍の戦没者(約800人)を供養する「碧血碑(へきけつひ)」。
ここで紹介したのはもう九年前ですが、谷地頭を歩く時は、何度かぶらりと行っていました。
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その「碧血碑」の横に、ひっそりと建立されている小さな碑があります。
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この碑は、柳川熊吉という幕末の侠客を称えるものです。
箱館戦争終結後、政府軍の戦死者が函館招魂社(現在の「函館護国神社」)で手厚く葬られ、祀られた一方、「賊軍」と呼ばれた旧幕府軍の戦死者は、弔うことも許されず、遺体が野ざらしにされていました。
そんな様子を見かねた柳川は、実行寺の住職であった松尾日隆や、箱館奉行所建築に携わった棟梁・大岡助右衛門らと共謀し、数日間をかけて遺体を集めて、実行寺の境内に合葬。1871年には、函館山山腹に土地を購入し、戦死者の遺骨を改葬したとされています。
その後新政府軍の取調べを受け、軍事裁判で死刑判決が出されましたが、柳川の侠気に感動した新政府軍の田島圭蔵の計らいで放免され、谷地頭で料亭「柳川亭」を開業。米寿(88歳)を迎えた1913年に、有志によってこの碑が建立されています。
目立たないといえば確かに目立たない場所にありますが、終結後とはいえ、箱館戦争を語る上では欠かせないエピソードだと思います。